いつか見た夢

B&B

第52章

 空虚――第三者が今の俺を客観的に見て一言いわせれば、きっとこんな言葉をいうに違いない。
 俺は部屋のベッドで一人うずくまり、ただただ、無意味な時間を過ごしていた。ただひたすらだ。もう食事だって何日もまともに食べていないような気がする。それより今は何日だ……? 俺はどれくらいこうしているんだ……? もう、とうの昔に日付の感覚すらなくなっていた。
 無気力になり、ベッドから起き上がりたいとすら思わない。どうせ起きたって、することなど何もないのだ。ただぼうっとし、どこかで座り込んで虚空を見つめるだけならば、わざわざベッドから出る必要などない。
 そんな俺をよそに、家の前ではどこから嗅ぎ付けたのか、大勢の奴らが大挙して押し寄せていていた。どこかで見たことがある機械なんかを持って、道の往来に人の壁を作っている。その機械の前でマイクを手にし、リポーターらしき奴がこれまたカメラらしき機械を持った奴の前に立って、何か読みあげているような光景もあった。
 近所の人達にとってはどうしようもなく邪魔なのだろうが、別になんとも思わない。俺にとっては、それすらもどうでも良いことだった。
 部屋は締め切っていているため空気がこもり、埃っぽくなっている。もう何日も掃除などしていないためだ。
 どれほどのあいだ掃除してないかは分からないが、ちょっと手を抜いただけで埃というのは溜まってしまうものらしい。
 もっとも、俺自身は掃除なんてほとんどしたことがない。部屋の主だというのに、部屋を掃除していたのは、全く別の人物だったのだ。沙弥佳……あいつがいつも掃除してくれていた。
 別にしてくれと頼んだ覚えは一度だってない。だというのにあいつは、やらなくたっていいのにわざわざ掃除してしまうのだ。その都度、あれやこれやと文句を言いながら。
 そんな文句を口にしているのを聞くたびに、だったらやるなといつも言っていたのを思い出す。
『お兄ちゃん、またゴミ溜まってるから、掃除するからね』
 これが掃除する時の合図だった。そのたびに俺は部屋を見回して、どこにゴミがと言ったものだった。きっと今の埃が溜まった部屋を沙弥佳が見れば、間違いなく掃除するからと言い出して聞かなかっただろう。それどころか、なかば怒ったようになんなのこれとでもいったかもしれない。
 けれど今はもう……。
「沙弥佳……沙弥佳……沙弥――」
 妹のことを思い出すたびに、なんと口にしていいのか分からない感情が、いくつも沸いてきた。
 怒りと悲しみ、寂しさと切なさ、自分への無力感もあれば、叱責感もまたあった。なんであの時こうしなかったんだと。なんでもっとこうしてやれなかったんだと。
 なによりも沙弥佳への愛しさと、同じくらいに胸の中心がぽっかりと空いたような虚無感。これらの感情が、全て沙弥佳と過ごした思い出とともにいしょくたになって、俺を襲ってきているのだ。
 それともう一つ。そのぽっかりと空いた穴を埋めようとしている、圧倒的な後悔だった。もう過ぎ去ったことに対して、あそこはこうした方が良かった、ここはああすれば……そんなことばかりが頭の中を巡っていて、寝ても覚めてもずっとこんな調子だった。
 その時、コンコンとドアをノックする音が響いた。俺は思わず勢いよくドアの方を向いた。
「……起きてるか?」
 一拍おいて聞こえてきたのは、父の声だった。
「……会社に行ってくるよ」
 短く言った父がドアの前からいなくなった気配を、なんとなくだが感じた。こんな時にまで会社に行く父。できればそんなものどうでも良いから、母さんについててやれよと叫びたくなる。
「そうか……もう朝なのか」
 朝のような気もするし、昼か夕方のような気もする。暗くなれば電気をつけはするが、しかしそれももどかしく、ここ何日かのあいだは、電気すらも点けなくなったような気がする。
 とにかく何かしたいとこれっぽっちも思わないのだ。最初のうちは食べなければ空腹を訴えていた腹も、いつからか全く空腹を感じなくなっていた。食べなくなったことでトイレにも行かなくなったし、風呂にも入っていない。
 こんな生活になってからというもの、両親とすら顔を合わせてもいなかった。今の父の言葉を聞くのだって、いつくらいぶりだろう。一緒に暮らして起きながら、いつからか、全く喋っていないのだ。
 しかし、久しぶりに家族の声を聞いたというのにも関わらず、なおも俺の関心は沙弥佳だけにしか向いていなかった。
「……沙弥佳」
 うずくまっていた俺は、気付けばベッドの上に倒れこんでいた。いつの間にか、視界が横に傾いていたのだ。





 桜の花が街中に彩りを添え、いよいよ満開に近づこうとしていたこの時期、暇を持て余した学生やランドセルを背負った小学生らが、これから訪れる春の長期休暇を前に、どこか浮かれているような顔で幾人も俺の横を通りすぎていった。
 明後日で今学期も終わるのだから、それも無理はない。そんな中俺は、先ほど沙弥佳に送ったメールの返信がくるのかこないのか、それで頭がいっぱいで、落ち着きなく家路についていた。
 メールの内容は簡潔なものだった。
『どうしても話しておきたいことがあるから、家に戻る。それと、さっきは悪かった』
 これだけだ。まぁ、家族に送るメールの内容なんてのは、体抵こんなものだろう。本当に重要なことはやはり、言葉にして伝えるのがセオリーというものだ。
 しかし、なるべく気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸しているが、全く効果がない。先延ばしにしては駄目だと思いながらも、できれば沙弥佳とは顔を合わせたくないという気持ちが、浮足立たせている。
 けれど、先に進んでいればいずれはゴールにたどり着くというもので、すでに家の近くにまで来ていた。
「ええい、いつまでも逃げてるんじゃねえ」
 俺は自分を叱咤し、大股で家の門をくぐった。
「ただいま」
 帰ったことを自己主張するために、普段よりもいくらか大きな声で言う。
「あら、おかえりなさい。沙弥佳は一緒じゃなかったの?」
 ちょうど母が階段から下りてきたところのようで、出迎えてくれた。
「ああ、ちょっとな……。それより、沙弥佳は帰ってないみたいだな」
「帰ってないわよ。あなたを迎えに行くって四時間くらい前に出てったきり。あんた、会わなかったの?」
 つまり俺の前から走り去ってからというもの、まだ外にいるということだ。
「まあ、な」
「そう。だったらあんた、あの子に電話して。今晩は前にあんたが好きになった、ビーフシチューにしようと思ってるから。
 あの子、こういうの作りたがるでしょ」
  母は、俺達の事情など知らないのだから仕方ないとは思うが、そうだとしても、やはりそうですかと了承できない。
「ちょいと用事があるから自分でやってくれ」
 そう言って俺はそそくさと自室へ退散した。母は、そんなそっけない態度の俺に、後ろでブツブツと文句を言っている。そのときふと、沙弥佳がよく文句を言っている時の癖が、母さんと良く似ているのに気付いた。
(やっぱり二人は親子だな……良く似てる)
 俺は何気ない共通点に気付いて苦笑しながら階段を上がり、沙弥佳の帰りを待つことにしたのだった。



 夜八時――母さんと俺は、そわそわと落ち着かない気分でリビングにいた。
「あの子、どうしたのかしら……」
「……」
 俺は携帯を手にしたまま、リビングの中を行ったり来たりと繰り返している。母さんも、テーブルについて座り、何度も時計や携帯を見つめるという動作を繰り返している。
「……沙弥佳」
 こんな遅くまで沙弥佳が何も言わずに外出したことなど、今までに一度だってないことだった。喧嘩していても、無言の抵抗を表すためか部屋に篭った、というのはかつてあったが、今回はあまりにイレギュラーずきる。俺は当然、母さんも心配するのは当たり前だろう。
「……俺、ちょっとそこら辺探してくる。もし何かあったらすぐ連絡くれ」
 吐き捨てるような口調は、親に向かって言うようなものではないかもしれないが俺は気にせず、大股でリビングを勢いよく飛び出し、外に出た。
「くそ、あいつ一体どこにいるんだ」
 俺は思い付く限り、手当たり次第に探して回った。近所の公園、駅、中学校に高校、商店街や、いつか行った繁華街近くの大きな公園。それにキシマイ堂にも足をのばしてみたが、やはり沙弥佳の姿を見つけることはできなかった。
 揚げ句の果てに、さっき行った綾子ちゃんの家にまで行く始末で、やはりそこも沙弥佳がいるような雰囲気ではない。
 どうせ綾子ちゃんの家にまで来たのだから、確認ついでに綾子ちゃんに会おうかと思いはしたが、さすがに気が引けたのでやめておいた。あんなことになったというのに、家出のためにわざわざ綾子ちゃんを頼るはずはないだろう。もちろん、万に一の可能性がないとは言えないが、それでもいないと見ていいはずだ。
 俺は携帯を手に、沙弥佳の番号に電話した。何度かのコール音の後に、留守番電話サービスの方に繋がってしまう。さっきからずっとこうで、何度も録音を残してはいるが、一向に沙弥佳から連絡がくる気配がない。
「……今度も駄目か」
 胸中には、何かあったんではないか、何かに巻き込まれたんではないのか、そんな嫌な想像ばかりが膨らんで渦巻いていく。
(頼む……無事でいてくれ)
 天に祈る気持ちで綾子ちゃんの家の前から離れようとした時、突然携帯が震えた。
「もしもしっ」
 わらにも縋る思いで出たため、叫ぶような声になる。
『……なんでうちの前にいるんですか?』
 一瞬無言電話かと思うような沈黙の後に、聞き慣れた、しかし普段よりもいくらか低い声が聞こえてきた。電話の主は綾子ちゃんだったのだ。
「綾子ちゃん、か」
 不安に掻き立てられていた俺だったが、その声のために、不思議と落ち着きを取り戻す。うちの前にという言葉が表す通り、彼女は二階の部屋の窓から俺を見下ろしているのが、こちらからも窺い知ることができた。
『……』
「……少し言いにくいんだが、今いいか?」
『少しなら』
「分かった。なら単刀直入に聞くよ。今、そこに沙弥佳がいないか?」
 再び沈黙があった。受話器ごしでも、綾子ちゃんがどんな顔をしているのか分かってしまうのは、いささか複雑な気分ではあるが仕方ない。聞いた手前、綾子ちゃんが話し出すまで待たなくてはならないが、その間の沈黙が恐い。
『……どうしてうちに来てまで、それもわざわざ電話でそんなこと聞くんですか。
 それってつまり、私と終わらして、さやちゃんとの関係を続けたいってことなんですね』
「違う、そうじゃない。俺は単純に、沙弥佳がいるかどうかだけ聞いてるだけだ。それとこれは一切関係ないんだよ」
 昨日の今日とすら言わず、ついさっきのことなのだから、いくら本当のことであっても信用なんてできないのだろう。仮に俺が彼女の立場であっても、そう思ってしまうはずだ。
『……』
「頼む、聞いてくれ。俺は本当に沙弥佳がいるかどうかだけ知りたいんだ。そりゃぁついさっきあんなことがあったのに図々しいというのは分かっているつもりだ」
『……』
「……沙弥佳が、沙弥佳が帰って来ないんだ、あれから。色んな場所を探したけど、見つからないんだ。だから」
『だからって私のところに来るだなんて、おかしいとは思わなかったんですか』
 綾子ちゃんの声はあくまで冷静で、俺を責めている口ぶりだ。当然それは間違いではないのだが。
「もちろん、そう思ったよ。だけど万に一つも可能性がなくたってゼロじゃない。だから来たんだ。
 ……だが君の言うように、来たのは間違いだったかもな。さっき、あんなことが起こったばかりなのに……」
 受話口から、綾子ちゃんの息遣いすら聞こえてきそうなほどの沈黙。その沈黙を、綾子ちゃんは静かに破った。
『……さやちゃんは来ませんでしたよ』
「! ……そうか。すまないな……」
『いえ……』
「……」
 今言うべきなのか迷ったが、言わなければ、またタイミングを失ってしまうかもしれない。こうして家のそばに来ていた俺に、わざわざ電話してきてくれたのだ。
「……綾子ちゃん。俺は確かに沙弥佳と関係を持っちまったのは事実だ。そのことに言い訳はしない。だけど……だけど一つだけ言わせてくれ。俺は君のことが好きだ。当て馬にしたとか、形だけだとかそんなんじゃない。本当に好きなんだ。
 沙弥佳のことは、自分でも本当に最悪なことをしでかしたと思ってる……間違いだったと思ってる。最低だとも分かっちゃいるつもりだ……だけど俺は、君と別れるなんて嫌だ」
 再び長い沈黙が訪れる。綾子ちゃんと話しができないというだけで、俺達の間にとても分厚いガラスの壁ができているような錯覚に陥った。
 しかし電話からは、綾子ちゃんが何か言いかけているような、そんな気配を感じていた。
「すまん……一方的なことしか俺は言えない。まだ色々と考えたいこともあるだろうから、今日はこれ以上もう何も言えることはないけど……もう一度やり直してくれないか」
 まだ始まったばかりでやり直すだなんて言葉もおかしいが、率直な気持ちを述べたつもりだ。
『……少し』
「ああ」
『少し考えさせてください』
「いいよ。……君が落ち着くまで、待ってる」
『それじゃ……』
「ああ、待ってるから」
 そのやり取りを最後に俺達は電話を切った。けれど視線の先には、二階の窓から俺を見ている綾子ちゃんがいる。互いに少しの間だけ見つめ合った後、どちらからとも知れずに視線を外した。
 綾子ちゃんは窓にカーテンを、俺は彼女に背を向けて歩きだしたのだった。

 夜十一時半も過ぎ、そろそろ日付が変わろうという頃に家に戻ってきた。探す当てもなくなって途方にくれていた俺は、いたずらに街を歩き回っただけでなんの手掛かりすら得ることなく、舞い戻ってきたのだ。
 家に戻ると父さんが帰っていて、母さんと面をぶつけるように相対して席についていた。
「おかえり」
「ああ、ただいま……」
 帰ってきた俺を見て、沙弥佳を連れていないのを見た父は、小さなため息を漏らしてそういった。すでに話は母から聞いているようだ。
 その母さんに至っては、両手を額にやって俺が帰ったことなど気にも留めていない様子だ。
「そっちはどうだった?」
「駄目だ。クラスメイトにも一通り連絡してみたが、誰も知らないそうだ……」
 渋い顔で父が言う。まだスーツすら脱いでいないところを見ると、帰ってすぐに沙弥佳の級友らに連絡をとったのだと思われた。
「なんで突然……」
 母の何気ない呟きに、心が痛む。沙弥佳がいなくなったのは、俺が関係しているようでならないのだ。いや、十中八九そうだろう。あんなことがあった直後なのだ。俺が関係していないと考える方がどうかしている。
「とりあえずここは私たちに任せて、風呂に入りなさい。まだ明日は学校だろう」
「でも……」
「いいから行きなさい」
 父の静かながら強い言葉に、俺はかける言葉を失った。
「……分かった」
 父さんがああ言うようになった以上、今は何を言っても無駄だろう。昔からそういう人間なのだ、九鬼真太朗という人間は。
 俺は返事もそこそこに、黙ってリビングを出て自室へと戻っていった。



 風呂というのは本来であれば、嫌なことは文字通り水に流し、ゆっくりと過ごすべき時間と俺は考えている。しかし、今日はそういうわけにもいかなかった。間違いなく今回の件に、自分が深く絡んでいるはずなのだ。
 もし沙弥佳が事故か何かに巻き込まれて、意識も朦朧としてどこかで俺達を待っているとしたら? それとも、身内のひいき目なしに人目を引く容姿をしている沙弥佳に、軟派野郎の手がかかっていたりするのだろうか?
 もちろんそれならば、まだいくらかは救われるというものだが、もしそうなら、そいつは今すぐにでもぶちのめしてやるところだ。
 そしてなによりもだ。あいつが何か、とんでもないことに巻き込まれていたら……? 一度そうネガティブな方向に考え始めると、たちまち疑心暗鬼にとらわれてしまう。ここ数カ月で起こった、俺の周囲を取り巻く状況。それが何であるかはさっぱりだが、何か関係していたりするのだろうか。だとすれば、その巻き添えを食ったという可能性はどうだろうか……。
 俺は風呂からあがってベッドの上にいる今も、同じことばかり考えてしまっていた。気付けば、時刻はすでに真夜中の三時を過ぎ、三時半を時計の盤面は示していた。
 明日……すでに今日だが、学校があるとは分かってはいても、気が気でないため、全く寝れそうにない。欠伸の一つだって出ないのだ。眠れない俺はため息をついて、ベッドから起き上がる。
「……何か飲もう」
 部屋を出て、なるべく足音を立てぬよう階段を下りていくと、リビングにはまだ電気がついていた。
「……」
「父さん」
 静かにリビングに入って、一人椅子に座って佇んでいた父に声をかける。その恰好はまだ帰った時のままで、手には酒の入ったグラスがあった。
「……どうした? こんな時間に」
「いや、全然眠れなくてさ」
「そうか……」
「母さんは」
「ついさっき、睡眠薬を飲ませてようやく落ち着いたところだ」
「そっか……」
 俺は冷蔵庫からビールを取り出した。アルコールなんて生まれてこの方、一口だって飲んだことなどないが構うものか。プルに指をやって、缶を開けた。炭酸の抜けていく音が、なんとなくだがうまそうに聞こえる。
「……おいおい、未成年だぞ」
 いつも座る席について、CMなんかでやっているように、一気に喉にビールを流し込む。それを見ていた父が少しだけ驚くように見ながらそう言った。
「――っくぅ、父さん達、よくこんなの飲めるな」
 一気に飲み込んだため、350ミリリットルのビールは早くも半分ほどになる。
「最初は誰でもそんなものだよ。しかし、だとしても良くそこまで飲めるものだ」
「ただの見様見真似だよ」
 炭酸飲料を飲んだ時特有の、ゲップを吐き出しながら、缶をテーブルに置いた。
「それに、こうでもしなきゃ眠れそうにないんだ、本気で」
「……そうだな」
 そうしてお互い俯いてしまった。実際には果たして、本当にアルコールの効果で眠りにつけるのかわからない。けれど、そうせずにはいられなかった。沙弥佳からはまだ何も連絡はない。それがこんな夜更けまで酒を煽っている、父さんの理由なのだ。もちろん、だからこそ俺もそうしようと思ったのだが。
「……」
「……」
 父さんは、ショットグラスに入った残りを俺がやったように、一気に飲んだ。
「……まずいな」
「何が」
 聞き返す俺に父さんは、苦笑いをしながら俺が理解するにはまだ早い、と肩をすくめた。
「それよりも飲んだら寝ろ。眠れなくても、部屋を暗くして横になるだけでも違うから」
「ああ……」
 喋ることがなくなった俺は、残りのビールを胃に流し込み、空き缶を流しに置いた。ビールは胃が重たくなると言うが、確かにそうかもしれない。そして、たった二口で一缶開けたためか、全身を巡っている血がやけに温かいように感じる気がする。
 ほろ酔い気分の時というのは、心地良い眠りにつけるとも聞くが、今がそんな状態なのだろうか。意識ははっきりしているが初めてのアルコールが、眠れない身体をうまいこと寝させてくれそうな気がしながら、俺は部屋に戻っていったのだった。



 部屋に注ぐ陽射しに眩しさを覚えて、目を覚ました。カーテンは中途半端に半分ほど開いており、そこから陽射しが入ってきているのだ。
 俺は眩しさに目を細めながら、寝ぼけた頭で時計を探す。カツンと手に当たった時計を掴んで盤面を見ると、なんとすでに時間は十一時になろうとしているではないか。
 俺は信じられずに、今度は携帯を手にとって見てみれば、『10:59』から『11:00』に数字が変わった。俺の見間違いじゃないことを確認すると、ベッドを跳ね起きた。
 自分で寝過ごしておきながらこんなことを言うのもなんだが、なんだって誰も起こしにこないんだ。毒つく思いで制服に着替え部屋を飛び出すと、家の中が妙な緊張感が漂ってるのに気がついた。
(なんだ……?)
 下からは、聞き慣れない男の声が聞こえていたのだ。不穏に感じた俺は、無意識のうちに猫立ちのようになっていて、音を立てないように階段を下りていた。
「……それでどうされたんですか?」
 リビングに入った時、中にいた背広を着た男二人が俺を見た。
「……」
 なんなんだ、一体……。考えてみたところ、即座に沙弥佳のことなんだと気付いた。思えば、俺が寝坊したのだって沙弥佳に起こされなかったからなのだ。
 そしてその沙弥佳は、昨晩からまだ帰ってきていない。つまり、今目の前にいる男達は警察か何かの人間ということだ。
「息子さん?」
 俺を一瞥した年長の男が、ソファーに座り込んでいる母に聞いた。母は俺を見ながら頷く。
 この人達は?とは聞かなかった。なぜならもう一人の年長の男と比べ、まだ歳若い方の男は去年、今井の事件の際に俺と会った男だったのだ。確か南部とかいう刑事だ。年長の男は南部という男の上司か何かなんだろう。
「ちょうどいい。君にも少し聞きたいんだが、いいかね?」
「はぁ」
 頭が禿げ上がった年長の男は畠と名乗り、鋭い視線をぶつけてくる。威圧感のある視線に俺は、思わず情けない声で相槌をうっていた。
「君が最後に妹さんを見たのはいつだね?」
「……」
 畠と名乗った刑事は単刀直入に聞いてきた。俺は母のいる手前、その質問にどう答えたものか悩む。というのも昨日俺は、母に沙弥佳とは会ってないと答えたのだ。
「確か……朝、あいつが俺のベッドに潜り込んできたのが最後だったと思います」
「朝?」
「明け方に良く潜り込んでくるんです。それで昨日の朝も」
 畠はただ頷くだけで、それ以上は何も言ってはこなかった。最後に会ったのは違うが、嘘は言っていない。
「ふむ。それで娘さんが息子さんを迎えに行くと言って出て行ったのが最後だったと」
 畠の後をついで、南部という刑事が続けた。母さんはそれにコクリと頷くだけで、何も答えようとはしなかった。母の顔を良く見れば、どことなくやつれているようにも見える。いつもの溌剌とした雰囲気は一切感じられない。ただただ茫然自失という感じだった。
「……あの刑事さん」
「何かな?」
「沙弥佳は、妹は何か事件に巻き込まれたんでしょうか……?」
「現時点ではまだ分からないが……その方面で捜査はするつもりだよ」
「……そうですか」
「ああ、沙弥佳……」
 畠の言葉に俺はただ相槌をうつことしかできず、母は悲痛さを感じさせるように、両手で顔を隠してうなだれた。
「とにかく、もし何かあったら先ほどの番号にすぐに連絡をお願いします」
 二人は、テーブルに置いてある紙に書かれた番号を示しながら言う。母さんはそれどころではなく、すでに心ここにあらずだった。俺は母さんの代わりに二人に頷き、その紙を手にとった。
「ここに電話すればいいんですね?」
「ああ、頼むよ。何かあったら、の話だが」
 二人はそれでは失礼しますと頭を下げ、リビングを出た。うなだれて動けない母に代わって俺が二人を見送ろうとするが、畠が今はお母さんのそばにいてやりなさいという言葉を残し、見送りはせずに母さんのそばに寄る。
「うう……」
「……母さん」
 俺は母の隣に座って、そっと肩に手をかける。こうして母の体に触れるのなんて、一体いつぶりだろう。
「ぅう、うう、うぅぅ……」
 手を肩に置いた途端、声を押し殺すように泣き始めた母を前に驚きと困惑を隠せなかったが、俺は母さんの身体を抱きしめた。こんなことをするのは初めてだが、こうしてやるくらいしか今の俺にはできなかった。
(母さん……こんなに小さかったっけ)
 ぼんやりとそんなことを考えながら俺は、いつまでも泣き続ける母さんを抱いていたのだった。





 二人の刑事が家を訪ねてから、すでに三日が経っていた。いつもは気丈で溌剌とした母が、声を押し殺して泣いてみせた日、結局俺はどうせ遅刻なのだからと学校には行かず、そのままずっとそばについていた。
 途中、仕事に行ってしまっている父に連絡をいれようかとも思ったが、帰ってからにしようと連絡はしなかった。夜、帰ってきた父もいつも以上に疲れているように見えたのは、決して気のせいではないだろう。
 俺が起きた時すでに父さんがいなかったのは、きっと気丈に振る舞った母さんが気にしないでとでも言って、仕事に向かわせたのだろう。母の性格を考えれば、その方が納得もいくというものだ。
 次の日、つまり一昨日も俺はもう学校の授業もないからと、適当に父を言いくるめて仕事に送りだした。父さんからすれば、少しは家族を思って休みにしたかったのだろうが、世間というのは自分のこと意外には関心が薄いようで、せいぜい数日ほどの休みしか取れないらしい。ならば、しばらくは俺が世話をした方が良いというものだ。
 そんなことがあってすでに三日になろうとしていたこの日、家に例の刑事から連絡が入った。
「はい、もしもし」
『N市警の畠ですが……今いいですか』
「あ、どうも……あれから何か分かりましたか?」
『残念ながらまだ何も……』
「そうですか……」
 この三日間、俺も沙弥佳のことが気掛かりで、あまり寝ていない。それもあってか、まだ何もないと言われるとさすがにつらいものがある。なんだかんだで、俺も疲れてきているのかもしれない。
『それで少しお話があるんですが……今回の件、公開捜査にした方がいいのではと思いまして』
「公開捜査?」
『ええ。いかんせん、妹さんの情報が集まりませんで』
「公開捜査にすると何が違うんです?」
『まず、誰々を見た、といったような情報が得やすくなる、というのが最大のメリットですな。必然的に我々としても捜索はしやすくなりますし』
「……そうですか」
 畠の説明によればデメリットとして、いたずら目的の情報や、いたずらではなくても全くの見当違いな情報もあるらしく、必ずしも捜査がやりやすくなるものでもないらしい。しかし全く情報が出ない以上、公開捜査に切り替えた方が、可能性としては高くなるだろうとのことだった。
『……ただ』
「はい」
『お宅の妹さん、美人でしょう?』
「……それがどうしたんですか?」
 畠の突然の言葉に嫌な予感がした。
『あまり言いたくはないんですがね……おそらく、マスコミが騒ぎ立てると思うんですよ。美人の被害者っていうのでね、向こうの食いつきがやたらよくなってしまうんですわ』
 なるほど。つまるところ、そうなると自分達の捜査の妨害になってしまうことがあるというわけだ。しかし、情報が集まらない以上、いつまでも手を拱いているわけにもいかない。人命に関わってくるのだから、市民の力を得る代わりに、そういった低俗なことも覚悟が必要ということか。
『それだけにね、一応ご家族には一報いれとかんとならんわけです。ご家族で話し合ってもらって、後日、私の方に連絡して頂けないかと思いましてね』
「……分かりました。今晩、話し合ってみます」
『はい。よろしくお願いします。それでは』
 畠の言葉を最後に受話器を元の場所においた。俺は受話器をおいたまま、小さなため息を漏らす。
「公開捜査か……」
 マスコミが食いつくというのは、多分夕方や昼間にやっているワイドショーか何かのようなもので、取り上げられたりするのだろう。あれで見る限り、被害者の家族達はどことなく疲弊しているように見える。連日のように取材やなんやらが押しかけて来るのかもしれない。
 そう考えると、むやみに公開捜査にするのは決していいことだけではなさそうだ。しかしメリットもある以上、こうやって電話してきたのだろう。
 俺は重たい気分でテーブルの席について、両手で頭を抱えている母さんのところに行った。母さんは沙弥佳が姿を消してからというもの、毎日こんな感じだ。家事が得意で、ガーデニングなんかが趣味だったはずの
母が、この数日の間はそれらに全く手をつけないでいたのだ。
「……誰?」
 ひどく沈んだ声で、母さんが聞いてくる。
「警察。……捜査に全く進展が見られないって」
「そう……」
 予想していたのか分からないが、母は丸っきり興味のなさそうな声で言う。声からも、明らかに精神的な疲弊を感じさせる。
「それでさ、前にきた刑事が、公開捜査に切り替えた方が良いんじゃないかって言ってきた」
「公開捜査……」
 今畠から受けた説明を母にすると、目を見開き、椅子から立ち上がって突然喚き出した。
「何よそれっ。なんで初めからそうしなかったのよっ」
「落ち着きなって。公開捜査にはデメリットもあるらしいんだ」
 こちらにもはっきりと分かるほど息を荒くした母を宥めながら、説明の続きを話す。デメリットとそうなった場合の状況を自分なりに予想したことを話すと、母は今度はへなへなと力が抜けていき、再び椅子に座ったのだった。
「そんな……」
「……もちろん俺の予想だし、必ずしもそうなると決まったわけじゃぁないけど、それも有り得るって話だから」
 フォローはしたつもりだが、そんなのは全く聞こえていないかのように母は俯いてしまった。俺は苦い気分のまま席につき、俺の横にある沙弥佳の席をちらりと見た。
 本来なら俺も春休みに入り、こうしている間に沙弥佳のやつも、この椅子に座っていたのかもしれない。そう考えた途端、また自責の念が込み上げてくる。間違いなく沙弥佳は、俺との口論であの場を去ってしまったのだ。つまりあいつがこうなってしまったのは、俺のせいであると言えるのだ。
 そうなると、今こうしてひどく重い気持ちになってしまっている両親のことを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。こんなことになるなら、沙弥佳を抱くんじゃなかった。思えば、この一連の事柄全てそのことに起因している。
 真紀が言っていたように、俺は自分が傷つきたくなかったからこうなってしまった。沙弥佳に嫌われたくないという一心で、結局は傷つけ、結果、俺はこうしてこんなところにいる……それが自己嫌悪に浸らせる。
「……沙弥佳」
 ごめん、とは母のいる手前、口にはしなかったが代わりに母は、俺の気持ちを代弁するかのように啜り泣きはじめた。俺はただ苦い気持ちのまま母の様子を見つめ、ひたすら父が帰ってくるのを待っていた。

 ぼんやりと何日も前に起こった出来事を、そんな風に思い返していた。
 父が帰ってからは、三人で面を合わせて話し合った。とはいっても、ほとんど俺と父だけで進行していったのだが。
 デメリットを父に話し、その上で公開捜査に切り替えようという結論に達した。ただしすぐに連絡はせず、後一日か二日待って何もなければ、というのが条件だった。
 結果としては、二日待ったものの何もなく、畠に連絡をすることになったのだ。畠は特に追求することなく、分かりました、と短く答えただけだった。
 それから一日と経たずに、テレビやラジオ含め、沙弥佳の失踪が全国に知られることとなった。そのあまりに速い対応は、もしかしたら向こうも、あらかじめこうなると予想していたのかもしれない。
 しかしそうなると対応に追われるのはこちらも同じで、引っ切りなしに電話が鳴るようになってしまった。家の電話には当然親戚がまず始めに、次に沙弥佳の友人らが、そして俺のクラスメイト達からの電話と後を絶たなかった。
 当然級友らからは携帯への着信もあって、途中からはそれら一つ一つに対応するのも、欝陶しさすら感じるようになった。もちろん、彼らはあくまで俺を心配してくれてのことだから、あまり無下にはできなかったのも事実だったが。
 けれど、そんなのはまだ良かった。知人たちからの電話がようやく一段落ついたかと思えば、どこから俺の家の番号を知ったか知らないが、マスコミからの電話が鳴るようになったのだ。
 これはさすがに腹立たしかった。取材の件で、ということだったが、今家族がこんな状態では無理だと何度断っても、しつこく電話してくるのだ。そのうちに、家の前に一人また一人と、ついに報道陣が群れを為すようになっていた。
 うんざりした気持ちでテレビを付けると、画面には見慣れたこの家をバックにし、俺達のことなど何も知らないくせに知ったかぶった連中が、何かを口々に言っていた。連中はまず沙弥佳の容姿を槍玉にあげ、裏を返せばまるで、あいつが美人だからこうなったのだと言わんばかりの、最低なコメントを言うような奴すらいる始末だった。
 事実、あるテレビでは美少女失踪事件なんて、人が食いつきそうなテロップなんかも付けて報道していたものもあった。何日か前に電話してきた畠の言ったことが、まさしくそのまま再現されていたのだ。
 怒りを覚えながら、それでも俺はテレビの画面を見続けた。この報道を見たら、もしかしたら……そんなわずかな希望を抱いてだ。
 しかしそれも虚しく、捜査は何の進展もなかった。一時、報道は過熱し、営利誘拐説、事故に巻き込まれたという説、揚げ句の果てには、北や中国の工作員による誘拐説……聞いて呆れるほどの憶測が飛び交っていたが、なんの進展も見せない事件に、マスコミも徐々に飽き始めていたのだった。
 そんな中、暦もとうに四月に入ってそろそろ進級し、新入生も入ろうという頃になって、ついに精神的な疲弊によって母さんが倒れた。さすがの父も、これには会社もそこそこにすっ飛んできたものだった。
 医者の話では、精神的な疲労が内臓疾患を及ぼし始めているとのことだった。ここ何日もの間、まともに食べていなかったことを考えると、こうなってもおかしくないとも。それに母は、元から体があまり丈夫な方ではなく、そのために薬を必要とする病気を持っていたというのも多少なりとも関係あるらしい。
 とりあえずは点滴を受けて、大事には至らなかったが、緊急入院することになったのだ。
 俺もそんなことがあってからというもの、沙弥佳がいなくなってからずっと張り詰めていた緊張の糸が、ついに切れてしまったのか、何もかもを全くやる気がなくなってしまった。その日からというもの、もう何日も部屋に篭りっぱなしになったのだった。
 俺は傾いたままの視界を起こすこともなく、再び瞼を閉じようとした時だ。
 プルルルルル――そんな音が下から聞こえてきた。
 一度は起きようかとも思ったが、面倒に感じて居留守を決め込んだ俺は、下に行くことなく瞼を閉じたのだった。




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