いつか見た夢

B&B

第114章


 クラスノヤスクの街を出たのは、真夜中の二時という出発するにはあまりにも遅すぎる時間だった。老夫婦の家を出たのが早朝の六時頃、まだ二人とも寝ている中こっそりと出立したため、起きた二人は俺たちが泊まったという記憶すらないだろう。俺たちが見えなくなった後はそのような認識になるよう沙弥佳が暗示をかけていたため、きっと何事もなかったかのようにいつも通りの朝を迎えたはずだ。
 老夫婦の家を出た俺たちは、まず農道から州道へと入りクラスノヤスクに繋がるM53と記された国道へと出た。日本でいうところの国道五三号線という意味合いだ。さすがに都市の中心部へと続く幹線道路だけあってそれなりに交通量があり、ようやくやってきたという感じがした。
 たまたま近くを通りかかった街へ向かうトラックを止め、悠々と街へ入れることになった俺たちだが、そこでいくつかの情報収集をするべく運転手の持っていた新聞やラジオなどの情報媒体からそれらしい情報がないかを調べてみたところ、昨日あった列車運行の一時停止について報道されていた。表向きは列車のトラブルということだったが、さすがに連中もまさかスパイのためということを報道するわけにもいかなかったようだ。
 これは裏返すと、まだ俺について切羽詰って捕らえなくてはならないと考えてよさそうだ。当然、俺たちがクラスノヤスクに入ることくらい連中も切符の記録などから簡単に調べはつくだろうし、列車に乗っていない、あるいはいなかったことを考えて街に包囲網をしかけておくのが道理というものだ。
 まぁ、万に一つの確率で、田神が俺たちのことを遠ざけようなどとしてくれたという可能性もないわけではないが、そんな程度の確率でしかないことを考えたところであまり意味はなさそうだ。第一あの男ならプロである俺に対しても、自分と同じように考えることを前提にしているはずなので、こっちのことを気遣っていたとなれば逆に馬鹿にされたような気にもなる。
 このためクラスノヤスクではもっと殺伐としたものがあるはずで、もっと警戒していたのだが肩透かしを食らったような気分になった。もちろん、俺たちのクラスノヤスク入りは間違いなく分かっているはずなので、どこで俺たちを罠にかけるかということを考え、あえて手を出していないことくらいは予想の範疇ではある。
 ともかく、こうしてクラスノヤスクに入った俺たちは、まず拠点としてクラスノヤスク市街のポートエリアに行き、そこから程近い港小屋を集合場所に決めた。というのも、クラスノヤスクはあまり観光地という面持ちの街ではなく、どちらかといえ中央シベリアの経済都市といった感じだ。旧ソ連解体以降、近年に至ってそれなりに観光誘致などにも力を入れているようではあるが、それでもまだ観光地として見るにはいささか物足りなさを
感じる上に、まだまだそういった雰囲気を感じさせるには至ってなかった。
 そもそも観光といっても、クラスノヤスク市の中央を上下に分かつようにして流れるエニセイ川のクルーズが夏期限定で行われるくらいで、主だったものはあまりないのが現状だった。さらにその観光客向けのエニセイ川クルーズも、経済発展著しいロシアでは一般庶民にはかなりの高額商品ということもあって、どちらかといえば金持ち相手も商売といった趣が強い。
 こんなクラスノヤスクも今は観光シーズンもとっくに終わり、観光客などほとんど見かけることはない。このため、俺たちのような日本人男女三人というグループはかなり目立つ。いくらアジア系が意外と多いロシアでも、アジア系は大都市であるモスクワやサンクトペテルブルグなどを除けば多いようで少なく、どちらかといえば全土に渡って広く分布しているといったほうが正確だろう。
 特に中央シベリアでは、原住民以外のアジア系、とりわけ純ナマの日本人三人というのは相当に目を引く存在だった。さらにこのクラスノヤスクではどういうわけか、全国的にもアジア系が極端に少ない地域の一つであるため、そこを行くというのはやはり連中に見つけてくださいといっているようなものだ。
 そこで俺たちは二手に分かれることにし、沙弥佳と遠藤、俺という具合でそれぞれ次の目的地であるツングースカへ向かうための準備と情報集めをすることにしたのだ。もちろん、二手に分かれるということは一人だと当然連中に狙われやすい状況に陥るのは理解しているが、今回ばかりはそうもいっていられない。三人が三人とも捕まるということだけは絶対に避けたかった。
 考えようによっては三人でいたほうがあるいは良いのかもしれない。だが、連中の狙いは俺だ。遠藤はともかく、沙弥佳まで巻き込みたくなかった。あいつにこれ以上悩みの種を作らせたくはなかったし、少なくとも二手に分かれていれば、あいつに危険が迫る確率は低くなる。
 こういった考えから、俺は今回あえて二手に分かれることを提案した。俺の説明を聞いた二人も、特に異論はなかったらしい。そうして俺たちは夕方の五時に再び小屋に集まることを確認した後、一端二手に分かれることになる。二人にはツングースカまでの必要最低限の食料と道具の買い付けを頼み、俺は今後必要になる武器と情報、それと軍資金の確保が目的だった。
 こうして俺は軍資金確保のために、一先ずクラスノヤスクのダウンタウンへと向かい、目立つ地元の高級ホテルに入った。高級なチェーンホテルで、以前にもサンクトペテルブルグやモスクワでも見かけたことがあるホテルだ。
 ロシアではインターネットカフェなどは大都市に限られているため、ここらではカフェなどを利用したほうが良い。これは、様々なサービスの付加がなされた喫茶店文化を形成していった日本とは違い、ロシアでは急激な発展のために一挙に西側文化を受け入れたため、アメリカの無料ネット検索所や日本のインターネットカフェなどができる前にWi-Fiなどの無線LANを取り入れたことで、ネットを使う環境は自前の媒体が必要という事態に陥ることになってしまうからだ。
 残念ながら携帯や今流行りのスマートホンなども持たない俺には、そうしたスポットがない以上はホテルなどに備え付けのパソコンからそれらを使わなければ、ネットを使えないということだった。沙弥佳は例の力を使えばそもそもそのような必要がないので問題ないが、俺はそういうわけにはいかなかった。
 こういった事情から俺は入った高級ホテルのフロントに、パソコンを使いたいのでパスワードを知っている人間を呼んでくれと、のっけから強い口調でいいつけた。ロシアのホテルではいくら高級だろうと、専門の仕事以外のことはまるで判らないというのがホテルマンをしているので、まずそういうことに詳しい人間を初めから呼んだほうが面倒がないのだ。だが日本のような行き届いたサービスを期待できない分、俺が宿泊者でなくとも部外者が勝手にパソコンを使ったとしても気にも留めないだろう。きっと、贅沢な客が無理難題を言ってきたという程度にしか思っていないに違いない。
 事実、そこまで知っていた俺が必要なことを必要な分だけ喋ったことにより、フロントは少しも疑うことなくパソコンを管理する人間を呼び、パソコンを使うためのパスワードを教えてくれた。教えてもらったパスを早速パソコンに打ち込み、ネットの検索エンジンを開いて、あるイギリスの銀行名を打ち込んだ。すぐに検索結果が表示され、銀行そのものではないが、銀行の子会社の名前があるページのアドレスやキャッシュも出ている。
 そのうちのいくつかのページを開いて、その子会社の銀行が果たして本当にその親会社の銀行と繋がっているのかを確認すると、すぐに必要なことをそばにあったメモ用紙に書き留めていく。さらに、他にもいくつかの情報を検索し、それらもメモに書き留めていくと履歴を消してパソコンをシャットダウンさせる。
 俺はホテルから出て、得た情報を頼りに子会社である銀行まで行った。幸い歩くには少しばかり距離があった、歩けない距離ではなかったのでそのまま足早に向かうことにした。というよりも、そうする以外に方法がなかったのであるが。
 こうして銀行にやってきた俺は、空いている窓口である人物の言伝のためにきたといい、支店長を呼び出した。出てきた支店長の男は、あからさまに怪訝な表情と睨みつけるような鋭い目でこちらを見据えているが、俺は気に留めることなく、イギリスにいた時世話になった銀行の支店長の名をいって、その人物に電話を繋ぐよういいつけた。
 すると、この支店長は目を丸くして、大急ぎで彼のオフィスに国際電話を繋ぐよう指示し、俺を支店長室へと招き入れた。やはり、子会社だけあって、本店支店長の名は絶大だ。また、こんなときのためのコネクションではあるが、俺がこんな身になってしまった以上、そのコネクションがまだ生きているかは正直のところ賭けだった。
『お電話変わりました』
「よう、ミスター。久しぶりだな」
 受話器の先で何度かのコール音が鳴った後に、数年ぶりに聞いた彼の声を遮るようにいった。英語で話す俺に、向こうは一瞬の間をおいた後、久しぶりですなと返してきた。どうやら、向こうも覚えていたらしい。親会社の銀行、それもロンドンの中央支店長ともなれば相当に頭の出来る奴でなければなれないので、彼が俺の声を聞いて忘れるはずはないだろうが、それでもまさか俺からの国際電話がかかってくるとは思わなかったろう。
 早速俺は、仕事で使うから大至急で口座からこちらの銀行に送金させるよういいつけ、彼の応答も半ばの中、すぐさま電話を切った。一時は本当にコネクションが使えるか考えはしたが、仕事だといえば、向こうも簡単には無下にできないはずだ。俺がテロリストとして指名手配されたことも風の噂程度に聞いてはいるだろうが、あくまで組織内での活動が他の組織によってそう指定されたに過ぎない。よって、問題はないはずだ。
 そうして、支店長室を出て三〇分としない内に、再びクラスノヤスク支店長の男から呼び出され、新たに開いた口座に送金されたと報告を聞いて、すぐにオフィスの奥にある厳重な部屋に連れて行かれ、そこで古びた紙幣計算機を使い、遅れて持ち込まれてきたアタッシェケースからいくらかの札束が機械に放り込まれる。
 紙幣の柄はポンド札でなく、ルーブル札になっているところを見ると、さすがにシティ・オブ・ロンドンの支店長をしている男だけあって、今こちらのいる国を把握して通貨を合わせてきてくれたらしい。計算機がルーブル札の紙幣を数え終えると、きっちり五〇〇枚あることが安っぽいデジタル表示の数字によってうかがえる。
 札束はロシア通貨の最高札である五〇〇〇ルーブル札で、それが五〇〇枚ということは二五〇万ルーブルあるということになり、日本に換算すれば、ざっと七五〇万円ほどになる。これだけあれば、しばらくの間は金に困ることはないだろう。一般ロシア人の平均月収は、日本円で二一世紀の現在もまだ一〇万円かそこらなのだ。
 俺は数え終わり差し出された札束を受け取ると、そこから大雑把に六〇枚ほど掴み取って、支店長の男のポケットにねじ込んだ。男はそれを黙って見たまま、ニッと口元を歪ませるだけだった。まぁ、賄賂としては十分だろう。これだけでも男の月収分以上の額にはなるはずだからである。
 これほどの大金をポケットに収めておくのはさすがに考えものだが、これからも大いに賄賂として使っていかなくてはならない可能性は大いにあるので、これくらいは持っておいた方がいいだろう。仮に失ったとしても今回の方法を使えば、また口座から金を送金させることは可能だ。どのみち、まだ口座はもちろん、個人で契約してある貸金庫にはそれ以上の額が収まっている。それこそ、イギリスで最後のひと稼ぎをした際の金だ。
 金を得た俺は、束にされた金を持ってきたアタッシェケースに入れロシア語で男に礼を告げると、颯爽と銀行を立ち去った。途中、街の中心部辺りにある公園に設置されている背の高い時計を見れば、早くも昼の一二時近い時間になっている。どうやら、ロンドンのほうもちょうど支店が開店したした直後くらいだったようだ。だからこそ、向こうもこんなにも早く対応してくれたのだろう。
 資金を得て銀行を出た俺が次に向かったのは、クラスノヤスクのダウンタウンから少し外れた所に住む、ある一人の人物が住む家だった。公園を突っ切ったところで街の中央を抜ける目抜き通りに出て、すぐ脇を通ったタクシーを拾うと、先ほどホテルのパソコンで調べた人物の家の住所をいって発進させる。車は荒っぽい運転でもって、一五分とかからずに目的地に近い場所にまできたので、そこでタクシーは乗り捨てた。ここで、ついさっき下ろしたばかりの金がモノを言うに違いない。
 俺が降りたのはクラスノヤスクでも一等地にあたる閑静な住宅街で、目的の人物が住む家はその中でも相当に目立つ家だった。白味の濃いクリーム色をした壁に、複雑構造をした外観は、いわゆるデザイナー建築によるものだろう。庭も広く、それだけで家が軽く三、四軒は建てることができそうな広さがある。そんなこの家も、通常であればネット検索した程度では住所がヒットするはずはないが、ここが自宅兼仕事場の事務所という物件であるため、ネット上でもヒットしたというわけだ。
 この場所を俺が訪れたのは、この家の住人がある会社のオーナー兼社長として働いているためだった。というのも、この人物は中央シベリアを北極海へと流れる大河、エニセイ川に面したクラスノヤスクの港を支配する企業と関連を持つ会社を設立しているためだ。さすがになんのコネクションもない中で、いきなりそんな企業に表きって訪れるわけにはいかない。
 金を送金してしまった以上、おそらくその金の流れを諜報機関が把握していないとは言い切れない。ましてや、俺という存在がこの地に潜入したとなれば、連中も黙ってはいないはずなのだ。だからこそ、事は早く済ましてしまわないとならない。だが古人が急がば回れというように、事を焦ってしまえば全てが台無しになってしまうので、だからこそ今回、わざわざこの人物のところに足を運んだというわけである。
 仕事場を兼ねているということもあって、かなりの広さを持っている家はむしろ豪邸といったほうが正確で、とても一般人が手を出せるような代物ではなかった。だが、やはりロシアというお国柄なのか、鉄柵の大きな門は手で簡単に開けられるようなもので、あまり防犯性を保ててはいないようだ。これ幸いと、俺は鉄柵の門を押し開けて敷地に入る。グリーンの芝生を大股で突っ切り、邸宅の正面玄関隣に備えつけてある呼び鈴を鳴らした。
「誰だ」
 呼び鈴を鳴らして少しすると、中からどこか不機嫌そうな雰囲気を持って男がドアを開けた。まだ三〇代後半といったところだろうか、ストライプのシャツを着流した男は細身のスラックスジーンズを履いていて、ロシア人特有のどこか湿っぽく、それでいて冷酷さを滲みだしているような鋭い目つきをしている。
 体躯はロシア人の平均的な身長で170センチ台半ば後半といったところで、俺よりもいくらか背が低い。だが、着流しているシャツの下に見える肌からはそれなりに健康面を気にしている風なのが見て取れ、ウェイトトレーニングを怠ってはいないことは明白だった。
「はじめまして、グレゴリーさん。実は以前お話させていただいていた件についてなんですがね」
「初めてみる顔だが……君は誰だ」
「ああ、会ったことはないですよ。実はある仕事を依頼したい」
 訛りはあったろうが、それなりに流暢なロシア語を話せたはずなので、男に会話の内容が伝わらなかったはずはない。それを示すように鋭い瞳がさらに細くなり、こちらを見据えている。
「中へ」
 俺がこれから話す内容を察したようだ。依頼と聞いて、男は首を振って中へ招き入れるとドアを閉め単刀直入に聞いてきた。
「仕事というのは、何か運びたい物資があるということか」
「話が早くて助かりますよ。実は今日中にもツングースカまで人を運んでもらいたい」
「ツングースカまで? だったら、わざわざ私のところに来なくとも、車を使って行けばいい。あの辺りはもう冬だが行けないことはない。最近は数日おきにだが、飛行機やバスの定期便があるはずだ」
「そんなことは分かってるさ。それでもだ」
 ややまくし立てるようにいうと、流石にグレゴリーも何かあると察したようだが、やはりどこか浮かない顔をしている。それはそうだろう、一応は真っ当な職に就き、しかも社長だというのだからワケありの人間の依頼など受けたくないというのが本音なのだ。しかし、そうもいっていられない。だからこその賄賂なのだ。
 何より先ほどインターネットで調べてみたところ、このグレゴリーという男がクラスノヤスクのポートエリアを牛耳る企業……というと聞こえはいいが、結局はロシアンマフィアの構成企業の一つで、その末端構成員だというのが一番大きい。表向きはきちんとした職を持ってはいても、マフィアと繋がりを持たなければ不動産関係では中々に成功できないというのが、このロシアの現状だ。あるいは、それ以上に強力な政治党員になるか。選択肢は限られている。
 俺はおもむろに、持ってきていたアタッシェケースを開けて中からルーブル札の束を掴み取り、そこから数十枚抜き取ってグレゴリーに突き出した。先ほどの銀行家に渡した額よりもさらに多く、一〇〇枚近い。いくらグレゴリーが起業家として成功しているとしても、決して無視できない金額のはずだ。その証拠に、男は突き出された札束と俺のほうを交互に見ながら、何か考えている様子だった。おそらく、この金額に見合うだけのリスクはどうなのかなどと考えているのだろう。
「わかった。いつだ」
「出発できるなら今すぐにも……といいたいが、こっちにも準備がある。今晩でどうだ」
「いいだろう。深夜〇時にポートゲートだ」
「話が早くていいね。用意してほしいのは……」
 そんなやり取りから始まった契約交渉は三〇分ほど続き、互いに納得のいったところで固い握手を交わして邸宅を後にした。堅気の面と阿漕あこぎな面の両方を持ち合わせるグレゴリーのような人種というのが、一番やりやすい。後ろ盾がある分やりにくい面がないわけではないが、大抵は金をちらつかせるだけで簡単にことが運ぶことが多いからである。そのせいか、確かな手応えを感じて再び表に出た俺の足取りは、どこか軽い。
 次に俺は、クラスノヤスクの中でもやや暗い印象の持つ地区にまで行くために、目抜き通りへと下っていき、そこでタクシーを捕まえて乗り込んだ。無愛想で五〇代くらいの、いかにもゴロツキあがりといった風貌の運転手に行き先を告げると、旅行者の行くような場所じゃないぜ、とありがたくも忠告してくれたがそんなことは百も承知だ。だからこそ行くのだ。
 運転手の男は一度深い溜息をついて、手前のブロックまでだと付け加え、印象通りの荒っぽい発進でもって車を走らせた。クラスノヤスクの運転手というのは皆こうも荒い運転をするのかと思ってしまうほど、男の運転は先ほどの運転手とも比べ物にならないほどだった。目的の地区は閑静な一等地であるこのブロックを、エニセイ河を挟んでまるで反対の地区に当たるため、車でざっと二〇分かそこらといったところだが実際には、一五分とかからずについてしまった。目抜き通りをかなりのスピードで飛ばした運転のためだ。
 交差点で黄色信号がつけばスピードをあげる、進行方向を行く車は何十回と蛇行と追い越し車線を使って、とにかくスピード重視の運転だったのでそれも必然だろう。日本にもこうした荒っぽい運転をする者もいるが、だとしておおよそ日本では考えられないほどの荒っぽさだ。止まる際にも急ブレーキを使っており、さっさとこんな客など下ろしてしまいたいという気持ちが全面に出ている感じだ。わざわざ進言してきたことからも、運転手本人もこの地区にはあまり足を踏み入れたくないのかもしれない。
 釣りはいらないといってタクシーを降りると、当然といわんばかりに金を受け取って再び運転手はバックで急発進し、あっという間に今来た道を戻っていった。俺はそれを端目に見送り、町のほうを振り向いた。陰気な雰囲気がそこかしこに漂っており、外部からの人間は一切受け入れないというのが街全体を通して感じ取れる。
 クラスノヤスクでも取り分け問題になっている貧民街で、近隣国家からの亡命民や避難民、それに不法入国者や脛に傷を持つ連中が多い地区だ。目を見張る経済発展ぶりは周辺諸国から見ても羨望の眼差しを一身に受けるロシアだが、中でもこのクラスノヤスクではそうした問題が顕著であるらしい。元々中央アジアは世界的にも極貧国家といってもいい国々ばかりのため、そうした国から職や豊かな生活を求めて移民が増えているという。
 そんな国々の人々からは、経済的に発展を見せているクラスノヤスクの街がもっとも近い大都市ということになるため、こうした移民が多いのだろう。中央シベリアの中では比較的気温も温暖な地域になるため過ごしやすく、モスクワなどの中央からは目が届きにくいというメリットもある。
 こういった事情から、近年はクラスノヤスク市民が古く治安の悪い地区から離れ、より新しく治安の良い地区に移り住むのは当然で、そうしてできた空家に移民が住み着き始め、これが悪循環を生み出し今ではこんな貧困街が形成されたというわけである。
 こんな街は確かに危険がないわけではないが、俺はどこか懐かしい気分になってしまうのがおかしかった。ロンドンにいた頃、こういった地区に住んでいたからだろうか。だからこそ、この地に降り立った瞬間、その時の経験と勘が蘇ってきた俺は、それを頼りに貧困街を歩き始めた。こういった地区には、必ずそこを牛耳っている人間がいるもので、そいつと会うのがこんな街にきた理由だった。ひと暴れすれば、あるいはそれも簡単だろうが、なんせ今回は時間も限られているのでなるべく別の手段でいきたい。むやみやたらと事件を起こして、スパイどもにこちらの動向を掴まれたくないというのもある。
 貧困街のメインストリートは昔ながらの古い通りのため、一応片側二車線にはなっているものの、無理矢理車線分けしたという印象が拭えきれておらず、そのために見た目以上に車線の幅が狭く感じられる。おまけにストリートの至るところに、日本ではスクラップにされてもおかしくないような年代ものの車が無造作に停車させてある。
 こんな場所で、通りを歩きながら何気なくそんな車の中を覗き込むと、ほとんどの車に鍵がされていないのがわかった。こんなではあっという間に盗まれそうなものだが、それはできるようで簡単にはできない理由がある。こんな場所に停めてあるのは、大抵がこの地区のコミューンの中でも名の通ったような連中か、その手下の連中のものであることが多く、もし軽い気持ちで盗もうものなら、そこからたちまち噂が広がり、捕まりでもしたらリンチは免れない。良くて半殺し、運が悪ければその場で殺されてしまうことだろう。
 さすがに極貧街だけあって表通りはほとんど人が歩いていないが、所々で奇異な目でこちらを覗っている連中がかなりの数いるようだ。半分は、こんな街を肌の黄色い旅行者らしい人間が好奇心に街歩きしているうちに、やばい街に踏み込んできたのを哀れんでいるか、もう半分はそんな旅行者を、年に一度も出会えないだろう恰好の獲物がトラップに引っかかったとでも思っているに違いない。
 俺はそんな好奇と殺気に満ちた視線を全身に浴びているのを感じながら、ストリートをさらに奥までいき、適当なところで左側にあった小さな路地を曲がった。すぐさま後ろを振り向き、ほんの一秒か二秒だけ呼吸を止める。
 次の瞬間、曲がった通りから一人の男が鉄パイプを持って現れた。相手が振りかむるより前にその手を押さえ込み、手首を思い切り捻って緩んだ指を二、三本掴んだ。すぐさま男を羽交い絞めにし、首元をがっちりとホールドしてさらにそのまま反対方向を振り向かせる。
「ぐあぁ」
 手を捩じ込まれ、さらに息ができないくらいに首元をホールドされた男が、もう一人、俺を狙おうと遅れて路地を曲がってきた男からの攻撃を直に受け、苦痛に満ちた悲鳴をあげた。二人は仲間らしく、遅れて現れた男はまさか自分の相棒がホールドされ、盾にされているだなんて思わなかったようで、捕まっただけでなく、仲間に攻撃したことに狼狽えた。
 おまけに、一人目の男が路地を曲がって一秒あるかどうかの時間の中ではなおさらだ。何より、全くここらに縁のない旅行者だと思っていた男にとなれば、連中からすれば予想もつかなかったに違いない。
「ご挨拶じゃないか、いきなり人を狙うだなんて」
「て、てめえ、そいつを離せよっ」
「悪いがそれはできない相談だな。相棒を離してもらいたきゃ、お前らのボスのところにまで案内しな」
「ひっぐっ……」
 ホールドした首元をもっと強い力で締め上げ、掴んでいる手首の骨と骨の間に思い切り指を食い込ませると、羽交い絞めにされた男は、鉄パイプとは別に持っていたらしいナイフをその場に落とした。俺とて鉄パイプしか持っていないとは思っていないので、それを見越してちょいときつくしてやっただけだが案の定だった。
 もう一方の男は相棒がやられているのを目の当たりにして、どうすればいいのか分からずに頭がパニクってしまっていて、その場から動こうにも動けずに、ただおろおろと狼狽えている。
「おら、さっさとその鉄パイプをおいて、呼んでこいよ。さもないと、お前さんの相棒死んじまうぜ」
「う、うう……てめ……くそぅ……う……う、うわああああ」
 もう一人の男がついに覚悟を決めて、叫びながら突進してくるが俺は羽交い絞めにしていた野郎をもう一人に向かって突き飛ばすと、二人は抱き合うようにぶつかってその場に転倒する。これを見計らい、もう一人の持っていた鉄パイプを蹴って飛ばし、倒れて呻く野郎の顎を蹴り上げて昏倒させた。
 別に死なせたところでどうでもいいことだが、ここで死んでもらってはFSBに足がつくので手加減してやった。だが、顎骨にひびくらいは十分入ったはずだ。誰もこんなことをしたくてしているわけではないのだろうが、相手が悪かったと思ってもらうしかない。人を攻撃するということは即ち、自身がそんな目を遭ってもいいという覚悟を持った人間だということで諦めろということだ。
「お前の相棒も馬鹿だな。大人しくボスのところに案内すれば痛い目を見らずに済んだというのにな。さ、今度はお前の番だぜ、馬鹿な相棒みたいになるか、大人しくボスのところに連れて行くか選ばしてやる」
 振り向きざまに相棒からの一撃を腹に食らい、まだ痛みを堪えている男の首根っこを掴んで立たせ、思い切りその横っ腹に膝蹴りを食らわした。横のめりになる男は襟元が掴まれているために倒れることもできず、ただ惨めに泣き出した。男の事情より、こちらのほうが優先なので、続けざまに向う脛を蹴りつけて、さらに苦悶を滲ませてやる。
「どうするんだ。ボスのところに連れて行くのか、このまま惨めに泣き続けたいのか」
「うああ、わ、わかった、案内する、案内するよ」
 痛みと恐怖にガクガクと震える男の片腕をねじって後ろ手にしたまま、俺は男にボスのところへ案内させるため路地を出た。通りの反対にこいつらのような連中が三人ほど見えたが、全員、まさか二人がやられて俺が無傷で出てきたのが驚きだったのか、その場に立ち尽くしている。今襲った二人は三〇歳かそこらといった位だが、あの三人はまだ一〇代だろう。服装や背丈格好がなんとなくそれらしく感じられる。
 しかし、あのガキ三人と同様に、これまで奇異の目で見つめられていた気配が、今は何かもっと違うものになったことが感じられた。やはり皆、まさかこんな結果になるだなんて思わなかったらしい。それが普通なのかもしれないが、それは相手が悪かったというものだ。こんなことはこれまでにも何度となくあったことなのだ。
 それに今俺を死なせては、連中とて大変なことになるというのを思い知らせてやるつもりだった。もし俺を死なせてしまえば、俺を追ってFSBがここら一帯を粛清しかねない。FSBも目的のためなら、こんな貧民街など取るにたらないと思っているはずなので、俺が死んだとしても死体を見つけ出すまでは、目的発見のための清掃と称して、この区画一帯を粛清する可能性は極めて高い。それこそFSBの中には強行派もおり、こいつらは自前の武器を使いたくてうずうずしているはずだ。
 男を締め上げたままやってきたのは、路地からそう離れていない一画にあった古いマンションだった。いや、今はマンションとして使われている古い建物といったほうが正確か。おそらく、建家自体は雑居ビルのような感じでそこをかつてマンション用に改装したという雰囲気だ。
 そのマンションの階段を登った四階に、目的の部屋と人物がいるらしい。そこまで案内された俺は、男にノックするよう耳元で囁き、男を盾にしたままドアを開けさせる。男はただでさえ痛い状態だというのに、俺が要求する一つ一つのことに痛みに負荷がかかるらしく、その都度呻き声を漏らした。
「おまえか、暴れてるアジア人ってのは」
「あんたもアジア人じゃないのか。ここはまだアジア地域だぜ」
 入ってきた俺に、部屋の中央に手下らしい男たちを三人に囲まれている男がそういってきたので、ニヤリと唇を吊り上げながら返した。そういいはしたが、リーダーらしい男はそのものずばりアジア系の顔立ちをしており、想像するにやはり不法入国の末にこうして貧民街のリーダー的立場として君臨しているようだ。
「人の縄張りでえらく暴れてくれたみたいじゃねえか」
「耳が早いな。だが勘違いするなよ、俺はあんたに会いたくて訪れたところ、この連中が勝手に襲ってきただけだぜ。もう一人はまだ路地で伸びてると思うがね」
 取り巻きの三人は腰や懐にしまってあるモノに手を伸ばそうとするのを、リーダーの男がそれを制した。平静を保っているように見せて内心では腸が煮えくり返っているのだと勝手に想像していたが、どうやら違ったらしい。さすがにこんなゴロツキ同然の連中を纏めている男だけあって、見た目以上に冷静な男だ。
「で、こんな場所にきた理由は。返答次第じゃ無事じゃすまねえぞ」
「何、あんたのとこで少しばかり武器を横流ししてもらいたいだけさ。できるだろう、あんたのコネクションならな」
「できるわけねえだろう」
「いや、できるさ。グレゴリーから仕事をもらってるあんたならな」
 グレゴリーの名を出した瞬間、男の表情にかすかな変化があった。そう、ここを訪れるよう進言したのは、あのグレゴリー本人なのだ。グレゴリーはマフィアの資金面を支える構成員の一人で、その下請けとしてこの貧民街の連中を使って、時に危ない仕事も請け負っているというのを自身がいっていたのだ。正確には、そのようなことを遠回りにいっていたのを、俺が推理して導き出したというのが正しいが、ともかく男の反応をみれば、それが正しかったことが裏付けられた。
 グレゴリーはここの連中を使って時折、エニセイ川の河口から上流にあるこのクラスノヤスクに上ってくる物資船の積み降ろしの仕事を与えているという。もちろん、それは決して口外できるようなものではなく、そのほとんどが違法取引で手に入ったものばかりで、そのせいもあってグレゴリーはほとんど手のつかないような不法移民などを使って、その手伝いをさせていたというのだ。
 マフィアが絡む以上、そこに銃器などの武器の取引もあったことは間違いなく、連中が銃を携帯していることからもそれは間違いないと見ていいだろう。だが、世界でも有数であるロシアン・マフィアとの取引は並大抵ではなく、それよりはグレゴリーを含め、その末端で働く連中を使ったほうがまだいくらも安全で、かつ安上がり、そして素早く行動できる。目下の問題はあくまでFSBだということを忘れてはならない。
「一応言っておくが、俺とは取引しておいたほうが身のためだぜ。下手すりゃFSBの怖い連中がくる可能性があるからな」
 あえて警察といわずFSBといったのが逆に悪かったのか、男は途端に大声を出して笑い出した。この手の連中には、FSBというよりも警察といったほうがまだ通じるのか……。そう思ったところ、男が笑っているのを止め、真顔で返してきた。
「FSBだって? おまえ、そんなこと本気でいってるのか」
「ああ、至って本気さ。連中は、俺のことを追ってる。奴らは狙った獲物は何がなんでも捕らえるつもりでいるからな、ついでにこの街ごと潰しにくる可能性だってあるぜ」
「それも有り得るが、だったら今ここでお前を捕らえて連中に差し出したほうがいくらも俺たちにメリットがある」
 正しく俺が思い描いていた通りの返答に、俺は畳み掛けるように続けた。
「かもな。だがな、それは止しといたほうがいい。もし俺を捕らえて連中に差し出したところで、あんたらのメリットなんざ、ただここの居住権が保たれる程度だろう。しかし、それも保証されるわけじゃないぜ」
「どういう意味だ」
「つまり、あんたも俺と組んでひと稼ぎする気はないかといってるのさ」
 そういって俺は、ここまで持ってきていたアタッシェケースを未だ羽交い絞めにしていた野郎に開けさせた。中から札束がパサりと控えめな音を立てて落ちた。
「これは」
「どうだい、決して悪い話じゃないだろう? グレゴリーからの下請けなんて、大して稼げんだろう。だが、あんたらが手を貸してくれるってんなら、その半分……いや、全部くれてやってもいい」
 さすがの男も、目の前に現れた五〇〇〇ルーブル札の束を目の当たりにして、明らかにそれを欲した瞳になったのを見逃さなかった。いくらかは俺も自身のポケットに詰め込んであるので、いきなり文無しになることはない。それにいざとなれば、沙弥佳もいるのでさほど金は重要さを帯びていない。だがこうして、いざという時のためにはやはり大変効果の高いものではあるため、必要分は持っておかなくてはならない。
「いいだろう。だが、前金としてその金は全部もらう。いいな」
「構わんぜ。ただし、その前にあんたの口利きが先だ。それと武器の横流しに先についてもだ」
「ふん、いいだろう。だが今は、大して入荷してない。拳銃くらいだ」
「それだけで十分さ。とにかく丸腰ってのが一番いけない」
 俺は大いに頷き、そこでようやく羽交い絞めにしたままの男を解放してやった。男はやっとのことで解放されたことに気が抜け、突き飛ばされたところに力なく倒れこんで、そのまま痛みに肩を押さえながらその場にうずくまったままになった。
「交渉成立だな。今から早速案内してもらおう」
「いいだろう。おい」
 男が取り巻き連中の一人に手で合図し、車を用意させるよう指示を出した。そしておもむろに立ち上がると、のっそのっそと出かける準備を始める。どうやら男が付き添って連れて行くつもりらしい。俺は黙って男たちの様子を見ながら、ふと部屋に置かれている時計に目をやった。時間は午後の一時半を回ったところだった。



 さざなみを立てながら船は、真っ暗なエニセイ川を北へと向かって航行していた。秋のシベリアといえば、比較的温暖な地域である南シベリアでもすでに北海道の真冬並みの寒さがあり、小池や小川などのあまり水流のない水場では表面に凍結した水分が氷となって張るほどの寒さである。なんせ、日中でも氷点下という日があって普通の世界なのだ。
 そんなシベリア南部からさらに寒さの厳しい北部へと向かっていくのは、半ば自殺行為だ。目的地となるツングースカは、クラスノヤスクよりもさらに一〇度以上、下手をすると二〇度も気温が低いのだ。それは日中でも沸騰させたばかりの湯を外に放置しておくだけで、瞬く間に氷に変わっていってしまうほどの寒さで、夜なら建家にいなければ間違いなく凍死である。そんな極寒の世界に好き好んで足を踏み入れる者など、学者やテレビの取材などを除けばほとんど訪れる者のない、まさに広大な陸の孤島だ。
 ましてや真夜中におおよそ二〇ノット前後という比較的速い速度を維持しながら、季節はずれのクルーズする船の切る風はあまりに冷たく、じっとしていると早くも軽い痛みを感じるほどになっていた。後方には、先ほど出立したクラスノヤスクの街明かりが、ほのかに輝いているのが見える。空気が乾燥し、さらに冷え切った中では、ほんのわずかな明かりもえらく遠くまで届くが、本当にその通りだった。
 シベリアはもちろん、ロシア国内でも有数の大都市の一つであるクラスノヤスクだからこそ、こんな深夜でも街明かりを見ることができたが、それもそろそろ終わりのようだ。船は徐々にカーブしていき、クラスノヤスクの明かりが徐々に河岸の山裾の影に隠れて見えなくなり始めており、最後まで見えていたとりわけ強い光を発していたそれも、ついには見えなくなった。
「それにしても不気味なくらい、連中の姿が見えなかったわ」
 消えゆく街明かりを見つめていた遠藤がつぶやいた。
「これで少しは連中からの追跡を免れるといいんだがな。陸路は限られてるし、ツングースカに近い例の秘密都市に行くには結局こいつが一番らしいから、とにかく行くしかない」
 俺がそういうと、遠藤と沙弥佳両者とも頷いた。日本で活動していたFSBの現場工作のボスだったアレクセイ・ガルーキンは死の間際、ロシアアカデミーと口走っていたためこれに従い、俺は必要になりそうなものを取引契約した後、沙弥佳たちと合流してアカデミーを訪れた。アカデミーとはいえ高等教育機関、要は国立大学という位置づけなので、別に一般人も入れないわけではない。
 問題は、アカデミーのどこに今回必要になる情報があるのかということだったが、そこはやはりというべきか、沙弥佳の暗示が役に立った。沙弥佳はのっけから事務所に行き、事務員を発端にして次々と暗示をかけてはどこに何があるかを聞き出していったのだ。そうして辿り着いたのは、アカデミーの中でも特別に設置されている区画で、そこには何に使うのか俺には想像もつかないロシア最新の装置が何台もあった。
 その区画の資料室には過去に行われた実験は元より、旧ソ連時代からの研究データが大量に保管されていた。あまりに膨大にある中から必要な情報を抜き取るというのは至難の技だが、さすがに最新というべきなのか、資料室に入った脇に一台のパソコンが置いてあり、それで知り得たい情報の研究データが保管されている区域と棚のナンバーを示したことで、資料探しが捗った。
 クラスノヤスクのアカデミーで研究されていたということは即ち、クラスノヤスク地方全般で行われた知識の集合体といっても過言ではないだろう。そうして資料探しをし始めて二時間としないうちに、目的となるものが見つかった。それは、かつて旧ソ連時代には機密扱いだったもので、まさしく俺たちの知りたい情報そのものだった。
 難解なロシア語のために翻訳するのには少しばかり骨が折れたが、元々語学に学のある沙弥佳と意外にも遠藤のおかげもあって、書かれてある内容が浮き彫りになっていった。そこには、一九〇八年に起こったツングースカ地方、ポドカメンナヤ・ツングースカ川上流でこれまで聞かれたことのない巨大な爆発音についてのレポートと書かれていて、それが例の隕石爆発によるもののことだというのはすぐにわかった。
 一九〇八年六月三〇日に起こったこの爆発音による詳細な記録は以下の通りだった。半径約三五キロから最大五〇キロ、実に二三〇〇平方キロメートルに及ぶ広大な範囲に渡って森林が大火によって焼失し、何日にも渡って火が燃え盛っていたとある。また、爆発による閃光は何千キロも離れたヨーロッパ地域でも確認されているらしい。
 この爆発の際に、何百キロも離れた町や民家にもその爆発と衝撃音は届いていて、中には窓ガラスが衝撃によって割れたという報告もあった。この広大な範囲には全くといっていいほど民家がなかったため、死者はいなかったとしている。しかし巨大な衝撃音により、聴力に異常をきたした者もいたという。その衝撃は何十メートルもある巨大な針葉樹を根こそぎ根元からなぎ倒し、波状型に広がったとある。
 そこにあった多くは以前田神から聞いた内容のことと重なる部分で、詳細を除いて格段新しい情報はなかったが、調査に参加した学者より、いくつか今後の研究課題になったとするような疑問符の打たれた部分があり、俺はその部分が気になったため二人に翻訳を頼んだ。
 どうやら、すでに旧ソ連の研究チームはツングースカの爆発事件は隕石のエアバーストによるものの可能性が高いという見解を導き出していたらしい。その見解をなぜ公表しなかったのかという疑問があったが、それは次の資料によりすぐに氷解した。
 次の資料には、まず隕石の破片が見つからなかったという公式の見解とはまるで逆のことが書かれており、少ないながらも隕石の破片が見つかったというのだ。その隕石の破片に、未知の成分が含まれているということも書かれてあるあたり、それを占有するために公式発表しなかったのではないかとこの研究員は考えたらしい。
 またこのデータの最後に、一度は出された死者の誤報についての見解が書かれてあった。発表当時は死者が一名とあったそうだが、それが後に取り消され、死者はいなかったということにされたのだという。俺が気になったのはこの部分だった。どうも、先達のによる資料からは、その死者についてのデータが記されていたのだ。
 ロシア人女性だというその人物の名前は不明。奇妙にも、爆心地にほど近い場所で倒れており、発見当時シベリアの真夏の格好で見つかったらしいこの女の意識はなかったという。その発見について、この資料を作成した研究員はさらに次のページで驚くべき見解を示していた。
 まずツングースカの公式な調査の立ち入りが行われたのは、爆発から一三年も経った一九二一年のことで、当時の帝政ロシア帝国が倒れ、新たにソビエト連邦が樹立を目指し新たな国家造りがなされていた時期である。その後の一九二七年に学術的な調査が行われた結果、爆心地にあった有名ななぎ倒された大量の木々が発見された。この時、この女が発見されたのだという。
 これはあまりに奇妙なことだ。この調査団が残した、研究のために登場する人物は全てが周辺の村落で行われた住人たちへの聞き取りばかりで、それ以外の全ては調査中に発見された物のことばかりだ。もちろん、この調査団もチームの人員が限られていたのはもちろんのはずなので、一度で全てを見つけることなど不可能だ。なので他にも死者がいても、見つけられなかったということは大いに有り得る。
 だというのに、この資料は奇妙なことに、女に意識はなかったと報告されていたということを書き残している。つまり、女は生きていたのだ。後にどうなったのか不明であるが女は爆心地にほど近い場所で、意識をなくした状態で倒れているのを発見されたというのはあまりに妙な言い語りではないだろうか。
 そもそも、なぜそこで倒れているのか、その後の調査資料が全く欠けているようなのだ。普通であれば、そんな場所で発見された人間であれば、そこに立ち入った理由はなんなのか、身体への影響がどうなっているのか、女がどういう人物なのか、家族など疑問はいくらだってあるはずだ。なのに、そういった資料は一切ない。
 さらに、爆心地付近に倒れていたとはどういうことなのか。爆心地が見つかったのが一九二七年ということは、爆発が起きて一九年も経ったあとになるがそれまで立ち入ることがなかったその場所に、なぜ女が一人倒れていたのか、なんとも奇妙な報告だった。普通に考えれば、地元の住民が好奇心にかられてその場に辿り着き、そこでなんらかの事情に倒れたというのが自然だが、だとすれば地元の近隣住人に聞き込み調査がされた際に、そういった人物の素性も分かるはずである。なのに、それが分からなかったというのは、疑問を挟むにあまりある事実である。
 この資料自体が作成されたのは二次大戦後の一九六七年のことであるが、いくら調査しても一向に記録や資料が見つからないことでこの研究員は諦めたらしく、最後に彼女について一切の資料や記録が何者かによって切り取られたかのようにすら思えると締めている。これは何十年と経って今資料を閲覧している俺も同じ気持ちで、この不自然さに違和感を覚えたので、それを持ち出すことにした。
 後は機密扱いになっていた、発見されたにも関わらず公式発表されなかった隕石の破片については、別の資料に書かれていた。どうやら、エニセイ川の河岸付近にある小さな街があり、そこには軍の管理する衛生基地が存在しているという。これがおそらくガルーキンのいっていた軍基地のことだろう。
 破片はそこに運ばれたとあり、様々な実験が行われた可能性を示唆しているが、その詳細は書かれていなかった。どうやら、このレポートを書いたのはかなりの高官だと思われるが、こうした基地の位置関係などは丸きり書いていないことから、そこが秘密にされているということは明白だ。
 ロシアには秘密都市と呼ばれる都市があり、こういった街や都市では国内外の旅行者はもちろん、たとえ地元民であっても身分証無しでは立ち入ることが規制されている。旧ソ連崩壊と共に、そういった街は徐々に規制解除されていったと習ったが、現在でもまだいくつも存在している。この中のいくつかの知られている都市はあるが、これらは全て軍に関係するものや、あるいは兵器開発に携わっている企業都市で、現在も地図上には名前すら載せられていないというのが実情である。
 こうした軍需の街とは別に、ロシア国内に多大な利益を生み出しているような企業が置かれている街なんかも、秘密都市に指定されていることもあるといわれる。ロシアは非常に豊富な地下資源を持った国であるため、そこから生み出される膨大な利益と技術を死守すべく、そういった措置が取られる。技術など、日本からすれば一体何十年前の年代物だと言わんばかりのものなので、今に限っていえばやはり資源の秘匿というのが命題だろう。
 こうした秘密都市と呼ばれる都市が、国内に何十、あるいは百数十ともいわれる数で存在しているといわれる。これらの都市でどのようなことが行われているのかなどは、携わっている人物にしか分からないことも多く、党員のトップであっても全てを把握していることはない。二一世紀に入った現在もまだ存在しているということが、やはり開放されたといわれるロシアでも、あくまで表向きであるということが窺える事実だ。
 ガルーキンが口走った町というのも、おそらくはそういう秘密都市の一つだろう。このため、地図には載せられていないので地元の、それもかなりの土地勘と地理や状況を知る人物でなければ、そこに辿り着くことすら難しい。俺がクラスノヤスクで交わした契約には、そういったことも踏まえ、なんとかなるよう下準備の意味もある。なんせ前情報など丸きりないのだ。
「ツングースカに何があるのかしら」
 暗い川面を見つめていた沙弥佳が、不意にそう聞いてきた。聞いてきたというよりも、独白に近かったかもしれない。
「さあな。だが、ここまできちまった以上は行くしかないさ。あるいは行って何かあるわけでも、何かできるわけでもないかもしれないが、それでも俺たちは……お前は行くべきだ。あの坂上も、武田も、ミスター・ベーアも、それにお前もさ。全員がこいつに何らかの形で関わってる。少なくとも、お前はそれを知る権利はあるはずだ。何か分かれば、お前を治すことも可能かもしれない」
 沙弥佳を見つめることなくいった俺に、沙弥佳は何も語らず、露出した手を少しだけ摩って寒そうにした。
「おい、そろそろ中に入ってくれ。飛ばすぜ」
 操縦席の窓から男が顔を出して声をかけてきた。グレゴリーに頼んで船をチャーターする際、操縦士を頼んでいたのだ。なんでも元は軍の船で操縦士をやっていたそうで、退役後に再びマフィア絡みのグレーな仕事で生計を立てている男だという。彼ならエニセイ川はもちろん、クラスノヤスク地方の情報筋として十分だろうということで雇うことにしたのだ。
 彼を雇うために用意した一〇万ルーブルはあっという間に消えたことで、俺のポケットマネーも、もうほとんどそこを尽きかけているという状況だ。だが、それは問題ない。軍関係の施設に行くとなれば、闇に流せばロシア内で活動できるくらいの資金はいくらでも調達できるはずだからである。銃器はもちろん、中には最新の研究データなんていうのも売れるだろう。とにかく、そういうものに事欠かない。
 俺は男にわかったと返し、寒さに震える沙弥佳の手を掴んで中へと導いた。俺がまさか手を掴んでくるだなんて思わなかったのか、少し驚いた顔をした沙弥佳だが嫌がる素振りは全く見せなかったので、俺はそのまま手を引いて船室へと階段を降りた。この様子を遠藤も特に気にする様子もなく見つめていたが、遅れて船室へと降りてくる。
 まさか秘密都市に向かうのに真昼間から動くわけにはいかないので、途中、男は船を隠せそうないくつかの入江に入って、二日がかりで目的地へと向かうのだという。だとすれば、言葉に従うまでだ。その間は、身体を休ませてもらうことにしよう。どのみち陸に上がれば、また苛酷な山歩きになることは目に見えている。それも遭難すれば確実に死ぬことが見えている、死の山を歩くのだ。
 俺たちが船室へと降りていったのを確認することもなく、操縦士の男はぐんぐん航行スピードを上げていく。さすがに高速艇というだけあって、そのスピードはかなりのものだ。これなら目標ポイントに十分予定時刻にたどり着くことができそうだ。



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