いつか見た夢

B&B

第100章


 雑踏のざわめきが茜色から淡い群青に染まろうという頃、シンガポールの繁華街からわずかに外れた一画にある高級ホテルではそれらのざわめきとは別のざわめきが沸き起こっていた。何十という警察官がバリケードの中にたむろし、ついさっき起こった凄惨な事件に居合わせた人々に聞き込みを行っていた。中にはシンガポール警察とは一見関係のなさそうな、海外の軍人の姿もあった。
 それもそのはずで、事件の被害者となったのがシンガポールの外交上、非常に大きなパイプを持った人物たちであるのが、その大きな要因だったのだ。シンガポールの外交官から内閣府大臣、さらにはイギリス連邦の加盟国として最も重要なポストである高等弁務官の死――。こうも国の重役たちが一挙に命を落としたとあれば、警察だけでなく、軍の関係者も動くというのは当然の成り行きであった。
 そんな中、偶然その場に居合わせた幾人かの日本人の姿もあり、彼らもまた殺気立つ地元警察や軍人たちから聴取を受け、今しがたようやく解放されたところらしかった。
「ったく、いくら容疑者かもしれないっていうだけでこんなにも融通がきかないとは、同じ警察官として腹が立つぜ」
 聴取した警察官たちに睨みをつけながら、解放された大柄な男がそう悪態をついた。
「そういうな。これが逆の立場であれば、我々とて同じことをしていたに違いないんだから仕方がない。それよりも予想以上に早く終わったんだから、そこは幸運に思うべきだ」
「ちっ、お前は甘いぜ、佐々木」
 佐々木と呼ばれた男は、大柄で粗暴さを滲み出している男と比べ身長こそ高いがスラリとした体躯をしていて、落ち着き払った口調で続ける。
「それよりも里見のほうが心配だな。何事もないとは思うが……」
「あいつは見かけ以上に鈍くさいからな。こうなるとわかってりゃ、こんなところまで連れてくるんじゃなかった」
「南部は畠さんが亡くなってから、随分と里見に目をかけるようになったな」
 佐々木がふと口にした畠という名に反応し、南部という大柄な男が低い声でいった。
「おい佐々木、畠さんの名前を出すんじゃねえ。畠さんの死と里見はなんの関係もないんだ。くそっ……あの九鬼とかいう野郎を追ってシンガポールにまできたってのに、ミイラ取りがミイラだなんて本末転倒だぜ。本当に奴はこの国にいるのか」
「前後の関係を信じるなら、おそらく」
「お前は本当に冷静なやつだな」
 南部の皮肉になっていない皮肉を苦笑で聞き流し、佐々木はごった返すホテルのロビーを見渡す。ああはいったものの南部の疑問も確かで、本当にこのシンガポールに九鬼という名の指名手配犯がいるのか定かではなく、仮にいたとしてもそれを探し出す手立てすら今の自分たちにはなかったのだ。
 もう一週間ほど前のことになるが、彼がこのシンガポールに潜伏しているのではないかというタレコミがあったのだ。きっかけといえば、佐々木や南部の上司だった刑事である畠が、春に起こった真田暗殺事件の犯人と目される男の潜伏場所が判明したことで、彼が現場の陣頭指揮をとった際に現れた男、九鬼によって射殺され命を落とした。
 なんともショッキングなことではあったが、九鬼は畠ばかりかバリケードを作っていた警察官数名を殺害、および重体に追い込むなどといった芸当を見せ逃走するも、幸か不幸かバリケードを抜けた直後に車と接触し、そこをなんとか逮捕することにいたった。
 佐々木も現場に居合わせた一人でもあったが目撃した人間の一人としていえば、あれはとても凶悪な現場に慣れていない人間に相手ができるような人間ではないといっていい。なんの躊躇いもなく銃を正確に撃ち込んだばかりか、人間同士の絡み合いからもいかに相手の息の根を止めるかを実践している人間の動きであったように思えたのだ。
 これまでも、何度となくあのときのような状況に陥ってきたのだろう。それほどまでに九鬼という男はあまりに場慣れしており、それほど凶悪事件に立ち合った経験のない我々では到底かなわないような、そんな男だった。そんな男がどうしてシンガポールになどきているのか、佐々木には少しばかりの興味があったというのが本音だった。
 だからか、署内にある個人用のアドレスボックスに一通のメールに添付されていた顔写真の写ったファイルを見たときは、いささか目を疑うと同時に興奮もしたものだった。画像に写っていたのはあるホテルらしいラウンジで、ゆったりと過ごす九鬼の姿があった。その画像にはどこで映されたものかを示すために日付や時間を表す数字の横に、シンガポールであると三文字のアルファベットがあったことで、足がついたということになる。
 九鬼がシンガポールにいる。この事実は南部を掻き立てるのに十分すぎるものであり、当然彼はシンガポールへ派遣してほしいと上に直訴するも、経費や外交上の問題といった様々な事情により却下されるに至った。だがこんなことで挫けるような男ではないことを知っていた佐々木は、密かにシンガポールへのチケットを自腹で切って買い付け、ようやくこの国にまで辿りついたわけだ。
 直前にその事実を知った若い女刑事である里見は、来なくてもいいのに自分も行くと、半ば強引にひっついてきた形だ。佐々木は終始反対の姿勢であったが、変なところに気の弱い南部が折れたことで仕方なく彼女の分の航空券も買ったのである。
 こうしてシンガポールにやってきて三日目、三人のなんのコネもない国での活動は困難を極めた。いくら日本の警察だといったところで、だからどうしたという態度で門前払いを食らってしまったのだ。それどころか、警察の人間であることでより一層不信感をもたれてしまうという、とんだお笑い種だった。
 それでもなんとか繁華街裏手にある酒屋に赴いた晩、ようやく政府の重役や財界の重鎮などが集まるパーティがあるという噂を、佐々木は掴んだのだ。このときほど、佐々木自身の英語力に助けられたことはなかったかもしれない。そしてこれがどのほどのものかご当地のメディアを通じて調べてみたところ、これが非常に大きな会合であり、今後国の経済発展のための重要な催しであることを突き止めた。そして中に、日系人の重役もいることから彼に縁のある者だとして、ここに潜入することになったのである。
「それにしてもこの騒ぎ、やはり九鬼の仕業なんだろうか」
 佐々木がそう口にしたとき、警察官二人に連れられてまだ頼りなさの見える新人女刑事、里見がバリケードから通されてやってきた。
「長かったな。大丈夫か」
「は、はい。警察といってあんなに信用されないだなんて、本当に法治国家なのかと疑ってしまいますよ」
「仕方ない。どうやら、この事件は我々外国人に踏み込んでもらいたくない理由があるんだろう。見てみるといい、この軍人の多さを。いくら警察官だとしても、身分を偽るだけでなく、実際にはなんの関係もなかったとすれば、なお信用などされないだろう」
 こう告げた佐々木に南部が頷く。
「俺を取り調べた厭味っぽい野郎がいってたぜ、警視庁に連絡いれるとよ。こりゃ早めにことを済ませないと、シンガポールくんだりにまできた意味がなくなっちまうぜ」
 間違いないだろう。こうなった以上、シンガポール警察が”丁重に”空港まで送りだしてくるのは目に見えている。佐々木とて、気持ちは南部と同じで、ここまできたからにはなんとしても九鬼の居場所を突き止めるつもりだった。なんとかしてこの状況をかいかぐり、あの男の足取りを掴むにはどうすればいいのか、佐々木は頭を最大限に働かせ始めた。



 つるつるに磨き上げられた白い廊下を走っていた俺は、突き当たりにあった階段をも上りきった先にある部屋へと勢いよく駆け込むと、直前に構えてたライフルの引き金を引く。
 瞬く間に弾倉からは何十発もの弾丸がなくなっていき、部屋中の壁や床に銃創による穴とライアンらと姿を消した黒服の連中をなぎ倒す。
 だが向こうもプロだ。こちらの攻撃に黙っているはずはなく、物陰に隠れていた連中が三人、こちらの隙を狙って迎撃する。部屋に入ったと同時に瞬時に中の様子を見ていた俺は、相手の反撃から逃れるために身を投げて壁の窪みに滑り込む。
 勢いがありすぎたためか、壁に手や肩をうちつけるがそんなことを気にしている余裕はない。すぐに体勢を整え、攻撃が一旦止んだところをすかさず反撃する。これによりまず身を隠すことのできなかった黒服をまず一人、続いて身を滑り出すように中央部分にある台へと走り出す。
 この隙をついて、再び連中による弾丸の嵐が俺の周りを飛び交い、息つく間すら与えない。磨き上げられた床は滑って思うように走ることができないので、走っても止まるときのブレーキの効きも悪い。このせいで、台の前で止まろうとした俺は、再び台に身体をぶつけた。
 身体をやたらこちらにぶつけながらも、今しがたと同様に体勢を整えるとすぐさま台の影から二人が身を隠している辺りに向かって、ライフルをぶち込む。一人が攻撃を止めればもう一人がといった具合に、うまいコンビネーションで仕掛けてきた連中もさすがに激しい銃撃戦の末、ついに弾切れになったらしい。リズム良く続いていた攻撃が一瞬だがピタリと止む。
(今だ)
 このときを待っていた俺は、直前に銃をフルオートからセミオートに変えておき台の上を滑って連中にそれぞれ一発ずつぶち込んだ。残念ながら二発とも二人の息の根を止めることはできなかったらしい。苦悶の声をあげながら、撃たれた部位を押さえるように倒れこんだ。
 手応えはあったが、あの様子では致命傷にはなっていないのは感覚でわかる。これで十分だ。片付けてやってもいいが、この部屋にライアンと桜井の姿はない。悪鬼と化した松下が気を失ったのをみて、すぐに脱出経路を使って逃げたのだ。
 ここと先ほどのフロアを繋ぐ廊下は一本で繋がっていたので、後ろの廊下を使ったわけではないのは間違いない。黒服が逃げずにこの部屋で待ち伏せしていたことからも、ここから先にまだ別の通路があると考えていい。
 こう結論付けて二人の後を追い部屋をし切っている壁を越えると、目の前に大きなガラス張りになった空間が広がる。一面のガラスは口の字を描くようにガラス張りの先にある空間を見下ろす形ですえつけられてある。そのガラスを見下ろせば、その空間はついさっきまで俺が囚われていた空間になっていた。ここからライアンと桜井の二人は、俺と松下の攻防を見学していたというわけだ。
 ガラスを銃の柄で強めに叩いてみるがビクともしない。強化ガラスであることには間違いないが、かなりの分厚さを持っているようだ。しかも予想通り、マジックミラーになっているのもよくわかった。確かにこれならば連中が踏ん反り返って下の様子を見ていたというのも頷ける。
 向かって左側には松下が壁にぶち抜いた大穴がありありと見て取れる。ここから見ると、下の空間の壁や床には至るところにひび割れができているのがわかる。もちろんそれらは全て松下が踏みつけたり、俺に攻撃をしかけてきた際にできたものばかりで、いくら悪鬼に変貌してしまったとはいえ生み出される力がいかに凄まじかったかを窺わせる。改めて、自分がとんでもない賭けに出たものだと妙に関心してしまう。
 俺は下の空間を見下ろすことをやめ、ざっとここがどうなっているのか見回してみるとどうやらここは、部屋の最深部にあたる場所らしい。ここ自体が口の字に張られたガラス張りの壁の反対に平行して壁が取り囲んでいる。となると、ここのどこかに秘密の通路に抜けるためのボタンなりスイッチなりがあるはずだ。
 下のフロアにいたときも、ドアの開閉から俺を拘束から解放したとき、床からせり上がってきた銃といったことがあり、これらがここから操作されたものだと考えるのは当然だろう。電波を飛ばして操作する類のものであったとしたら、とんだ誤算になるがおそらくそれはない。どれだけ科学が発展しようが、こうした仕掛けというのは必ず手動で操作できるようになっているものなのだ。
 確信めいてあたりの壁を見回すと、ガラスが張られている壁に妙な出っ張りがついているのが見えた。一歩二歩とその出っ張りを引っ張ったり押し上げたり、あるいは押してみたところ、カシンと奥から小さな反動があってかすかに音がする。
 ビンゴだ。出っ張りを押したことで四方一メートルほどの床が両開きになり、そこから何個もの押しボタン式スイッチのついた台が静かにせり上がってきた。もちろん、それらにはご丁寧にもボタンが何を意味しているのか示されてある。
 当然俺の求めていたものもあり、”ex”と描かれたボタンを押す。おそらくEXIT、あるいはエスケープの語源となったラテン語からの頭文字を略したものであろう。案の定、左手の壁がやはり音もなく上に向かって開くと、そこに大人二人が並んで歩けるかどうかの幅の通路が現れた。無音というのがなんとも近未来的だ。俺は足早に通路へと進むと、二人に追いつくために走り出す。感知式になっているのか俺が通路の入り口から離れていくと、開いた入り口の扉は今度も音を立てることなく閉まった。
 走っていくうちにこの通路が平たんなものではなく、緩やかに上り調子になっていることに気付いた。始めのうちは緩やかさも穏やかだったがそれもだんだんと、しかし明らかにきつくなったてきていた。そして上昇と同様に、右に向かって緩やかな螺旋を描いているのも判ったのだ。緩やかな螺旋状に造られているということはすなわち、ここは非常に大きな建造物の中なのかもしれない。
 そこで俺の頭の中にあることが思い浮かぶ。巨大建造施設というのはもしや、ライアンが派遣されて造られるはずの例の研究施設のことではないのか、と。もちろん推測にすぎないけれども、もうどれだけ走っているのか、そろそろ走る息も乱れだしてきていることから、数分といわず走っているはずだ。大の大人が何分も走り続けてもなお出口の見えない巨大な螺旋通路は、それだけでこの建造物の大きさを物語っているといっていいので、そうとしか思えないのだ。
 ここがそうだとすれば、今俺は海の上、もしくは海の中ということになるが本当にそうなのか。ライアンや数日前に桜井のいった話が本当だとすれば、まだそんな研究施設はないはずだがこれはどういうことなのか。しかし、今のところ俺の記憶にはそれ以外に当てはまるピースはなく、連中の話がどこまで本当だったのか鵜呑みにするべきではないという観点からすれば、元々建造が開始されていたとしても不思議はないが。
 まぁいい。わからないことをあれこれと考えるより、今はライアンと桜井が先だ。それにしても、まだこの通路は続くのだろうか。途中、通路にドアなどは一切なく、確実に一直線になっているはずなのは確認しているけども、桜井はともかく、ライアンのチビまでがこんなにも早く先行しているというのはおかしい気がする。子供とそう差のない足のライアンが桜井と肩を並べて走るなんて、とてもできることではないのに、桜井はおろか、ライアンの影すら見えないのはおかしい。
 さすがにスピードダウンしてきたところで、ほんの少しだけ小休止のために足を止めて背を壁にもたれさせる。ひんやりとした壁の冷たさがなんとも心地いい。
「……なんの音だ、これは」
 壁を背にしたことで、表面にごんごんと不気味に響く音がかすかに伝わってくる。最初は運動の直後による激しい動悸かと思ったが違う。これは間違いなくこの建物の中から響いてきている。
 音は筒状になっていると、本来拡散していく音波が広がらない代わりに筒の中を伝わっていくので反響しやすいのだ。これは小学校の頃に糸電話の実験なんかをしたことがあったが、まさに同じ原理だ。音波を伝える線が小さいほど、音はより強くはっきりと、正確に伝える性質がある。つまり低音に響いて聞こえるだけ、それほどにこの建物が深い円筒状の建造物ということになる。
 するとなおのこと、この建造物が例の実験施設と間違いないだろう。このシンガポールに、いや世界広しといえどもそれほどの規模のものなどそうそう建設できるはずがない。かつてN市にあったTビルへと潜入したときも、街のど真ん中の地下にあるとは思えないほどの広さだったと記憶しているが、ここはおそらくそれを はるかに上回る規模だろう。
 一度だけ深呼吸をして俺は再びこの坂の通路を駆け出した。いくらここが巨大な建造物であろうと、終わりがないわけでもないのだからとにかく今は、少しでも二人に追いつくことを考えるべきだ。松下のこともあるが、落とし前をつけなければ気が気でないのだ。
 気休めになりそうな窓やドアもない通路をひたすら上がっていった俺に、ようやく出口が見えた。どれだけのあいだ走り続けていたのかわからないけれども、ようやくこの上り坂地獄から解放されることができるらしい。出口は入り口と同様の白い壁が緑色の枠に縁取りされたものになっていて、おそらくこれも上に無音でせり上がる仕組みになっているだろう。
 俺が扉の前にやってくると、やはり静かに上へと開き一気に視界が開ける。正直なところ、延々と続く上り調子の通路に嫌気がさしていたので、ほっとする部分があったのは間違いない。閉所恐怖症というわけではないが、どことななく不安にさせられる気になっていたというのが正直のところだった。
 こんな理由から開放感に浸れはしたもののそんなものは一瞬だけで、俺は目にした光景を前に眉をひそめる。そこにあったのは、とても巨大な装置か何かに見えるもので、それが一体なんであるのか俺にはまるで理解できないものが鎮座していたのだ。
 いや、鎮座なんて生易しいものではない。そう、まるでこの装置らしきもののためにこの施設そのものがあるかのようにすら思えるほど、それは巨大で、見る者の心を捉え圧倒していた。
「何かの装置、なのか」
 圧倒されていた俺は、無意識にそうつぶやいていた。ゆっくりとその装置らしい機械のほうへと歩み寄る。真ん中には直径三〇か、あるいは四〇メートルにはなりそうな穴がぽっかりと開き、穴の奥行きもここから見る限り数十メートルは間違いなくあるだろう。その穴を補強するかのように据え付けられた太いパイプが二〇本、穴を囲むように八角形を象っていた。それらを形成する金属の鈍い光が、なんとも不気味に見え、どことなく異世界へ繋がっている大穴に思えてくる。
 そんな装置らしいものの周りには、今立っているこの場所も含め幅のある通路がぐるりと囲んでいて、転落防止用の手すりがどことなく閲覧のために取り付けてあるようにすら見えてくる。手すりから真下を覗き込むと、目測でも少なくとも一〇〇メートルには達する深さの巨大な吹き抜けになっているのが判り、底にはなんのためなのか円筒状のものが三つ横になって並んでいた。円筒状のものの前にはレールが敷かれており、それが目の前の装置らしいもののところにまで上げることができるような仕組みになっているようだった。
 しかし、そのどれもが一部分をビニールのブルーシートに包まれていたりテープで剥がれないようにされていたりするなど、これが装置だとしても試験運用段階にすらなっていないことを窺わせる。これが一体なんなのか、俺にはさっぱり理解できないかったが、ただこれこそが奴らの実験の道具なのだと漠然とした思いで、それを見つめていた。
 そのときだった。突然ホールと呼ぶにはあまりに広すぎるこのフロアに、気に食わない笑い声が響き渡る。
「やはりここまできましたね、クキ」
「ライアン、どこに隠れてやがる、出てこいっ」
 ひどく反響がするために、どこから声がしたのか見当もつかない俺は、あたりを見渡しながら叫ぶ。ライアンがいるということは、近くに桜井の野郎もいるに違いない。これまでのところライアンに何かできるとは思えないが、奴にだけは気をつけなければどこから不意打ちを食らうか知れたものではない。
「そう喚かなくてもいい。ここにいますよ」
 俺のいる場所から吹き抜けを挟んで、さらにもう一階高い所からライアンの野郎が姿を現した。姿を見せたのは奴一人で、そこに桜井の姿はなく、どこかに潜んでいるのかもしれない。周囲に気を配りながら返す。
「ここは一体どこなんだ。まさかお前たちが建造しようとしている研究施設じゃぁないだろうな」
「おや、気付いていましたか。そうですよ、そのまさかです。ここは私たちが密かに建造を進めていた場所……Higf Energy Accelerator Organization ob COMMONWEALTHです」
 イギリス連邦高エネルギー加速粒子研究機構、平たく訳せばそんなところか。あえてイギリス連邦と付けるあたりがなんとも”らしい”感じがする名称ではないか。いや、コモンウェルスなんていいはするがイギリスそのものを指す意味合いがあるので、実際のところはブリティッシュ、ユナイテッド・キングダムというほうがこいつらの感覚としては近いだろう。いくら連邦加盟国とはいえ、シンガポールそれそのものにこの研究施設を使わせる気など、本国の中枢に巣食う連中に毛頭あるはずがない。
「俺にはこいつがどう作用するのかわからんが、これがタイムマシンってわけだ。……しかし、こんな機械で本当にそんなことができるのか、俺には甚だ疑問だね」
「まぁ、一見すればそうでしょうね。これの研究と建造に携わった私ですらそう思うのだから、第三者から見ればなおのことでしょう。しかし、疑問の余地もなく、これこそ間違いなく私の、私たちの辿り着いた究極の装置なのです」
 人に二の句を告げさせない口調で断言したライアンは、傍らにある自身すら飲み込みかねないあまりに巨大過ぎる装置に視線を移した。それにつられて、俺も迫力のあまり妙な重圧感をさせる装置に目をやった。この巨大さは、ここにいる俺やライアンだけではなく、地球上にいる全ての人間を飲み込み、巻き込みかねない何かを感じさせるのだ。それはあまりに異様で、不気味な何かをこれは持っている気がしてならなかった。
 そうだ。これは本当に例のタイムワープのための装置であるというのなら、俺やライアンだけでなく全人類に少なかれ影響を与えかねないものであるのかもしれないのだ。そう、これが本当にそうであるのなら。
「こいつで本当に時間を飛び越えていけるのか。そのとき世界に与える影響は」
 俺はふとした疑問からそう口をついていた。まさか俺の口からそんな言葉が飛び出てくるとは思わなかったのだろう、ライアンは少し驚いた表情を作って怪訝そうに返してくる。
「様々な議論をしている段階です。もう少し時間をかけられればいいのですが、そうもいきそうにない。それもあって、自身の研究とサカガミにも手伝ってもらおうとしていたんですがね」
「坂上に? どういうことだ」
「どういうこともなにも、そのままの意味ですよ。彼は不死の研究を進めていたのはすでに知っての通りですね。彼の実験で完成したものを、生物実験の対象とすることでこちらの人的被害を抑えようと考えていた。もし、不死というものが存在すれば、それは即ちいくらでも実験に使えるというわけですからね」
 まるでそれが当然かのようにいった矮人に、今度はこちらが眉をひそめる番だった。やはりこいつはどう考えても気が違っているらしい。しかし、これである程度の概要が知ることができた。かつてアメリカで行われたという実験にしろ今回にしろ、なぜこうも複数方面から学者たちが集められたのか、納得がいったのだ。
 奴らにとって、通常人間が持ちうる倫理観など全く不必要なものなのだ。そもそも倫理観自体持ち合わせているのかも疑問だが、そんな実験のために妹は、沙弥佳はモルモットにされたというのか。
 沙弥佳だけじゃない。島津の実験材料として補給するためのシステムとして機能していた、あの鳳凰館に囚われた子供たちだって同じだ。俺が善人であるはずもないし、そうでありたいとも思わないが、これだけは誓っていえる。やはり、この世には地獄に叩き落してやらなければならない人間というのは間違いなくいるのだ。
「ただ、私はタイムワープが成功したとしても、世界に与える影響は問題ないと考えています。もっといえば、極々わずかにですが世界が変質すると考えている」
「変質」
「そう。君のいっていることは俗にいうタイムパラドックスのことでしょう。例えば現在我々が存在する時間軸上から過去の時間軸上に飛ぶことで、本来存在しない自分という人間がいることで世界に影響を与え、現在から見て過去にあったことが無くなってしまい、さらにはその結果現在が変わってしまうかもしれない、そのことでしょう。
 だがね、このタイムパラドックス説はあくまで仮説に過ぎない。たとえ現在の時間軸上から過去の時間軸に飛んだとしても、その時点で歴史がそうであったという形で修正されるんです。つまり、仮に君がこの時間軸から過去の時間軸に飛んだとすると、その時点から初めからそこに君がいたという歴史になるわけですよ」
 説明に俺は間違いなく疑問符を浮かべた表情をしていたに違いない。ライアンはそんな俺を察してか知らないが、更なる説明を続ける。
「今、君が過去に飛んだとしましょう。本来であればその世界に君はいないが、”現在我々が存在する時間軸から君が飛んでくることが歴史である世界”に変わるわけです。まぁ、言い換えれば並行世界という奴がニュアンスとして近いでしょうかね。このことから、君が過去へ行きそこで過去の自分に出会ったところで影響はないんですよ。なぜならば過去に生きた自分のいる世界と、過去へと飛んだ自分の世界は違うからです。
 つまり、今まで自分のいた世界とはわずかに違う世界に飛ぶわけだ。これはまだ推測ですが、これまで全く同一の時間、歴史を刻んできた時間軸から、君がこの装置を使って似ているがわずかに違う世界へ飛ぶことで、そこから違う歴史が始まるのだと考える。一方は君が別世界へと飛んで行きいなくなった世界、もう一方は君のいた世界から別世界に飛んできた君がいる世界の二つができるというわけです。
 おそらく、誰かが時間を飛び越えた時点で、そこからはまた違う歴史を持った世界ができる。これはすなわち、世界が無限に広がる、もしくは広がっているということになる。これでタイムパラドックスは解決というわけですよ。もっとも、これを一〇〇%証明できることはほぼ不可能に近いかもしれませんが」
 説明を終えたライアンを見ていた俺は、その途方もない話に息を呑んで沈黙した。自分が知覚できないだけで、実際には似ているようで違う世界が無数に存在し、そこにはやはり無数の俺という人間が存在しているというのだ。そんなおとぎ話もいいところの話を鵜呑みにするわけにもいかないが、どういうわけかそれを半ば信じている自分がいるのも事実だった。そして先ほどから頭の中で渦巻く一つの疑問を、この矮人にぶつけてみることにした。
「あんたの話が嘘か本当かはこの際置いておくとしよう。説明を理解するうえで聞くが、それは俺が時間を飛び越えるとして、今いる時間軸と同じ時間軸上の過去には行くことはできないということか」
「端的にいえばそうなるでしょう。例えば君が同時間軸上で一〇年前の過去に飛んだとする。一〇年前の過去に辿り着いた時点で、そこから未来から飛んできた君のいるという歴史観に変わるわけですから。この時点から、似ているようでわずかに違う歴史を歩むべき世界が構築され、新しい時間軸を持った世界が生まれる」
 やはりそうなるのか。ライアンの説明を受けて、俺は変な期待を持っている自分を嘲った。過去に飛んだところで自身の歴史を変えることはできないというわけだから、俺という人間が歩んできた歴史、経験、知識が変わることはないのだ。それはつまり、沙弥佳を失ったあの日に戻ってやり直そうとしたところで全く違う歴史と時間軸なのだから、俺がかつて体験した、あのどうしようもない喪失感と後悔の念を払拭することなどできないというわけだ。
 俺は自嘲の意味を込めてニヤリと唇を歪め、小さくかぶりを振った。何を考えているというのだ俺は。ついライアンの寅話に耳を傾けすぎたきらいがあるが、いくら正論であろうとそれが行われ成功したという証明ができない以上、それを鵜呑みにする必要はない。第一、過ちから沙弥佳を失いはしたが、あいつはまだこの世で確かに生きているのだ。そいつを否定して、過去の甘い誘惑に乗るほど滑稽ではない。あくまで俺が求めているのは、どんな結末であれ、これまでを否定せずに結果を伴うことにこそ意味があるものなのだ。
 それにしても、そんな大それた装置を建造するだなんて、全く持ってご苦労なことだと皮肉ってやろうとした俺は、瞬間向けられた殺気を感じて後ろへ飛ぶ。直後に立っていたあたりの床に弾丸のはじける音がし、狙撃されたことがわかった。
「桜井かっ」
 うつ伏せなった身体をすぐに起こして叫ぶと同時に駆け出すと、するとやはり同じように床が弾ける音が反響する。やはり桜井の奴がどこからか狙っていたのだ。
 走る俺のすぐ足元をまた弾丸が飛ぶ。柱の影に身を滑り込ませると、そこで銃撃がやんだ。今桜井のいるポイントからは狙撃できないということらしい。となると、奴が今いる辺りは……。
 俺は頭をわずかに柱から出して狙撃のポイントになりそうな場所がどこかを探る。まず今まで俺のいたあたりから狙撃できそうなポイントを見つけてみようとするが、全体が筒状になったここではどこからでも狙撃しやすい形状になっている。それでも床が弾けたということは、少なくとも俺のいる階よりは高い場所にいるということだけは間違いない。
「止めなさい、桜井。ここでの銃撃戦はご法度だといったはず。一発で仕留められなかった時点で、今回も君の負けだ」
「今回もというのはどういうことだライアン」
「全く、君のその抜群の感覚、生存本能とでもいうのか。それは他の人間を凌駕していると褒めているのですよ。ゴキブリ並とはいったものだが、君の生き抜こうとする本能はそれすらも凌駕している。普通であれば、私と話しこんでいる時点で狙撃し当たる可能性はほぼ一〇〇%に近いはずですが。桜井の狙撃手としての腕は一流です。だというのに、君は今回に限らずこれまでも彼からの狙撃から無事に生還するという離れ業をやってのけている」
 今回に限らずだと? それはつまりこれまでに何度となく俺を狙撃してきたというのか。口走るライアンに向かって叫ぶ。
「そう。君は今まで彼に狙撃されてきた経験があるはずですよ。例えば日本でジャパニーズ・マフィアのビルで、例えば君の友人の部屋で……君は何度も桜井からの襲撃を受けたのにも関わらず、そのたびにどういうわけか怪我の一つも負うことなく生還しているんですよ」
 こいつは驚いた。確かに俺は、今まで何度かわけのわからない狙撃を体験したことがあったが、まさかあれが全て桜井の手によるものだったとは思いもしなかった。そうか、今なんで俺が殺気を感じたのか理由がわかった。これまで何度も桜井からの狙撃に身体がわずかにながら順応していたのだ。銃というのにも、使い込んでくると使い手のわずかな癖というのがわかってくるし、弾丸が当たったかの手応えもわかってくるのと同様に、相手のそれも肌で空気でわかってくるものなのだ。
 隠れている柱から素早く身を出して次の柱まで駆けて、また身を隠す。
「だがどうしてだ。俺は確かに殺し屋なんぞやっちゃぁいるが、別にあんたらに何度も命を狙われなきゃならないことはしてないぜ。もっとも、やりすぎて目立ちだしたってんならまた話は別だが」
「ふふ、確かに君は目立ちすぎたともいえるかもしれない。だが、君の存在はすでに六年以上も前から知られているといったら驚くかな」
 六年も前から……それを聞いてすぐに脳裏にその頃の記憶がよみがえる。六年かそれ以上前といえば、あれは確か……。
「……そうか。今井だな、今井とのことであんたらに知られることになった、そうだな」
 俺がこんな世界に足を踏み入れるきっかけとなったのは、間違いない、綾子ちゃんのストーカー事件が端に発して出会った、あの殺し屋今井のことが最も大きな出来事だったように思う。あれからというもの真紀や黒田と出会い、急に俺の身辺が慌しくなり見知った世界に亀裂を生んだのだ。
「だがなぜだ。確かに今井のことは俺も驚きはしたが、かといってあんたらにまで喧嘩を売られるようなことはしちゃいないはずだ」
「そう、確かにそうだ。しかしね、彼も実のところ、この世界では少々イレギュラーな存在でして、今の君と同じであまりに多くを知ってしまった人間なんですよ。いくら裏世界の住人といえども、人間には分相応の領域というものがある。彼はそれを知ってしまったがゆえ、組織を、果ては我が同胞たちをも裏切り、命を狙われることになった」
「そう、だったのか」
 俺はいつの間にか下唇を噛んでいた。ライアンによれば今井は元々、いや、今井家というものがそもそも国家権力の中枢と深い部分で繋がっているというのが、あの男の人生を変えることになったのだ。
 今井財閥の嫡男として生まれた今井は、その名を克明かつあきというらしい。一般人、とはいっても財閥の嫡男なのだから一般人とは言い難い部分があるが、まだ表世界の住人であった今井は幼少の頃から物覚えがよく、運動神経にも恵まれた少年だった。そんな今井には四つ離れた妹がいた。その妹というのが佐竹の事件の後で俺もその存在を知ることとなった、今井夏樹その人だ。
 今井は夏樹を随分可愛がっていたというが夏樹が病弱で、先天的な病を抱えていたことが今井をそうさせる要因であったに違いない。しかしこの兄妹のことを快く思わない人物がいた。その人物こそ二人の親にあたる今井茂之いまい しげゆきだった。茂之はいずれ今井重工のトップになるだろう克明に対して非常に良くし可愛がっていたがこの反動なのか、体の弱い夏樹には冷たくあしらっていた。
 これが克明に人の情というのが芽生えさせることになったか理由なのか定かではないが、結果として兄は妹を可愛がるようになったというわけだ。普通であればなんとも胸打つものなのだろうが、二人が後に辿る経緯を知っているだけに痛ましくも思える。そして二人にとって悲劇が訪れる。
「嫡男である以上、克明は父の茂之について勉強や様々な教養を身につけなくてはなりません。もっとも茂之にしてみると単なる口実で、妹から離そうという意図も含んでいたのかもしれませんがね。その日、克明は父、茂之と共に島津製薬の本社を訪れていました。おそらく、後継者のお目通しといった具合でしょうかねぇ。
 そもそもその日は克明にとってはなんの予定のない数少ない日であったにも関わらず、急に呼び出しをうけたことで怪訝に感じたことでしょう。こうして彼が島津の本社に訪れて一時間後、屋敷に取り残されていた夏樹が賊に襲われるという事件が起こったのです。克明を呼び出したのは、大切な嫡男が襲撃に遭わないようにするための配慮だったというわけです」
 知っている。むしろ今まで何度となく見聞きしたことなので今さら驚くことはないが、なるほど、やはり茂之は最初から屋敷にあの豚二人が襲うことを知っていたのだ。さらにライアンは夏樹が襲われることになったのが、島津の造った新薬の効果を調べるための臨床実験を行うためのものであったとも告げた。
「今井夏樹に投与されたのは、さっき私が君に話したNEABを含んだ物質です。これが思わぬ結果をもたらした。襲撃で今井夏樹は銃弾を浴びたにも関わらず、彼女は息絶え絶えになりながらもまだ生きていた。これには実験を主導したサカガミも興奮して驚きをかくせなかったようです」
 周囲に気を配りつつ俺はライアンの話に、記憶の底から毛利が語っていた佐竹との出会いの経緯を思い出していた。夏樹から襲撃を受ける直前に使用人として首を切られた佐竹が嫌な予感がして屋敷に戻ってみたところ、屋敷が何者かに襲撃され中に銃弾を浴びて死にかけていた夏樹を担ぎ出して毛利の医院を訪れたのがきっかけだったはずだ。
 毛利によれば、とても生きているのが不思議なほどだといっていたのが思い出されるが、これも今となれば納得のいく話だ。田神がいっていたツングースカで発見された遺伝的な疾患を持った異様な生物の話と、隕石から採取されたというNEABという不可思議な物質のもつ特性。これらを統合して考えれば、夏樹が銃弾程度では即死しなかったというのも頷ける。今井夏樹はもはや病弱とはいわず、そんじょそこらの人間なんかよりもはるかに丈夫な人間になっていたのだ。
 しかし結果として夏樹は死んでしまったので、NEABの効果は弱かったということだろう。けれども大きな成果は得られた。その成果をもとに発展させたのがあの忌々しいNEAB-2というわけで、これはNEABを投与された夏樹の細胞、DNAを培養し新たに造られたものであったと坂上もいっていた。だからこそ第二世代という名称が付けられたのだから。
「克明は茂之とともに島津にて接待を受けていたため、妹君の悲劇を知ることはなかった。彼が知ったのは翌日の朝、朝のニュースで初めて知ったそうですよ」
 しかし、ここで茂之にも島津にも双方にとって思いがけないイレギュラーが発生することになる。ニュースで屋敷に置いたままにしてきた妹のことを知った克明が、父との口論の末に突如として行方をくらませることになったのだ。
「その後のことは、君にもある程度予想がつくのではないですか? 克明の執念は並外れたものがありました。茂之にとっては病弱で疎ましく思っていた夏樹を亡き者にすることで、これ以上克明を情にほだされないように仕組む算段もあったのでしょうがそれが丸きり逆効果であったわけだ。彼は家を飛び出し数ヶ月ものあいだ姿を消した。そしてある日、再び克明は父のもとに姿を現した」
「そのときには殺し屋としての訓練を受けたあとだった、こういうことだろう」
「ええ、その通りです」
 ……そうか、そうだったのか。思えば今井と初めて直接合間見えたのは、確か青山に連れられて蒲生という男の家を訪れたときだった。あのとき、確かに奴は口にしていた。邪魔をする奴は殺す、と。あれは、こういった理由から発せられた言葉だったのだ。あのとき、その迫力に思わず寒気を覚えたものだったが、あれは殺し屋としての迫力だけでなく、奴の生きる目的そのものの裏づけのためでもあったということか。
 行方をくらました今井が父の前に姿を現したとき、今井克明という男は血の繋がった父親すら憎む復讐鬼になっていた。当然、父の茂之が辿った結末も知れるというものだが、これで前に松下が語っていた内容とも合致する。克明はどういう手段とルートを経由したのかはわからないが、ミスター・ベーアの秘密組織に入り訓練を受けて工作員になるため行方をくらまし、父はその訓練を終えた実の息子の手にかかって地獄に堕ちたということだ。
 確かにこれなら、二人が行方不明になったままの扱いになるのも当然だ。こいつは推測だが、おそらく今井にとって最初の仕事、あるいは訓練の最終段階こそがこの父親殺しであったに違いない。もう何年も前になるが、かつての俺がまさにそうであったように、今井もまたこのとき初めて人殺しの業を負ったのだろう。しかし、それがまさか実の父親だなんてまさしく愛憎という言葉そのままが当て嵌まる、業を超えた業といわざるを得ない。
「なるほど、読めたぜ。島津と今井が互いにビジネスで手を組んでいたのに今井から手を引いたのも、夏樹を使った臨床実験が終わったからなんだな。襲撃のときにまだ互いが手を結んでいたとなればそこから足がつくことになる。だから一度手を切ることで、関係が終わったことにして夏樹が襲撃されたあとに再び手を結ぶというシナリオでも書かれてたんだろう、違うか。
 だが島津にとってもイレギュラーが起きたといったな。時期後継者というお目通しもしたにも関わらず、行方をくらました克明のことがイレギュラーだったんじゃない。克明が親父を殺したことがイレギュラーだったんだ。殺し屋になった克明にとって島津を脅すことなんざ造作もないからな、夏樹の件や島津のやっていることが明るみに出れば、それこそ島津にとっちゃぁ倒産なんてもんじゃすまされない。
 松下がいってたぜ、親子が姿を消したのは夏樹の事件の何年か経った後だとな。事実上、この何年かのあいだ島津の実権を握っていたのは克明だったんじゃないのか。奴には組織という後ろ盾がある。つまり個人の戸籍を変えることくらいも朝飯前だ。克明は親父が仕事ができなくなったとでも理由をつけて、その間に自分が会社を動かしていたんだ。おまけに今井重工の跡取り息子として知識やなんかは当然、経済事情なんてよくわかっていただろうからな。今井重工の株を操作して島津に買い取らせたって話も、なにか別の思惑があって克明が指示したってとこだろう」
 それほどの奴ならば、蒲生の戸籍を手に入れ改竄することだって朝飯前だろう。今井の事件で何人もの人間が意味不明の事故死を遂げたと記憶しているが、それらも全て今井にとって復讐すべき対象であったというわけだ。今なら今井の気持ちも良くわかるというものだ。
「その通り、やはり君は頭の回転が速い。工作員ともなれば、当然ながらこの手の組織の情報操作などお手の物でしょうから。しかも殺し屋としの腕もなかなかだったとなると、島津宗弘にとっては従うしかないでしょう」
「だが、ここで克明にとってなにか予期していなかったことが起こった。そうでないと奴が裏切り者にされた理由がない」
 俺がそこまでいってライアンがそれに応えようとしたときだった。筒状の大ホールに轟音が響き渡る。びりびりと空気が振動し、幾重にも音が反響する。
 反響していても音の発生源が下であることはわかり、俺は桜井の狙撃に注意しながら背にしていた柱からそっと頭を出して下を覗く。すると下ではコンクリートや様々な金属片が波状散乱していて、周辺を塵や粉状のものが漂っているのが見えたのだ。そして、それを引き起こしたのが俺も先ほど目の前にしていた、醜く変貌してしまった松下であることがすぐにわかった。
(だが、あの姿は)
 確かにそれは松下の成れの果てであることはわかった。しかし、今見えるそれは先ほどまでとはより一層姿を大きく歪ませているのだ。そう、あれはまるで傷つき奇形へと変化していったゴメルと似たものだった。



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