いつか見た夢

B&B

第57章

 遠くの空はどんよりとした暗い雲がかかっていて、真下の街は今にも雨が降り出しかねないほどだった。
 しかし、その方角から湿った空気のまじった風が、こちらに向かって吹いてきている。おそらくもうしばらくすればここら一
帯にも、暗い雲が降りてきて雨を降らせることだろう。空は気まぐれというが、全くだ。朝はあんなに良い天気だったというのに。
 それを理解してか、道行く人々もどこかせわしげに歩いている。俺はそれとは別の理由で人込みに紛れるように、雨が今にも降り出しそうな街に向かって足早に歩いていた。
(くそ。あの野郎、どこまで着いてくるんだ)
 進行方向にあるビルの大きなガラス窓を、忌ま忌ましげにチラリと見て毒ついた。
 駅で綾子ちゃんと別れ目的地の駅に着いてからというもの、どこからか視線を感じた俺は、信号待ちをしていた時に何気なく見たガラス鏡に、不審な人物が写っていたのだ。
 最初はなんとも思わなかったものの、多少込み入った場所にさえその人物がついてきているのを悟ると、目的地である前に加藤とあった喫茶店を通りすぎ、その人物を確かめてやろうと思ったのだ。しかし、つけてきている男は一向に俺から離れようとはせず、気付けばいつの間にか、大分離れた街にまで歩いてきてしまっていた。
 どうして良いものか考えているうちに俺はバス停近くにおり、そのバス停で足を止めた。普段はあまりバスを使わないため良く分からないが、一つ言えるのは、この路線のバスは家の近くを通っている路線であるのは間違いないということだ。
(確かこの路線は……)
 バスの巡回するルートと停まるバス停を見ると、通り過ぎてきた加藤との待ち合わせ場所にもほど近い、電車の路線に繋がる場所にも停まることが分かる。
 バスを待つふりをしながら、さりげなくチラリと横目で歩いてきた方を見ると、先ほどの男は小道に曲がっていった。しかし、これまでずっと着いてきたと思われる男が、急に変な道に入り込むなんて明らかに不自然だ。曲がっていった小道の先には、今いる道よりも大きな道路に繋がっているが、ここまでにいくらも向こう側に行く機会はあったのだ。よってさっきの男は、まだそこらにいると見ていいだろう。
 待つことわずかに一分ほどでバスが到着した。俺以外に乗る客が誰もいなければ、降りる客もいない。
 がら空きの車内に乗客は俺を含め、わずかに三人しかいない。窓側の席に座って後ろのほうを確認すると、野郎が焦ったのか小道から出てきたのが見受けられる。男が急いで走ってきているが、バスに乗ったのが俺一人というのもあるのか、ドアはすぐに閉められて発車した。
(ふん、ざまあみろ)
 とりあえずは三駅先のバス停までは落ち着けそうだ。しかし、今井の一件以来用心深くなっていた俺は、これで安心したというわけではない。
 それにしても、先ほどの男は何者なんだろう。人に尾行されるなんて初めてのことなので、困惑はあっても仕方のないことだが、あの男が何者かという疑問は放ってはおけない。
 黒田の仲間だろうか。思いつく限りでは、それが一番可能性が高い。今まで奴が誰かと一緒にいたのを見たことはないが、加藤から聞いた話から推測すれば仲間がいないというわけではないだろう。奴らもついに業を煮やしたというわけだ。
 あるいは、真紀や斑鳩達の仲間というのも考えられる。しかし、現時点ではやはり黒田の仲間かもしくは、それに近い人物という風に見るのが自然だろう。今までもっとも強引な手口を使ってきたのは、奴しかいないからだ。
 車内に次に停まるバス停がアナウンスされると、俺は降車を知らせるボタンを押す。いくらもすると、あっという間に目的のバス停に着いた。
 乗車賃を払ってバスを降りる。念のため周りを見回すが、先ほどの男のような類いの奴は見受けられない。あの男以外にも仲間がいて、先回りしていないとは言い切れないと考えられたためだ。
 幸い、そういう連中はいなかったようだがまだ安心はできない。俺は足早にタクシー乗り場へと向かい、ドアを開けて客を待っていたタクシーに乗り込んだ。
 始めは電車というこも考えていたが、電車だと最悪、駅に連中が待ち伏せしていないともいいきれない。せっかく男を撒けたかもしれないのに、間抜けなことはしたくない。そこで俺は急遽、タクシーを使うことにしたのだ。
 運転手に行き先を告げると早速、運転手はアクセルを踏んで車を発車させた。やや荒い運転だったが、運転手の親父はどことなく喜々とした様子で最短ルートと思われる道を走る。もしかしたらこの親父は今でこそタクシーの運転手をしているが、昔は無免許運転で、名のある道という道を爆走していたのかもしれない。そう思えるほど、ハンドルを握っている時はその前と比べて別人に見えたのだ。
 バスと違い、最短ルートを走ることのできるタクシーは、わずか数分で目的の喫茶店近くまで着いた。最短ルートであったのと、信号が運良く全て青だったということもあるだろう。タクシーを乗り捨てた俺は、足早に喫茶店へと向かった。もちろん、例の男がいないかさりげなく周囲を確認するのも忘れない。
 喫茶店に入ると、ようやく一心地つけた気になった。店内に連中の一人がいるという可能性もあるが、多分大丈夫だろう。もしここに張っていたなら、最初から俺を尾行なんてしたりするはずはないと踏んだのだ。
 一月ほど前に来た時と同じ席に座り、加藤を待つことにする。すでに約束の時間は過ぎているが、前回は店内にいたにも関わらず、時間を過ぎてからやってきた男だ。少しくらい遅れても構わないだろう。
 店員が注文を聞きに席に来て、冷水と氷の入ったコップを置く。別に何か飲みたいわけでも食べたいわけでもないが、まぁ仕方ない。俺は適当にメニューに目をやってブレンドコーヒーを頼んだ。
 店員が消えると、俺はため息を漏らした。それも当然だ。なんだって俺が人につけられなくてはならないのか。その理由が全く分からないのだ。さっきは黒田の仲間という可能性を考えたが、全くの第三者という可能性はどうだろうか。真紀や斑鳩にしても、黒田にしてもそうだったが、唐突に訳の分からない連中が俺の周りに現れやがる。そんな経験から考えれば、その可能性もなくはない。
 しかし、素性がいまいち知れない連中から、こうも執拗に気をかけられて浮かれるほど俺はおめでたくない。何か理由があるはずなんだろうが、やはり頭をどう捻ってみても答えは出てこない。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーになります」
 コーヒーを運んできた先ほどの店員に頷き、携帯の時計で時刻を確認する。まだ加藤が現れる気配はない。待っていればそのうち来るだろうと、俺はコーヒーにミルクを入れてかきまぜ、一口飲み込んだ。
 熱い液体が喉を下りていく感覚に不思議な安堵を覚えると同時に、突然携帯が鳴りだした。俺は携帯をとってかけてきている主を確認すると、珍しく青山からだった。
「もしもし?」
『九鬼くん? 今テレビ見れる?』
 珍しついでに青山は、落ち着きなくまくし立てるような声で言った。
「どうしたんだ、そんなに慌てて。今は外出してるところだから、テレビは見れないぜ。今から加藤と会うところなんだ」
 俺がそう言うと青山は、受話器の向こうで息を飲んだ。
『九鬼くん、落ち着いて聞いてね。その加藤さんのことなんだけど……』
「ああ、加藤がどうかしたのか?」
 青山は、自分を落ち着かせるように一度深呼吸をした。
『加藤さんが亡くなったらしいんだ』
「なんだって?」
『僕もまだ信じられないし、まだ確認もとれてないから良く、ううん。もうテレビでやっているから間違いないんだけど』
 いまいち言っていることがちぐはぐな青山だが、要はまだ混乱しているのだ。しかし、かくいう俺もいささかショックがある。ましてや、今日会う予定の人物だったのだからそれも当然のことだ。
 俺は話を分かりやすく説明するよう、青山を落ち着かせる。
『……一号線で起こった死亡事故のニュースを見たら、それが加藤さんだったんだ。ちょうど横断歩道を渡ろうとしてたみたいなんだけど……』
「突っ込んできた車に轢かれた、ということか」
『うん……』
 しかも、その事故があったのが今日の朝早くで、ほとんど人通りのない時間帯だったらしい。そんな朝早くに、加藤が何をしていたのか気にならなくもないが、彼の生活パターンを知らない俺には皆目見当もつかない。
 青山の話では事故の目撃者はおらず、朝の七時頃に散歩をしていた老人によって発見されたという。残念ながらその時にはすでに、加藤の息はなかったらしい。
 ただ現場の状況から少なくとも突っ込んできたのが車であり、猛スピードであるがゆえ、ほとんどブレーキがきくことはなかったということだけは間違いないのだという。
 つまり、横断歩道を渡ろうとした加藤に、突如として横から猛スピードの車が突っ込んできたというわけだが、どうも腑に落ちない。今日これから会おうという日に限って、突然こんなことが起こるなんて出来過ぎな気がしてならない。こうも都合良く人が死んだりするものなのだろうか。
「青山。事故っていう話だが、本当にそうだと思うか?」
『うん……昨日、チャットで加藤さんとは話すことができたけど……本人はやけに興奮気味だった印象があったんだよ。加藤さん、チャットではいつも冷静な雰囲気な人だから、普段とはちょっと違うなくらいにしかその時は思わなかったんだけど。
 ほら、チャットは文字だけだから文面通り、本当に冷静に文字を打ってたとは言い切れないけど、その加藤さんが昨日に限っては、妙にテンションが高かったのは多分間違いないよ。あの後、朝早くに用事があるからって落ちたんだけどね』
「何かチャットで言ってなかったか?」
『うーん……あ、そういえば』
 青山は少しの間うねるように考えていたが、何かを思い出したのか閃いたように言った。
『何かって言えるほどのことじゃないかもしれないけど、加藤さん、変なこと書いてたんだよね。良くある独り言みたいなレスだったからなんとも思わなかったんだけど……』
「そいつを教えてくれ」
『うん、ちょっと待って。確かログが残っているはずだから』
 受話器の向こうからカチカチという、クリックする音が聞こえてくる。
『あったよ。”僕はとんでもないことを知ってしまった”、”だけど知ったところでどうしようもない……”
 これだけだけど、この後も妙に子供がチャットしてるみたいに興奮気味だったんだ。そして落ちる直前に……”これ以上は彼もどうしようもできないだろう”っていうログを書き残して落ちたんだよ』
「彼ってのは」
『加藤さんは、いくつか同時に仕事をこなしていたからなんとも……』
「そうか。とんでもないっていうのはどういうことなんだろうか」
『分からない。だけど、なんとなく九鬼くんの依頼したことに関係しているような気がするけどね』
 これが対面しながら話していたなら、間違いなく俺は肩をすくめていたことだろう。俺が関係していたなんてなんとも光栄な話だが、その結果、人間人一人が死んだとなると素直にそう思えるはずもない。
 とはいえ青山の言う通り、あながちでもないとも思える節があるのも事実ではある。加藤が死んだのがもし、黒田や真紀、斑鳩のことを調べていたからだとしたら……。その可能性がないとは言い切れないのだ。
 もちろん、これは俺の勝手な推測に過ぎない。加藤は、今回の件以外にも仕事があるようなことを言っていたので、そっちの方を調べているうちにとんでもない地雷を踏んでしまった、ということだ。
 ともあれ、こんな風に考えるには一つの可能性が前提になってくる。
「なぁ青山」
『うん?』
「その事故って話だが、本当にそうなんだろうか」
『……というと?』
「単刀直入に言えば、殺されたというの可能性はあるだろうか」
『可能性という観点から言えばないとはいえないけど……。だけどニュースでは事故だと言っているしね』
「その報道が嘘っていうのは?」
 真紀のようなことをいうなんて、自分でもおかしなことを言っていると呆れるものだが、どうも俺は加藤の死が何かを暗示しているような気がしてならないでいる。
『本音をいえば、きな臭い話とは思ってるよ? 昨日の今日なわけでさ。
 だけど、ニュースで映った事故現場を見る限り、やっぱり偶然なのかなとも思えるんだよ』
「どういうことだ?」
『ブレーキ痕って知ってる? 事故現場なんかでは良く見られるものなんだけど』
「ああ、知ってる。スピードを出していた車が急にブレーキをかけると、摩擦でタイヤの後が地面に残るとつくというやつだろう。確か、轢きたくないという心理的な意味合いもあるって話だ」
『うん。そのブレーキ痕が事故現場にはくっきりと残されてたんだよ。ブレーキを踏んだけど結局は轢いてしまったっていう、そんな感じもすごくあるんだ』
「そして、車はそのまま走り去った……良くある轢き逃げ事件ということだな」
『うん』
 なるほど。確かに言われてみれば、そんか気がしなくもない。だが、俺にはどうにも全てを鵜呑みにはできない。ついさっきだって、変な野郎に後をつけられていたところなのだ。無関係だということもあるかもしれないがここは一旦、自分と何かしら関係があることだと考えた方が良いような気がするのだ。
 第一、真紀や斑鳩のことを探ってみると言った矢先にこれだ。いくら事故だなんだということであっても、絶対にそうであるという保証だってないはずだ。その瞬間を見た人間がいるわけでもないのだ。
「わざわざ電話してくれてありがとうよ、青山」
『ううん、いいよ』
 どちらからとも知れず電話を切った。俺はため息をつき、コーヒーに口をつける。運ばれてきた時は温かかったはずのコーヒーは、いつの間にかややぬるくなっていた。かなりの時間、青山と話こんでいたということになる。
 しかし、待ち人がまさか死んでしまったなんて、どうしたものか。まさか、直に真紀や斑鳩に問い詰めるわけにもいかない。
「どうしたもんか……」
 改めて口にすると、唯一の手掛かりになるかもしれなかった手立てを失ったことに、どうしようもない失望を感じていた。



 行く当てもなくブラブラと歩いていた俺は、これから先どうしようかと本気で頭を悩ませていた。
 情報を得るはずだったのに、それを与えてくれるはずだった人物の思いもかけない訃報は、俺のモチベーションをも下げていたのだ。道行く人々は、そんな俺の心を象徴するかのようにどことなく暗い顔をしている。
 そんなのは俺の思い過ごしだろうが、かの名画・モナリザだって、見る人間の気分によって表情が変わって見えたりするものだと聞く。生きた人間であれば、なおのことそう錯覚したって不思議はない。
 感傷に浸るのはやめよう。皆の顔が憂いて見えるのは、単純に雨が降り始めたからにすぎないのだ。先ほどは降り出しそうになっていた雨は、気付けばやはり降り出してきていた。
 待ち人が来ることもないのだからと店を出たのは良いが、こうなってくるといい加減うちに戻った方が得策だろう。雨に濡れたって良いことは何もない。
 適当なところで駅に行こうとして運悪く、信号につかまった。道は車の往来も激しいところであるが、それに反比例して歩行者の数はあまりない。
 そんなスクランブル交差点で信号が変わるのを待っていると、俺の気付かぬうちに両隣を二人の男が立っていた。ご丁寧にも、顔は分からぬよう半歩だけ後ろにだ。
「……」
 ちょっと前までの俺なら、嫌だと思いながらそれ以上は何も思わなかっただろう。人には、他人に対して無意識に許せることのできる、距離や範囲を表すパーソナルスペースと呼ばれるものが存在する。
 自分の家族や恋人、気のおけない友人などにならすぐそばに近寄られても不快に思う者はいないだろうが、あまり馴染みのない人間や、全くといっていいほど知りもしない人間には距離を置こうとする心理が働く。つまり、その距離が近ければ近いほど、対象に対して許容できているというのを示すための心理的範囲をそう呼ぶらしい。
 この二人は明らかにそいつを侵害している。せいぜい俺との距離は二十センチかそこらといったところだ。交差点には腐るほどのスペースがあるというのに、あえてここまで近くに寄ってきているのには、何かしら意味があるに違いない。あまりに近すぎる。
 おまけに、俺が逃げられないような位置取りをしているのも気に入らない。さりげなく信号待ちしているように見せてはいるのだろうが、この時ばかりは違和感があるというのを理解していた。
 道を挟んだ反対側には、誰一人として信号待ちをしている者はいない。こうなれば当然起こすべき行動は決まってくる。
 今まで青を示していた信号は、黄色に変わった。赤になった時が瞬間が勝負だ。
 数秒をおいて、黄色から赤に変わる。両隣の男が同時に、わずかに俺の方に近寄るように揺れる。
(今だ)
 俺はそれを合図に背を低くするような姿勢で、一気に走りだした。まだ歩行者信号は青にはなってないが構わなかった。どうせ車は停まっているのだ。
「っ!」
 背中から息を飲むような声を聞きながら、全速力で横断歩道を走り抜く。
 いきなりのスタートダッシュに一瞬足がとられそうになりながらも、スピードを落とすことなく駆ける。
「待てっ」
 二人のうちのどちらかが声を張り上げる。
 だが、俺に止まる意思など微塵もない。男達は、制止の声をあげながら俺を追ってきているのだ。
 何十メートルか先の歩行者信号がチカチカと点滅しだし、歩行者に信号が変わろうとしていることを示しだしている。
 俺は少しでも速くと、下手すれば前のめりに転倒したっておかしくないくらいのスピードになっていた。
 交差点にきた時、信号は赤になった直後だった。しかし俺は、気にすることなくそのままの勢いで道を飛び出して向こう側へと走る。
「待てっ!」
 さっきよりも強い声、いや、もはや怒声といっても過言ではない声はそこで急に途切れた。と同時に、甲高い摩擦音とともに鈍く何かがぶつかった音が背後から聞こえた。
 俺が振り向くと追ってきていたと思われる男が一人、道路に仰向け気味に倒れていた。
 白い軽自動車がそのすぐ横に止まっている。フロントガラスが蜘蛛の巣状に割れていることから、倒れている男をはねたのだ。
 男は俺に向かって何かを放った。それが男の拳だと気付いた時にはすでに、俺の鳩尾深くに突き刺さっていた。
 息が止まり、あまりの衝撃と痛みに何をされたのかいまひとつ要領を得なかったが、さらに次の瞬間、息つく間もなく後頭部の
あたりに衝撃を受けた途端、俺は意識を失った。





 暗闇の中から、かすかに人の話し声のするような音が聞こえる。身体全体がひどくだるい。
「ぅ……」
 自分のものとは思えない、ひどく低くくぐもった呻き声とともに意識を取り戻した。うっすらと目を開くと、視界がぼんやりと
していてうまく焦点が合わない。
 いや違う。 男は俺に向かって何かを放った。それが男の拳だと気付いた時にはすでに、俺の鳩尾深くに突き刺さっていた。
 息が止まり、あまりの衝撃と痛みに何をされたのかいまひとつ要領を得なかったが、さらに次の瞬間、息つく間もなく後頭部のあたりに衝撃を受けた途端、俺は意識を失った。





 暗闇の中から、かすかに人の話し声のするような音が聞こえる。身体全体がひどくだるい。
「ぅ……」
 自分のものとは思えない、ひどく低くくぐもった呻き声とともに意識を取り戻した。うっすらと目を開くと、視界がぼんやりとしていてうまく焦点が合わない。
 いや違う。辺りは真っ暗で、光源といえるようなものが一切なかったのだ。
 しかし、それでもどこからか光が漏れているのか、うっすらとだが何か物が置いてあるのが分かる。だが、その形までは分からず、ただ置いてあるというのがかろうじて分かる程度の光量だった。
(……一体、なんだってこんなことになったんだ)
 俺はまだやや鈍さのある頭を無理矢理に回転させ、状況を整理しようとした。目が覚めて、自分がいきなり暗闇の世界に放り込まれていたなんて今まで一度だって経験したことがないし、自分がこんなことを体験することになるなんて考えたこともない。
 しかし幸か不幸か、後ろから突然鈍く錆び付いた扉が開かれる音がし、途端に光の束が室内に注ぎ込まれてきた。幸い俺には、後ろからであるというのが、光を直接見ずにすむことができたのは良かった。おかげでぼんやりとしていた頭も、完全に目を醒ますというものだ。
 俺は扉が開かれるのと同時に、頭を再度うなだれさせ、気を失っているふりをした。格段意味があるわけでもないが、何かされるかもしれないという、漠然とした不安がこうさせたのかもしれない。
「……起きたか?」
「いや、まだみたいだ」
「構わん。いい加減目を醒まさせてやろう」
 三人目の男の声で俺は目を開けざるをえなかった。男の声は目的のためならば、手段は問わないとでも言っているかのように冷淡なものだったのだ。
「うっ……」
 目を開けて首を動かそうとするが、やはり首に鈍痛が走る。痛みと忌ま忌ましい気持ちで呻き声をあげた。
「ん、どうやら目が覚めたみたいだな」
「良し。ならば始めるとしようか」
 男達の淡々とした会話に耳を傾けていると、何かとんでもないことをされそうで不安で堪らない。だが、だからと言って今どうにかできそうな状況でもない。とにかく今、全てにおいて不利な状況であるということだけが確かなこであるのは間違いない。
「おい、気付いたんなら返事しな」
 男の一人がそう言いながら、俺の髪を掴んで顔を上げさせる。
「う……」
 無理に首を動かされたため、そこに痛みが走った。俺は思わず苦痛に呻き声を漏らした。
「おまえに聞きたいことがある。おまえと連中、一体どういう関係なんだ」
「く、なんの話をしてるんだ……」
 当然の疑問だ。俺にはこの男の言っていることがさっぱり分からない。
「とぼけるのはよしな。おまえと奴が接触したってのはもう分かってんだ。痛い目にあいたくなかったらさっさとゲロっちまった方がいいぞ」
 全く話が噛み合ってない。奴とは誰のことなんだ。
「待ってくれ。奴ってのは一体誰のことなんだ」
「けっ、言わなきゃ分からないとでも言いたいのか。そうやってうやむやにしようとしたってそうはいかん」
 興奮した男が、髪を掴んだまま頭を振る。
「本当だ。心当たりがありすぎて全然分からないんだ」
 俺は惨めにも、半ば泣き出す寸前になりながら喚いた。良く映画なんかで見るシーンをいざ体験するとなると、こんなにも恐怖を感じるものなのだろうか。俺は泣きたくもないのに、涙目になりつつあるのが自分でも分かったのだ。
 すると後ろにいる他の二人が囁くように話をし始めた。俺は自分がこんな目にあっているというのに、頭のどこかで冷静な自分がこのままで終わらすまいとしていることを、素直に感じ取っていた。
「本当に知らなさそうだな」
「ああ。しかし、嘘をついてない可能性がないわけでもない」
「どうする」
「何人か心当たりがあるようだから、そこから問い詰めてみよう」
 苦悶に満ちている俺は、そんな会話がなされているのを確かに聞いていた。不思議とすぐに死なないというのが分かると、途端に落ち着きを取り戻した。
 後ろにいた二人のうちの一人が、俺の方に近寄ってきたのが影の動きで分かった。また声の感じが、ここに連れてこられる前に俺をぶちのめした奴だということにもだ。
「おまえは今何人か心当たりがあるといっていたな。では聞こう。おまえはある男になにか調べるよう依頼をしていたな?」
 こいつの言っているのは加藤のことだろうか。だとすれば確かにそうだ。俺は加藤に黒田と真紀、斑鳩の素性を調べるよう依頼した。
「あ、ああ」
「おまえはそれである男の調査を依頼しているな? そいつは誰だ」
「く、黒田のことか?」
 男といえば他にも斑鳩のいるが、なんとなく黒田のことだと思えた。違ったら違ったらだ。
「黒田」
 その名前を聞いて男は、じっと何か考えているようだった。
「どうして、その男のことをなんで調べようなんて思った」
 威圧的に問いかけてくる男は、態度からして三人のリーダー的存在なのだろう。この男が話しているときは、他の二人はいるのかすら分からなくなるほどだ。
「……それは俺が知りたい。俺自身よく分からないんだ。なんであの男に俺が付きまとわれるようになったのか……知る手立てがないから、あの男に頼んで調べてもらっていたんだ」
 うなだれながら言い終えると、室内に静寂が訪れた。この間がなんとも重苦しく感じて仕方ない。
「何か心当たりはないのか」
 沈黙を破って男が問う。
 俺は痛む首を、ただ力無く振るだけだった。それ以上何も言いようがなく、どうしようもないのだ。
 男が髪を掴んでいる男に向かって顎で合図するのが影の動きで分かった。すると、頭を突き飛ばすようにして掴まれていた髪が解放された。
「こいつ、どうするんだ。ここまでやっておいて何もなしに解放するわけにもいかないぜ」
 もう一人の男がリーダーらしい三人目の男に囁きかける。何か考えているような男は、不意に縛られている俺の腕の拘束を解いたのだ。
「……?」
「勘違いするな。我々は、まだおまえを完全に信用したわけじゃない。しかし、その黒田を釣るには良い餌になる。だから解放するにすぎない」
 拘束されていた手をさすりながら、俺は後ろを振り向こうとした。だが室内に入り込む光に目が眩み、連中の顔を拝むことができない。
「忘れるな。我々はおまえを信じたわけではない。何かあった時はおまえを許しはしない」
 男の声は今まで以上に威圧的で、有無を言わせぬ迫力があった。まるで言葉という空気の波に当てられたような感覚で、俺は眩しさに目を細めながら、情けなく頷くだけであった。



 意識が戻って目を醒ました時、そこは自室のベッドの上だった。おまけに部屋の中は真っ暗で、始めはまたどこかわけの分からない場所に寝かされているのかと焦ったほどだ。けれど、すぐにここが家の自室であることに気付くことができたのは、ベッドの脇に綾子ちゃんがいて眠ってしまっているのに気付いたからだった。
 真っ暗とは言っても、先ほど自分が拘束されていたところに比べれば、はるかに明るく、周りにある物の形も見える。蛍光塗料が塗られた時計の盤面を見れば、すでに時刻は真夜中の一時になっていた。部屋がこんなに暗いのにも合点がいく。
(……俺はどうやってここに)
 部屋を見回して、脇にいる綾子ちゃんの寝ている姿を見ながらぼんやりと考える。たしか昼間に青山から連絡を受けて、加藤が死んだという話を聞いた。その後どうすべきかと街をうろついているうちに、どういうわけか、俺を尾行していた人物と遭遇したというのも覚えている。
 問題はそこからで、逃げ回っている最中にその人物の仲間と思われる奴から打撃を受けたと思ったら、次に目を醒ました時には真っ暗な場所で一人拘束されていたのだ。もちろん、その時交わされた話の内容だって覚えている。
 そうか……。俺は連中の顔を拝んでやろうとしたが、結局それは叶わずに、頭に黒く分厚い布を被せられた。布の表面には何か薬液が染みこまされていたようで、俺はその匂いをかいでいるうちに意識を失ったのだ。そして連中がここまでご丁寧に運んだ。多分そう見ていいだろう。
 しかし、あの連中はなんだったんだろう。いきなり人を拉致したかと思えば、その聞かれた内容は黒田のことをなぜ調べているのかというものだった。
「ん……ぁ」
 ベッドの脇に座りこみ、上半身だけを俯せにして眠っていた綾子ちゃんが鼻を鳴らした。どうやらこちらも目が覚めたらしい。
「九鬼、さん?」
「ああ」
 暗闇の中でお互いを確認しあう。
「電気、つけよう」
 俺はベッドから立ち上がり、自室の室内灯ではなく机の卓上灯を手探りで点けた。卓上灯の淡い光なら室内灯ほど明るくないので、さほど眩しく感じないはずだ。
「おはよう。……というのもおかしな言い方かもしれないが」
「それよりも九鬼さん、一体どうしたんですか。街中で急に倒れたからって、男の人がうちまで運んでくれたんですよ?」
「倒れた?」
 どうやら、色々と話が変えられているようだ。まぁ、当然といえば当然といえるだろう。こちらとしても、そういうことにしておいた方が良い。倒れたといっても実際には倒されたというのが正しいが、あながち間違いでもないからだ。
 なにより、倒されて得体の知れない連中に、一時的とはいえ拉致されたと綾子ちゃんが知ったら、またいらぬ心配をさせてしまう。それに比べれば大したことではないだろう。
 綾子ちゃんによれば、いつもより帰りの遅い俺に玄関を出たところ家の前で止まった車から出てきた男によって、ここまで運ばれてこられたのだという。多分、昼間のやつらのうちの一人だ。そんな奴が家に入ってきたなんて、考えただけでも忌ま忌ましく、腹立たしいことだった。
 けれど、綾子ちゃんを変な厄介ごとに巻き込むことよりは、まだいくらかマシと言えるかもしれない。
「そうか。途中から記憶がなくなってるから、どうなったのか自分でも良く分からないんだ」 俺は思い出したように頷いて適当に話を合わせ、言い訳をしておいた。しかし、それでも綾子ちゃんの顔は、納得したいができないとでも言ったような顔をしている。
 まさか、カマでもかけられたりしたのだろうか。だとしたら、いささか浅はかな思いつきだったかもしれない。いかんせん俺には、ここに運ばれたまでの経緯がまるで記憶にないのだ。
「どうかしたか?」
「いえ……九鬼さん。本当に倒れただけならいいんです。もし……もし何か、大変なことに巻き込まれたんだったらって思ったら私……」
 俺から視線を外し、俯きかげんに言う綾子ちゃんに図星をさされたようで、思わずドキリとした。すっかり忘れていたが、この子は妙に勘の鋭い子だった。
「気にしすぎだ。巻き込まれようにも、こっちには何の見当もつかないし、そんなことになることもない」
「そうですよね。ごめんなさい、私ったら……。
 あ、それよりご飯どうしますか? 一応作ってあるんですけど」
 顔をあげ、無理に笑顔を作ろうとする綾子ちゃんはどことなく痛々しく感じるが、そうさせているのが自分であるというのを思うと、複雑な気持ちだ。
「ああ、そうだな。さすがに腹が減ったから貰うよ」
「分かりました。それじゃ温め直しますね」
 作った笑顔を貼付けたまま、綾子ちゃんはドアを開けて部屋を出ていく。それに続いて、俺も明かりを消して部屋を出た。
 パタパタとでも擬音をつけれそうな綾子ちゃんの歩く後ろ姿を眺めながら、俺は全く別のことに頭を巡らせていた。当然それは先ほど出会ったあの連中のことだ。まず何者なのかということが一つ。色々と考えをめぐらせはするが、全く正体が掴めそうにない。
 そして黒田との関係性もだ。口ぶりからすると、連中は黒田のことを知っているというわけではなさそうだった。だとすると、連中の狙いはなんだろう。関係を考えれば、真紀や斑鳩の仲間と見るには無理があるだろうか。あるいは、真紀・斑鳩、黒田とも違う奴らなのかもしれない。
 少なくとも、そうすれば今日のことは上手く説明できる。しかし、身の上に起こったことは説明できても、加藤を殺したことは説明できない。いかんせん、動機がないのだ。もしあるとすればやはり、加藤が今日俺に話すはずだった内容に理由がありそうだ。
 これで明日からまた行動すべきことが決まった。それにしてもおかしな話だ。俺はまだ加藤が死んだことが他殺だと決まってもいないのに、漠然と殺されたと思い込んでいたことに苦笑がもれた。
 まぁいい。本当に事故であったなら、その時はその時できちんと手を合わせればいいだけだ。とにかく、やれることは手当たり次第全てやると決めたのだ。決めた以上は、たとえ気が遠くなりそうなことだってやってやる。
 思えば、警察がやっているはずの聞き込みをあえて俺一人でやり続けるより、こっちの方が、意外な点と点で結ばれているかもしれない。もしそうであれば効率も悪くない。
 それにだ。古来より日本にはこういう諺があるではないか。急がば回れ、と。きっと調べていくうちに、今日の連中の正体だって分かってくるに違いない。
 料理を作っておきながら俺を待って食べていなかったのか、二人分の食器に取り分けていく綾子ちゃんを眺めながら、明日すべき行動を考えていた。




コメント

コメントを書く

「現代アクション」の人気作品

書籍化作品