いつか見た夢

B&B

第62章

 父からの突然の告白から数日。世間では新年度を向かえ、学生らは一つ上の学年に、あるいは上の学園へと上がって、期待と不安に満ちた新生活が始まったところだ。
 俺はといえば、いや、俺達家族も新しい住居に向けて引越しの準備をしていた。
 通常なら、転勤が決まってから物件選びに行くはずなのだろうが、父はもう向こうの社宅に住むことを決めていたらしい。多分、俺たちに言う前から転勤は決まっていて、またそれを承諾していたのだろう。
 引越しの準備は実に淡々としたものだった。そもそも、する必要のない綾子ちゃんの手伝いがあるためでもあるが。
 後日の話し合いで、とりあえずこの家は管理費を父が払うということで、遠い親戚によって一応は管理されることになったという。
 また、大部分の荷物は父が引き取ることにもなった。当然といえば当然だ。O市の社宅は二階建てらしいのだ。
 それと俺は、高校に行くことの継続が決まった。小町ちゃんの口利きのおかげかなのか、それとも始めから準備していたのかは分からないが、そういう流れになったのだ。
 同時に一人暮しするにあたって、学生寮に住むことにもなった。高校からはやや離れた場所に建っている学生寮だが、時期が時期だけに、入れるかどうかというところだった。運よく入寮できそうなので、そのまま学校にも行くというのも自然に決まったわけだ。
 綾子ちゃんは、俺達親子が別々になることに対して悲しげな表情を崩すことはなかったが、俺が学校にも残るということになった時は、安堵のため息をしたのは印象的だった。そんなことされると、さすがに照れてしまうが嬉しくもある。
 そして今日が引越しの二日目だった。もう家からは何もかもなくなって、がらんとしている。こんなにがらんとしたこの家を見たのは覚えている限りでは初めてのことだ。それが不思議で、同時に寂しくもある。
 そして俺たち親子も。おそらく、今日を最後にしばらくの間、俺と父は会うことはなくなるだろう。
「もう忘れ物はないな」
「ああ」
 ようやく荷物のほとんどをラックに詰め込み終わった。
「……だが、なんであれだけあのままにしておきたかったんだ?」
 あれとは、沙弥佳の机のことだ。深い理由はない。誰も住まなくなるとはいえ、この家から沙弥佳の痕跡を全て無くすのは嫌だったのだ。
「せめて一つだけ。ここに何か残しておきたかっただけさ。でもいいんだろ、それでも」
「……そうだな。おまえがそうしたいのなら、それで構わんよ」
 父の言葉に頷いて、最後の荷物が積み込まれるのを見届ける。最後の荷物は母の遺品が入ったダンボールで、父はそれを感慨深げに見つめている。
「これで全部ですか」
 引越しの作業員が俺達に向かって尋ねる。父が彼に向かって頷き、作業員はトラックへと戻っていった。すぐにトラックのエンジンがかかり、二台のトラックがO市に向けて出発した。
「行ったな」
「ああ、そうだな。では私も行くとしようか……。おまえも身体には気をつけるんだぞ」
「ああ。父さんこそな」
 父さんは俺の肩に手をやって、重々しく頷いた。俺も俺で、肩におかれた父の手の上に手を重ねて頷き返した。少しの間だけ見つめ合うと、父さんは肩から手を外して車の方へ行く。
 これが今生の別れというわけでもないのに、自分は選択を間違ったのではないかという気になったのはなぜだろう。
 車に乗り込んでエンジンをかけ、父さんは運転席の窓を開けた。何か言うわけでもないが、その眼が何かを訴えている。それが何なのか……俺には理解するよしもなかった。
「それじゃあな。がんばるんだぞ」
「ああ、父さんこそ体には気をつけて」
「おじ様、あまり無茶はなさらないでくださいね……」
「ありがとう、綾子ちゃん。そのうち、めどがついたら戻ってくる」
 そう言い残し、父は車を走らせた。俺と綾子ちゃんは、車が視界から消えるまで見送り続けていた。
「……いってしまいましたね」
「これでいいんだ、多分な。それにいつかはまた会えるんだ。その時には、父さんも現実を見れるようになるさ」
 綾子ちゃんはなにを考えているのか、じっと消えた車の方を見つめたままだ。俺はそんな彼女を尻目に、空き家となった我が家の方に振り返って、感慨深げに見つめる。
 まさかこの家を、こんな形で離れることになるなんて思いもしなかった。てっきり、大学するなり就職するなりで一人暮らしの必要がある時にここを出る、そう思っていたはずなのに。
「やっぱり、ここを離れるのはいやですか?」
「ん? ああ、まぁな。だけど仕方ないさ、こうなっちまった以上は」
 俺は家の玄関へと移動し、鍵穴に鍵を差し込んだ。鍵を捻ると、ガチャリと錠の開く音がして扉を開けた。
「あ、九鬼さん」
「少しだけ。いいだろ」
 本来なら管理人への明け渡しが決まってからは入ってはいけないのだが、構うことはない。たった今の今までここの住人で、今日の朝だってここで寝て起きたのだ。管理人代理だって一足早く帰った今、咎める者は誰もいない。
「物が無くなると、この家、すごく広く感じるな」
 横についた綾子ちゃんは無言のままだ。いつも思うが、彼女のそんなところは本当に好感が持てる。
 俺達は一階をぐるりと見たあと、二階に上がった。何も無くなった自室。必要な荷物は今頃、トラックに運ばれ学生寮の方に向かっていることだろう。
 家具は全て寮に揃っているらしいので、本当に必要最低限だけしか荷物にはまとめなかった。あとはほとんどが父の行くO市の方に送られた。
 東と南側についている窓にはブラインドが下ろされている。ブラインドの、事あるごとにカチャカチャと鳴る音のせいで、カーテンを後から取り付けたため、ほとんど使うことはなかったが。
 俺は南側の窓だけ、ブラインドをあげた。今日は雲ひとつない晴天のために、窓からは陽が射して部屋を明るくさせる。
「夏の花火大会なんかは、ここからはよく見えたんだ。
 だからいつも沙弥佳と一緒にここから見ていたな。ほら、あいつの部屋からだと、向かいの家が邪魔で見えないだろ」
 あるのは向かいの家と、遠くに高いビルのうっすらと見える影。いつもと代わり映えしない光景だというのに、今の俺にはとても懐かしく思い出深いものに感じる。むしろ、代わり映えしないからこそ、そう感じさせるのかもしれない。
 少しの間ここからその時のことに浸っているうち、ため息をひとつ、再びブラインドを下ろした。
 自室のドアを閉め、隣にある沙弥佳の部屋のほうにいった。今では、今日までの間、沙弥佳の代わりに綾子ちゃんがうちに泊まる際に使っていた部屋だ。
 軽く深呼吸をしてドアノブを回した。俺の部屋とは反対に、南と西側に窓が取り付けてある。
 この部屋に足を踏み入れるのは、本当に久しぶりだった。引越しの際にここは綾子ちゃんが荷造りしていたため、準備の時に開いているドアから中を覗くことはあれど、入りはしなかったのだ。
 部屋の中には、ぽつんと一つだけ沙弥佳の使っていた机だけが置いてあった。なぜこれにだけ、こんなに執着したのかは実のところ、自分でも良く分からなかった。けれど、ここから沙弥佳のものが全てなくなるのはいやだったのだ。
 例にならって南側の窓のブラインドをあげて、中に光を差し込む。これだけで部屋の中に、温度とは違った暖かさを感じるのは気のせいだろうか。
「……九鬼さん、変わりましたよね」
 なんの前触れもなく、綾子ちゃんが口を開いた。俺の触れている机に視線をやりながら。
「なにがだ?」
「さやちゃんがいなくなってから九鬼さん、私の前ではさやちゃんの名前呼んだことなかったのに、最近はそうでもないでしょ? だから、変わったなあと思って」
「そうかもしれないな」
 確かに俺はずっと、綾子ちゃんの前では沙弥佳の名前をいうのは遠慮していた。沙弥佳と綾子ちゃんとの関係は、後味の悪いまま未だ宙ぶらりんなのだから、どうしても、綾子ちゃんの前であいつの名を出すのがためらわれたのだ。
 けれど、父さんがここを離れると言った時、つい俺の感情のリミッターが外れてしまい口にしてしまった。そうなるともはや、いつまでも沙弥佳の名を呼ばないのもおかしいというものだと思うにいたったのだ。
「父さんが転勤すると言った日、あの日までは意図的に沙弥佳の名を口にしたくなかったんだ。
 そこでも言ったが、俺はまだあいつが死んだとは思ってない。自分なりの決意を口にした時、配慮のあまり、自分が君の前で沙弥佳の名を口にするということから、逃げてるんじゃないかと思うようになったんだ。
 だから、逃げるのはやめたくなった……そんな心境の変化はあるよ」
「九鬼さん」
 俺は肩をすくめて言った。そして、いい加減、真紀への返答もすべき頃合いでもあるだろう。
「さて、そろそろ出ようか」
「あ、はい」
 ブラインドを下ろし、沙弥佳の部屋を出た。廊下を、前を歩く綾子ちゃんの後ろ姿を、複雑な気持ちで眺めていた。



 道をいく雑踏の喧騒さの中、俺と綾子ちゃんもぶらぶらと大した目的もなく歩いていた。まあ、こんなことはいつものことではある。
 しかし目的がなくとも、綾子ちゃんと過ごすといった意味では、これも決して無駄な時間とはいえない。むしろ、今の俺には必要なことだと考えている。
 俺達が出向いた先はしばらく訪れていなかった、街の商店街だ。ここに来るのは本当に久しぶりで、少なくとも一年以上は来ていないだろう。この日は週末ということもあってか、人通りもまずまずといったところで、いつかに訪れた時よりは人がいくらか多い気がしなくもない。
 本当ならここらで、普段お世話になっていることの礼に何か一つくらい綾子ちゃんに買おうとするところだが、彼女は遠慮してか首を縦に振ることはなかった。適当に店に入っても、結局はただの冷やかしにしかならなかった。まあ、本人がいらないというなら無理に買う必要もないだろう。たとえ買ったにしても、そんなものはただの押し付けにしかなるまい。
「あ、あそこ」
 ふいに声をあげて綾子ちゃんが指をさした先には、やはりいつぞやに立ち寄ったCDショップだった。
「行ってみるか」
「はい。CD屋さんなんて、しばらく行ってなかったですし」
「俺もだよ。よし、いってみようか」
 二人して頷き合いながらCD屋の中に入っていった。一年以上前に訪れたときとくらべ、店内がいくらかすっきりしていた。それもそのはずで、店内には閉店セールと大々的に貼紙がされていたのだ。
「ここ、無くなっちゃうんだ」
「みたいだな。大した思い入れがあるわけじゃぁないが、なんとも寂しいもんだな」
「そうかな? 私はわりと思い入れがあるかもしれません。だって、九鬼さんが初めて私の意見を聞き入れてくれたでしょ?」
 彼女にしては珍しい、小悪魔的な笑みを浮かべていう。
「言われてみれば……それもそうか」
「そうなんですよ」
「あの時は、君のマシンガントークに驚かされたもんだったな」
 あの時のことを思い出して笑った。思えば、あれで彼女の印象もまた変わったものだった。綾子ちゃんといて、とても楽しいと思った出来事だ。
「わ、私、マシンガントークだなんてしてないです」
 綾子ちゃんは焦ったように否定し、ぱたぱたと胸の前で両手を振った。全く、そんな仕種も可愛く見えるのは俺が彼女に惚れたからだけではないだろう。
「まぁいいさ。とにかく、君の意外な一面を垣間見たのは間違いないしな」
 ニヤリと薄笑いを浮かべみせ、俺達はジャズコーナーに行く。沙弥佳の件があって以来、音楽もまともに聴くことがなくなったが、やはりこうしてみると、再び音楽への熱がチリチリと燃え上がるのを自覚する。
「今日はジャズ談議はなしか?」
「もうっ。そこまでお喋りじゃないですよ。
 それより、今日は九鬼さんのオススメを聞かせてください」
「俺のオススメか。綾子ちゃんはどんなのが好きなんだ? というより、どんなのを聴いてみたい」
「バップみたいな少し激しめか、ボサノバみたいな軽快なのがいい、かな」
「じゃぁ、R&Bやレゲエなんてどうだろう」
「えっと……」
 ジャンルを聞いて綾子ちゃんは、明らかに困惑げな苦笑いを浮かべている。おそらくジャンルから、今流行りのヒップホップ系の音楽を思い浮かべたんだろう。
「安心していい。今の流行りものの音楽じゃぁない。最近のR&Bもレゲエも、あくまでヒップホップありきのものだ。俺がすすめるのは、純粋にそれだけのものだからな」
 ジャズコーナーから移動して、ルーツミュージックと書かれたコーナーにいく。
「ええと……ああ、これだこれ。これなんかは入りやすいかもしれない」
 俺がそういって差し出したのは、オーティス・レディングのCDだった。
「オーティス・レディング?」
「ああ。彼こそ、R&Bの帝王なんだ。元々はソウルシンガーなんだが、今となっては、ソウルの粋を超えてR&Bシンガーとしても有名になったんだ」
「ソウルシンガーだったんですか?」
「ああ。だけど、彼のスタイルはそれこそ、あのローリングストーンズや、後のロックボーカリスト達に多大な影響を与えたほどだ。
 他にも、同世代のR&Bシンガー達にも影響を与えたほどで、ある歌手なんかはオーティスの出現でR&Bに革命が起こったといわしめたほどさ。彼の声量や歌唱力、表現力にいたっては、最近の連中の比じゃないぜ」
 俺は得意げに説明しながら、さらにもう一枚CDを取り出した。ラベルにはボブ・マーリーと書かれている。
「名前くらいなら聞いたことがあるんじゃぁないか? 彼の歌うこの曲は有名だ」
 俺はそう言って、曲のタイトルを指さしてフレーズを口ずさんだ。レゲエ界のスタンダードナンバーであるこの曲を知らないとなると、レゲエは正直すすめにくい。だが、元々同じ黒人音楽を好む俺たちだ。きっと大丈夫だろう。
「ああ、この曲知ってますよ」
「だろう。エリック・クラプトンってやつがカバーして売れて、世界的に有名になったんだ。
 レゲエとスカは切っても切れない関係だし、その辺りの音楽と合わせて聞けば、オーティスも聞けるはずだよ。この二つは根底では同じだし、時に激しく、時に緩やかにって音楽だからな。
 ジャズにもオーケストラはあるだろ? 確かビッグバンドだったよな。あれが直接的にしろ間接的にしろ、スカにも影響を与えてるから、きっと大丈夫だ」
 おまけにセール中とあってか、四割引きときた。二枚でも昔のアルバムだから、あまり高くつかないのも俺としては嬉しいところだ。
「この二枚がオススメだな。もちろん、他にもまだあるが、一応有名どころが入ったそれをすすめておくよ」
「じゃあ、買ってみようかな」
「ああ、是非聴いてみてくれ」
 綾子ちゃんはその二枚のCDを片手にレジへと向かった。俺は歩きながらそのあいだに、すかさず財布から五千円札を取り出しておいた。
「四千五百円から四割り引きまして、二千七百円になりますね」
 店員の弾き出した金額を前に、綾子ちゃんが財布を取り出そうとしていた横から俺は、用意しておいた五千円札をだした。綾子ちゃんはそれを見て、ぱたぱたと胸の前で両手を振った。
「えっ、わ、悪いですよ」
「いいや、いいんだ。普段お世話になってるお礼ってことでな」
「で、でも」
 恐縮している彼女をよそに、俺は半ば強引に店員にそれを受け取らせる。さすがにそこまですると綾子ちゃんとしても、もう何か言うことはなかった。ただ、本当に良いのといいたげな顔をしているだけだった。
 それでも店を出たところで、微笑みながら小さくありがとうございますという彼女に、俺はこの笑顔を見れるなら安いものだと思えるのだった。


 CD屋を出てからも、どこか決まった場所に行くわけでもなかった俺達にとって、時間は緩やかに過ぎていった。
 それにしても綾子ちゃんの口数が少ない。俺も決して多くはないが、それにも増して、綾子ちゃんはやけに口数が少ないのだ。
 さっき買ったばかりCDの話題もほとんどなかったし、それ以外のことにしたってそうだった。何を話してもどこか上の空なのだ。きっと彼女のことだ、俺が考えていることに関して、何か勘づいているのかもしれない。
「なあ、これからどうする」
「九鬼さんに任せます」
「そう、か」
 こんな会話ともとれない会話を、何度も繰り返していた。任せると言われても、こんな調子ではどこに行っても同じな気がしてならない。そんな、どこか本調子でないまま時計の針は、早くも夕方の六時に差し掛かかろうとしていた。
「もう、帰るか?」
「はい」
 やや間があって、綾子ちゃんが肯定する。そもそも今日は出かける予定もなかった。俺が行きたいと、半ば無理に引き連れてきていたようなものなのだ。
 最寄り駅から電車に乗ろうとして、今日から住居が変わったのを思い出した。寮だと当然ながら門限がある。入寮のその日からと門限に遅刻いうのはさすがに気が引けるが、まあいい。綾子ちゃんを家に送らなくてはならないし、門限と綾子ちゃん、天秤にかけるまでもない。

 結局、終始無言のままだった綾子ちゃんを自宅まで送り届けた時には、すでに門限にはギリギリ間に合うかどうかという時間だった。十九時半という、あまりに早い門限など、今時の高校生にとっては守るに値しないほど早過ぎる時間だ。
 それに俺には、綾子ちゃんの様子の方がはるかに気になって仕方ない。今日は朝からずっとこんな感じのままで、何かに憂いているとでもいった雰囲気だ。
 他人事のようにいうが、十中八九、俺や父さんのことなんだろう。やはり、彼女にはこんな形で家族がばらばらになるのは、色々と思うところがあるのかもしれない。
「綾子ちゃん、着いたぞ」
「え? あ、はい」
 鍵を取り出して施錠された門を解除していく。
「あ、あの」
「ん?」
 門を開けて敷地内に入ろうとした彼女が、その動作を途中でやめて口をきいた。綾子ちゃんの方から何か聞いてくるなんて、このところあまりなかったことだった。
「……」
「どうした?」
 言いにくいことなのか、目を泳がせながら、何度か口を開けては閉じるという行為を繰り返している。
「九鬼さんは……大丈夫ですよね?」
「何がだ?」
「九鬼さんは私の前からいなくなったりしませんよね……?」
 綾子ちゃんは俺の顔を見据えながら瞳を向けた。潤んだ瞳が切実に何かを訴えてきている。
「なんだか、今日の九鬼さん、すごく変です」
「俺が変だって?」
 声が裏返りそうになるのを堪え、聞き返した。綾子ちゃんは小さく頷きながら続ける。
「何か……何か無理してるみたいに見えるから」
「別に無理はしてないさ」
「うそ。ずっと私のこと見ながら、何か無理に楽しそうにしようとしてました。
 言いたいことがあるのに、何かをずっと隠してるみたいに……」
 綾子ちゃんは門にかけていた手を放し、俺の左手を掴む。
「綾子ちゃん……」
 切なげな両の瞳が俺を映す。彼女のこんな表情を見て、さすがにいたたまれない気持ちになる。同時に、こんなにまで俺のことで憂いてくれていることに、どうしようもなく嬉しくなった。だが、だからこそ俺は君と……。
「……大丈夫だ。何かあれば、きっと、また元通りになる時がくるさ。そう、きっとね」
 掴んできた手に右手を重ね、慰めにすらならない言葉をかけた。全く、どうしようもない陳腐な台詞だ。こんな言葉しかかけてやれない自分を呪いたくなる。
「それじゃぁ、また明日、な」
 名残惜し気に彼女の手を離して、別れの言葉をいった。
 背を向けて歩きだす。歩きだして数歩のところで、突然、背中に軽い衝撃があった。綾子ちゃんが抱き着いてきたのだ。
「待って」
「お、おい、綾子ちゃん」
 突然のことに驚きつつも、頭のどこかでは冷静だった。あるいは、彼女に引き止めてもらいたかったのかもしれない。
「お願い、行かないで」
 心なしか、声が震えている気がする。
 前にも同じシチュエーションがあったな、などと考えながら俺はほんの少しの間だけそのままでいた。
「九鬼さん……お願い、行かないで。ずっと、ずっと……」
 綾子ちゃん……泣いてるのか、君は。そして、また泣かしてしまったのか、俺は。
 西の空に太陽が完全に沈んでしまっていて、辺りには茜色に薄い黒が混じり始めていた。
 背を向けていた俺は、振り返って抱き着いている綾子ちゃんを見据える。震えている声で予想をした通り、彼女は瞳に涙をためていた。
 その泣き顔を見た時、その瞳を見た時、どうしようもなく彼女を抱きしめてしまいたくなった。
 いや、もはや言葉など必要なかった。気付けば俺は、彼女を抱きしめていたのだ。
「九鬼さん」
「……綾子ちゃん」
 互いの体を密着させると、今まであまり気にしなかった匂いがした。いつかにも嗅いだ記憶のある匂いだ。綾子ちゃんの匂いではなく、明らかにこれが香水の香りであることは分かるが、いつだったか……。
 ぼんやりと考えているうちに、綾子ちゃんは、俺の腕の中から少しだけ離れるようにして顔を上げた。潤んでいる瞳が誘っている。
 いいんだな……。彼女に眼で問いかける。わずかにだが、微笑んだ気がした。
 それを合図に、彼女の唇にそっと口づけた。
 柔らかい唇の感触。強引に唇を割り開き、下唇を含んだ。
 含んだ下唇をぺろりと舐める。舐めた瞬間、彼女がぴくりと身を震わせ小さく鼻を鳴らした。
「ん……」
 そんな反応がいちいち嬉しい。
 どれほどの間そのままだったか分からない。俺は始めのときと同じようにそっと唇を離した。
「ぁ……」
 小さく、綾子ちゃんは名残惜しいのか呻いた。口を離したあと、みずみずしい唇がぷるんと弾力をもって目の前から離れていく。
 互いに言葉はない。なくていい。代わりに視線を交わす。
 キスの直後の高ぶりからか、綾子ちゃんの瞳はどこか恍惚さを帯びている。きっと俺も似たようなものだろう。
「……九鬼さん」
 ささやく綾子ちゃんの甘い声が、彼女のつけた香水の匂いがどこでかいだものなのか、記憶の彼方から引き出された。
「この匂いは……」
「気付いたんですか。……この香水、さやちゃんの使っていたものです。ずっと前から、たまにだけどつけてたんですけど……気付きませんでしたか?」
「覚えのある香りとは思っていたんだが、どこでかいだものなのかは思い出せなかったんだ。
 そうか、沙弥佳の……」
 納得して頷くと、彼女が目を細めて俺から逸らした。まるでいたずらをして、問い詰められる子供のようだ。
「ごめんなさい。使うべきじゃないと思ってたのに」
 おれは首を振った。むしろ、どことなく嬉しい気持ちになっていた。あいつの遺した、確かな遺産の一つなのだ。
「いい。君が使ってくれ」
「……なんとも思わないんですか?」
 あげていた顔を俯かせ、小さく言った。声には悲しげな響きが含まれている。
「私、この香水を使う時、いつも嫌な自分を見てしまってます」
 懺悔とでもいうのか、綾子ちゃんは、寂しげな声でとつとつと語り始めた。
「初めてこの香りを使ったのは、さやちゃんがいなくなってしまって半年以上経った日……覚えてますか? 文化祭の始まる少し前の日……」
 確かに、そんな記憶があった。ある朝、目を覚ましたときにこの匂いをかいだ記憶がある。いや、むしろ、この匂いに目が覚めたといった方がいいかもしれない。
「そうか。あの朝にかいだ匂いは……」
 頷きながらいうと、綾子ちゃんは悲しげな笑顔を浮かべて、俺の顔を見据えた。
「そうです。あの日、九鬼さんは私のこと、さやちゃんと間違えたのか”さやか”って言ったんですよ。
 さやちゃんがいなくなって以来、九鬼さんがさやちゃんの名前言ったの、あの時だけでしたからね、すごく印象ありました」
「あれは……」
 俺が言いかけて、綾子ちゃんは首を振った。
「分かってます。さやちゃんと同じものをつけたんですから、誤解されたって当然だと思います。
 ううん。むしろ、そうさせたかったんです。さやちゃんの遺したものを使ってでも、九鬼さんを振り向かせたいって」
「綾子ちゃん、俺は……」
「いいの。……九鬼さんが本当に大切にしたかったのは、多分私じゃないんですよ、さやちゃんだったの。
 この一年間、九鬼さんを見ていたら、それがよく分かったんです。九鬼さんの行動には全て、さやちゃんのためだってことが分かってしまったから」
 再び、かける言葉を失った。俺の行動が全て沙弥佳のためだって?
 違う。そんなことはない。俺は君のことが確かに好きで、君のことを考えている。そう言えばいいはずなのに、心の底では、指摘されて妙に納得している自分がいたのだ。
「おかしいですよね。普通なら、自分を一番に見てくれない人のこと、好きでなんか居続けられないのに。……だけど、それでもいいから、二番目でもいいから私のことも見て、って思ってる私、おかしいですよね。
 でもそれは、やっぱり仕方ないかとも思ってる。九鬼さんにとって、一番大切な人があんな目にあったら、当然そうなっちゃいますよね。
 ……そこまで想われてるさやちゃんに、完全に負けちゃってるんだなって思ったりもしますよ」
 綾子ちゃんの自嘲気味な笑顔に、胸が痛む。なんで今それを口にするんだ……。
 一、二分前の出来事を思い浮かべると、とてもではないが正気ではいられない。綾子ちゃんがこんなことを考えていたというのに、俺はあろうことか彼女の唇を奪ってしまったのだ。おそらく初めてであろう、その唇を。
「……そんな顔しないでください。そんな顔されたら、私の初めてのキスがすごく後味の良くないものだったって思っちゃうから」
「あ……す、すまない」
 仕方ないですねとでも言いたげな苦笑い。俺は思わず謝っていた。そいつがまた彼女に笑いを与えてしまう。
「いいですよ、許してあげます。
 それに……今はまだ一番じゃなくたって、将来はわかりませんよね? 言っておきますけど私、一度思い込んだらとことんってタイプですから」
 最後になって綾子ちゃんはようやく、いつかにも見せた、あの最高の笑顔をして見せた。



 夜――もう深夜といっても差し支えない、一時に時計の針はさしかかろうとしていた。
 あたりには、海から潮の匂いが風にのって漂っている。ここが海に近いのだから当然のことだ。
 俺は一人そんな人気ひとけのない、海辺に程近い倉庫街にきていた。
 遠くには県をまたいだ先、おそらくK県のK市あたりだろうか。あるいは隣のY市だろうか。同じくして倉庫街の向こうにある、ビルを示す赤い光りがうっすらと見える。海辺ということと、時期的に黄砂による影響なのか、光りは瞬いて見えなくもない。
 時刻はほぼ予定通りだ。予定通りならば、この先にある人物が待っているはずだ。古びた倉庫の出入口の上に書かれている番号を頼りに、ゆっくりと歩を進めていく。
 5という数字で書かれた倉庫を右に折れる。その先にいるはずだ、やつが。
「本当に来たのね」
 倉庫の間にある通路を抜けたところで、女の声がかけられた。どこか人を小ばかにしたような声。言うまでもなく、女は藤原真紀だった。
 一度は向かおうとした寮だが、結局、寮に向かうことはなかった。綾子ちゃんと別れたあとで真紀の携帯に連絡したところ、今夜の日付が変わって深夜一時に、この港の五番倉庫の先へくるよう言われたのだ。
「志願したんだ、来るさ」
 俺は肩をすくめながら言う。海から吹く強い風のために、普段よりも大きめの声だ。
 いつも会う時は制服姿の真紀だが、今日は黒っぽいスーツを着込んでいる。つい何日か前に出会った、香織と似たような恰好だ。制服で見慣れている俺には、どこか子供が背伸びしているように見えなくもない。けれど、同世代としてはなかなかの着こなしだ。
「第一、俺を勧誘したのはあんただぜ」
「そうね。あなたがそういうのなら、私はもう何もいうことはないわ。だけど、こうなった以上は、何があっても自分の責任よ。たとえ死ぬことになったとしてもね」
 真紀の言葉に重々しく頷いた。少なくとも過去数回、その片鱗には触れたことのある俺なのだ。真紀の言っていることは百も承知の上だ。
 二人の間を、まだ冷たい海からの風が凪いでいく。
「だったら、あれに乗りなさい」
 そう言って指で指し示したのは、一つの貨物船だった。巨大なタンカーといってもいい。よく見る、車や大量の物資を海を越えた向こうに運ぶためのものだ。
「分かった」
 真紀が先導しながらタンカーに向かい始め、俺もそれについていく。
(……寮にも戻らずじまいだったんだ。朝になれば、周辺では大騒ぎになるだろうな)
 しかし、それでもクラスメイトたちはとっくに卒業しているし、顔など見たこともない後輩たちと一緒に過ごすことがなかったのが幸いだ。
 やはりというか、自分で決めたことであっても、どうしても後ろ髪ひかれる思いはある。なにより、綾子ちゃんに何一つ言わずに出てきたのだ。それも当然といえるかもしれない。
 徐々に迫りくる巨大なタンカーを眺めながら、つい何時間か前の出来事を思い出していた。綾子ちゃんの家の前で交わした言葉の数々。それらのひとつひとつが、ありありと浮かんでくる。

「綾子ちゃん……」
「九鬼さん、いつか言ってましたよね。何かする時、理由がどうあれ自分にも責任があるんだって。
 あの言葉、今ならすごく分かる気がするんです。これって人を好きになることも同じなんですね。
 九鬼さんの気持ちがどうであっても、その人を好きになってしまえば、付き合うことになれば、自分にもその責任がついてくるんだって」
 なんとなく覚えがある。綾子ちゃんが北条とかいう野郎に、ストーキングされていた時に言った言葉だ。
「私の初めてのキスをあげたのも同じなんですよ。好きになれば、ただ自分を見て欲しいって気持ちだけじゃ駄目……だから人を好きになるなら、自分もリスクを生わなきゃいけないって。だから、だから」
 だんだんと、彼女の言葉は弱々しくなっていった。言いたいことはよく分かる。つまり綾子ちゃんは、自分が一番に想われていないのなら、いつまでもそのままでいてはいけないと言いたいのだ。
 だから、こんな俺であっても、繋ぎとめようと彼女なりの精一杯の選択をしたのだろう。それが今、その時だったということか。
 だというのに俺は……。
「でも不思議……。たとえ一番でなくても、ずっと一緒であればいずれは一番になってるんじゃないかって思ったりするんですよね。……自惚れかもしれないけど」
 頬を赤く染めながらいう彼女に、いたたまれなくなって仕方ない。綾子ちゃんなりに覚悟というものを決めたのだろうが、俺は俺で、すでに一つの選択をしているのだ。そのために、どうしようもなく胸が締め付けられるような思いだった。
「だから九鬼さん、お願いだから行かないで……」
 はたと気付いた。そうか、行かないでというのは、そういう意味だったのか……。鋭いのこと君だ。俺の選んだ道を知らなくとも、漠然と何かを感じ取ったにちがいない。行かないでとは、その気持ちの表れだったということなんだな……。
「ああ、俺は君のことが大切だ……大切なんだ。だから」
 だからこそ、君の前から消えるかもしれない俺を許してくれ。いや、許してくれなんて言わない。責めたっていい。恨んだっていい。俺が進む道に君がいれば、君が危険に晒される。いずれ、どこかで、いずれはだ。
 もう大切な人を失いたくないんだ、俺は。だから今は辛くても、せめて君が、いつかは幸せになれるかもしれない選択をするつもりだ。きっとその頃には、俺のことなんて忘れていることだろう。そう、それでいい。それでいいんだ。
「だから……?」
 綾子ちゃんは言葉に詰まった、俺の言葉の続きを待っている。
「い、いや。つまりは、君にありがとうってことが言いたいんだ。こんな俺を好きになってくれてな」
 取り繕うように俺はありがとうと言った。だが、精一杯の心からの感謝の気持ちをこめたつもりだ。多分、もう君に何かをしてやれそうにないだろうから。
 互いに黙り込んだまま見つめ合っていると、横を車が猛スピードで走り去っていった。さすがに恥ずかしくなってか、どちらからとは言わずに互いに離れた。腕と胸には、まだ綾子ちゃんの暖かさが残っている。
「そ、それじゃぁ今度こそ行くよ」
「あ……はい。あ、あの九鬼さん」
 潮時かと立ち去ろうとした時、再度呼び止められた。俺を見つめる綾子ちゃんの顔は、明らかに行かないでほしいと書かれているのが見て取れるほど、切なげなものだった。
「ま、また明日会えますよね……?」
 そう問いかける声は小さいはずなのに、声の大きさとは比べものにならないほど、強く感情がこもって聞こえた。感情だけではないだろう。暗に、行かないでと懇願しているのだ。
「ああ、もちろんだ。また、明日会おう」
 彼女に応えるために、精一杯の笑顔で言ったつもりだ。作り笑いの苦手な俺に、うまく笑えていたか分からないが。
 そんな俺を見て綾子ちゃんは、まだ何かを言いたげな様子だったが、俺はこれ以上はこちらが無理だと判断し背を向けて歩きだした。
「……本当にありがとう」
 きっと、まだ背中を見つめているだろう綾子ちゃんに、俺は小さくつぶやいた。

「そこ、気をつけて」
 突然後ろを振り返って真紀がそう言った。
 人差し指がタンカーから降ろされているタラップを指している。タラップはわずか数センチだが、地面との間に隙間ができているためだった。夕方のことを回想しているうちに、タンカーの手前にまで来ていたのだ。
 俺は顔を横にし、横目で後ろに広がる倉庫街を一瞥した。もし本当にやめたいなら、ここが最後のチャンスだろう。今すぐにでも背を向けて走り去ればいい。そして、何食わぬ顔で寮に戻るのだ。それだけで、また明日から綾子ちゃんとも顔を合わすことができる。
 もしそうなった場合、真紀からは白い目で見られることになるだろうが、そんなの知ったことではない。
 しかし俺は、目を強くつぶって足を前に踏み出した。顔をあげたところで、そんな俺をタラップにあがっていた真紀が、無言で見つめていた。そして、小さくつぶやいた。
「大丈夫よ、あなたなら。きっと、あなたならね」
 肩までのショートカットの髪が、風に揺れている。俺を見つめる冷たい真紀の眼は、何を思い見つめているのだろう。そして一瞬だが冷たい瞳に、どこか熱いものがやどったように思えたのは気のせいだろうか。
 風の凪ぐ音しかしなかった港に、船の汽笛の鳴らす音が轟いた。
 汽笛の音は、まるで地獄の番人が新しい地獄の住人になる俺に、ファンファーレでも吹いて祝うかのようだった。




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