いつか見た夢

B&B

第85章

 
 午前五時半を過ぎた頃、外資ファンドの幹部だという男の案内でやってきた社長である大友の家は、一等地であるのにとても大きなもので、建て坪は軽く八〇坪はありそうな邸宅だった。
 両手足を縛り車の床に放りこんでおいた男の話によれば、大友は現在独身で、愛人数人をかこった生活をしているらしい。俺はあらかじめ、大変なことになったと男の携帯を使って大友に電話させ、すぐ行くよう言伝させた。大友は男に対して信頼を寄せているのか、疑うことなく車庫を開けておくと言い残して電話をきった。
 実のところ、押し入るしかないと考えていただけに、思わぬ幸運に感謝しなければならないだろう。なんせ、向こうから懐に招き入れたのだ。
「お前が先に行くんだ」
 告げられていた通り開いていた車庫に車を乗り入れ、車の後部座席の床に転がしてあった男を這い立たせると、低い声で背中を小突きながら先行させる。怪しまれないようロープは外しておいたが、自慢のボディガードを秒殺されるのを目の当たりにしたためか、男は完全に萎縮しきっており、逃げ出すような真似はしないだろう。仮に逃げ出そうとしたところで、どうにかできるとも思っていないに違いない。
 邸内へは、車庫から裏口玄関へとそのまま繋がっているらしく、鍵もかけられていない裏口玄関を男が力なく開けると、続いて俺も中へと入りそっとドアを閉める。もう日はのぼっていて、あたりは夏の朝の暑い陽射しに照らされだしてきているというのに、邸内は外と比べ随分と薄暗いように思われた。
 目の前を行く男はこの家に何度も出入りしているのか、迷うことなく大友の待つ部屋へと進んでいく。背後から、何かされやしないだろうかと考えているのか、よく見ればその肩が小刻みに震えているのがわかった。恐怖を感じているというのなら、それはそれで勝手にそう思わせておくとしよう。そのほうが何かと都合いい。
 大友は三階に部屋を持っているようで、男はフローリングになった階段を二階からさらに上の階へとあがっていく。一階や二階もそうだったが、邸内はモダン建築だという男の言葉の通り、邸宅の外観から中に置かれたインテリアも、機能的さを兼ね備えた前衛的なもので飾られていて、ファッショナブルではあるけれど、どこか無機質さを感じさせるものばかりだ。
 社長という役職についているので、少なくとも目の前の男よりはいくらも年上であるだろうが、こうしたインテリアなどから受ける印象は、役職のわりにかなり若い人物であるように思われる。あるいは、愛人をかこっているらしいから女の趣味なのかもしれなかったが、どっちみち、大半が俺の趣味のデザインではない。
「こ、ここだよ……」
 男が縦に長い、大きな観音扉になった木製のドアの前にやってきて止まり、小声で震えながらいった。
「早く入るんだ」
「あ、ああ、わかった。わかったから……」
 脅しつけるのはやめてくれ、そういおうとしたかったのだろう男の言葉をみなまでいわせず、俺は肘で背中を小突きドアを開けさせる。
「……社長、ただいま参りました」
 男が少しのあいだ待ちドアを開けると、中に入ろうとした男の足が止まった。
「ひっ」
 小さな悲鳴をあげて立ちすくんだ男は、半歩足を後ろに引いてよろめいた。
「どくんだ」
 男の様子に違和感を覚えた俺は、肩を引いて後ろに下がらせると、そこには考えてもいないことが起こっていた。いや、起こった後だった。白を基調とした十数坪は確実にあろうかという部屋の中心部が赤く染まり、男一人、女三人の全裸の肢体が無造作に転がっていたのだ。
 全員見事に額を撃ち抜かれており、脳漿を飛び散らせて死んでいた。男のほうはベッドの縁にもたれかかるように座りこむ形で、額は当然、顔面に他三発の弾丸を食いこませていて、とても顔を判断することはできそうになく、醜悪なペニスがだらりと垂れ下がっている。
 一方の女たちは皆二〇代、それも大学生かそこらといった感じだ。長い黒髪と短くショートに切りそろえた黒髪、それに長い茶髪の巻き毛の女たちは、全員が正確に一発ずつ弾丸を喰らって裸体を晒したまま、物いわぬ肉塊へと変えられていた。緊張のためか硬くなってらしい乳首が妙にエロチックで、みな一様に目を見開いているのがどこかぞっとしない光景だった。
「あ、ああ、ああ……しゃ、社長……」
 目の前にできあがっていた四つの死体を前に、男が再び失禁させながらつぶやく。できあがった男の死体は、つぶやく声からもわかる通り、ファンドの社長である大友孝也であるらしい。どんな意味があるのか、左胸にある炎と閃光をモチーフにしたような刺青が彫られていて、それが大友ということになるらしい。
 俺は舌打ちして、部屋になにかヒントになりえそうなものがないか、男の肩をつかんでまくし立てる。しかし、男は混乱のためか前後不覚に陥っており、小刻みに震え首を振っているのかいないのか、微妙な動きをするだけで何も答えることはなかった。
「一体どこの誰が……」
 もちろん考えるまでもない。例のスパイとかいう奴に決まっている。今追っている一連の出来事の登場人物は、俺を除けば、ファンドの幹部連中に取引を行うために積み荷の運び出しを受け持った業者、それにO市に入ったというスパイしかいない。一連の取引を任されたはずのファンドの幹部連中が、そのトップを殺すとは到底思えないし、雇った業者がこんな手の込んだことをするとも考えられない。よって、導き出される答えは一人だけだ。
 俺は男の死体を簡単に調べてみた。体温はまだ残っており、殺されてからまだそう経ってはいない。体温から判断するに、まだ二〇分と経ってはいないはずだ。つまり、こちらに来るという連絡を受けて、すぐに始末されたということになる。
 そばの女たちの死体の体温も調べてみると、こちらもまだいくらか温かさが残っていはするが、男のほうと比べると、いくらか冷たい。推理すると犯人はまず、邪魔な女たちを始末し次に男を始末したことになるが、先ほど電話に応じたとき、すでにここには殺し屋がいた可能性が高い。車庫を開けておくといった点も、スパイの奴が大友に銃をつきつけながらいわせたと見るべきだろう。
 電話で、一連の背後関係を洗おうとしている人間がくることを知ったに違いないスパイ野郎は、大友に車庫を開けるよう脅し、そこに何も知らない不法侵入してきた俺が到着するのを見計らう。そして……。
「くそが」
 俺は悪態をついて舌打ちし、本物の死体を前に恐怖している男の肩を掴んで引っ張る。もうここに用はない。推理が正しければ、確実にこちらの動きをスパイは監視しているはずだ。だとすれば、ここには危険しかない。
 そして予想通り、遠くでサイレンの鳴り響く音が聞こえてきた。もちろん、スパイ野郎が通報したに違いない。
 気食の悪い色をしたベッド脇のスタンドテーブルに置かれた携帯をとっさに手にすると、男に走るよう命令し急いで車庫までおりていく。ともかく、一刻も早くここを離れなくてはならない。政財界に顔の利くらしい武田が一応は指名手配を取り消しはしたものの、これでまた警察に捕まろうものなら、せっかくの自由の身になったのが台無しになる。
 それどころか、警察は突然指名手配が取り消しになった俺について、確実に不審におもっているはずで最悪捕まりでもしたら、次こそは言い逃れや外部からの圧力は効かないはずだ。今のところは、かつてデニスが用意してくれたパスポートのおかげで、俺という人間のことを詳しく知るには至らなかったけれど、それでも警察も馬鹿ではない。いずれは、九鬼という人間のことを嗅ぎつけることは目に見えている。そうならないためにも、やはり警察の世話になるわけにはいかない。
 車庫におりたところで、異変に気付いた。入れたときには開け放たれたままだったはずの車庫の扉が、ここにきて閉まっていたのだ。開閉装置がないか探すと、扉のすぐ左側に手動の開閉装置があり大股で近づく。だが忌々しいことに、装置はすでに壊されていた。つまりスパイ野郎は車庫に車が入ってきたところで、行き違いにここを閉じ壊していったわけだ。これはつまるところ、例のスパイ野郎がついさっきまで敷地内にいたということに他ならない。
 俺は車庫と裏口玄関のあたりで棒立ちしている男を先と同様に後部座席に、自身が運転席に乗ってすぐにエンジンをかける。開かないものは仕方ない。このままバックで門を破壊し出ていくしかない。
 ギヤをバックにいれ、アクセルを思い切り踏みむとガクンと車体が揺れながら、後ろに急発進した。
 硬い金属や車庫を形成するコンクリートの壁が、車の急激な突進によりひしゃげ、粉砕される音がうるさく響くと、次の瞬間には後ろから座席の背もたれにとんでもない衝撃が伝わった。その衝撃に、背中が打ちつけられ一瞬呼吸ができなくなってしまい、上体が自分のものではないかのように揺れたのだ。
 バックで急発進し、車庫の閉じていた門を破壊できたはいいが、それにともない、道の反対側の壁に激突したようだ。運転席に伝わった衝撃はどうやら、後ろに放りこんだ男が運転席に体を思いきりぶつけたためだったらしく、ぶつけた肩を痛そうに押さえて前のめりになっている。
 俺はすぐにギヤをバックからニュートラルにいれると、ほぼ同時にローギヤへといれて車を発進させた。バックバンパーからは壁に激突した際に壊れた壁のコンクリート片が、いくつも道に落ちていき、あたりに散らばる。
「おい、いつまでも痛みにうずくまってるんじゃぁないぜ。お前らが取引するために使った業者のところへ行く。案内しな」
「う、うぁぁ……骨、骨が折れたかもしれない……お願いだ、病院へ……」
「駄目だ。そんな時間はないし、わかっていながらドラッグを売りさばくような人間に病院だなんて、もったいないね」
 こう告げられて男は絶望に顔をゆがめる。ふん、自業自得だ。こいつだって、間違いなくドラッグであがった金で潤った生活を送っていたのだ、そんな人間に慈悲の心などこれっぽちも必要ない。少しは痛い目をみてもらうとしよう。もっとも、あのボディガードをけしかけようとした時点で、この男の死刑判決が変わるはずもないのだが。
 本気で肩を痛めたらしい男は、俺も本気で病院に向かうことはないと悟ったようで、うなだれながら件の業者の住所をいい、そこまで案内しはじめた。どうやら、業者はM区も外れに住んでいるらしい。
 大友の邸宅から車で二〇分とかかったかどうかという場所に、業者の住む家はあった。近年の再開発でレジャー化が進んでいる一方で、昔からの住人にとってはその日陰に追いやられる形で、あまり人目を引かない、ひっそりとした昔ながらのトタン屋根も見える地区で、そろそろ早い者は一日の活動を始める頃だというのに、まだあまり人影がない。
 無論、こちらとしてはそのほうがやりやすいのは確かだ。今回のことにしたって、できるだけことを大きくしたくない身としては、まだ人の活動が鈍いというのはありがたいことだった。
 かといって、のんびりもしていられない。警察が場合によっては俺のことを勘づく恐れがある以上、さっさと事を済ませてしまわないといけない。
「あそこで間違いないんだな」
 男に案内された住所の少し手前にある小さな公園の前で、俺は車を止め男に問いかける。二度三度、強く頷いた男の両手足を再びロープで縛って口に猿轡をかけると、あご先に思い切り拳を叩き込んで意識を失わせる。場合によっては近所の人間が車の中を覗きこむとも考えられないではないので、念のため後部座席の背もたれを引いて、男をトランクへと転がした。
 ざっと周囲を確認してみたが、どうやらまだ人が外に出ている様子はない。俺はビジネスライクを気取って、大股で業者の住む家に向かう。
 業者宅の屋根瓦には遠目にみても、破損しているのがわかるほど大きなひび割れができており、今にも崩れ落ちてきやしないかと心配になるような家で、先ほどの大友の邸宅とは比べ物にならない質素かつ貧困者の家といった雰囲気が漂っていた。二階建ての家は、道路側に面した二階窓にやはり屋根同様のひびが入っていて、それらをガムテープでふさいである。
 俺はまともに使えるのかどうかも怪しい呼び鈴を押す。港の業者というのは朝が早いからもしかするといないかもしれない可能性もあった。しかし外から様子を窺うに、がらんとした様子ではあるが、まだ外出はしていないはずだ。
 そして思った通り、待つこと十数秒といったところで中からがそごそと音がし始め、目の前のガラス戸が引かれて小柄な男が現れた。身長一六五センチ前後の初老の男で、髪は薄くのっぺりとしていて、顔は海の男らしく赤く腫れぼったい感じがする、そんな男だった。
「……なんだい」
「すみません。少しばかし聞きたいことがあるんです」
 早朝の訪問者に対し、幾分訝しむ表情になった初老の男に俺は、外資から引き受けたという仕事について単刀直入に切り出した。まさか突然の訪問者から、そんなことを聞かれることになるだなんて思わなかったらしい初老の男の顔が、ひどく驚愕に歪む。
「……お、おれは何もしらねぇ」
 弱々しく否定する男に、俺はたたみかける。
「いいんですか。いっておきますが、あなたのやったことはすでにわかっている。このまま頑なに話さなかったとしても、結果は同じだ。それに……もし話してもらえるなら、今回の一件は目をつぶりましょう」
 どうやら早朝の訪問者のことを、警察かなにかと勘違いしたらしい。なるほど。この男はもしかすると、例の取引のために雇われた際、嫌々ながらやったのかもしれない。しかし、金欲しさに結局は引き受けた仕事だったが、内心ではとんでもないことをしでかしたと心を痛めてる、そんな具合だ。初めて顔を合わせたとき、妙に緊張感を漂わせていたのは、きっとそれが原因なのだ。
「は、話せば本当に目をつぶっててもらえるかい……?」
「話してもらえるなら」
「わかった、話す。話すよ……」
 目を見ながら頷く俺に、初老の男は居間まで招き入れようとするもそれを断り、玄関で話を聞くことにした。殺し屋という性分からなのか、どうも何かあった際のことを想定してしまい、奥深くまで進む気がしないのと、やはりトランクで眠る男のことも気になるところだからだ。
 話によれば七月の中旬頃に、突然ファンドの営業マンが訪れ、七月の終わりから八月一日深夜までの約十日間、作業してくれないかと仕事を持ってきたという。情報屋と多少の食い違いがあるが、別に構わないだろう。おそらく一日、それも深夜だけだとおかしいから、それまでの数日間はただの偽装工作だ。もちろん、その間にも世間には公表できない代物が流れてきた可能性は十二分にあるが、俺にとって重要なのはあくまで、最終日の外資ファンド連中も立ち会って行われた取引のほうなのだ。
「その外資連中の取引を見たといったな。どんなものだったんだ」
「わからねえ。この業界で何十年と働いてるが、あんな馬鹿でかいコンテナは見たことがねえんだ」
 そういえば、あの情報屋も三つのコンテナが搬入されたといっていた。通常、コンテナというのは世界的に形状から重さ、使用目的まで全てが規格によって定められている。その三つのコンテナは、どう考えても規格で作られたものではなかったらしいのだ。
「大型輸送船の場合、深夜の積み荷や搬出作業は、基本的にコストがかかり過ぎてやらないんだ。周りに、作業に足りうるだけの照明がないというのも理由だ。
 その日はどういうわけか、なにがなんでもやってもらうといわれて仕方なくやった。実際、今まで見たこともねえような金額を掲示されたからな。実際、楽だとおもったさ。なんたって、あげなきゃならねえコンテナはたったの三つだ。それでいざ実物を見てみたら、今まで一度だってお目にかかったことのない、馬鹿でかいコンテナだったんだよ。
 あのコンテナなら、積もうと思えば一般の乗用車を二十台は軽く運べてもおかしくない代物だった。中にどんなものが入っていたのか、そいつはわからん。ただ、揺れることは許さない。風に揺らされるのも駄目だと抜かしやがったんだ。んなこと、無理だといってやったが、結局慎重にやって、一時間半ほどかけて搬出したんだ」
「この作業中に、外資の連中が取引しているのを見たという話もきいた。それに関しては」
「ああ、あれか。割合近くで見てたら、すごい剣幕でがなり立てられたんで、詳しくはわからねえ。アタッシュケースっていうのか? あれに色々と入ってたみたいで、そいつを渡された奴がその中から変なケースを取りだして灯りに向かってかざしてたのを見ただけさ」
「変なケースってのはどんな形だったか覚えてるか」
「こんくらいの大きさで、銀色っぽい感じの表面だったな」
 男が手で示す大きさと色は、まさしくイギリスで俺が見たものそのものだった。さらに男は、中を覗けるように小さなガラス部分もついているというではないか。
 これで話は繋がった。スパイはこいつを大友に入手させ、ヘヴンズ・エクスタシーとして市場に流したのだ。例の外資ファンド幹部は大友からの命令で、実態はよくわからないといっていたので、大友自身もこのスパイの傀儡であろう。これは、邪魔者として始末をつけたことからも間違いない。
 また、同じ形のものが使われたという時点で、この世界のどこかに精製した沙弥佳の血液を流している奴がいるはずだ。スパイは、こいつに雇われたものだと考えていいだろうから、スパイの正体を突き止める重要性がますます高まったといえる。
「最後の質問だ。あんた、外資の連中が取引しているのを見たというわけだが、実際にその場に何人いたかわかるかい。それと、その日、搬入するためにやってきた船の名前なんかもだ」
「すまねえが、わからねえ。だが、同じようにスーツ着た連中が三、四人はいたのは間違いねえ。
 あの日入港してきた船も名前は全く載っちゃいなかったが、連中が相手の企業名か何かをいってた気がするんだ。確か……ニッセンとかなんとかって。風が吹いてたんでうまく聞きとれんかったが、その風に乗ってそんな名前をいってた気がするんだ」
「ニッセン……もしかして、日船工業のことか」
 記憶を頼りに口にした単語に、初老の男が強く首を縦に振った。
「ああ、そう、それだ。日船工業だよ。その名前に間違いねえ」
「……そうか、そうだったのか」
 思わず俺はつぶやいていた。日船工業といえば、春に起きた政治家連続射殺事件の引き金となった、真田博之を輩出した企業だ。もちろん、真田と島津が横繋がりしバックとなっていた秘密クラブ、鳳凰館と繋がりがあったことで無関係だとも思っちゃいなかったがこれで、それまでの今ひとつ把握できていなかった事象同士が一本の線となって、紐解かれてくる。
 この射殺事件の一連の犯人は間違いなく、今度のスパイが始末をつけた。もしくはその仲間かもしれないが、ともかく同じ一味であることは確実だろう。スパイは、はじめから今回の取引を見据えて真田を始末したのだ。
 企業にとってトップともいっていい真田が死ねば、自身が裏で糸をひいて市場への流通を一手に担えるし、これからも多岐に渡って様ざまな物資を送り込むことができる。当然、真田が研究していた実験についても目をつけていたとみるべきだが。
 真田は敵対関係、もしくはそれにかなり近い立場にいる人物から始末されたと考えるべきだろうから、これでその立ち位置に近い人物が誰なのか、より明確になってくる。やはり当初俺が直感したように、武田側の陣営によるものだと理解して、まず間違いない。
 ここで一旦話を整理したい。これまで一連の事件に関わっているのは、ミスター・ベーアを頂点とした真紀などの組織の連中、武田を中心とした殺し屋のコミュニティ、そして島津製薬や真田の日船といった企業ら、そして俺といったのがそうだ。あえて陣営にいれるとすれば、田神もこちらに入るだろう。
 まずミスター・ベーアは武田と敵対関係にある。これはもう疑いようはない。そして武田にとっては、もう一方の島津ならびに真田らとも敵対関係にある。いや、真田たちを襲撃することなど武田にとっては造作もないことだから、敵対とは少し事情が違う。それでも、味方とはいい難いだろう。
 そしてミスター・ベーアにとっても、真田はいけ好かない奴だったのだ。しかし、少なくとも武田と違い、襲撃するのは最終手段で、あくまで自らの手中に真田陣営を取り込もうとしていた。これも、これまでの状況証拠から判断できる。こうした観点から、スパイが武田側に雇われた、あるいはコミュニティの人間であるということが導き出される。
 ミスター・ベーアにとってみれば、直接対象を始末するよりも陣営に取り込んだ方が有益であるという、人の上に立った視点でものをみるはずなので、こうした直接的な行動には出にくいはず、というのも理由だ。問題は、真田陣営がなぜ両方から狙われたか、ということだ。もちろん、これには両方が俺に告げた共通点にあると見ていい。
 真田はN市でタイムワープの実験を行い、島津製薬の研究主任である坂上は不老不死の研究をしていて、両者には八〇年代にアメリカで行われたタイムスリップの実験に関係があるということがわかった。真田はその実験を継承し、坂上は当時の実験そのものに参加していたというのだ。
 この二つは、鳳凰館という悪趣味な秘密クラブで密接に関わりあっていた。真田はどうもここの会員であり、クラブを取り仕切るオーナーの伊達総一郎は、必要に応じて真田や坂上に奴隷を売りさばくという、人身売買を行っていたのだ。
 つまり、ここから俺がミスター・ベーアと武田の二人を出し抜くには、この二つの直線状にある、真田が行ったという実験概要のデータで、真紀が”マウス”と呼んだものと、ヘヴンズ・エクスタシーは当然、あのゴメルやなんかをも生み出すことになったNEAB-2の投与によって変わったらしい、沙弥佳の血液か何かが必要ということになる。あるいは、沙弥佳そのものなのかもしれないが。
 こうした事情からマウスはミスター・ベーアが、NEAB-2を創る技術、ないしはそのものを持っているかもしれないものは武田が、といった具合で、連中を出し抜くにはこの二つを俺が入手し、対等の取引をさせなければならないということだ。もちろん、そうなった場合はミスター・ベーアとて俺を裏切り者として扱うにきまっているから、ミスター・ベーアも武田と仲良く死んでもらうことになる。
 俺は自分のやるべきことが明確に見えてきて、さらに強く頷いていた。こうなると、一刻も早くスパイの正体を突き止めなくてはならない。

 午前十一時。俺は外資ファンドの入ったビルの三〇階にある一室で、身を屈ませながら大きなデスクの引き出しを、開けては閉める行為を繰り返していた。ここはかつて大友孝也のオフィスだった部屋で、幸いにも大友は今日、会社を休むつもりだったようで忍び込むのは容易だった。とはいっても、そんな人間のオフィスを物色するのだから、手短かにすまさなければならない。部屋の外ではまだ社員たちが働いているのだ。
「こいつか」
 いわれていたものを見つけ、俺は小さく口にする。机の一番下にある引き出しから、いくつもの電話番号が並ぶ請求書を見つけ出し、その紙を左手で掴みあげる。
 俺が知りたかったのは日船からの電話番号だった。幹部の男に、日船工業との関係について吐かせてみたところ、男は日船がお得意さまであることを必死になって大きく頷いた。そこで俺は、大友の邸宅で手に入れた携帯の着信履歴に目をやり、数回に一度、非通知でかかってくる電話があることに注目した。今時珍しく非通知も、履歴として残しておいてくれるタイプの機種だったことが幸いしたが、これが大友のプライベート用であることが最も重要なのだ。
 外資の幹部である男をさらに締めあげた際、男が会社の金で携帯代を見つくろっていたらしいということを聞き、もしやと思い至ったわけだが、勘は当たった。大友は、公衆電話からかかってきたあと、必ず折り返して電話をしていたのだ。
 けれども、通話記録に記されている番号はどれもばらばらで、まるで統一性がない。あるときは市外局番から九州のほうであったり、あるときは四国、またあるときは海外のときすらあったようだった。
 だが俺にはわかった。これらの電話の主が全て同一人物であるかは別にして、最後の海外からかかってきた電話こそ、例のスパイからであるということが。
 かかってきた日付を見ると、七月の十二日の深夜となっている。そしてこの翌日となる十三日以降、大友からのトップダウンで業者探しが始まったというわけだ。業者が見つかった直後と思われる頃に、大友は再び海外からかかってきたらしい電話に出ている。これらのことから大友に指示を出していたのが、このスパイであることは確実だ。
 俺はこの通話記録書を適当なサイズに折り曲げて、スラックスの後ろポケットにつっこみさらに確たる証拠がないかをもとめ、引き出しの中を探す。この記録だけでは、まだまだ不十分だ。必要なのは、スパイの正体を掴める証拠なのだ。
 おそらく、大友はスパイからの命令によって実行を命じていたにすぎないだろうから、スパイと直接の面識があるとは思えない。だが大友を消したということはすなわち、どこかでスパイと繋がる何かがあるに違いない。証拠を揉み消してきているなら、わざわざ手を下す必要などないはずだし、大友に限ったことではないがこうした連中は、別のことにも使えるかもしれないと残しておくのが通例なのだ。
 この点で、スパイは重大な足跡を残していったと思われる。大友の周囲の人間を調べていきさえすれば、必ずこのスパイにもぶち当たると俺は確信した。



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