いつか見た夢

B&B

第88章

 
 どしゃぶりの雨の中、足早にO市の目抜き通りを横切った。田神とは置いておいた車の近くで一旦わかれ、活動の拠点としておいた、市内のホテルへと戻るつもりでいたのだ。さすがに丸一日以上、二日近くもあけているとあって、道連れのことが少しばかし心配になったというのが本当のところだった。
 適当なところにおいておいた車は、車上荒らしにあうこともなく、ずんぐりと持ち主である俺のことを待っていた。その車を無人の港まで走らせると、そこでアクセルを固定して海のもずくへと変えてやった。
 中には外資ファンドの男が衰弱しきった状態で気を失っており、そのまま車と共に海中へと沈めてやった。どのみち男については死刑執行を心に決めていたので、少なくとも気を失ったままあの世に逝けたのは、運が良いというものだろう。
 あとはそのまま何食わぬ顔で海沿いを走る沿道を歩き、適当なところでタクシーを捕まえてホテル近くまでやってきたのである。すでに夜も十一時を回ったところなので、ロビーにはフロントマンもおらず、エントランスを素通りすることができた。
 エレベーターで宿泊している部屋に戻ると、念のためにドアをノックして中の様子を確かめる。一置きあって中からロックの外される音がして、ドアが開かれた。
「……九鬼さん」
 ドアを開けて顔を覗かせた綾子ちゃんの表情が、訪問者が俺だとわかり安堵に緩んだのを見逃さなかった。それもそうだろう、目を覚ますと部屋には誰もおらず、何十時間もこんなホテルに缶詰めになっていたのだから。
 俺は開いたドアからするりと中へと身を滑り込ませ、静かにドアを閉めたと同時にロックが自動的にかかるのを確認し、綾子ちゃんをエスコートするように部屋の中へと進んだ。さりげなく何もなかったことを確かめると、ようやく肩の力を抜いた。
「すまなかったな。こんなに長く開けることになるなんて思わなかったんだ」
「いえ……」
 力なくいう彼女の目じりが、少し赤くなって腫れぼったくなっている気がした。安堵の感情で気持ちが満たされたといった表情から、もしかすると不安からか泣いていたのかもしれない。それを察するとこちらとしても正直なところ、やりにくいものがあるのは事実で、そいつには触れることなく切り出す。
「食事はしたか」
「はい。夕方に軽く」
「そうか」
 短いやり取りのあとに、沈黙が降りる。見て見ぬふりをしようと切り出したのに、どことなく他人行儀で、あまりにも的外れな感がしたのだ。多分、彼女にしても必死に泣き止もうとしたに違いなく、それに触れるのが躊躇われたはずなのに、やはり自分の愚かさからか、なぜ泣いていたのか気になって仕方がなかった。
 これが他の女ならもっと別の扱い方もあるのに、彼女が相手だとどうにも勝手が違ってしまってかなわない。気にしすぎといわれれば、それまでの問題ではあるのだが。
「服、着替えたんだな」
「え? あ、はい」
 彼女としても缶詰の状態でありながら、日中に外出し、適当に服を買っておいたらしい。現金はそれなりに渡してあるし、替えの服くらいは買っておいたほうがいいといっておいたのだが、今日か昨日か、本当にそいつを実行していたようだ。
 ローライズデニムのパンツに、ベージュのキャミソールといった簡素な出で立ちの彼女に、俺は短くそう告げていた。いつまでも、高級感のある服を着られたままではかなわない。
 気まずい空気が流れたところ、その雰囲気から逃れるようにシャワールームへと移動して扉を閉めた。今まで何も聞こうとしない綾子ちゃんに感謝することが多かったが、こういうときは逆にそれが辛い。おそらく、何があったのか知りたいはずなのだろうが。
 ふと恐妻から逃げるようにトイレや風呂に駆け込む夫のようだと、自嘲気味に苦笑いを浮かべてかぶりを振った。今はまず、宮部からとってきた携帯とメモ帳を検証しておいたほうがいい。
 まず携帯の履歴を見てみると、昨晩に非通知で連絡がきているのがわかった。この時間帯は、例の宮部の家でのことだ。問題はその次で、あろうことかそこから先の履歴が一切残っていなかったのだ。わざわざ今回のために電話を新調したとも思えない。そもそも、古いとも思わないが明らかに新品とも言い難い状態から、履歴が毎回消されていると判断したほうが自然だ。
 しかし履歴などはたとえ消えていようとも、調べようと思えばいくらだって調べようがあるので、見かけだけともいえなくもない。事実、田神は履歴のデータをパソコンに移し履歴はもとより、発信元まで調べてみるつもりらしい。
 俺はといえば突っ込んだ部分は田神に任せ、それとは別に、別の視点から調べてみるつもりだった。田神には田神なりに、調べなくてはならない理由もあるだろう。
 何より俺が気になったのは、メモ帳のほうだった。メモ帳はいわゆるビジネス手帳というやつで、そいつをパラパラとページをめくり、宮部の表向きの予定を眺める。宮部はビルの経営と管理する仕事に就いているというのは、すでに田神からの情報で知っているのでそれと照らし合わせてみれば、それとは違うものもあるかもしれない。奴はその筋の道の人間としては模範ともいうべき人生を歩んでいて、伴侶や家族はおらず、家族サービスといった行事はないはずだ。
 つまり、仕事以外で何か予定があったとすれば、それこそが裏の顔、宮部の本業における予定ではないかと考えたのである。その考えで、過去の予定表を見たときだった。七月の予定表にそれらしいものが書かれてあったのがわかった。
 七月の一〇日の欄に奴は、N市へとただ一言だけ書いていたのだ。どう考えてもこれは、例の病院へ訪れたに違いない。まず、島津となんらかのやり取りをしたと考えるのが妥当だろう。島津のスケジュールなどは田神が調べるといっていたので、これは向こうのほうで確認もできるはずなので、今は置いておく。
 他にも時折、明らかに表向きの用事とは別の用事と考えられるものがあったのだ。そこでどんな密約がなされたのかは知ることはできないけども、それと同様のものが明日の欄に書かれている。つまり、宮部のいった次の仕事というのが、これのことを指しているのは明白だ。しかも、その相手の名前を見て驚いた。
「松下薫……」
 宮部が会うつもりだった人物はなんと、あの松下薫だというのだ。松下薫といえば、島津研究所の壊滅の際、その混乱に乗じて島津を辞め、どこか別の地に移ったという話を田神から聞いて以来、どうなったのかは知らない。わかれる前に、松下には母の病気の肩代わりをさせていた分と、今後数年間、働かなくともなんとかなるだけの金を渡したというところまでだった。
 その松下薫の名が、どうしてこんなところに出てくるのか……。もしかすると、全くの同姓同名というのもありえなくもない。しかし、島津と深く関わり合いを持った人物が、とても別人とは考えにくい。
 一体どういうことなのか。K市のホテルで会った際口にしていたことに、嘘偽りはないように思われた。もし、あのときの一挙一動が全て演技だったとすれば、大した女優だとも思うがとてもそんな風にも思えない。いや、しかし……。
 考えれば考え込むほど、一体どういうことなのかと深みに嵌ってしまいそうなので、俺は再び小さくかぶりを振り、考えるのを止めた。とりあえず、松下薫とはもう一度会う必要があるというのだけは、確実なことであるのは間違いない。
 とりあえず、明日以降の予定は全て表向きのものばかりだったので、そこでメモ帳を閉じた。ともかく、松下薫が俺の知る人間であるかどうかは会えばわかることだ。問題は、宮部がどこで松下と落ち合うことにしていたのかだ。他の部分でもそうだったが、メモ帳には肝心の部分は書かれていないところを見ると、重要な部分は全て頭の中だけに書き留められていたらしい。
 これからどうすべきか考えながら汗を吸った服を脱ぎ、シャワーの蛇口をひねってノズルを手にとった。冷たかった水がだんだんと湯気を帯び始め、バスタブの底に飛沫を散らしながら叩きつけられていった。
 少々熱すぎるともいっていい温度の流体を頭からかぶると、いとも簡単に全身に張りついた汗を洗い流されていく。部屋に備え付けてあるシャンプーを手にして、どろりと流れ出る分を適当に泡立てると、一気に頭につけて脂分や汚れを落とすように掻きたてた。
 頭にシャワーの湯をかけ流したままのため、頭につけたシャンプーの泡は即座に水流にのって流れていった。本来ならもう少しじっくりと洗うところだけれど、今はこの程度で十分だ。
 適当にシャンプーを洗い落としながら、適当にその泡でもって垢も落とすと、シャワーを止めて備え付けてあるバスタオルを取り、身体の水滴を拭いていった。身体を拭き終わるとバスタオルを腰に巻き、少しばかし伸びた髭を、やはり備え付けの髭剃りで軽く剃り落とす。
「あっ……」
 バスルームから出てきた俺の恰好を見た綾子ちゃんの口から、小さな驚きの声が漏れる。
「こんな恰好ですまないが、服を乾かしてるんだ」
「あ、そ、そうですよね」
 少し焦ったように言い繕う綾子ちゃんの顔は、林檎のように赤く染まっていて今にも憤死しかねないほどになっていた。
 彼女のそんな表情を見て、俺はつい吹き出していた。まるで、漫画か何かに出てくるような初々しい反応を目の当たりにし、あまりに出来過ぎてこんなことが本当にあるのかと笑ってしまったのだ。
「わ、笑わないでください」
 耳まで真っ赤にした彼女は、さらに必死になって抗議し、慌てふためいている。彼女のそんな表情を見たのは随分と久しぶりで、俺も無意識に頬を緩めていた。
 そのうちに綾子ちゃんの顔から赤みがとれ表情が沈んでいくと、こちらの笑い声もだんだんとなくなっていった。わずかな沈黙のあとに、彼女が切り出した。
「さっき、ニュースで見ました。N市で男性の死体が見つかったって。九鬼さんと何か関係があるんじゃないですか……?」
「なぜそう思う」
 思いもかけない言葉に驚きながらも、心のどこかでは、なんとなく言われそうな予感があったのか、すぐにそう切り返した。
「いえ……なんとなくです。九鬼さんの、その、お仕事が……」
 口にするのが嫌なのか、綾子ちゃんは口ごもる。俺の仕事について、薄々とはいわず、ほぼ間違いなく身の危険が生じる職業だと気付いているんだろう。もしかしたら、ミスター・ベーアの屋敷で、真紀のやつからいらぬことを吹聴されている可能性も十二分に考えられるが……。
 それはそれとしても、綾子ちゃんがすでに俺の素性を知っていると見ていい。だからこそ、何か意味深なことをいったに違いない。
「もう隠しても仕方ないみたいだな。そうさ、俺が関わったのは確かだ。だけど、俺がそいつを殺したわけじゃぁない。そいつは誓って、俺ではないといっていい」
 彼女の瞳を見据えていった俺に対し、綾子ちゃんは何かいいかけようとして、すぐに口をつぐんで眉をひそめながら目を伏せる。まるで、何か言い訳をいおうとしてやめた、子供みたいな仕種だ。
「……探偵みたいなものだといってましたよね。あれは」
 なんとか言葉を探していったらしい彼女に、俺はまくし立てるように告げる。
「決して嘘をいったつもりはない。職業柄、探偵の真似事みたいなことはしないといけないからな。探偵よりも、はるかにダーティーな仕事だっていいたいのなら、そいつも否定する気はないけどな」
「つまり、それは九鬼さんが、ひ、人殺しをしたっていうのを認める……ということですか」
 人を試すかのようなニュアンスを含んだ控えめな声で尋ねる綾子ちゃんに、胸がかすかに痛むと同時にどういうべきか、しばし考える。
 彼女の物言いからは俺が探偵ではなく、汚れ仕事をしているというのは間違いなく知っているようだけども、殺し屋なんてやっているということまでは知らないようにも思えるのだ。知らないと隠し通し続けるのは、言葉でいうほど簡単なことではない。
 こんなことをいうのもなんだが自身の性格上、それは難しいように思われるのだ。仮に今隠したとして、彼女をいつまでも危険に曝してしまうことになるような気がしてならない。いや、俺と関わり続けていれば、いずれ、将来どこかの時点で必ず危険になることは目に見えていることだと、何度も自答していることではないか。
「そうだ。今さら隠し立てしても意味がなさそうだから、はっきり言おう。俺は人殺しだよ。君の思っているような人間じゃぁないんだ」
 幾分、荒げるような声になった気もするが仕方ない。もう彼女がこちらのことを知っていようがいまいが、いい加減はっきりとさせておくべきだ。俺は自分をそう言い聞かせながら続ける。
「成り行きでこんなところにまで連れてきてしまったが、もう帰れ。明日、朝一番に新幹線のチケットをやるから、もう帰ってくれ。そして、もう二度と俺とは関わるな」
 つっけんどんにいったつもりがどこかぎこちなくも思える台詞に、演技が下手だと内心呆れてしまう。けれども、下手な演技にも本気というのがこもっていることを、鋭い綾子ちゃんがわからないはずはない。ましてや、ホテルでヘリによる襲撃を体験したということもあって、俺のいっていることが満更でもないと理解できているはずではないか。
「……私がいたら、重荷になりますもんね」
 目を伏せたまま彼女は、自虐気味にぽつりとつぶやいた。いつもなら、そこまでされるとつい甘い顔をしてしまうところだがここは一つ、心を鬼にしておかなくてはならない。
「そういうことだ。とにかく君は、これまでの全てのことを忘れた方がいい。俺は君のことをもう忘れたいと思う」
 俺がそう告げたときだった。
「なんでそんな勝手なこというんですか」
 伏し目になっていた綾子ちゃんの瞳が真っすぐにこちらを捉え、彼女は詰め寄る。
「全てを忘れた方がいいだなんて、そんなの無理って決まってるのになんでそんなこというんですか。今までずっと九鬼さんのこと想ってきたことを無しになんて、できない……できるわけない」
 綾子ちゃんは、はだけている俺の胸に手をやり、額をもつけた。その瞬間、女特有の甘い香りが鼻腔をくすぐり、肌理きめの細かい肌が触れた個所が心地よく感じた。
「九鬼さんは私のことなんて、少しも想うことなんてなかったの……ねぇ」
 切なげな言葉を前に気持ちをぐっとこらえ、俺はわずかのあいだ、瞼を閉じる。
「……そうだ。俺は君のことを忘れるために、君の前から姿を消したんだ。だから今さらそんなことを言われたって、迷惑なだけなんだよ」
 いい終えるが早いか、俺はここぞとばかりに密着してきた彼女の両肩を、掴んで離した。驚きに綾子ちゃんが、こちらに顔を向けている。
「もう俺に構わないでくれ」
 明日も早いから君も寝ろと短く告げ、ベッドの中へ背中を向けて潜り込む。たまたまツインベッドの部屋だったこともあって、綾子ちゃんのほうを向かずにベッドに寝転がれるのは幸いだった。もしこれでダブルなんかだったら、とんでもなく気まずい思いで夜を過ごさねばならないところだ。現在も似たようなものだが、ベッドが別々なだけでもいくらかはマシだろう。
 しばらくして、衣服の擦れる音のあとに、ベッドへと潜り込む音がしたと同時に、部屋から灯りが消える。訪れた暗闇に静寂が紛れ込み、俺はようやく一息つくことができた。その証拠に、ふと、ため息をもらしていたのだ。
 このため息が安堵からくるものなのか、今ある憂いからなのか、あるいはどちらとも違う別の何かからのためなのか、俺に理解できるはずもなかった。

 カチャリというドアの閉められる音に、俺は目を覚ました。その音が部屋にいたもう一人が出ていった音だと気付くのに、幾ばくもなかったろう。
 すぐに眠りこけていたベッドから跳ね起き備え付けのデジタル時計に目をやると、時刻はまだ朝の七時にもなっていない。すぐさま隣に視線を移せば、案の定ベッドにいたはずの綾子ちゃんの姿はなく、白いシーツと枕のふくらみがあるだけだった。
 跳ね起きた俺は、即座にシャワールームにかけていた服をひっぺがし素早く着こむと、隠しておいた金と身の回りの物を掴んで部屋を飛び出る。足早にエレベーターへ向かうと運悪くエレベーターは動いており、すでに一階へと到着しているようだった。忙しなく二度三度と下降ボタンを押しはするが、一階についたばかりらしいエレベーターはすぐには上昇するはずもなく、俺はつま先で地団太を踏む。
 ようやく上昇が始まったと思うと、階上でも同じくして上昇ボタンを押したやつがいたのか、エレベーターはこの階を通り過ぎ、四階も上までいって、ようやく降りてきた。全く、急いでいるときに限ってどうしてこうも変に邪魔がはいるのか、不思議でならない。
 ようやく乗り込んだエレベーターから降りたときには、すでに時遅しといった感が漂っていた。フロントにはチェックアウトするらしい何組かの客の姿があったけれど、その中に綾子ちゃんの姿が見えないのだ。こうも早くホテルから出たのかという思いもありはしたが、姿がないということは、やはり外に出た後だということだろう。
「すまないが、今ここから女の子が一人出ていかなかっただろうか」
 なかば駆け足でフロントにやってきた俺は、トーンを抑えて尋ねる。すると、フロントマンはついさっきチェックしていったといい、さらに正面玄関付近に停まっていたタクシーに乗ったという。内心、舌打ちしながら努めて冷静に礼を告げたあと、正面玄関を出た。
 外は昨晩から続く雨のため、蒸し暑い。ホテルから出た途端、シャツの下に着た薄手のインナーが湿気によるものか、汗なのかわからない水分を吸水し始め、肌にへばりつくような感覚があった。この状態で外を出歩こうものなら、あっという間に汗でシャツまで染み込んできそうな勢いだ。
 しかし、そこでふと我に返った。
(俺は一体なにをしてるんだ)
 自分でつき放しておきながら、なんだって未練がましく追い出した彼女を追わなければならないのか。自分で選択したこととまるで矛盾していて、行動がちぐはぐではないか。寝起きで頭がどうにかしていたのか。いや、そうだとしても、ここまで行動を起こせるはずもないのでそれはない。やはり、未練があるとしか今はいいようがない。
 俺はもっと冷静になるよう自分に言い聞かせ、踵を返した。こんなときは、いつかの自分の選択を思い出す。綾子ちゃんと別れを告げる意味も含めて、真紀に誘われるままに薄汚く血に濡れた世界に足を踏み入れた、あのときを。
 第一、綾子ちゃんを巻きこまないという決意もあってのことだったはずなのに、こうして今まで彼女と共にいたことのほうが、むしろおかしいことなのだ。
 ……まぁいい。こうなったことは仕方ない。俺ともう二度と会うこともなければ、彼女に危害が及ぶことはないだろう。昨晩のはっきりとした拒絶に、綾子ちゃんもこちらの意思がわかったろうから、彼女から俺に会いたいと思うこともないはずだ。あとは時間が解決してくれる。彼女のとった行動にもそれが現れているはずだ。きっとそうに違いない。
 それでも後ろ髪ひかれる思いをかぶりを振って断ち切ると、ホテルの中へと舞い戻る。いつまでも未練がましく彼女の後を追うわけにはいかないし、こちらにはまだやることがいくつもある。今日にも早速、田神が依頼したという人物に会ってみるつもりなのだ。事が済み次第、田神と合流することにもなるだろう。
 やらなければならないことがある以上、綾子ちゃんを追うことは絶対にしてはいけない。



 ホテルを引き払った俺は、繁華街外れにある田神が拠点にしている雑居ビルに移った。ドッグであった宮部を見つけた、あのビルだ。田神の姿はなかったけども、あらかじめこちらに移ることは伝えてあるので、荷物があったとしても驚きはしないだろう。とはいっても、荷物らしい荷物もないのだが。
 荷物を置くと、すぐにもビルを出て早速、田神が分析を依頼した人物に会いにいった。田神はどうかは知らないが、俺にはどうしても気になることがあったのだ。
 最寄りの駅まで地下鉄を乗り継ぎ、教えられた道すじにそって目的の場所を目指す。地下鉄の出口から歩いて一〇分ほどの場所にあるらしいビルは、その通り、一〇分とかからない、やや寂れた感のある街の一角に建っていた。
 分析を依頼するような場所だから、なんとなく先入観から大学の研究施設か何かかと思っていたが、実際には目新しいものは当然、特別目立つようなものも何もない昭和の街並みの中に、うっそりと埋もれているような小さなビルだった。
 ビルの外壁には所々ひび割れができて、そこに汚れが入りこむように黒くなっていた。そこに割って入る形で、東洋テクニカルというカルプ文字の立体看板がとりつけられてある。夜になれば、中の電灯がともって、文字を浮き立たせることができるのだろう。正面玄関にやってくると、硬質で磨き上げられた鉄枠のに分厚そうなガラス戸になっていて、なるほど、確かに研究施設といった趣があった。
 自動ドアにはなっているみたいだったが、センサーが反応しているにも関わらず、一向に開く気配はない。横に設置されてあるインターフォンで呼び出さなくてはいけない作りになっているのも、聞いた通りだ。
「すみません。面会のため、奥田さんをお願いします」
 インターフォンを押すと、受付嬢らしい女の声とともに自動ドアが開かれ、案内された部屋へ向かって正面の階段をあがる。薄いグレーがかった壁と床が、どこか懐かしさを感じさせる。
「失礼します」
 奥田とだけ書かれた表札のかかった部屋の前にきた俺は、ノックし中へと入った。部屋の中は白塗りになった鉄製の棚が所狭しと並べられ、そこに何十とも何百とも知れない数の本と、それ以上にファイルされている資料らしいクリアファイルが置かれてあった。他にも何に使うのか知れたものではないような物があったりはするが、研究室という趣のある部屋だった。
「ああ、待ってましたよ。本田さんからお話は窺っていました。後で一人、男性の方が見えるだろうと」
 本田というのは、どうやら田神の偽名らしい。やつとて裏側世界の住人なのだから、偽名を使っていたとしてもなんの不思議はない。それにしても、俺がここをくることになることまで予見していたなんて、そちらのほうが驚きだ。まぁ、田神に限っていえば、それもあり得るなと妙な納得もできてしまうところなのだが。
 少し冷房がかかりすぎた部屋にいたのは夏用のベストに、白い長袖のシャツを着た四〇前後の眼鏡をかけた優男だった。頭のてっぺんがうっすらと禿げかかってはいるが、知的に鋭い瞳は、男の内側からあふれる自信の表れのように見える。
「早速ですが話を窺いたい」
 簡単な挨拶をすませ、前置きもなしに切り出した。
「本田がここに配列の再構築を依頼したと思うのですが、まずそれについて。あれは一体」
「ええ、私どもは以前より、長年に渡って配列について研究を行ってきているのですが、これに伴い、遺伝子との関係性も研究してきたのです」
「遺伝子?」
 思わぬ言葉に俺はつい聞き返していた。田神は入手したコピーにあった配列はプログラムのソースだといっていたけれども、奥田の話を詳しく聞くと、あれは遺伝子の配列をコードへ置き換えたもののようであるということだった。遺伝暗号と呼ばれるものをコンピュータのコードとかけて、ソースという形に置き換えたものではないかというのが奥田の見解らしい。
「なぜそう思ったんです」
「いえね、これと同じものを以前にも依頼されたことがありまして、もしかすると遺伝子に、なにか関係するものかもしれないと聞かされたんですよ。それで私自身も興味を持ったというのが一つ。もう一つは、あれが……」
「あれが?」
 いうべきことではないことだったのか、奥田は失言だったとやや慌てる動作を隠すようにかぶりを振る。
「いえ、なんでもありませんよ」
「そういうわけにはいかない。どんなことでもいい。話してもらえないか」
 思わせぶりな態度はごめんだ。俺は少しばかし語気を強めていったところ、奥田が恐縮げに驚いて目を泳がせる。いっていいものか、明らかに迷っているといった様子だ。
「……いえ、まだ確信、といいますか、なんといいますか……断言できる段階まで研究が進んでいないことなので……。できれば、これは完全なオフレコにしてほしい。もしかすると、あの配列の意味するものは、全く私たちが想像できない、未知なる領域に踏み込んでしまうものなのではないかという懸念があるんですよ」
 しどろもどろになってしまって、言葉を濁すようにいう奥田に俺は、内心苛立ちを覚えながらも冷静に落ち着き払い、それでもかまわないと告げる。島津での一件以来、沙弥佳のことが気がかりということもあって、とにかくあれがどんなものなのか、俺には少しでも知る必要がある。
 そんな俺の心情を察したわけでもないのだろうが、奥田は仕方なしといった具合に語りだした。
「信じられないことかもしれませんが、あれはもしかすると、人間の遺伝子を暗に配列化させたものかもしれないということです」
「そいつのどこが未知の領域だっていうんだ」
「人間の遺伝子、つまりヒトゲノムと呼ばれるものなのですが、これを基礎に、いくつかのパターンを作ることができるよう、配列を組み合わせてあるように思われるんです」
 よくわからない顔をしていたはずの俺に、奥田は噛み砕いて説明した。人間の遺伝子を塩基配列と呼ばれる化学構造を、ある特殊なコンピュータプログラムの配列に置き換え、ここに様々な命令文、式を当てはめていくことで、それに合ったカスタマイズをすることができるようになっているのだという。
「人体改造……といってもいいのか、それは」
「ええ。そういい換えても良いかも知れません。それも、遺伝子レベルでの。
 しかし、そのようなものは当然ながら机上の空論にすぎないと思います。あくまで、変換していくパズルゲームとでもいうのか、少なくとも現時点での実現は不可能といってもいい」
 素人目にはそもそも遺伝子の塩基配列を、コンピュータのプログラムに置き換えるという時点でどうかしているようにも思えるものだけども、そこには徹底かつ、膨大な数学的知識も詰め込まれているという話だから、それを作った奴は間違いなく天才といっても過言ではないだろう。馬鹿と天才紙一重とはよくぞいったものだ。
 しかも、様々な命令文は式というのも、やはりながら他の生物の塩基配列をプログラムに置き換えてあるものなので、それを組み込むことでなにをしようとしていたのかは、今の俺には漠然とではあるが理解できなくもないことだった。
 この話を聞いてまず最初に思いついたのが、あのゴメルのことだったのだ。そして、同様に地下施設で奇形化していた、なんらかの動物をベースにした化け物たち……。これには、ミスター・ベーアの屋敷で見た映像にもあった、あの影にしても同じことがいえる。もちろん、田神が手に入れた写真に写っていた正体不明のものにしても。
 さらに奥田は、これらのコードがきちんとフォーマットできるようプログラムされているという点も指摘した。これはすなわち、ある一定条件下において、量産を可能にしているということを示唆していることに他ならない。つまりこれは……。
「生物兵器か……」
「え?」
「いや、こっちの話だ。続けてくれ」
 思わず口にしていた不吉な言葉に、奥田は目を丸くする。田神の告げていた、ロシア国境近辺であったという謎の火災が生物兵器投入によるものだとするなら、あながちあり得ないことでもないかもしれない。
 文字通り、化け物じみた生命力と頑強な肉体は、そんじょそこらの銃では傷つけることなどできないし、奴らを倒すのに何ヘクタールとも知れない大火災を引き起こしてでも化け物を倒そうとしたというのなら、頷けないことではない。少なくともゴメルとやり合った俺なら、それで命が助かり、かつ化け物も倒せるというのなら安いものだと思う。
  しかし奥田は、最後に気になることを告げた。
「ですが、どうしてもわからないこともあるんです。もちろん、なぜこんなものを作ったのかというのは当然なのですけれど、どうにも判断の迷うところもあります」
「というと?」
「あなたは、最初の人類が女性であったという話を聞いたことがありますか」
 問いに頷いた。アフリカで見つかった最初の人類が女だったというのは、昔本で読んだ覚えがある。あまり詳しくないが女、つまり母親からしか受け継がれないDNAで、ミトコンドリアと呼ばれるDNAだ。これと最初の人類が女であるということと、おなじみの聖書に出てくる最初の女であるイヴにちなんで、ミトコンドリア・イヴと呼ばれることになったものだ。
 ミトコンドリアは最も原始的なDNAだそうで、全ての生物に組み込まれているらしいが、人類に当てはめて考えた場合、現在の人類が一人の女によって全てが生まれたとされるわけでもない。また、当然男にもミトコンドリアは含まれてはいるが、母親から受け継いだものしか残らないため、父方からのミトコンドリアは生き残れずに、消滅してしまうという。
 これはつまり、はるか悠久の時代において別の女から派生したミトコンドリアがあった場合、その女の遺伝子を受け継いだ者たちの一派から男しか生まれなかったとすると、その時点で、この女のミトコンドリアは絶滅するということだ。現在六〇億とも七〇億ともいわれる人類は、数十万年前に生きた女のミトコンドリアを受け継いでいることになり、キリスト教ではないが人類みな兄弟というのは、あながち嘘でもないのだ。
「解析を依頼されたあの配列には、どうもその塩基配列にはない、全く別の遺伝配列がなされているんです。それこそ、今現在の人類のもつミトコンドリアとは別の……」
 なにか異常なことに気がついてしまったといわんばかりに、男が口をつぐんだ。太古に生きた女とは違う、また別の女の遺伝子が見つかったとするなら、それは確かに常軌を逸しているのかもしれない。少なくとも、これまでに見つからなかったのがおかしいとも思えるものだ。
 しかし、俺にはそれがなんであるのか、なかばわかっていた。元々、依頼したものの出所が、島津研究所であったことからも、全く別のものだという正体がNEAB-2であるということに。そして元を辿っていけば、ロシアに落ちたという隕石の中に含まれていた、新たな元素こそがそれなんではないかと……。

 田神が解析を依頼した研究所を訪れてからというもの、すでに二日が過ぎた。俺は近くの古いアパートの空き室から、研究所を監視していた。宮部が死んだことにより手がかりが途絶えた以上、奴の手帳にあった松下薫の正体を突き止めるしか手立てがなくなってしまったのだ。
 二日前に研究所を訪れたときに、帰り際に以前にも例の配列図の解析をしてきた人間がいなかったかどうか、それとなく聞いてみたところ、田神の情報通り、女が一人、何週間かほど前に訪ねてきたという。どんな女だったのか聞いてみると、ボブカットのやや身長の高い女だったということで、名乗りはしなかったというけども件の女が松下薫であるという可能性が高まった。
 問題はこの松下がいつ現れるかということで、俺はまた借りができることを憂いながら田神に、道具を調達してもらえるよう指示を出し今に至る。もっとも田神にしても、今回の一連の流れがあながち自分の追う男に関係していないわけでもないというので、すぐにこれを了承し、必要なものを調達してくれた。
 研究所に裏口はあるけれど、周りは普通の住居が三方を囲んでいるため、わざわざ他人の家の敷地から入って裏口にいくことはないだろう。よって、監視すべきは正面玄関だけということで、監視が建物の立地条件のおかげで楽だということには感謝すべきところかもしれない。
「そろそろ交代の時間だ」
 双眼鏡を覗きこんでいた俺に、背後から田神が告げた。
「今のところ、まだ変化はないぜ」
 そういいながら双眼鏡を田神に手渡した。田神はいうまでもなくわかっているだろうが、小さく頷くと俺と位置を交代し見張りにつく。とりあえず交代は六時間ごとに決め、こうして張り付くようになってからもう丸っと四八時間が経過している。さすがになんの動きもないところを見張りでついているのも楽ではない。
 おまけに、長く続く雨は四日のあいだとめどなく降り続け、今日も空はどんよりと灰色に染まっている。幸運なのは、昨日までの叩きつけるような雨とは違い、いくらか降雨量は減っていることだった。
 ラジオのニュースでは、この数日間のゲリラ豪雨により土砂災害や河川の氾濫が起こり、ただならぬ災害が発生しているという。実際、近くの河川が溢れてしまったり、少し低くなっている個所においてはすでに浸水しているという話もあった。
 さらにはO市の地下街では大量の雨水が流れ込んできたことでテナントの従業員が逃げられなくなってしまい、溺死するというケースすら起こった。以前あった、九州や東海で起こった集中ゲリラ豪雨が今度はここ、関西に訪れたということなのだろう。
 日本にいれば起こり得る現象だというのは重々承知だとしても、仕事の都合上、いい加減止んでもらいたいところだ。それでも幸いにして、ここらはその影響をあまり受けていないのが幸運だった。
「どうやら、おいでなすったようだ」
 監視している田神が短くいって、双眼鏡を差し出す。俺は素早く取り上げると、研究所の正面玄関のほうを覗きこんだ。いる……そこに映っているのは確かにあの松下薫で、俺たちが監視していることも知らずに研究所に姿を現したのだ。そのまま松下は正面玄関に備え付けのインターフォンを押すと、わずかな時間をおいて開かれた自動ドアの向こうへと姿を消した。
「多分、そう時間をかけずにまた出てくるはずだ」
 田神の言葉に頷いた。そうだろう。松下がここに用があったとすれば、例の解析を依頼した配列図を受け取りにきた以外、なにもない。彼女がどうしたわけでこんなところに現れたのか……いや違う。なぜあの宮部と会うことになっていたのか、それをきっちりと問い詰めなくてはならない。俺はそのために、こんな辛気臭いところで二日も待っていたのだ。
「そろそろ準備しておく」
 とはいっても大した準備もないが、俺はすぐにでも出かけることができるようにしておく。研究所から出た松下が元来た道に出て、このアパートの前にある道とぶつかるのは歩きであっても、ほんの二分か三分というところだろう。もしかすると、反対方向へと歩いていくことも充分に考えられる。
 部屋の玄関へきたとき田神の、出てきた、という声を合図に廊下へと出て音を鳴り響かせないよう注意しながら、足早に階段を降りて道に出た。ビニール傘で顔を隠すように低く差し、歩きだす。その際に部屋からまだ監視を続けているだろう、田神のほうをちらりと見やると、やつが指で松下が向かった方向を指し示して見せた。
 外はこの数日の降りしきる雨のために、さすがに真夏の暑さは息をひそめ空気は冷たく、長袖の上着が一枚ほしいと思える肌寒さだった。しかし今は贅沢などいってはいられない。俺は足元が水に濡れることはお構いなしに、普段と変わらぬ足どりで歩き研究所前の道との十字路にぶつかった。
 田神の指し示した方向によれば、松下は予想通り、来た道とは反対方向へと歩いていった。だが俺が研究所前についたときにはすでに遅く、松下の姿ははあっという間に途上から消えていたのだ。
 俺は舌打ちしながら足早に道なりに進むと、最初の路地にきたところで左右を確認し、さらに真っすぐ進んだ。研究所のほうは、田神がいくことになっているので放っておいていいとしても、松下の姿を見失うわけにはいかなかった。ようやく掴んだ、かすかな足どりをみすみす失うことなど、愚の骨頂である。
 二本目の路地にきたとき、左手に松下らしい女の傘をさして歩く後ろ姿が、はるか先に映る。その後ろ姿を追い、十字路を曲がった。厄介なことに、この道はこのまま真っすぐいくと大きな通りにぶつかっており、松下がそこでタクシーを拾いかねない。もしタクシーに乗り込もうものなら、完全に撒かれてしまう。そうした焦りからか、雨の中だというのに自然と足が速くなっていった。
 幸い、信号らしい信号もない道であることが俺に味方した。ひたすらに真っすぐ歩き続ける松下から、ほんの十数メートルほど後ろのところにまで追いつくことができたのだ。ここからなら、仮に松下がタクシーに乗ろうとしても、なんとか対処できる。しかも、傘に降りつける雨音で、足音がかき消されるのも有利な点といっていい。
 案の定松下は、大通りにぶつかったところでやや拓けた街のほうへ向かって、右に折れた。こちらもそれに続いて右に曲がる。女の目的地がどこなのかはっきりとはしないけれども、いい所でとっ捕まえてやるつもりだった。
 その際には、どれから尋問すべきか頭をめぐっていた時だ。十数メートル先をいっていた松下の姿が忽然と消えたのだ。
 俺は眉をひそめ、半ば小走りに消えたあたりへ急ぐ。そこに移動したところで、姿の消えた理由がすぐに解けた。右手には大人向けといった具合の雰囲気があるレストランが、道沿いに並ぶ建物からは少し窪むように佇んでおり、窪み具合からてっきり道かと思っていたが、そうではなかったらしい。
 ここ以外にすぐに入れそうな場所はないことからも、このレストランに入っていったとみてまず間違いない。蔦などの蔓にびっしりと覆われ壁の色など判別はつかず、一階には二つ、二階には四つずつそれぞれ窓が仕切られてあるレストランは、出入り口のところに『 ресторан 』と書かれた控えめな看板が掲げられている。
 ペクトパー……俺の拙い外国語知識の中にも、この単語はあった。確かロシア語で、日本語にするのならばそのまま食事処、つまりレストランを意味する言葉だったはずで、以前任務でロシアに赴いた際に、この単語を何度となく目にした記憶があった。俺は小さくため息をはき、レストランへと入っていった。
「いらっしゃいませ」
「すまない。今きた女性の連れなんだが」
 すると接客した店員は、すぐにも松下のことだと気付きを案内しはじめた。
 店内の様子は、とても日本とは思えない本格的な作りとなっていて暖炉から椅子、テーブル、それに壁にかけられているインテリアの数々が、本場ロシアからの輸入品ばかりのせいもあるからか、ロシアの寒々しさの中に温かみも感じる、そんな雰囲気になっている。
 そんな中を店のやや中央に設置された木の階段で二階へとあがり、奥まったところにある個室へと案内される。
「お客様、お連れの方がお見えになりました」
 接客態度はそこらのレストランとは比べ物にならないくらい上品であるらしく、とてもこんなラフな格好でこれるような場所ではなかったのかもしれない。少なくとも、この店員の態度からはそういう雰囲気がどことなく漂っている気がする。まぁ、自分を卑下し過ぎであることも確かではあるが。
「そう。ありがとう」
 では、と軽く会釈をして去った店員を尻目に、俺はビジネスライクな態度で個室へと入り、松下の前に座った。
「……あなた」
「久しぶりだな」
 まさか待ち人が俺とは思いもしなかったろう、驚愕に目を見開いた女を前に、こちらの声もどことなく低くなっている。まさか自分が尾行されているなんて考えは、なかったに違いない。
 俺は再び、どれから尋問すべきか思案させながら、薄く笑みを浮かべた。



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