いつか見た夢

B&B

第75章


 ガラガラと音を立てながら車が止まった。エンストしそうになった直後に、運転手の男がクラッチを踏んで車の動きを止めたのだ。
 自分の運転もお世辞に上手いとは言い難いが、この運転手ほどではない。そもそも、こんな下手くそな奴を運転手に添えなくてはならないほど、人手不足だというんだろうか。
 まぁ、いい。見た目、二十歳にもなっていなさそうな、まだ少年といった雰囲気をもった運転手だ。技術もへったくれもないかもしれない。日本の若者みたいに、きちんと自動車学校に行ったというわけでもなさそうなのだ、自前の感覚だけでマニュアル車をなんとか動かしているんだろう。
「そろそろだ」
 助手席に座る男が短くそう告げる。つい二十分かそこら前には、時速二百キロを上回るだろうスピードで車を走らせていたせいか、進む速さにたいしてとても遅く感じる。
「ここは……」
 男の視線を追ってみるとそこは、なんとも古ぼけた監視小屋だった。今では海を埋め立てて巨大になった港も、百年、あるいは二百年以上前にはまだまだ発展途上にあったわけだから、この監視小屋もその頃に建てられたものであれば、古ぼけるのは当然といえるが。
 いや、もうとうの昔に放棄されている小屋のようなので、元監視小屋といったほうが正確だろう。そんな小屋が連中の基地の秘密の入口だというわけだ。
 そして案の定、その監視小屋の前で車が止まり外に出るよういわれた。土台の石は黄ばみ、小屋そのものの外壁は建てられた当時のままの、日本なら地震がくれば一発で倒壊してしまいそうなコンクリートになっている。
 この小屋こそが、デニスが手を結んでいる左翼レジスタンスの基地の入口になるらしい。この辺りは今でこそ軍用地ではなくなったが、百何十年も前は軍が管理していた土地だ。
 その名残を受けて左翼のレジスタンスは基地にしようと目をつけたというわけだが、基地にしたのが左翼だというのが意外だ。むしろ、左翼ではなく右翼のほうが保守的な地理を利用して拠を構えそうなものなのに、実に意外だ。あるいは、そうした心理の逆手をとってからこそなのかもしれない。
 車を降りた俺は、助手席に座っていた男が小屋の鍵をあけ中に入る。顎を使い入ってこいとジェスチャーするので、それに従い小屋に入った。
 小屋の中は埃っぽい、こもった臭いがしていて、思わず手で鼻と口を覆ってしまいたくなるが男はそんなこと気にしていないところを見て、ぐっと我慢した。気にするほうがおかしいのかも知れないが、なんとなく負けた気になるからか我慢したのだ。
 小屋の中には奥に小さな部屋があるようで、壁は昔ながらの石組みになっていた。そちらに向かって男は歩きだす。ここがきっちりと監視小屋として機能していた頃は、もう一人、当直か何かのために使われていたと窺わせるように、もう使えそうにないベッドの骨組みだけがあった。
「そこで止まれ」
 部屋に入ろうとしたところで、男に止められる。男はベッドの脇にある壁の石を何個か叩くと、一つだけ音が違った。もちろん、そこまでくると俺にもわかる。この部屋の床なり壁なりが隠し扉になっているのだ。
 音の違った石組みの石を、男はぐっと力を入れて中に押し込んだ。すると、ゴロゴロといった音をたてながらベッドはそのままに、床が等間隔に区切られながら下に落ち始めた。部屋の床そのものが階段になっているのだ。
 しかも床が落ちきったあとをよくみると、その先が螺旋階段になっている。それもここから見る限りだと、かなりの急勾配だ。
「こっちだ」
 顎を使っていう男に頷いて、彼の後に続いた。長めに感じた螺旋階段を下りきったところで、上のほうから再びゴロゴロと音が響いてきた。男はそれを特に気にすることもなく、下りきったところにある薄暗い通路を進み始めた。何もスイッチらしいスイッチを押さなかったので、ある一定時間経つと自動的に元に戻る仕組みなのかもしれない。螺旋階段にも、何か監視カメラのような類いのものがなかったことからも、多分そうだ。
 薄暗い通路をまっすぐ進むと、その先にすぐ扉があるのがわかった。扉の上部に古ぼけた照明が一つ垂れさがっていて、扉を照らしている。取り付けられた当時は新品らしく銀色に鈍く光っていたかもしれない扉は、今となっては錆びついて焦げ茶色をしていた。
 男はその扉をノックで合図した。三回叩き一拍、また二回叩いて一拍、最後に二回強く叩くと扉がギシギシと音を立てて開かれる。この扉も、上の隠し階段と同様に機械仕掛けらしい。
 扉に入るといつもの癖で、素早く周りを確認した。真っ暗でよくわからないが、天井らしい部分に一点の赤い光が見える。おそらく、監視カメラといったところだろう。
 となると、ノックの音を響かせて扉を開けるような監視式のものだとわかるが、同時にこの施設があまり広いものでないと予想できる。ノックが合図なんであれば、その音を聞き取れる範囲に監視員ないるはずで、彼らがその音を頼りに扉をスイッチを押して開けるといったものなのだ。当然そうなると、決して施設そのものも極端に大きいものでない可能性くらいは、すぐに予想できるのだ。
 男は一言も発することなく、その光点のほうへ向かってもくもくと歩みを進める。
「ここからはおまえだけだ」
 光点を横切ったところで、男が告げた。先ほどの扉と同様に、ギシギシと音を鳴り響かせて目の前に突然、四角い出入口が現れる。この暗い空間と違い、少しだけ灯りがあるようだ。
「入ったら橋を渡って右にまっすぐ行け。三つ目のドアに入れ」
 それだけ告げると男は、また来た道を一人、ほとんど音を立てることなく戻っていき、いくらかしたところで闇の中に姿を消した。
 男を一瞥して俺は、彼のいう通りに通路に出るとそこは、どうも水路のようで水の流れる水音が聞こえる。
 ここは通路とはいうがもっというと水路の脇に作られた、幅わずかに五十センチほどの窪みといった感じだ。水路自体の幅は七、八メートルといったところで、下を覗いて水の流れを見ると深さはざっと見ても十メートルはありそうだ。
 もっとも、暗くて流れ落ちていく水量からそう判断したにすぎない。一つ確実なのは、もし落ちたらもう這いあがってこれそうにはないというのは間違いない。
 これはまた当たり前のように錆びついた橋を渡ると、俺は足元に気をつけながら男にいわれた通りに、右に水路に沿って歩きだした。
 ここがもし、ちゃんとした灯りがついていれば問題ないのかもしれない。けれどあるのは目印程度にしかならない弱光を放つだけで、本来の意味を失った古い裸電球が十メートルほどの間隔で設置されてあるだけだ。この水路全体を照らしているわけではなかいため、もし足を踏み外し水路に落ちようものなら、大変なことになる。
 おまけにこの弱光では、ほんの二メートルかそこら先までしか照らさないため、男にいわれた扉など見分けられるのかと危惧したところ、手をつけていた壁に金属の扉らしい感触があった。どうやら、これが一つ目の扉のようだ。
 この調子で五分か、あるいは十分なのかはわからないが進んだところで、ようやく三つ目の扉の前までくることができた。とりあえず、ここからはどうすればいいのか聞かされてないので、適当に先ほどの男がやったのと同じやり方でノックでもしようと手をやった。
 直後に、その扉がギシギシと音をあげながら開きだした。一見なんの変哲もない鉄製の扉かと思いきや、どうも違っていたらしい。
「これは……」
 扉が開いた先は、思ってもみない光景だった。てっきり誰かと会わせるためだと思っていたのに、目の前の光景はそれを裏切るものだったのだ。
 まず視界に飛び込んできたのは、下から上へ向かって湾曲している巨大な黒っぽい壁だ。その壁の前には三本のタラップがかかっていて、そのタラップを渡って壁の中へ何人かの作業員と思われる人物たちが、それぞれのタラップから出たり入ったりを繰り返していた。
 その壁の前にはいくつもの資材が置かれてあり、木の箱のもの、どこからか運ばれたらしい鉄筋の束、あるいは四方三メートルにはなる鉄板が何枚もあった。もちろん何が入っているかは知りようもないが、ダンボール箱が何十といわずに置かれていて、つい今しがた見た作業員らは、そのダンボールを運んでいたように見えた。
 この壁の向こうにまだ何かあるんだろう。これほどの資材が置かれているのを考えれば、きっと何か建造物があると考えるのが妥当だろうが。しかし何を造っているのかは知らないが、地下にこんな巨大と思われる建造物を建てようだなんて、酔狂な話ではある。
 いや、そうでもないか。地下建造物なんてものは、いつの時代も酔狂だと思われていたのだから、別に今のこの時代だからといってなんの不思議もない。
 今でこそ、大都市に行けば当たり前にある地下鉄や地下街も、元をたどれば十八世紀末頃に計画されロンドンが発端となった、地下都心計画の計画、着手されるまでは、何を馬鹿げたことを、といわれていたのだ。それに比べれば海辺の地下で何か造っていたとしても、おかしな話ではないかもしれない。
 まぁ、結局ロンドンは、地下鉄を作りはしたけれど、地下都市までは作らず終いだった。地下鉄の建設で莫大な費用がかかってしまったというのと、ロンドン市民のあちこちから地下鉄を延ばしてほしいという、要望があまりに多かったからだという話だ。
 これが、単なる要望であればよかったかもしれない。これは非公開なことではあるが実のところ、地下鉄開通の成功で市民の中には、なかば脅迫する形で地下鉄延長工事をさせたこともあると、当時の建設作業員の残した日誌が見つかってもいるらしい。ようするにこれは日本でいうところの、無駄な道路建設の感覚に近いかもしれない。
 そんなことに思いを馳せていたとき、背後に人の気配を感じた俺は、仕舞いこんだナイフを素早く手にとって振り向く。
「おっと。危ないぜ」
 そこにはどこか愛嬌を感じさせる二十代後半と思われる男が立っていて、俺に切りつけられそうになったにも関わらず、男はあまり驚く様子もなく飄々とした態度でそういった。当然ながら、殺気を感じなかった俺も、本気で切りつけようとしたわけではなく、寸止めに留めておいた。
「あんたは」
「デニスの使いといえばわかるかな。彼から今晩、一人の日本人が訪れるはずだから案内しろと言いつかってきたのさ」
「デニスの……」
 男のデニスという単語を反芻させ俺は頷いた。
「こっちだ。ついてきな」
「ああ」
 全く、たいした男だ。いくら殺す気がなく寸止めだったとはいえ、ナイフを切りつけられそうになりながらも、動揺する仕草も見せないなんて。デニスから言づかってきたことから考えても、ただ者ではないのは間違いない。デニスの側近、あるいはそれに限りなく近い人物と見ていいだろう。
 俺は巨大な壁を流し見ながら、男の後をついていった。俺の英国脱出計画には、ここに来ることが必須だからだ。
 流れが前後することになるが俺がイギリスを脱出するのには、理由わけがあった。それも急遽、脱出せざるをえなくなるような理由だ。もちろん、遅かれ早かれそいつは覚悟してはいたものの、まさかまだなんの準備もないうちに脱出しなくてはならなくなるなど、思いもしなかったのだ。
 ことの起こりは、俺がデニスの隠れ家を訪れたときのことだった。妙に俺を気に入ってくれているデニスだが、彼が挨拶もそこそこにこう切り出してきたことによる。
「久しぶりだな、デニス」
「ああ、実に久しぶりだ。最後にあったのは、おまえさんがこの国にやってきたときだったかな」
「最後もなにも、直接会ったのはあれが初めてだった」
 薄暗い地下だというのに、不自然なほど大きなサングラスをかけた浅黒い膚をした男……イギリスの警察、すなわちスコットランドヤードではその存在の大きさと行動がゆえにテロリストとして登録され、裏世界ではその行動と誰隔てることなく接し人望を集めることで有名になったのが、このデニスだ。
「くく……ジョークだよ、ジョーク。もちろん覚えているよ。私を訪ねる東洋人など、ミス・フジワラくらいなものだからね、君はその二人目ということになる。
 さて、それはさておき、そんな君がこうして私を訪ねてきたということは、何か特別なことがあるようだね。例えば、マフィアに狙われている、といった具合な」
「マフィア?」
 思いもかけない単語がデニスの口から飛び出し、俺はついオウム返しのようにつぶやいていた。けれどもこの様子ではデニスは、ある程度、俺の取り巻く状況を知っているようだ。でなければ、いきなりマフィアなんて言葉をいうはずがない。
「アンソニー・ベケットが死に、マフィア同士の拮抗が破られたことで水面下で連中が動きだしている。ある者たちはファミリーの仇討ち、ある者たちはあら疑いをかけられての防衛のため、またある者たちは予期せぬ事態で混乱を避けるため……理由は三者三様だが、とにかく動きだしている」
 ニヤリとするデニスの口から、薄暗い中でもよくわかる白い歯がのぞいた。その薄笑いと言い回しからは、明らかに俺が関係していることを窺わせる。
 普段であれば、もったいづけずにさっさと教えろというところではあるが、デニスの言葉とたたずまいからはそんなことを言わせない、雰囲気を感じさせるのだ。
「あんたが唐突にそんなことを俺にいうってことは、俺がそれに無関係じゃぁないってことか」
「その通りだよ。残念ながらベケットのファミリーからは、君は狙われている」
「……あんた、俺を連中に売ったな」
 俺は目を細めてデニスを見据えた。彼はそんな俺など気にする様子もなき、薄笑いを浮かべたままだ。
「悪く思わないでくれたまえ。これも君のためを思ってのことなんだよ」
「俺のためだって? 人を売るような行為をしておいて、そんなの信用できるわけがない」
「まぁ、少し落ち着きたまえよ。私とて命を狙われている人間だ、それも仕方ないんだ。それにあくまで連中には、君らしい人間が関与したかもしれない可能性を仄めかしたにすぎないよ。連中が君だというのを嗅ぎ付けるのは時間の問題だろうが、まだいくらか時間がある」
 デニスは何がいいたいのだろう。人を売っておきながら、まるで自分は味方だといわんばかりの言い草だ。
「なぁ、結局あんたは何がいいたいんだ?」
「簡単な話だよ、クキ。そろそろイギリスを出ないか」
 軽いジョークでも飛ばしたみたいな、何気なく言い放った。思わず唖然とし、俺はどう受け答えするべきなのかわからず、言葉を失ってしまった。
「こうなってきた以上、君がこの国に滞在し続ける意味も必要もないんじゃないか。どうだね、ここらで日本に帰るというのも一つの手だと、私は思うがね」
「おいおい、ちょっと待ちなよ。なんだって突然そんな話になるんだ。たしかに日本は俺の国だが、それとこれとは話が違うぜ。第一、今すぐに帰ろうったって、こっちにも最低限の準備ってものがある。そんな思いつきでいわれたことを、はいそうですかと受け入れられるはずがない」
 デニスの言葉を遮るように、早口にまくし立てる。
「出国準備か。たしかに今の君のパスポートでは、追っ手を差し向けられることは間違いないだろうね」
「だろう。おまけに、金だって今から準備しなくちゃぁならない。そんな簡単にはできないぜ、いくらなんでも」
「クク、君は変なところで心配性だな。君は私を誰だと思ってるんだい? その程度など、私の手にかかればなんの造作もないことだ」
 ニヤリとした唇が、さらに深く横に伸びる。改めて見ると、デニスはアヒル顔をしている。それに、決してファッションでかけているわけではないサングラスはどこか中途半端さを感じさせ、どこかのルンペンかなにかを思わせる風貌といったほうがしっくりくるかもしれない。
「たしかに、そうかもしれんが……だがな、俺にだって予定ってもんがあるんだ」
「だからいったろ? まだいくらか時間があるとね。その間にやることを済ませてしまえばいいんだよ。君のことだ、もうボネットのところまで考えついてるんじゃないのかな?」
 やれやれ。ぐうの音もでないとは、まさしくこんなことをいうのだろう。全くデニスのいう通りだった。
「気にしなくていい。私としても、ボネットのことは前々からどうにかしなければと思っていたんだ。君が始末をつけるというなら必要なものは全て用意するよ、全てね」
 そういうデニスの顔から、これまでの薄笑いを浮かべていた表情が消えた。
「あんた、一体なにを企んでるんだ? あんたは以前、たしかに俺によくしてくれたが俺はなんであんなによくしてくれたのか、ずっと疑問だった。この世界に身を置いてると、なにかしてくれるというのはすなわち、打算であるってのが鉄則だろう? それこそがこの世界を生き抜いていくことができるルールみたいなもんだ。俺の人生哲学には、タダほど怖いものはない、タダを疑えと思ってるんだ。
 だってのにあんたは、ほとんど無償といってもいい、なんのメリットもない俺の密入国を手伝ってくれたよな。まだ今よりも若かった俺はなんの疑いもなくそれに乗っちまったが、今にして思えば、あんたは俺を何かの駒にしようとしたかったのか」
 早口になりながら、なかばわめき立てるようにそう言い放つ。
「……いって信じてもらえるかはわからないがね、私は純粋に君や、あるいは他の者を助けているつもりだ。なんせ、こんな成りであっても一応は神父なんでね」
「神父? あんたがか」
「ああ。まぁ、とはいっても昔の話だがね」
 デニスは、やや自嘲気味に肩をいからせながら笑った。なにがあったかは聞かないが、きっと神父として危なげなことに首を突っ込んだ結果巻き込まれ、揚げ句には、神父としての性格ゆえに他者を救おうとしたのかもしれない。
 俺なら余計なことはするなとは思う反面、助ける助けないもまた、助ける側の自由とも思えるので、成るようにしか成らないと考えるところだ。しかし、デニスはそうやって生きてきたからこそ、今のような立場になっていったんだろう。
 だが、こんなお涙ちょうだいな話を鵜呑みするほど俺はおめでたくはない。デニスが悪どい奴だとまでは言わないが、かといって全てを信用することはできない。神父だったにしろ、なんだったにしろ、デニスという男がイギリスの地下社会において重鎮であることと、同時にスコットランドヤードが危険視するような人間であることには変わりはない。それまでに至る経緯がどのようなものであったにしろだ。
 ましてや、頭をひねらせるようなゲームを好むような奴であれば、なおさらだ。どのみち、どういう理由だったのかわからなくとも俺の望む、あるいは知りえたいことは聞けそうにない。
「……まぁ、いいさ。この際あんたがどんな理由で俺を助ける気になったかは、もう聞かないでおこう。
 それより、今あんたはなんでも用意するといったな。だとするなら、逃走経路の確保と国外脱出のための飛行機をなんとかしてほしい。それと、ボネットの野郎の居場所もだ」
 そういうとデニスは、一度力強く頷いていった。
「ああ、任せてくれ。必要なものは今日中に用意させよう。
 それとボネットの居場所は正確な場所は残念ながらまだわかってない。やつも狡猾で、ちょくちょく住居を変えているようだからね。
 だが、そんな奴もこの二ヶ月ほどのあいだのことなんだがね、秘密裏にある場所に週に一度必ず向かう場所があるんだ。そこに行きたまえ。そこは鉄鉱の精錬と加工を生業とした工場らしい。
 最近わかったことだが、そこの社長は自分の力一つで会社を大きくしていたと思われたんだけども、どうも違ったらしい」
「ボネットの野郎が裏で糸引いてたってことか」
「そういうことになるね。ま、そんな話は別に珍しい話でもないからいい。問題はそこがマフィアの資金源の一つにになっている、というところだ。いや、作業員自体がマフィアなんだよ。
 同時に、この連中が今回の騒動の直接の原因なのさ。これも珍しい話でもないが組織というのは、ある一定のラインを越えてしまうと必ず資金のやり繰りに頭を悩ませる。特に裏世界の組織であれば当然、やってはいけないというルールがあったとしても、やってしまいたくなるものなんだ」
 そうか。ベケットが結ばせたという協定とやらを蹴ったのは、この連中だったというわけか。
 ある程度の予想はしていたことではあるが、これではっきりした。ベケットを始末したのはこの連中なのだ。協定を結ばせたような重鎮なのだ、そんな男を殺せば当然混乱は免れない。しかも、その連中の親玉が金の亡者であるボネットとあれば、協定を結ばせ必要以上に裏金を作らせないように線引きをした目障りなベケットを、始末しようと考えるのも自明の理というものだろう。
 そこで、連中は残る一方の組織を引き込んだ。三すくみであれば、二対一と孤立させられてしまうのは当然の結果なのだ。だからベケットは俺に連中を始末させたというわけだが、まさかもう自分が始末されるよう手を回されているとは、思いもしなかったろう。
 いや、実際には組織内でですらベケットは孤立していたのかもしれない。ベケットが殺されたというのに腰の重かったファミリーのことを考えれば、本当は奴が目障りに思われていた可能性は十分に考えられる。
 なんだかんだいってはいても連中だって組織なのだ、金を稼ぎたいに決まっている。ましてや、ライバル組織二つがボネットを後ろ盾に荒稼ぎし始めたとなると、当然焦るはずだ。しかし協定をけしかけた側として、いきなり撤回するわけにもいかない。ようするに連中はベケットの死を利用することで、荒稼ぎするための理由が欲しかったに過ぎないというわけだ。
 まぁ、そんな自分の命が狙われていないとは思わなかったろうが、まさかこんなにも早く、命を落とすことになるとはベケットも思わなかっただろう。
「ところで君はブルース・テイラーという人物を知っているかな」
 しばしの沈黙があったあとに、デニスが静かに聞いてきた。
「名前だけだな。たしか、労働党の代表だった男だ」
「この男と接触してみるといい。テイラーはボネットの政敵ともいうべき男でね、このところ、ボネットに命を狙われてからというもの、住居を人知れず変えて雲隠れしているんだ。野心の強い男で、次の首相選挙にも出馬するという話だ」
「ほう。そいつは初耳だね。それが本当なら、俺の耳にも入ってくるはずだが」
「くくく。私を甘くみないでもらいたい。与党がいくら変わろうとも、私はイギリスの犯罪者として常にブラックリストに載っている人間だよ? そんな人間がとる行動など、君ならいわずとも理解できるだろう?」
 デニスはなにをいってるんだと笑いながら、俺を見据えた。なるほどな。そこまでいわれれば、確かにわかりやすい話だ。デニスのやつはテイラーの側近に、自身の部下をスパイとして潜り込ませているというわけだ。
 俺は肩をすくめながらいった。
「それで。あんたはそのテイラーと俺を会わせて、どうしようっていうんだ?」
「単純なことだ。彼に逃げる手筈を整えさせるのさ。テイラーは労働党の代表ではあるが、それでいながら軍との強力なパイプを持っている人間でもあるんだ。
 いや、むしろ彼は、軍上層部が送り込んできた政治エージェントといってもいいかもしれないな。あるいは、ボネットからの執拗な攻めに対していくうちに、自然と軍方面の人間へ傾いていったのかもしれない。ボネットはあれでいて、軍上層部とはウマが合わないようだから」
「待ってくれ。ボネットの奴は、敵だった連中は全て葬ってきたと聞いたぜ。奴の手から逃れられた奴がいたのか」
 デニスの語っていることは、マーロンの親父の話していたこととは食い違う。マーロンの親父が正確でない情報を喋ったことなど、いまだかつて一度もなかったことのせいか、デニスの語ったことには少しばかしの驚きがあった。
「確かに、それもあながち間違いではないさ。しかし、人間のやることに絶対なんてものはないのだよ。攻めの百戦練磨の者がいるなら、やはり守りの百戦練磨もいるものだからね」
 確かにそれも一理ある。世の中、人間が思っているほどうまくいくものでもない。極端な話をすれば、たとえ全てがうまくいっていたにしてもその日、ひょんなことで死んでしまうことだってある。そいつからすれば夢半ばなのだから、全てが水の泡になるのだ。こう考えればデニスのいっていることは、別になんの不思議もないことだ。
 俺は重々しく頷くと、顎でデニスに先をうながした。
「うむ。そのテイラーのコネクションを使えば、君をすぐにでも国外へ脱出させることができる。パスもあちらで用意させよう」
「……しかし、テイラーがそうも簡単にどこの馬ともしれない俺の頼みを聞いてくれるだろうか」
「なに、そこはこちらからの圧力をかけておけば問題ないさ」
 そこまでいうならもう何もいうまい。俺はそう判断して、ただ肩をすくめるだけだった。
「わかった。あんたを信用するとするよ、前のこともあるしな。ならボネットの場所はわかるかい?」
「もちろんさ。裏世界の情報はほとんどといっていいほど、私のところには流れてくるからね」
 薄い笑みを浮かべながらデニスは囁くようにいう。全く、得体の知れない人間というのは、こういう人間のことをいうのだと良い見本だ。
「さっきもいったがボネットは毎週、裏で糸引いているマフィアのアジトの一つに赴くことになっている。それも時間、ぴったりにね。この二ヶ月のあいだは一度もそれが破られてはいないから、おそらく今日もそこに現れるはずだ」
「おいおい、ちょっと待てよ。今日だって?」
「ああ、そうさ。なんとかできるだろう? 場所もわかるし、そのために必要な物も手に入る。君の腕なら簡単なはずだ」
 呆れてものもいえないとはこんなことをいうんだろう、俺はその、まるで人の行動を予知していたんではないのかと疑いたくなるほど用意周到なデニスに、なにもいえずただため息をつくと、やれやれとかぶりを振って肩をすくめることしかできなかった。
「やれやれ、もうそこまで準備が整っているなら、こっちとしても今晩やらざるをえないんだろうな。あんたのその手腕には毎度のことながら驚かされるよ、全く」
「ふふ。私のネットワークは広いのさ、この業界の誰よりもね。まぁ、とりあえず、君の起こした火の後始末はこちらでなんとかしよう。そのほうがこちらも好都合だからね」
 薄暗い中であるはずなのに、デニスの口元が確かにニヤリと歪むのがわかった。この男が裏世界の重要人物であるというのを知らなかったら、本当に胡散臭い人間きわまりないほどの薄笑いだ。
「それじゃぁ、頼んだぜ。獲物はこっちで用意できるから、あんたには脱出の準備をしておいてもらいたい。俺からの要求はそれくらいだ」
「ああ、わかったよ。君がいつでも脱出できるよう、日付が変わるまでにはなんとかしておこう」
 俺はデニスの言葉に頷くと踵を返し、来た道を戻ろうとするがふと思い出したことがあった。情報通でもあるデニスならば、あるいは知っているかもしれない。
「デニス、最後に一つだけ聞きたいことがある。あんた、ベケットの奴が始末された理由を知らないか」
「……というと?」
「これは俺のちょっとした推測なんだが、ベケットはただ、協定を結ばせたからマフィア連中から目の敵にされていたんじゃぁないってことさ」
「つまり、なにか他に理由があるといいたいのかな」
 デニスの問いかけに、俺は小さく首を縦に振る。
「あんたのことだから今回の発端に、マフィアどもの裏取引があったことはもう知っているはずだ。その取引されるブツの中身の一つが消えていた。たいしたことのない話なのはわかってるつもりだけど、妙に気になってるんだ。こんな小さなサンプルケースにいれられた物なんだが……あんた、何か知らないか?」
 あの血液の入ったサンプルケースの大きさを、右手の指で示す。デニスは少しのあいだ何か考えるそぶりを見せたあと、思い出したように語りはじめた。
「……サンプルケースなんていくらもありすぎて、私にも正確には答えようもないことだけどね……。
 何年か前に、あるドラッグがロンドンの地下クラブで流行ったことがある。それこそ君がロンドンに流れてくる、ほんの何ヶ月か前の話だ」
「ドラッグ?」
「ああ。実のところ、私もよくはわからない。あまりに速いペースで瞬く間に流行ったものだったが、消えるのもあっという間だったんでね。
 そもそも、流行ったかどうかすらあやしいものだった。出回りだしてから噂が消えるまでは、ほんの二ヶ月か、せいぜい三ヶ月がいいところだったからね」
「そのドラッグが、サンプルケースの話と関係あるのか」
 自分の知りたいこととは全く関係のなさそうな話が飛び出してきて、俺はつい、デニスの話の腰を折った。けれどデニスは、そんな俺のことを鼻でふっと笑い、気にすることなく続ける。
「まぁ、別にその手の話がどうとは思わない。そんなのは日常茶飯事だからだ。けれど、そんな私がこの噂を聞き付けたきっかけがあったからなんだ」
「どんな」
「ふっ、おかしな話さ。このドラッグを吸引した者は、みんな一様に死んでしまったからだよ」
「死んだ」
「ああ。一人残らず、ね。中には助かった者もいるんだという話もあるにはあったが、結局は、なんの根拠もないただの噂に過ぎなかったがね」
 一人残らず死んだ……確かにそいつはおかしな話だ。たとえ強力なドラッグであったにしても、いくらなんでもキメた奴が一人も生き残ることなく死んだというのは、いささか考えにくい。
 もちろんキメすぎれば、過剰摂取により免疫力の低下し数多の合併症を併発したり、あるいは衰弱死してしまうことは知ってはいる。しかし、かといって常用者、つまりジャンキー全てが死ぬというのはどう考えても異常だ。
 たとえば、スピードボールと呼ばれるものがある。これは麻薬の成分と覚せい剤の成分を混じり合わせることで、互いの相乗効果によってさらに依存性、人体への悪影響を高めるために作られるドラッグだが、もっとも有名なのが麻薬の代名詞であるヘロインと、同じく覚せい剤代表のコカインで作られたスピードボールは、なにものにも代えがたい至高のドラッグになるという。
 まぁ、スピードボールなんていうのは、麻薬と覚せい剤それぞれに含まれる成分が結合して作られるわけだから、実のところは麻薬と覚せい剤でなくても作ることはできる。当然、ヘロインとコカインの組み合わせほどのものではないが。
 つまるところ、全く種類の違う栄養ドリンクを何本かまとめて飲めば、場合によっては胃の中でスピードボールが生成されないともいいきれないのだ。
 実際にドイツで昔あったことだが、ある青年がドラッグによる過剰摂取によって衰弱死したという事件がある。その事実は、周囲の人間を驚かせたという。家族や恋人、友人たちは青年がドラッグをやるような人間でないと知っていたからだ。青年がそうなるまでに禁断症状がでたことがあったとか、あるいはドラッグを買いに行くようなそぶりは一切なかったことからも、それはあまり考えられないというのが周囲の人間たちの一致した気持ちだったという。
 そして、家族が再捜査を願い出てわかったことが、青年が健康マニアであるということだった。彼は元気になれるというのを理由に、毎日朝昼晩の三回、全く成分の異なる栄養ドリンクを飲むことが日課だったというのだ。ときに青年は一日一本でいいドリンクを、立て続けに二本三本飲むことすらあったらしい。
 これが青年を死に至らしめた原因だった。これは世間的にも知られていることだが、ドラッグの成分は完全に抜けきれるまでには軽いもので少なくとも一週間、ヘロインなんかはごく微量であっても三週間からの期間は必要であるといわれている。この抜ける期間はあくまで薬物摂取し始めた、最初期の目安であるから、常用者には当て嵌まらない。
 つまり青年は、知らず知らずのうちに、薬物常用者のそれになっていたということになる。一日一本でいいものを二本三本と、種類の違う栄養ドリンクを飲んでいたことを考えると、完全なジャンキーになっていたんだろう。良かれと思ってやったことなんだろうが、全く皮肉な話だ。
 実際には、日本でも栄養ドリンクが手放せなくなり、飲まないと調子があがらないといった症状のある者も確かにいるのだ。これも理由はドイツの青年のものと同じである。
 ともあれ、ヘロインとコカインのスピードボールの危険性は、他のドラッグのそれよりもはるかに上回るものだ。しかし、たとおこの組み合わせであっても、たった二、三ヶ月のあいだで常用者全てが死ぬわけでないのに、そのドラッグはわずかな期間で全ての者が死んだというわけだから、なるほど、デニスも噂程度であっても耳にいれておきたいと考えるのは当然の成り行きというわけだ。
「しかしそんな中、その筋からの人間からの情報で、そのドラッグがタブレットや粉末状のものでなく、液体であるらしいというものがあった。それも、ほんのわずかに薄いピンク色をした液体だという話だったな。
 たしかそのドラッグは、薬液保管用の小さなサンプルケースに入れられた、今までにないタイプのものだと聞いたよ。もしかしたら君のいっているのは、そのことじゃないかな?」
「……俺もはっきりと見たわけじゃぁないから確かなことはいえないが、多分、そいつであってると思う。というよりも、そんな形状をしたブツなんて、そうそう出回るような物でもないしな」
「……これも根も葉も無い単なる噂話程度のものだがね、その新種のドラッグを得るために、常用者同士の殺し合いすらあったと聞いた。よほど、他には得難いものだったらしい。
 まぁ、なんにしてもどこまでが本当の話かはわからないけれど、一ついえることは、そんな物などないに越したことはないということくらいだね」
 デニスの肩をいからせながら薄笑いを浮かべているのを見ると、それこそどこまで信じていいのかわからなくなってくるというものだ。しかし俺は、そんなデニスになにもいうことなく、ただ一度頷くだけだった。



 男に通された部屋は色々なコンピューターがいくつも並べられた、いかにも指令室といった雰囲気の部屋だった。なんともおかしなもので、大人心に少しばかしそれらに興味がわいた。
 東洋人である俺が指令室に姿を見せたにもかかわらず、部屋に詰めている連中はほんの少しだけこちらを見ただけで、すぐに目の前のコンピューターへと視線を戻した。彼らもいきさつは聞いてはいるのかもしれない。
「テイラーさんから話は聞いてる。今晩、ここに一人の日本人が訪ねてくるはずだから、脱出の手助けをしてやれってな。いつまでたっても来る気配がなかったのに、それがいきなり車で近くまで爆走してくるだろう? それでこっちもすぐに出れるように待機しておいたんだ」
 つまりこの男がヘリを出動させたということになるわけだが、なるほど。テイラーが軍と関係しているというのは間違いなかったことにもなる。この男は先ほどのこのアジトへの案内人の男と比べ、ずいぶんと軽そうな印象を与える人物だった。しかし、攻撃されそうになったのに全く驚く様子のなかったことから、その印象はあくまで印象であって、実際には違うのだ。
「テイラーから聞いてるんだったら詳しくいう必要もないだろうから省略させてもらうが、脱出はどういうルートを使えばいいんだ」
「ああ、もう準備はほぼ整ってる。こっちだ」
 そういうと男は指令室らしい部屋を抜け、隣のドックへと通じている通路へと出ていく。どうやら、脱出のための道具が見えてきた。地下にあることからも、おそらく……。
「ここを真っすぐいくと下にいくための階段がある。それを降りてドックまで行く」
 男の説明に頷きながら、ガラス張りの通路を階段へむかって移動していく。ここの構造上、おそらくこのドックが先ほど目にした巨大な壁の向こう側といったところだろう。通路からは死角になっていてよく見えないが、指令室の下あたりにその乗り物があるに違いない。
「それにしても驚いたな。まさか、脱出のための乗り物が潜水艦だなんてな」
「ほう。なんでそう思うね?」
「簡単な話だろう。海、地下、ドック……ついでに俺の脱出のための手筈といい、これらから導き出されるのはどう考えたって、潜水艦くらいしか思い付かないぜ。ま、乗ったことなんてないが」
 通路の先にあるドアを開け、すぐ目の前にあった螺旋階段をくだってドックへと降りた。周りには壁の反対側と同じく、いくつもの荷が置かれてあったがもう乗組員らしい人影は見当たらない。
「ま、君のいう通り、これから乗ってもらうのは潜水艦だ。色々不便はあるだろうが安全に君を日本に帰すためだ、そこらへんは我慢してもらおう」
 男の言葉に黙って首を縦にし、後をついていった。周囲を見回し、件の潜水艦を探すがそれらしいものは全く見当たらない。あるのは、反対側と同様の上に向かって大きく湾曲した黒っぽい壁と、中になにが入っているのかわからない荷物ばかりだ。こっち側からも壁に向かって橋がかかっているのを見ると、作業員たちが反対側から運んできた荷物は、こちら側に置かれているようだ。
「さぁ、そろそろ出発の時間だ。乗ってくれ」
「おい、ちょいと待て。乗るっていったって、その潜水艦はどこなんだ。もしかして、この壁の向こうなのか」
 俺が疑問を口にすると、男が眉間にシワを寄せて笑い出した。
「潜水艦ならもうあるぜ、目の前だ」
「目の前……」
 そういって真っすぐに視線をやる。あるのはあくまでも湾曲している巨大な壁だけだ。
「まさか、この壁か」
 そうか……湾曲している変な壁だとばかり思っていたが、それもそのはずだ。壁は壁でもそれは潜水艦の外壁だったのだ。
「ご名答。さ、とにかく乗ってくれ。それからの指示は艦長がだす」
「ああ」
 いうが早いか俺は早速、単なる壁だとばかり思っていた潜水艦の中へと入っていった。中に入ってすぐのところに艦長らしい、厳格そうな五十代くらいと思われる男が立って、俺達を待っていた。なかなかに整った顔立ちをしていて、サッカー選手であるベッカムの二十年後はこんな感じだと予感させるような顔だ。
「この男が話に聞いていた日本人だ。あとはよろしく頼む」
「了解した」
 そんな短なやり取りのあと、ここまで案内した男はすぐに艦を降りるべく、目の前から消えていった。
「君はこの艦の大事な客人であるから、丁重にもてなすつもりだ。だが、この艦に乗る以上、私の命令には従ってもらう。いいね」
 そう艦長が告げると次に彼は、これからの俺の脱出のための手筈を説明し始めた。俺にはどれも目新しい説明ではなく、適当に相槌を打つだけで、興味は完全に潜水艦そのものへと移っていた。
 艦長はああいったがそれにこちらとしても、別に彼らのいうことを聞かないつもりは毛頭ない。海のことは海の男達のいうことを聞いておいたほうが、絶対いいに決まっている。

 海の中を航行している潜水艦の窓すらない船室は狭く、なんとなく息苦しく感じられた。窓……いや、外の景色が一切見えないというだけで、見かけ以上に船室が狭く思えてならない。実際に船室はせいぜい四畳半一間といった広さしかない。
 それでもこの大西洋のど真ん中において、これほどまでの広いスペースを与えられるなんていうのは、一国のトップか、もしくは王族くらいなものだ。はっきりいって海の中の一畳なんてのは、東京やロンドン、ニューヨークなんかの一等地に建てられた超高級マンションの一部屋と、おまけでベンツがついてきても、まだ軽く何百万円ものお釣りがくるくらいに貴重なのだ。おまけに部屋には、兼用ながらシャワー室ととトイレまで完備されている。
 そんな貴重な空間を南アフリカまで、俺というどこの馬ともしれない荷物を運ぶというのだから、ちょっとした貸し切りにも近い感覚かもしれない。それもそのために、何億、十何億という金が動く金わけだから、まさしく超VIP待遇といっても過言ではないだろう。
 南アフリカからは飛行機で一路インド、それからシンガポールへと渡り、上海、そして東京というルートで帰国することになっている。もっと短いルートもあったらしいがあくまで安全に、そして確実に俺を帰すというのが任務であるそうなので、こんな回りくどいルートをいくことになったらしい。
 ともあれ、南アフリカまでは暇を持て余しているので、やろうと思えばいくらでも惰眠を貪ることもできるし、俺のためにわざわざ五ダースものウイスキーの箱が運び込まれているらしい。どれも最高級のウイスキーらしく、東京のバーであれば一杯三千円はからはするものばかりだという。
 そして早速、その一本であるバランタインの30年を開け、豪快に瓶に直接口をつけて胃に流し込んでいた。ぜひ一度やってみたかったので、これもいい機会だ。
 けれど、こんなウイスキーをたらふく飲み、酔っては寝る生活をすでに数日ものあいだ繰り返していると、いい加減呑んだくれの日々にも飽きがくる。その日はウイスキーを口にすることなく、ただぼんやりと英国脱出した日に会った、デニスとの別れ際に話したことを思い返していた。
「ある人物に会ったときの話なんだがな、そいつがいってたよ、ある血液のサンプルは奇跡が秘められてるってな。そいつはどうしようもないジャンキーだったから、どこまで話を信じていいのかわからない。だが、たかだか血液のサンプルにそんなことがあったりすると思うかい」
「つまり君は、それが私の話したところのドラッグがそれではないかといいたいわけだ」
 俺のいいたいことを先読みして話すデニスは、こういうとき本当にやりやすい。こちらの話す手間を省いてくれるのだから。
「正直、俺にもわけがわからないんだ。だってたかが血液だぜ? それが仮にあんたの話したドラッグだとして、わからないことが多すぎる。血液がドラッグだなんておかしすぎる話じゃぁないか。そんなものをジャンキーどもやバイヤーが手をつけたとも思えないんだよ、俺にはな。
 もしくは、あんたのいうドラッグと俺のいうサンプルの話は別なのかもしれない。はっきりいって、今現在の情報からじゃぁ判断材料が少なすぎて、別々のものとして考えたほうがいい気がするんだ」
 俺はそこまでいうと、いったん言葉を区切る。
「気がするが気にもなる……同じ物である気がしてならない、といったところかね」
「……ああ、判断材料が少ないのは確かだけどな。しかし不思議なことに、ある程度の状況証拠があるのも事実なんだ。あんたは俺がこっちに流れてくる何ヶ月かくらい前だといった。時期的に、ある人物が語っていた時期と重なるんだ」
 俺はチャールズ・メイヤーが語っていたことを思い出していた。あの男があの血液サンプルの論文が発表されたのは三年前だと、たしかにいっていた。俺がロンドンに流れてくる、ほんの少し前といえば時期的にはそれと符合するのだ。他にも、マフィアであるベケットが異様な態度であれを欲しがったのもそうだ。
 そして遺伝子学者のメイヤーが欲しがったのも、またベケットが欲しがったあれだった。ベケットは趣味からか、遺伝子学方面へ多少なりとも明るかったと思われるが、もしあれがデニスのいうようにドラッグであれば、ベケットが欲しがったのも理解できないわけじゃない。
 しかし……問題は、売りさばくにしてはその量が少なすぎるというのと、ドラッグそのものをベケットの奴が本当に売りさばきたかったのか、といった疑問は残る。それにメイヤーは死ぬ前に、日本の研究チームがあれを解析したと口にしていた。ついでにそれにスポンサーがついていたというのも気になる。
 だとすれば、俺としてもそいつを確かめてみてもいいかもしれない。どうせ日本に戻っても時間はあるのだから、片手間であればあれの追跡をしてみるのも悪くない。なんとなくだが気になるのは確かだからだ。あくまで片手間だから、後回しになるのは仕方ないとしても。
 そうだ……日本に帰れば、時間は別の方面に使われることだろう。海外の裏事情を知ったうえでの帰郷だ、おそらく以前とは比べものにならないほどの耳寄り情報を仕入れることができるにちがいない。あいつの、沙弥佳の失踪事件の情報を……。
 俺は感慨深げに過去のことに思いを巡らせる。五年前の、沙弥佳の失踪のときの記憶だ。
(ここらがいい潮時だな)
 小さくかぶりを振って、もたれていたベッドが面した壁から背をはなし、ベッドから立ち上がる。こうなったら、まずはコネ作りからだ。幸い、この何年かの間でそういったやり方はわかったし、人が集まっているところに情報もあるという鉄則から考えても、以前日本にいたときよりはかなり楽に情報収集やコネクション作りができるはずだ。
 何が待ち受けていようと、必ずおまえを助け出してやるからな、沙弥佳。だから、まだしばらくのあいだ待っていてくれ。俺が必ずなんとかするから。
 デニスを通じて、テイラーに部屋から持ってこさせておいた沙弥佳の失踪の少し前に撮った写真を手にとって眺めながら、そう心の中で固く誓った。
 写真の中の俺達は、対照的な表情をしている。一方はぶっきらぼうにしていて、笑っているんだかなんだかよくわからない表情、もう一方は心の底から嬉しく微笑んで一方の腕に両手でもって、しっかりと掴み絡ませている。
 暗い海の中を、南アフリカに向かって航行する潜水艦の中で自らを奮い立たせながら、俺は日本に着いたらどうするべきかを考えはじめる。早く、一秒でも早く日本に戻りたいと、強く願いながら。




「いつか見た夢」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「現代アクション」の人気作品

コメント

コメントを書く