いつか見た夢

B&B

第103章


 ある賭博屋兼バーの店奥深くに、日本人の男女三人がどこか落ち着きなく肩身を寄せるようにテーブルを囲んでいた。もっとも、窮屈に思っているのは紅一点である女だけで、男二人は運ばれてきていたアルコールを片手にじっくりとその味を愉しんでいる。店内は薄暗くアンニュイな雰囲気を作っていて、それがどこか今から起きうるかもしれない秘め事へ誘っているようにも感じられた。
 事実、店の半分ほどは遊びにきている女にどうして声をかけようか算段を巡らせている男たちばかりで、そこでは少ない女たちがまるで女王降臨といわんばかりに思い思いに好みの男を物色しているといった具合だった。あるいはカップルという組み合わせもあったが、大半はそんな状態であった。しかしどの女も決して上質な女とはいい難く、どちらかといえば娼婦といっても良さそうな、どこか下品さを持った女たちばかりで幾人かの男たちは、そんな女たちに全くといって興味を示していない。
 店の雰囲気はまさしくそんな男女たちには相応しい、どこか危険な香りを漂わせている。店の至るところにたちこめるタバコの煙と匂い、便所にはまともな掃除すらされていないのか糞尿がこびりついている便器といった、肥溜めに蠢く者たちにはうってつけの場所だ。こんな場所に似つかわしくない男女三人の日本人には、ここをどうしても訪れなければならなくてはならない理由があってのことだった。
「本当にくるかな」
「さあな。向こうがそういうってんで、わざわざこっちからきてやったんだ。これで来ないならな来ないで、そんときゃ悪戯だったと思うまでだ」
 スラリとした長身の佐々木のつぶやきに、がっしりとして熊のように大柄な南部がそう返した。それに無言のまま頷き返す佐々木に、紅一点である里見が続ける。
「けど今日なにもなければ、私たちは明日の朝の便で日本に戻らないといけないんですよね」
「そうだがやっと掴んだ手がかりだ、乗らない手はないさ」
 そういった佐々木を鼻で笑い飛ばした南部が腕を組んで踏ん反り返ったときだ。三人のついているテーブル席の仕切りの向こうから、突然男の声が話しかけられる。
「待たせたな。あんたの知りたい情報をもってきたぜ」
 あまりに突然のことで、三人は初めなんなのか戸惑いの表情を浮かべた。その声は耳をすませなければ聞き取れないほどの小さなもので、どちらかといえば、仕切りの向こうで囁きあう連れとの会話が漏れてきているのかと思わせるような、そんな小さい声だ。
「おっと、振り向くのは無しだぜ。俺はあくまで伝達できたに過ぎない。要点だけを伝える。あとはそっちでやれ。質問もなしだ。振り向かない、質問はしない、これが俺からの条件だ。もし破れば、その時点で情報は売らない」
 男の一方的な宣言に素早く反応しようとしたのは、一番英語堪能でいる佐々木だった。しかし、それもすぐにやめ、二人に一切動くことなくしばらくのあいだ、二人にその場から動かないよういいつけ短くいった。
「わかった、その条件でいい。二人には何も動かない、言わないよういった」
 かすかに男が頷くような動きが、唯一、里見の座る位置から見ることができた。
「もう四日も前のことだ。海岸近くに、ある一艘のボートが西に向かっていっているのが目撃された。別にこの国じゃ深夜の航行なんて日常茶飯事だが、個人所要らしい船がポートを離れるなんてのは、そうそうあることじゃない。その船が数日前に、ある男が買い付けたものであることの裏も取れている。昨日の夕方、ホテルでおっちんだジョン・マクソンが買い付けたんだ。
 こいつにボートなんて優雅な趣味があるわけじゃないのに、どういうわけか、すぐに欲しいといって小切手で買ったらしい。実際には子飼いの執事だったそうだが、なんにしてもこれは怪しいというもんだ。その船が深夜の海上、それも国境も近くなる海域を向かっていったというんだ。この船が今日の朝、国境を超えたところでインドネシアの海上警備隊によって引き上げられたことで発覚した。もちろん、中には誰も乗っていなかった。
 またこれに前後して、海峡近くを一隻の海賊船が南東へ向けて航行していたという目撃証言もある。これはある人物が導き出した計算をもとに算出されたものだが、南西へ向かったボートが真っ直ぐ行けば、この海賊船の航行ルートにぶち当たることが判明したのさ。この海賊船は行方をくらましつつも、ジャカルタ方面へ向かったことは間違いない」
「ジャカルタ」
 思わぬ言葉が出てきて、佐々木はつぶやいていた。ジョン・マクソンが襲撃されたことについての動機はうかがい知れないが、多かれ少なかれ九鬼が関わっていないとはいえないだろう。春の真田狙撃事件の例もある。
 しかし、まさか海賊船に乗って海を渡ったというのか、あの男は。海外の裏社会事情はあまり詳しくない佐々木ではあるけれど、それでもこの海賊船に九鬼が乗っていたと考える道理はないというものだ。まさかとは思うけれど、この海賊船に乗る必要があってわざわざこのシンガポールにまで九鬼はきたというのか。佐々木は誰にも聞こえないような小さなため息を漏らして、男の囁きに耳を傾ける。
「ジャカルタには海賊と取引している裏業者がいくつかある。二日前、この連中の一つにこの海賊船の船員と思しき人物と裏取引がされた形跡がある。荷物は不明だが、オーストラリアに向けて出荷されるって話だ。しかも、この荷物が時間指定された商品であるということもあって、急ぎジャカルタ空港からシドニー空港へ飛ばせるよう手配したともな」
 すると男は、それだけいい終えると席を音もなく立ち、過ぎ去り際に佐々木の膝の上に小さく切り取られたメモ用紙を置いていく。佐々木は何食わぬ顔でそれをすぐに手に取った。
「……で、なんだって」
 男が去ったのを視界の脇におさめた南部が、一呼吸置いて佐々木に尋ねた。断片的には自分の英語力でも理解できた部分があったが、それでも大半は追いつくことのできないことばかりだった。隣の里見に至っては、あんぐりと間抜け面を晒していることからほとんど理解できていなかったに違いない。そんな南部と里見に佐々木は今しがた男がした話の内容を二人に伝える。
「その荷物ってのに九鬼の野郎が紛れてるっていいたいのか。つまり、九鬼はもうシンガポールにいないと」
「そういうことになるな。あのホテルでの一件以降、我々も地元警察にそれとなくマークされているわけだから、九鬼の動向を知るには遅すぎたかもしれない。話が本当であれば、もうシドニーに着いていてもおかしくない。問題はなんのためにわざわざオーストラリアに向かったのかということだが……」
「そんなのは奴を捕らえてから聞けば済む話だ。オーストラリアにいったというなら俺たちがそこへ行けばいいだけの話だろう。少なくともシドニーなら、ここの警察よりはもっと協力的のはずだぜ」
 そういって立ち上がる南部に佐々木は頷いて、同様に立ち上がる。しかし佐々木には、それ以上に今渡されたこのメモのほうが気になっての行動だったといわざるを得なかった。人の目に触れるここでこの紙を広げるわけにもいかない。一刻も早く滞在しているホテルへ戻り、明日にもオーストラリアへ向かう手はずを整える必要があった。



「はぁはぁ……」
 息があがり、動悸が激しい。少女は全力で走り続けていた脚を止め、両膝に手をつき肩で呼吸を繰り返していた。それでも走り足りない。いいや、きっとどれだけ走り続けたとしても、この胸を締めつける苦しみは紛れることはないだろう。
「どうして……」
 うなだれながら小さくそう口にした。そう口にせずにはいられない。けれどそのつぶやきも虚しく都会の空の下、すぐに消えていく。少しでも乱れた呼吸を正そうとすると、先ほどのことが脳裏をリフレインする。すると呼吸が元に戻らないことなどお構いなしに、再び走りたくなる。少女は身体の限界に挑戦するかのように走り出そうと顔を上げ、一歩踏み出したところ、足がまだ休ませろと痛みだした。
 しかもその痛みはといえば足だけではなかった。両足の付け根、もっといえば下腹部より下のある部分に疼痛を覚えたのだ。それはつい昨日、最愛の人によってもたらされた痛み。禁忌を犯したという気持ちがないわけではない。それでも、禁忌を上回る幸福感のあったはずの痛みは、今では単に愚かなことをしでかした己への罰のようでしかない。
 少女は、うなだれていた上体をゆっくりと上げ、そこを慈しむ気持ちと罪悪の気持ち半々に押さえる。昨日まではここに放たれた精が至上の幸福感を与えたのに、今は、そしておそらくこれからも自らに課した罪として重くのしかかる。それが少女にとって辛く、また表情が歪んだ。
 もちろん、少女とて馬鹿ではない。あの人と体を重ねるということがどうなることか、わからない年頃でもない。それでも若さゆえの未熟さからか、それでももしかしたら……そんな甘い期待をした自分があまりに愚かであった。体を重ねたということは、すなわち、こんな自分を受け入れてくれたということではなかったのか。なのに、結局はあの人が取ったのは自分ではなく彼女のほうだった。
 反面、少女にとって自分が彼にとって重荷になっていなかったとは言い切れない。そもそも、彼に対してこんなにまで歪な感情を持ち合わせること、それそのものがおかしいというものなのだ。なのにそれを止められなかった。互いに一時の感情に流された……そういえばそうなのだろうけれど、だとすればなんでこんなにも胸が締めつけられるのか、その問いに返せるような答えなど少女に持っていようはずもなかった。
「……痛っ」
 今の今まで疼く感覚を伝えていた少女のそこが、今になって突然痛みだした。昨晩だって痛みがなかったわけでない少女のそこが、まるで心の痛みと連動して少女の罪を再確認させようとしているかのように。それがどうにも不快な気持ちにさせる。
 痛い。悔しい。辛い。悲しい……。そんな感情が少女の胸中を万遍なく渦巻くように塗り潰していき、いつの間にか胸のあたりを強く掴んで握り締めていて服はぐちゃぐちゃになっている。
「泣きたいよ、お兄ちゃん」
 今にも泣き出しそうな表情でつぶやいた少女の瞳から、いつしか一筋の涙が流れていた。それでも少女に今泣いているのだという自覚があるわけでもなく、再び彼女はそうつぶやいた。
 その時だった。
 甲高い摩擦音を響かせて、少女のすぐ近くを一台のトラックが横滑りを起こしながら通り過ぎ、間もなく横転して停止した。驚きのあまり見開いた目でそれを茫然と見つめていた少女の視界に、横転し倒れた衝撃からだろう、荷台の扉が開いているのが確認できた。距離にして二、三〇メートルといったところからもはっきりと判るその荷台の中にあるものを見つけてしまった少女は、おもわず怪訝に眉をひそめた。
「人……?」
 横倒しになった荷台の中にあったのは間違いなく人間であり、その姿を確かに確認できる。それも一人や二人ではない。ざっと判断できるだけで四、五人はいるだろう。観音開きの扉になっているために見えないだけで、その奥にはさらに数人はいるようにも思われた。ショックのあまり動けずにいた少女の背後から、立て続けに三台のバンとセダンが通り過ぎ、横転したトラックの手前で停車すると、中から黒いサングラスと服に身を包んだ男たちが現れ耳にしているイヤーモニターに手を当てて、何かまくし立てている。
 なんなんだろう。そう思ったのも束の間だった。現れた男の一人が少女のほうへと歩み寄ってくる。
「目撃者を発見。年齢は一五歳前後と思われる……了解した」
 耳から手を離した男はそういって動けずにいる少女の前にまでやってくると、無言のまま、ぬっと手を少女のほうへと差し出した。
「い、いやっ」
 なにか危険だ。少女は男にそんな漠然とした危機感を募らせたと同時に、迫りくる手を振り払うようにして逃げ出すがそれも虚しく、すぐに追ってきた男によって羽追い締めにされて騒がれないよう口元を押さえられる。
 必死にもがく少女は、押さえる口元の手に何かきつい薬品の匂いを嗅ぎ取ると、必死の抵抗も次第に弱くなっていき、ついには事切れたように四肢を力なく弛緩させ意識を失った。心の中で何度も最愛の人への助けを叫びながら……。

 陰鬱な気持ちで彼女は目を覚ました。瞳をうつろにさせ、薄ぼんやりと虚空をさまよわせる。
「またあの時の夢……」
 寝起きにそうつぶやく彼女は気だるげに寝返りを打ち、深くため息をついた。近頃よく過去の夢を見るのだ。そんなことは、それまでの数年間全くといっていいほどなかったのにここ最近、どんなわけか良く見るようになっていた。もしかすると、予期せぬことだったとはいえ、数年ぶりに日本の地を踏んだからかもしれない。
 自分がまだ何も知らない少女だった頃、全ては輝いて見えたものだったのに、今では見える全てが意味もなくある虚像にしか見えなくなった。あの頃は人は家族や叶えたい夢のために日々を一生懸命に生きていると考えていたのに、今ではそれを理由にして保身に走っている姿であるとしか思えなくなった。それが必要だからという言葉の裏に、大人たちの醜い利権や奪い合いの上に全てが成り立っているのだと気付き、それが当たり前と不思議に思えなくなった。
 大人たちはこんなにも汚く、子供たちに嘘をつき続けている。これが現実だ。こんなくだらない世の中に、なにを輝いて見えるものがあるというのだろう。そんな理想などありはしない。輝いて見えたのは、大人たちが子供たちに嘘をついていたためでしかない。大人たちが自らのエゴのために築いたものを、そう見えるよう巧みにベールを包んだに過ぎない。
 嘘をつき続けているこの世界を壊したい。そんな欲望ともいえる強い感情に捉われるようになったのも、おそらくは自身が少女だった頃の体験があってのことだろう。この身を焦がすほどの、激しい憎しみだけが彼女に生きる理由を与えていた。
 けれど、とも彼女は思う。この感情の渦がなぜここまで激しいものであるのか、それを自分でも説明することはできずにいる。激しい感情に身を任せているうちに、いつしかその理由を失っているように思えるのだ。この感情の渦は一体誰に向けられたものだったのか、なぜこうも駆り立てられなければならないのか……そう考えると、途端に思考が停止してしまう。
 そして最後には、きっと全てのものに向けられているものだと思い至る。そうに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。そうでもなければ、自分の中で渦巻くこの激情の理由など思い浮かばない。
「まただ」
 彼女は一人ごちる。いつもこうなのだ。そうであるに違いないと自分の中で答えを出したのに、すぐに本当にそうなのかと誰かが問いかけてくる。もっと考えろ、と。こうに至るまでの長い道のりを振り返れ、と。そんな自分の中の声に従って、再び止まった思考を動かすべく頭を働かせるも、結局は同じところでまた止まってしまうジレンマに陥る。
 もしかしたら、それが嫌で自分は誰かに従うままに行動しているのかもしれない。あの瞬間、任務を遂行しているときだけは、この思考のループに邪魔されることはなかったからだった。そうなのだ。”彼”の元について行動しているときだけは、そんな思考に邪魔されることだけはなかった。
 もし何かの弾みでそれを思い出しても、すぐに根底に渦巻くあの黒いものを溢れさせ自身を塗りつぶした。そうすれば、またいつものように何も考えずに任務を遂行できる。葛藤も何もかも全てを塗りつぶして、自分は自分を偽ることができるのだ。
「偽る……?」
 いきついた思考の果てに、彼女はまたつぶやいた。今さら何を偽るというのだ。偽ることなど、これまでも幾度となくあったことで、もはやどこまでが本当であるのかわかるはずもなくなっていた。なにか、なにかもやもやする。消化不良といえばその通りで、けれど、そうでもないようなどっちつかずの嫌に曖昧な気持ちだった。
 彼女はそれらを振り払うべく横たえていた身体を起こし、顔にかかってきた長い黒髪をかきあげる。そのまま静かに立ちあがると、水でも浴びようとゆっくりとした足どりで部屋を出た。
 多分、また今日も彼から連絡があるに違いない。彼は自身を気遣ってはくれるけれど、いきすぎた感がするのも事実で、今のまま彼と会えばいらぬことまで詮索してくるに違いない。気を遣ってくれるからこそ、彼にあまり面倒はかけたくはないというのが彼女の本音だった。
 おそらく彼は、以前から気になっていたという人物を試すために、この数日空けているのだろう。聞けば、数年前にイギリスで出会ったというその人物が、この日本にいるという話だったので、きっとそうに違いない。そして、そのための裏工作を張り巡らせるのが自身の仕事だ。彼女にとって次の仕事がどんなものであれ、彼がやれというのなら従うつもりだった。命の恩人である彼への忠義を示すためだ。
 けれど、最近は本当にそうなのかという疑問がいつもつきまとうようになっている。自分が本当に彼のために自らの行いを定義付けすることが、あまりに困難な気がするようになっていたのだ。なぜそう思うのか、これについても明確な答えはない。それでも、彼への行いという呪文にも似たそれを脳裏に巡らせるだけで、必ずもやもやと霧が心の中にかかってしまう。
 彼女は大きくため息をついた。もういい。これについてはまた後で考えよう。水浴びをしようと部屋を出たところで、無機質なコール音が鳴り響く。この番号にかけてくるのは一人しかいない。彼だ。一度出た部屋に踵を返し、彼女は鳴り続ける携帯電話を手にして通話ボタンを押した。
「もしもし」
『私だ。明日の晩、N市郊外で』
 短いやり取りの後、すぐに電話は切られた。N市郊外といえば、組織のメンバーが見つけ、密かに購入して押さえておいた例の廃工場だろう。こういってきたということはつまり、今日にも作戦を起こすということなのだ。
 前もっていわれていたのは、今日の夕方、N市のホテルにてある政治家を狙撃するということだった。またいつもの”濡れ事”だ。彼によれば、それは試したいという人物への招待状だといっていたのを思い出す。そのあと、指定されているクラブへいくことも。
 ずくん、と胸の奥が掴まれるような、なんともいえない気持ちが不愉快だった。それが何に対してなのか、彼女は再びため息をついて今度こそ部屋を出た。





 遠くでサイレンの鳴り響く音に目を覚ました。二度三度と瞬きをして真っ暗な部屋の中、視線を巡らせる。街を照らす灯りの残光が暗闇に包まれた部屋の中に差し込み、中の様子を不鮮明ながら浮かび上がらせている。どうやら、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
 テーブルの上に置かれたデジタル時計の液晶が現在の時刻を点滅しながら自己主張していた。それに目をやると時刻は二一時を過ぎたところで、その前にぼんやりと時計を眺めていたときは一八時になる前だったので、ざっと三時間ほど眠っていたことになる。普段であればこの時間に眠ることなどないが、ここのところずっと気を張り詰め続けていたためか、眠りこけていたようだ。
 寝起き特有の気だるさに負けそうになりながらも、気を確かに上体を起こした。寝転がっていたソファーはスプリングを軋ませ、寝ていた人間の体重を受け止める。まだ眠りたいと要求させる睡魔を押しやるために、デジタル時計の隣に買って放置されたままのビニール袋からウィスキーのボトルを取り出すと、器用に栓を開けて中の液体に口をつけた。
 呑む寸前にグラスに注ぐかどうか迷い動きを止めたものの、別に誰かに気を遣うわけでもないのでそのまま瓶に口をつけ、ぐっと温い液体を口に含む。温い液体は粘膜に触れた途端、灼熱の液体と化し呑む者を苛むがそれがどうにも心地いい。
 一息ついたところで背伸びし、ソファーから立ち上がるとゆっくりとした足取りで窓際にまで歩み寄り、さっとレースを引いた。普段なら無用心に窓に近寄ることはないが、地上一〇〇メートルを超えるこのホテルの一室で引かれたレースになど、外界の人間が気に留めることなどないだろう。
 そろそろ何かアクションがあってもいい頃だが、連絡のない間はこのホテルで何をするでもなく、ただぼんやりと一日を過ごしていた。そんな無駄に優雅なホテル暮らしも気付けば早いもので、もう二週間以上になる。それはすなわち、ここ日本は東京に舞い戻ってきて二週間が経つということでもあった。
 レース越しに、視界に映る摩天楼や目抜き通りの発する光の数々を見つめながら、この二週間ほどのことを思い返す。ある事情からCIAから目をつけられることになってしまった俺は、バドウィン率いるチームによってシンガポールを脱出し、連中の目をごまかすために領海域すれすれのところで海賊船に乗って、一路ジャカルタを目指した。
 ジャカルタに寄港したところで次はバドウィンの知り合いという人物のツテで、シドニー行きの航空券を手にしオーストラリアへと入った。さすがに飛行機といったところで、次の日にはシドニーに到着し矢継ぎ早に日本行きの飛行機に乗り込んで、ようやく東京の地を踏むことができた。
 正直なところ、ジャカルタからシドニーまでならまだしも、シドニーからの飛行機だなんて追っ手に見つけてくださいといっているようなものではないのかとバドウィンに抗議してみたが、俺の杞憂で終わった。聞けばバドウィンの知り合いだという男が、インドネシアでは少しばかし名の知れた人物であるらしく、その男の協力員が航空会社の役員にいたらしい。この結果、なんなく日本に潜入することができたというわけだ。
 日本に戻るとまず俺は、日本でいくつかの活動拠点を置いた。もっとも、その大半はこの東京に作られたわけだが、問題はないだろう。ほとんどがこの首都を中心に活動すればいいわけだから、あまり作りすぎても意味はない。それにこれは自分の性格も関係しているかもしれないけども、仕事であれば別だがそれ以外ではどちらかといえばじっと留まる傾向にあるので、そうアジトを何度も変えるのは好きになれない。この点は短期間でアジトを変えていく田神のようなやつは、尊敬に値する。
 その主な活動拠点の一つとして、俺はこの高級ホテルを選んだ。ここなら連中もそう大っぴらきな行動は起こせないだろうと踏んでの選択だった。とはいえ、以前のように武装ヘリでも動員してこようものなら、こんなホテルの壁など薄っぺらな障子を突き破るも同然ではあるが。
 しかし、これまでのところそういった目立った動きはない。というよりも、できないといったほうが正確かもしれない。どういうわけか、この二週間足らずの間で、次々と不穏な動きが世界中で起こり始めているというのが主な原因だった。それらのほとんどは情報統制のもと一般に詳しく知らされることはないが、各地で頻繁に諍いが起きているというのが主だった内容だ。
 もちろん、これらの裏には例の生物兵器が投入されているのではないのか、というのがバドウィンの見解だった。正直なところ、不確かな性格もつこの手の記事の裏を読んだ上で、生物兵器などというのは少々馬鹿げた言い分にも思えるのだが、俺自身今まで幾度かそういった連中を目の当たりにしてきたことで、そう主張するバドウィンを笑って一蹴できるほどの立場にはいられなかった。
 さすがに一級品のチームを組んでいるだけあって、バドウィンは情報の裏を読む能力に長けており、アフリカや中東、東欧、さらには中南米といった技術的、経済的に混乱に陥りやすい地域でそういった事件が多発しているらしく、それにより、そういった地域や国々では確かに正規軍が動員されていて、数日もするとまたすぐに同地域で軍が出動しているという事態が起きていたのだ。
 これにより世界中の市場では、主に軍需企業が軒並み株価を上昇させているという裏付けもされているため、ますます説得力が増す。軍需とはいっても別に武器製造会社だけの話ではなく、武器を作るための部品も必要になるため、世界中の部品メーカーに発注されている部品の製造についても同様のことがいえ、それら全てを含む広義的な意味ででの軍需だ。世界で一番の産業は戦争――こうした一連の動きを見ると、この言葉にこれ以上ない重さを感じさせる。
 こうした結果、世界中で株価の上昇が起きつつあるのは、民間レベル、さらには先進国家としては良いニュースなのかもしれない。同時に、知られざるところで多くの人間が命を落としていっているのも事実だ。それらは単に、不安定な地域で起こっている、愚かな争いの一言で片付けられてしまっているのが現状だろう。
 まぁ、そいつを事実だからと嘆き悲しむほど俺という人間はできてはいないので、これは仕方のない話として置いておこう。問題はそこで起きている争いで使われている兵器だ。こうした一連の株価上昇とは先立って、本来医療や食品関係方面で株価が上がっていると思われているはずの、遺伝関係の技術を売りにしている企業やメーカーの株価が上昇していっているのだ。
 考えるまでもなくこれは、生物兵器に少しでも資金を投入し、各国が競い合うようになったことを意味している。その主だった国はやはり欧米各国で、アメリカにイギリス、フランス、ロシアといった某諜報機関を有している国ばかりだ。そして、こうなる引き金となったのは、東欧で起きたアメリカ軍の一個小隊が謎の襲撃を受け、虐殺されたという情報のリークによってだった。
 これは以前バドウィンから聞いた、例の魔女討伐の際に起きた出来事で、バドウィンの部下が持ってきた情報だったが同時に、別の誰かがこの情報を盗んでいたようだ。あるいはバドウィンの部下が情報を盗み出したときにはすでに、別の第三者によって盗み出されていたという可能性も大いにある。バドウィンは認めたがらないかもしれないが、俺はむしろそちらの方が事実だったのではないかと読んでいた。
 というのも、部品メーカーの株価が急上昇してきているのが先の理由からであるのは頷けるものとして、これらに先立って、すでに遺伝技術を持ったメーカーやなんかの株価まで上昇していたという理由にはならない。すでにこちらに資金が投入され、そこに追随する形で部品メーカーの株価が上がったとすれば、各地で起きている生物兵器の投入された理由もまた頷ける。
 四ヶ月ほど前にアメリカが東欧の国に支援金として数億ドルを投入したらしいが、その目的がその国の辺境の森にいたとされる魔女の殺害という、なんとも眉唾な話だ。結局は失敗に終わったこの作戦ではあるが、そこからもたらされた情報はアメリカにとって何かとても重要な意味を持っていたに違いない。だからこそ今現在、株式市場で起きているこの現象に先立つ形で、遺伝技術メーカー、企業の株価が急上昇したと見れば納得がいく。
 東欧の国に数億ドルもの大金を支援したアメリカにとって、こうした一連の株価上昇は、支援金のそれをはるかに上回る一大市場を築き上げることができると踏んでのことなんだろう。唯一生きて脱出ポイントにまでやってきた兵士の話から、何かに気付いたアメリカはそのために国庫から遺伝技術メーカーへ大規模な投資を行わせるに至ったのだ。
 これで今世界的に起きている現象はあらかた説明がつく。だが、ここでまた一つ問題が浮上する。そもそも、アメリカがその魔女殺害のために、どうして数億ドルもの金を投入しなくてはならなかったのか、である。東欧の大部分の国は、アメリカ人や日本人の数分の一の給料で働いており、これがそうした国々の普通であるとされている。それだけに数億ドルとなれば、それこそ日本円であれば兆単位にも匹敵する規模の金だ。
 つまり、この魔女の殺害というのは、それだけの価値があるということだ。ならば、それほどの金銭的価値のある魔女の存在とは、一体どういうことなのか。おまけに、そのためにCIAのエージェントが出てきて特殊チームを編成したというのだから、ますますその存在は謎を深めるばかりだ。
 そして、この魔女らしい人物が言い放ったクキというのは。これが元で俺の存在がアメリカ側にも知られることになったわけで、俺としては気が気でならない状況に訳もわからず混乱に陥ってしまう。もちろん、クキというのが人物の名前であればというのが前提になってくるが、仮にそうだとしよう。もしこのクキなる人物が俺以外の人物であるとするなら、今度は妹である沙弥佳にまで余計な危機が及んでしまうジレンマに陥ってしまう状況なのだ。
 しかし、このなんとも危うい状況が奇しくも俺にとって、防波堤の役割を果たしているというのがなんとも皮肉な話なのだ。これが吊り橋効果を生めば、それこそ災い転じてなんとやらだがそこまでは望めそうにない。
 ともかく、アメリカが発端となって起こったこの異様な株価上昇は、もちろん世界中にいる投機屋たちによってそれらがさらに加熱し始める。当然、その投機屋たちは大半がこうした事情を知る各国の上層部より流されたなんらかの情報を知り受けた連中たちに違いない。
 それでも勘違いしてはならないが、生物兵器自体はこうなる以前から研究開発されていたのだから、こうした急激な株価上昇は経済効果に強い影響を与える一つのシステムに過ぎない。つまるところ研究技術に投資されることで、生物兵器の研究を進める軍やそれに売りに出す新しい種類の武器商人たちが、メーカーを下請負という形で技術を買い受け、対生物兵器の新しい生物兵器の開発を行うための準備段階だといっても過言ではない。
 こうした状況は、世界的、とりわけ欧米の先進国に対しては非常に大きな競争力を求めると同時に、加熱するあまり、それらを少しでも長引かせ経済効果を高め大きな利益を上げるため、戦争屋が戦場を提供し、さらなる兵器投入のための口実と条件の提供が必要となってくる。結果、それらが一気に噴出する形となって今回の不穏な動きが世界的に引き起こされているというわけだ。
 そうなると、いくらアメリカやイギリスといった国であっても、人員を総動員し、そうした場の提供が最優先となる。俺という人間のことなど優先順位は必然的に下がり、どうでもよい、あるいは一先ずは置いておくという方向になるのが当然だ。日本に戻った俺が比較的行動しやすい状態でいられるのは、こうした事情からだった。
 あくまで比較的というのは、欧米各国にとってはそうであっても、日本の公安やなんかはそれらとは無縁の立場なので、連中からは相変わらず付け狙われているというのが現状というところだろう。けれども、俺に対しては手を焼いているに違いない。なんせこちらは、そうした連中を出し抜くための訓練もした生え抜きのチームがついているのだ。仮に俺が入国してきたことを察知したとしても、それ以後の動向については掴めてはいないはずだ。バドウィンがそれについて、あらかじめ想定したルートとアジトを提供してくれたためだった。
 こうした結果、望む望まないは別として俺は一人、優雅にホテル暮らしを満喫することになったわけだ。スイートとまではいわないがそれに近い、俺にとっては上等すぎるほどの部屋にもう二週間近く押し込まれている形で、正直にいって、まるで軟禁状態ではないのか勘ぐってしまう扱いを受けていた。バドウィンといえど、日本国内ではさすがにそう目立つ動きはできないようだが、そこで今度は日本人である沙弥佳の出番ということになり、あいつが陣頭指揮をとっているという状態だ。
 まぁ、今のところは俺が入国したことは察知されていたとしても、公安に目立った動きがないことからこのホテルに滞在していることまで連中に知られた様子はない。バドウィンとしては、その間に色々としておきたいことがあるのだろう。下手に俺が動けば公安に目をつけられかねない状況であることに変わりはないので、それまでは俺に大人しくしていて欲しいというのがあの男の言い分だったが、さすがに俺もいい加減この生活に飽きがくるのは当然で、そろそろ行動すべきだと考えていたところ、いつの間にか眠りこけて時間を無駄にしてしまったと嘆いているのが現在の俺の状況だった。
 それはともかく、バドウィンはうまく行動できているだろうか。ここ三、四日のあいだ、なんの音沙汰もないのは少しばかし気にかかる。それまでは一日、どんなに遅くとも二日に一度は定期連絡をよこしてきていたのに、ここ数日はそれが全くないとなるとさすがに何かあったと考えるのが普通だろう。いい加減こんなホテル暮らしも飽きがきていた俺は、もう待てないと意を決して行動を開始するつもりでいたのだ。
 もう九月も中盤、すでに後半に差しかかっているこの頃に、じっとホテルに缶詰というのもさすがに興も冷める。なんのために日本に戻ってきたのか、それを思えば考えるまでもない。念のために予備の情報網を布いておいたので、それがうまく機能してくれれば今夜にも活動が可能なはずだが……。
 コンコン――。
 そうのんびりとしていた俺に、小さなノック音によりかすかな緊張が走る。ソファーのクッション下に忍ばせておいた拳銃を素早く手に、ドアのほうへ足音と気配を消しながら歩み寄る。さすがに高級ホテルというもので、敷かれているベージュのカーペットはふかふかなため足音など気になるほどもない。なのについ癖というもので、足音を消している自分の姿を想像して苦笑する。
 ドアを背にしたところで、左手の人差し指で三回軽くノックを返すと少しの間をおいて、ドアの向こうから同様に三回返ってきた。どうやら例の”情報網”らしい。それでも何かあってもいいように気を抜かずにキーを外し、ドア向こうにいるであろう人物を迎え入れる。
「このやりとり、なんだか笑ってしまうわ」
「本当ならもう少し上手いやり方もあるんだが、あまり複雑なのも逆に変だからな。そこは我慢してくれ」
 部屋にやってきたのは、スラリとしたスレンダーなラインと、茶髪のセミロングをした女だった。目の周りを黒のアイラインが、ぱっちりとした目をよりくっきりと強調している。やや場違いな堅いビジネススーツに身を包み、ハイヒールを見事に履きこなしている彼女は、まさしくキャリアウーマンのイメージそれそのままといっていいだろう。
 同じキャリアウーマンでいえば、それこそ真紀もまたそういっても過言ではないが、彼女の場合は真紀のそれとはまた一味違った雰囲気があった。もしかするとそれは単に、住む世界の差なのかもしれないが俺にとってキャリアウーマンといえば真紀、といった具合の先入観を持ってしまっているので、そのためか逆になんとも新鮮な感じがして妙に好感の持てる女だ。
 そんな短いやり取りのあとに彼女を部屋に招きいれた俺は、振り返り様に外の様子も窺ってドアを閉めた。鍵は閉めると勝手にロックされるため、わざわざ鍵の開閉を気にしなくてもすむのはなんともありがたい。
「はあっ、疲れた。というかちょっと、あなた電気くらいつけたらどうなの? 真っ暗じゃない」
 伸びをしながらそういう彼女こそ俺の張っておいた情報網で、名を遠藤佳美えんどう よしみといった。俺の業界とはかすりもしない広告業界の企業に勤める彼女とは数日ほど前より、ひょんなところからこうした奇妙な間柄になっていた。その日の夕方、切れた酒でも買いにいこうとたまたまホテルを出たとき、遠藤佳美が変な男に付き纏われ、強引に連れて行かれそうになっていたところを俺が助けたことが縁だ。
 男というのが遠藤の会社の上司らしく、ずっと前から彼女にしつこく言い寄ってきていて、その日は商談成立の暁にと食事に誘われたのだという。そして食事の後に連れてこられたのがこのホテルだったというわけだ。これがもし仕事中であれば遠藤がどうなろうと知ったことではなかったが、さすがにホテルでだらだらと過ごしていた俺は気晴らしにと彼女を助けることにしたのだ。
 そう、紛うことなく本当に気まぐれだったのだが遠藤を助けただけでなく、やはり気まぐれで彼女に優しく接したところ、気付けば彼女が俺の情報網になったというのが経緯だった。当然ながら、気まぐれからであってもこれを利用しない手はないと、俺もそうなるよう少しばかし誘導してみせたのは認めよう。
「それでいい情報はあったかな」
「その前に、部屋を訪ねてきた女性への気遣いはないの」
 電気をつけて微笑む彼女に、これは悪かったと呑みかけのスコッチを手に適当なグラスへ注いで差し出した。それを受け取り一気に飲み干すと、控えめに臭気を吐き出して熱さの余韻に浸りながらソファーに腰かける。その一つ一つが妙に女らしい仕草で、思わず眠っていた牡の本能が首をもたげだした。
 よくよく思えば前に日本を離れてからというもの、全くといっていいほどご無沙汰であることを思い出した。目の前には都合よくそれを発散できる女もいるが、やはり少し前に今夜にも行動を起こそうと考えていた人間がそれはない。据え膳食わぬはなんとやらという状況なのは間違いないが、そうもいっていられない状況であることも確かなのだ。
「んー、こんなのでいいのかしら。二日前だったかな、アメリカからの外交官が来たってニュースがあったわ」
 そういう遠藤に俺は頷いた。それについて俺もはテレビで見ていたので知っている。確か北朝鮮に対する牽制と協議を図るため、日本の協力も得たいというのが目的ではないかというのがニュースではいっていたが、欲しいのはそこよりも先の事情だった。俺が彼女を利用しようと思ったのだって、広告業界に勤めているならば何かしら、もっと深いところの情報が聞けるかもしれないという理由からなのだ。だがそんな心配は杞憂だったようで、遠藤は手に入れてきた情報をとつとつと口にし始めた。
「あなたも知っているようだけれど、今回の使節団の来日の目的は活動を活発化させてきている北朝鮮への牽制、抑止、さらには周辺国をも巻き込んだ協議にこぎつくための協力を政府に頼みたいというものよ。これは報道はされていないと思うんだけどれど、どうも使節団の狙いはそれだけではないらしいの。
 噂程度……よりはもう少し信憑性あるかもしれないけど、使節団の公式の来日目的は今も言った通りだわ。それ以外に、使節団のメンバーがこうした関係者とは全く別の人間と会うというのよ。相手は日本の商社の人間だそうよ」
「商社? なんだって商社の人間と」
「そこまでは……。けれど、ある程度の信憑性はあると思うわ。使節団メンバーの一人がそもそも政府とは無関係の人物で、アメリカの研究機関であるフェルミ国立加速研究所という研究所の副所長だという人物みたいなのよ。これってなんかすごく変な組み合わせだわ。商社の人間に会うというのなら、そこになんらかの経済的な理由が絡んでいるのはわかるけれど、でも互いが全く別の業界の人間同士だなんておかしい」
 遠藤の言う通りだった。研究員だという使節団のメンバーと、その相手が日本の商社マンとくれば、ちょっとでも経済に詳しいやつならば、すぐにでもそこにどんな理由があるのかと勘ぐってしまうのは当然だろう。いいや、俺のような人間ですらそう思うのだから、むしろ自然といったほうがいい。
 しかし俺にとっては両者の接点、少なくとも使節団のメンバーだという研究所の副所長の存在に、連中の目的が明らかに透き通って見える。フェルミ国立加速研究所といえば、アメリカの粒子研究の第一人者といっても過言ではない存在の研究所だ。以前少しばかりどこかで名を聞いて以来、頭の片隅にあったため少し調べておいたのだがここにきて連中が動き出したとなれば、どう考えてもその裏にあるのはシンガポールで見た、例の装置のことにおいて他はない。
 もちろん、フェルミ研究所がシンガポールの装置と同等のものを作っているとは限らないが、全くの畑違いの人物がきたというのは明らかにそれに近いものを設計か、開発している、あるいは開発するためと見るべきだろう。だが、かといってその連中がわざわざ日本にやってくるというのは引っかかる。
「日本の商社マンと会うといったな。その人物のことは何かわからないかな」
「知ってるわ。というより、私の知り合いだから」
 うっすらと引いたルージュの唇がつりあがり、遠藤は妖艶に笑みを浮かべた。彼女を利用しようと思ったのは偶然に過ぎないものの、これはこちらの想像以上の釣果をもたらしてくれるかもしれない。俺は彼女の笑みに同様の笑みを返し力強く頷いた。

 夜も二三時を過ぎた頃、俺は遠藤と二人、東京の繁華街を南へ向かって歩いていた。日付の感覚は半ばなくなっているので今が正確に何日の何曜日であるかなど頭から抜け落ちていたけども、人の出が多いところを見ると、どうやら週末にぶち当たっていたらしい。
「さすがに週末の夜は多いな」
「これでも最近は減ったほう。ちょっと前までは、学生なんかが平日でもお構いなしに飲み歩いてる姿があったくらいだもの」
 それもそうか。考えてみれば、つい一週間か二週間くらい前までは世間の学生のほとんどは夏休みという、学生の特権を享受していたのだからそういう光景が見られるのも当然というものだろう。こちとら二週間もホテルに缶詰であったこともあり、そうした光景を見ていなかったので、そんなものがあったなど忘れていた。
 その繁華街の少し奥まった場所に、ひっそりと純和風の白い壁が見えた。二メートルほどの高さがある壁には灰色がかった光沢を放つ瓦が、不思議と心を落ち着かせる。
「ここよ。彼が会うというのは」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「もちろんよ。任せて」
 ウィンクしてみせる遠藤は壁際に沿って伸びる道の先にある正面玄関を通り過ぎると、そのまま角を曲がり、真っ直ぐいったところにある裏門へと進んだ。その裏門をすっと開けると砂利の上に敷かれた石畳をいって、その先の勝手口の戸を控えめにノックした。すると、中から一人の仲居が出てきた。
「本当にこんな時間にくるなんて呆れちゃうわ」
「ごめん。だけど、どうしても今来なきゃいけなくて」
 中から出てきた仲居と気さくに話すところを見ると、どうやらこの二人は顔見知りらしい。小顔に丸みを持った頭に髪を後ろで留めている仲居は、これはまたどうしてなかなかに美人だ。
「まあ、いいけどね。それで……」
 やや冷めた雰囲気を持った仲居が遠藤から目を離して、こちらへと目先を変えた。遠藤はこの仲居に事情を話しているらしい。
「うん、そう。いっていた新聞記者の人。良かったら、またお願い」
「一ついっとくけど、私はあんたの使い走りじゃないからね。……まあ好きにしたら。はなれには行けるようにしておいた」
「何度もごめん。今度ボーナス出たら何か奢るから」
「大して期待してないよ」
 そう流した彼女は、俺たちを中へと入れた。そっと戸を閉めると、先をいく遠藤とは違う方向へといき消えていった。
「おい、案内とかはいいのか」
「いいわよ。だって、私以前はここで働いていたから」
 道理でこんなにまで気さくなはずだ。話によれば、二人は同じ時期に入社した同輩であるらしい。仕事に忙殺されることが当たり前であったことから、二年ほどでここを辞めたそうだが広告業界へと入ってからはなんの因果か、ここを商談のための接待やなんかで使ったりもしたという。それだけでなく、それをいいことに時折、大企業の重要な商談のためにと、ここを宣伝するという持ちつ持たれつの関係を築いているというのだから、世の中わからないものだ。
「しかし、俺が新聞記者とはね」
 遠藤の思わぬ嘘に、どうしても含み笑いを堪えきれずにそういった。
「あら、いいじゃない。わけあってずっとホテル暮らししてる謎の人間が、実は世間を騒がせるかもしれないネタを探してるっていうんでしょ? だったら、やっぱり記者っていったほうが一番説得力あるもの。あ、それとも、探偵っていっておいたほうが良かったかな」
「……もういい、好きにしてくれ。それで? その、はなれってのは」
「ここで重要な商談やなんかで使われるのは、はなれって呼ばれてるとこなの。そこには例えお店の人であっても必要以上に行けない場所なんだけど、いるとすればそこで間違いないわ。周りには何もないからすぐわかるわよ」
 そういって遠藤に案内された先に、はなれと呼ばれる場所が存在していた。周りは何もないというのは本当で、何本もの竹の木に覆われており、縁側は中から障子を開ければ眼下には小さな池が広がっている。いや、どちらかといえば人工的な小池のほとりの上に建てられたといったほうが正確かもしれない。また、外観構造的に何もないというよりはむしろ、人が立ち入ることのできるような場所がないというのが正しいだろう。
 はなれに近付くにつれ、俺は足音を消すように歩いていた。外界から一切の音を遮断しているような空間では、ちょっとした音やなんかでも意外と聞こえてしまうものだ。砂利を踏みしめるなどもっての外で、もし中の人間の勘がいい奴ならば、それだけで気配を察する可能性すらある。そんなことだけはごめんだ。
「あんたはここで待て。これ以上一緒にいけば気付かれる」
「なんで? 別に大丈夫でしょう」
「いいや、だめだ。その代わりといっちゃぁなんだが、あんたにはやってもらいたいことがあるんだ。そのためにも、あんたは俺が合図するまでここで待っていてほしい」
 好奇心旺盛さがそのまま表情に出ていた遠藤は、明らかに渋っている様子だったがそういうと、それならと、引き下がった。しかし、きちんと後で説明はして、と付け加えて。俺は肩をすくめながら、表情をくしゃって適当に流すとひっそりと、はなれに近付いていった。ここまでほとんどといっていいほど足音を消してきたので、中の連中には気付かれていないはずだ。
 さて、問題はここからどうやって連中の会話を聞き取れるかだがどうしたものか……。はなれの壁にそっと背をつけ、音が漏れているところがないか辺りを見回してみるがそれらしい箇所は見当たらない。一番手っ取り早いのはいつものように、中に乗り込んでちょいとばかし連中を脅しつけてやればそれですむ問題なのだが、自分の置かれたこの現状を考えると、なるだけ穏便に進めたほうが得策だと判断したのだ。
 もし使節団のメンバーの一人が不届き者の手で怪我を負わされたと知れば、それこそ外交上、様々な問題が噴出してくるに違いない。しかし残念ながら、これ以上日本に留まることのない俺にとって、日本がどうなろうと知ったことではない。結局、日本だろうがアメリカだろうが、俺にとっては同じなのだ。
 だが、今ここで連中を痛めつけたりなんなりで危害を及ぼしたとすれば最悪、俺に危害が及ぶかもしれないのだ。なんせCIAが動いているというわけだから、そこからの線で奴らの追手が差し向けられる可能性大というわけだ。そのためにも、今回は穏便にいくしかない。暴力は最終手段として残しておけばいい。
 伝統的な純和風な構造をした本邸のほうと同様、このはなれも、それらを一部屋のだけのためにこじんまりとさせた造りとなっているため、屋根に昇って、そこから連中の会話を聞くというわけにはいかない。となれば、あとは一箇所だけだ。
(迷っている暇はないか)
 小池の縁まで歩を進めたとき、仕方ないと自分を言い聞かせ池に足を突っ込んだ。どうせホテルに戻れば、替えのズボンはいくらもあるのだから、こんなところでまごまごしているわけにもいかない。人工池に足を突っ込むと、途端に衣服が水に侵食されていく特有の不快感に包まれ、表情が歪んだ。それでも、膝小僧につかるまでもない深さしかなかったのが救いだ。
 水音を立てないよう静かに、中からの灯りが漏れる湖面のほうへと移動していく。すると正面までとはいわず、建物の端にきたところで中にいる連中の会話が聞こえてきた。これなら、ここで耳を澄ましてさえいれば、大概のことは聞こえてくるに違いない。
「しかし驚きましたよ。まさか、あなたのような方からお電話いただけるとは思いもしませんでした」
「なに、私としても日本でも有数の商社を通すというわけだから、緊張したものですよ」
 流暢な日本語を喋っているはいるが、どこかぎこちなさを感じさせる喋り方をしている後者のほうが、例の使節団のメンバーとして来日しているという研究所の副所長だろう。確か、遠藤の話によれば名前をランディ・ブランドンといった男だ。声の感じから、年齢は四〇代か五〇代といったところか。研究者らしい、どこか陰気な声質を持った声で、なんとなく全てに疑ってかかっているようにも思えてくる声だ。
 当然前者は商社マンということになるが、こいつはまだ三〇代かそこらだろう。まだ溌剌さを持っているが、それとはまた別に妙な落ち着いた感の声は、それくらいが妥当だ。二人の会話の感じから、どうやら商談はすでに終えた後らしい。中の様子も、そろそろ宴もたけなわといったところで、連中がいそいそと帰り支度し始めたように思われた。
 せっかく水に濡れたというのに骨折り損ではあるが、こうなれば次の行動は決まった。俺はすぐに水から上がり、やや足早に本邸から出たところでまだ待っている遠藤のところにまでやってきた。
「おかえりなさい。ちょっと、足濡れてるわよ」
「まぁ、ちょいとな。それより、ここを離れるぞ」
「え? ちょ、ちょっと」
 なんのことかわからずにいる遠藤の右手を強引に引っ張って建物の中に押し込め、すぐさま自分も中へと入る。入り際、視界に楽しそうに笑い合っている二人の姿が出てきたのを確認した。連中は俺と遠藤の存在に気付いた様子はなかったので、すぐにでも行動に出れそうだ。
「ねぇ、一体なんなの」
「悪いが詳しくは教えられない。だがこれ以上、あんたを巻き込むわけにはいかない。ここで降りたほうがいい」
「ちょっと、いきなりなんなのよ。ちゃんと説明して」
 突然そういわれ怪訝に眉をひそめた女に、内心ほくそ笑みながら俺は今しがた、はなれでされていた会話をかいつまんで説明してやった。もちろん、ほとんど会話らしい会話など聞いちゃないが構わない。これだけ好奇心の強い女なら、それを利用する手はいくらもあるというものだ。そして案の定、遠藤は途中でやめられるわけがないと、頑として降りることを自ら否定した。
「そうか。だというなら、あんたは今出てきた男……あの商社マンについて調べてほしい。俺はもう一人のアメリカ人のほうだ」
「わかったわ。任せておいて」
 互いに落ち合う場所と時間などちょっとした打ち合わせをしながら建物の中を移動し、再び勝手口へと出た。遠藤とは中で別れ、早速行動に出てもらうつもりだ。客を装い、商社マンのほうを尾行しろといっておいたが上手くいくかは神のみぞ知る、といったところだろう。全く、なんだってあの女の手を借りようと思い至ったのか、俺の気まぐれもたまには面白い方向に流れるものだ。


「いつか見た夢」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「現代アクション」の人気作品

コメント

コメントを書く