いつか見た夢

B&B

第120章


 パチパチと、目の前で起こる火の音が妙に小気味良く聞こえた。見つめる炎がコロンと乾いた音を立てながら崩れると、そこに空気が送り込まれて一際大きな炎があがっては徐々に落ち着きを取り戻していく。
 吸える空気などほとんど無くなってしまっているのではないのかと言わんばかりに、乾燥した空気に吐く息は当然、吸う空気もまた極端に少なく感じて妙に息苦しかった。あまりに低い外気温のために空気は冷やされ、その寒さはとても言葉にできるものではなかった。そんな空間では吸える空気は極端に限られている。
 正確には、空気を吸おうにも吸おうとすると氷点下にまで冷やされている空気が取り込まれてくるため、まともに呼吸することができないのだ。おまけに、下手に肌を露出していると徐々にその肌が冷やされていき、長時間そのままにしていると最悪凍傷により血が通わなくなりかねない。結果、口元を覆わなくてはならず、となると呼吸がしづらくなるというループに陥る。
 しかし、これは絶対に必要な処置である。なんせ、数呼吸としないうちに口元を覆っている布部分が呼吸のために排出された空気の水分により、瞬く間に凍りつくのだ。こんな絶界の空気をもろに取り込むと、凝縮され氷の半粒子状になった空気が肺に溜まり始める。所謂、高山病というやつに陥ってしまうのだ。
 高山病は数千メートル級の高山、概ね森林限界とされる二五〇〇メートルに達する高所において、低酸素状態が長時間続く際に頻発しやすい。酸素濃度が低いために起こるものであるが、主な症状としては過呼吸、貧血やそれによる立ち眩み、頭痛や吐き気といったものが代表的だ。さらに標高が高くなると、肺に水が溜まるという同様の現象が起きる。
 しかし、この高山病という症名はこれが中々に曲者で誤解されがちだが、実際には森林限界を超えた高地でなければ起こならないというわけでもないのだ。高山になれば低酸素状態が続くためにそうした症状が出るというだけで、要は取り込める酸素が少なければ、ここのような極端に外気温の低い世界でもどうようのことが起こるのだ。
 高山病の重度なものになると、空気中の少ない酸素を少しでも多く取り入れようと過呼吸になるが、こうすると氷点下にまで冷やされて氷の半粒子状になった空気が肺に取り込まれ、体熱により溶かされ肺の中で水へと昇華しそれが溜まるという現象が起きる。この現象が、極端に冷やされている北シベリアなどの極地でも同様に起こるのだ。
 そのため、あまり極端に冷やされすぎた空気を多く取り込むのは危険だった。かといって、それを避けるために布で口元を覆い続けたままだと、やはりまた吐く息の熱により布が凍りつき息苦しくなっていくため、適度に布を変えるなり、いくつかの防ぎ方を使用してなるべくそうならないようにするしかない。
 そういった点では、今のような火の前に座り込み火に当たるという行為は、中々に心地よいものだった。身体の全身を隅々まで暖めてくれるわけではないまでも、かざした両手や晒された顔の肌といった所だけでも随分と違う。日本では近年、火を外で炊くという行為そのものが忌諱されがちで、それは都市部になればなるほどその傾向は強くなるものだが、こうした極地では火の存在は本当にありがたく感じられる。
 そんな極地ではもちろん人里らしい人里などなく、あっても既に打ち捨てられていることも多い。しかも人里とはいうが、これは集落などではなく、地元の狩猟民の住んでいた小屋が点在する程度のものである。いつ頃人がいなくなったのか定かではないものの、恐らくは家の主が死んだか移り住んだかで無人となり、そのまま打ち捨てられたのだろう。俺たちはそんな無人となったロッジを一晩の宿に決め、身を休ませていた。
「準備はいいか」
「私はいつでも」
「こっちもよ」
 俺は出発の準備ができたのを確認し、二人に出発を促してロッジにしまっておいたスノーモービルに歩み寄る。外気温は常に氷点下というこの極地で、いくら寒さに強いとはいえスノーモービルを外に置きっぱなしに一晩を過ごすわけにはいかなかったのだ。
 準備を整えてスノーモービルを運び出そうと収納しておいたロッジの玄関先に、出た時だった。俺はふと違和感を覚えて、近くの窓に音を立てずに歩み寄り、外をそっと窺った。
 外にほとんど風はなく、薄暗い中に枯れた木々が所々に点在しているのが確認できる。しかしながら時折吹く風に舞い上げられた雪が、スノーダストとなってこのロッジと木々などを覆っているようだった。
(あれは)
 そんな中、木々の影に隠れているため見えにくいが、確かに人影があるのが見えたのだ。隠れているというよりも、白い装備のために一見張り出たところに雪が降り積もっているようにも見えるが、よくよく目を凝らすとそれが白い装備を身にまとった人間の一部であることが分かった。俺は小さく舌打ちし、ようやくスノーモービルのエンジンをかけたところの二人に、ジェスチャーし異常があったことを合図した。
 沙弥佳が、あたかも準備中といった具合を装いながらそっとこちらにやってきた。当然外からは中が見えないよう計算しての移動だ。
「何かあったの」
「敵だ。人数まではわからんがすでに包囲されてる」
 沙弥佳は頷き、再び俺の側を離れて遠藤にそのことを伝える。遠藤もこちらを見つつ頷いた。よもや、こんなところで敵に見つかるとは考えが甘かった。ここは敵の本拠地なのだから、こういうこともあるということくらい簡単に想定できたはずだ。なのに、とんだドジを踏んでしまった。
 幸いにもこちらは戸を開けさえすればいつでも出発できるところだ。となれば、いっそのことそれを利用して脱出してやろうではないか。賭けという部分もあるが、すでに包囲されているだけでなく装備という点でもこちらを上回っているはずの連中を出し抜くには、それくらいの覚悟がなくては出し抜けないだろう。
 同様にそう思っていたのか、沙弥佳と遠藤もまた銃を片手にスノーモービルに乗り込んだ。それを後ろ目に確認し、俺はレオンの奴から手渡され腰にぶら下げておいた光線銃を手にとった。昨晩の時点で、これの使い方に関しては一応確認しておいたので、今日、今これからでも十分に対応させることができるはずだった。むしろ、こんなときだからこそ役立つはずだ。
 俺は二人に頷いて窓から外を再び覗き込み、銃を構えた。狙いはロッジから一五メートルほどのところで雪の壁の近くに身を潜めている奴だ。こいつのおかげで敵の存在が分かったのだから、ここは一つお礼としてこいつをお見舞いしてやろう。
 そいつに向かって銃口を向けた時、狙いを定めた奴にどこかしらの違和感を覚えて、再度そいつを凝視した。スノーダストが舞い上がり視界がやや不明瞭であったためか、そいつの正体を見破れなかった。そいつは俺が確認してからというもの、まるで人形や案山子のように、不自然な具合にそこで雪に伏せているように思われたのだ。
 これは罠だ――そう考える間もなく、俺は銃口を逆の方へと向け引き金を引いていた。ビシュンとでもいっていいのか、そんな具合の擬音が一瞬だけ、撃った本人しか気づかないほどの小さな音を立てながら、銃口から放たれたレーザー光線が窓を突き破ってその方向へと飛んでいく。あまりに速いため、そのように感じたという程度だが確かにそのように感じたのだ。
「ぎゃっ!」
 レーザーは当たった部分だけを焼き焦がすように飛んでいき、目標にも対しても当たった部分だけを焼き焦がしながら当たった。当たった野郎は銃とはまるで違う、経験したことのない衝撃的な攻撃を受けて悲鳴を上げて倒れこむ。
 物体が当たった衝撃で破壊するという通常の物理法則とは違う攻撃に、いくら連中とはいえ対応しきれるはずもない。相手との間にある物体を破壊する際に発せられる破壊音が一切することなく味方がやられたことに、連中の意識と動きが停滞したのを見逃さず、俺は二人に出るよう合図した。
 二人は待っていたかのように、ロッジの大きな出入り口に向かってエンジン全開でスノーモービルを発進させる。ロッジの老朽化と相まって、軍用スノーモービルの重い衝撃に出入り口は簡単に突破され、始めに沙弥佳が、続いて瞬間に遠藤が飛び出していく。
 俺もすぐにスノーモービルへ乗り込み、かけていたエンジンに発破をかけるように急発進させロッジを飛び出した。機転の利く奴がいるのか、連中も俺が飛び出す時には意識を切り替えて応戦し、向けられていた機関銃から何十発もの弾丸を浴びせ始める。
「撃て、撃つんだ」
 背後から指揮官らしい人物の怒声が響き、休む間もなく連中からの一斉射撃が背後を襲う。しかし、さすがに軍用スノーモービルの速さに対して照準が定まることはなく、何発もの弾丸が虚空を切っていった。十重二十重とえはたえの包囲網を予想したがそうではなかったようで、あっと言う間に包囲網を突破できた。どうやら、連中は斥候としてやってきたらしい。
 行程としては後半日もあればノリリスクといったところだが、まさかこんな所にまで斥候が出ているとは少しばかり予想外だ。ノリリスクは確かに閉鎖都市であるため、先のツングースカと同様に何らかの警戒網が布かれていて当然なのは当然だが、まだ何十キロとある場所であるにも関わらず斥候が出ているなんて、よほどの警戒態勢が布かれていると考えた方がいい。
 ノリリスクで何か不穏な動きがあると見て間違いないだろう。それだけじゃない。こんな所に斥候が出ているということは、俺たちの情報が何らかの形で連中に知れ渡ったと考えるのが自然だ。辺りは北極圏にほど近い場所、おまけに今の時期は冬も近いということで極夜になる。このため、ちょっと風が吹いたり上空に冷たい空気が動くだけですぐに雪が降る。夜などは特にその傾向があるので、毎晩数十センチの積雪がある。
 この結果、新雪の上をいくスノーモービルくらいの走行跡は一晩と持つことなく消えるはずだ。ここまでのところ、尾行者らしい尾行者はいなかったのでノリリスクからの斥候と考えられる。けれども、だとすればやはりノリリスクで嫌なことが起きていると考えるのが自然である。こんな場所にまで斥候を出さなくてはならない理由が、間違いなく起こっているのだ。
 どう考えても俺たち以外に、連中を警戒させるような要素は見当たらないが、だとしてもこんなノリリスクから何十キロも離れた場所にまで斥候ださなくてはならないほどの事態に及ぶとは思えない。こっちの人数だってたかが知れていることくらい向こうも分かっているはずだが、ならば待ち構えて罠をしかけておくくらいのほうがよほど利口であるはずなのにだ。
 俺は釈然としない気持ちで、改めて背後のほうを流し見た。連中が追ってきている気配は今のところない。思うと、連中はどうやってあのロッジまでやってきたのだろう。ざっと見た限りだが、連中はこんな雪の中を徒歩でロッジを囲んでいたようだった。周辺には枯木などがあったとはいえ、人数を運ぶのであれば雪原用の護送車など、いくらでも手段はあったはずなのにそれらしいものは見当たらなかった。
 となると、連中はノリリスクからあのロッジまで、探索のために徒歩でやってきたということなのか。いや、さすがにそれはない。常時氷点下、数分外に晒しておくだけで豆腐があっと言う間に氷になってしまうような場所だ。そんな環境下で、いくら氷地獄をくぐり抜けてきている連中とはいえ、徒歩で何十キロと行軍するなど普通では考えられない。少なくとも、近くまでは車両でもなんでも使って来るはずだ。
 まさか、連中はあのロッジを使う気でいたというのか。この妙な胸騒ぎの中で、それも考えられるような気がしてきた。奴らはあのロッジを使う気でいたのだ。元々奴らが何かあった時のためのものだったかもしれないが、元々打ち捨てられたものだったのでたまたま見つけて使おうという気になったのだろう。そこを俺たちという先客がいたので警戒して包囲した、そのほうがつじつまが合うように思える。
 奴らとて戦闘のプロなのだから、使おうとしていたところを先客がいたのでは気づかないはずはない。何かから追われるようにやってきたようにも見えた連中だが、使おうとした打ち捨てられた小屋に先客がいたんでは警戒だってするだろう。だからこそ、追いかけようとすれば追いかけられなくもないはずなのに追ってはこないのだ。
 だが、それならばますます辻褄が合ってくる。奴らには追って来れない理由がある。きちんとした装備があり、かつ俺たちが目的であるならば、まず追手を放つだろう。なのにしない理由は、追うための手段がないだけでなく、そもそも目的そのものも俺たちというわけではないに違いない。やはり、奴らが徒歩であそこまで来たという仮説は間違いないということになる。
 けれども、それなら連中がそうしなくてはならなかった理由はなんなのか。いくらこんな片田舎も片田舎、極地の部隊とはいえ、最低でもそれなりの装備が支給されているはずなのに、それを使わずにこんな場所へ訪れる理由とはなんだ。この辺りは今後の計画にも大きく響いてくる。
 ドミトリー・ボーリンが見つかったというのがノリリスク、そして武田の野郎と繋がっているのも奴だ。そんな不穏な連中が結託し、ノリリスクに乗り込んだとすれば……十分に考えうる可能性だった。奴なら、武田の野郎ならその辺りは朝飯前だろう。どこか得体の知れない、あの野郎なら。
 そう考えを巡らせているうちに、先行する二人が急に停車した。ぼうってしてしまっていた俺は、思わず遠藤とぶつかりそうになってしまう。
「どうしたんだ」
 ぶつかりそうになったのを慌てて、早口になりながら急停止した二人に声かけた。沙弥佳も遠藤もある一ヶ所に向かって目が釘付けとなっているので、俺も追うようにそちらに視線をやる。
「あれは……ライン、パイプ・ラインか?」
 スコープでその方向を覗いてみると、そこには巨大で太いパイプ・ラインがノリリスクの方面に向かって真っ直ぐ伸びており、その先は肉眼やスコープでは見つけることができない。
「そういえば、ノリリスクにはインフラのために、先のドゥディンカとパイプ・ラインが引かれたというのを聞いた。そうか、あれのことなのか。だが」
 二人はもちろん、俺自身もまた見つめるそこには数台の車両が腹を見せて横転しており、そのうちの一台はうっすらとだが確かに煙をあげているのが確認できたのだ。パイプ・ラインはおそらくノリリスクにとっては正しくライフ・ラインの一つでもあるだろうから、そこが破損などしていたらそれこそ重大な問題だが、ここから見る分にはそれらしい被害は出ていないようだった。
 俺は行こうと二人に告げ、現場に向かった。乾燥というにはあまりに乾ききったこの土地ではあるが、おかげで随分と周りの景色が良く見える。やや小高い丘から見下ろす形だったので、現場に向かうのにスノーモービルでの移動は随分と楽だった。あっと言う間に現場までやってくると、雪原航行のための輸送用トラックが三台、腹を見せて横転していた。煙を上げていた一台は、どうやったらこんな雪の上でひしゃげるのかと言いたいくらいにひしゃげており、とてもただの事故でできたものとは思えない。
 それだけではなかった。トラックの周りには数人の死体が転がっていたのだ。猛スピードのトラックから振るい落とされたのか全身を強く打って死んでいるものから、無残にも何トンもあるトラックの下敷きになって上半身と下半身が見事に寸断されたものもあった。凄惨な事故現場と済ませたいところだが、どうにも連中は全員が白い装備を身につけており、先ほどの連中の仲間であると思われた。
 なるほど。もしここで”事故”を起こしてしまったというのなら、なぜ連中に乗り物らしい乗り物がなかったのかも頷ける。よくもまぁ、あんな所まで歩きできたものだ。簡単に現場検証をする俺はふと疑問が湧いた。ここにあるトラックは全て同じ方向になって倒れており、全てがほぼ同一の理由で横転したというのが窺われたのだ。
 だが、パイプ・ラインに沿って移動していたトラックはノリリスク方面に向かって倒れている。つまり、どこから来たのかは不明だが少なくともノリリスクに向かう途中でこんな結果になったというのが分かる。それに、煙を上げているトラックの積荷部分は何があったのか、大きくひしゃげていた。それも単にひしゃげているのではなく、強烈な何かによって”掴まれた”ように一ヶ所だけに力が集中してしまったが故に形が崩れたといった具合なのだ。
 さらにトラックには、荷台部分との連結部分が強力な力に耐え切れず、明らかな金属疲労を起こしているのも見て取れた。推理すると、この何トンもあるトラックは突然何かの力により”掴まり”、何トンもの力を支えるための連結部分に許容範囲を遥かに上回る力が瞬時に加わったことで、金属疲労を起こして破壊されるほどの衝撃があった、ということになる。トラックの頭が無残に放り投げだされているのがそれを裏付けている。
 とてつもない力が瞬時に加わったトラックは、あっと言う間に捻られ雪の地面に叩きつけられた、状況証拠からはどう考えてもそうとしか思えない。しかし、この推理にはとても大きな欠陥がある。こんな巨大なトラックを一瞬にして止め、力を加えさせるほどのモノなどこの世に存在するというのか。
 ビルの解体作業時に使われるあの巨大な鉄球などがあれば十二分に可能だが、こんな場所にそれらしいものは見当たらないうえ、何よりもこんな事故現場になることはまずない。それも、走行中の巨大トラックというおまけも付けなくてはならないから、必然的に不可能な話なのだ。それに、いくらトラックが横転したからといって、それくらいでは無残に上下半身が見事にまで寸断され、飛び散るほどの衝撃になるとは思えない。
 つまり、積荷部分を掴んでひしゃげさせてしまうほどの圧倒的な力を兼ね備えた奴が、走行中のトラックを掴んで癇癪を起こしてひっちゃかめっちゃかに掴んだ物を投げ飛ばす子供のように、このトラックも思い切り地面に叩きつけたということになる。それなら、連結部分の金属疲労はもちろん、周辺の部位もまとめてひしゃげてしまっているのも頷けるのだ。
 しかし、何トンものトラックを掴んでひしゃげさせてしまうなんて、そんなことができるとしたら、そいつはとんでもない力を兼ね備えた化物ということになる。そんな化物くらいにしかこんな芸当はできないだろう。そして、俺にはそれを行えそうな化物の候補がいくつか頭を過ぎって仕方なかった。
「まさか、な」
「何? 何か心当たりがあるの」
「そんなのあるわけ……いや、心当たりがないわけでもないが……だとしても、あれがロシアにいるはずがない」
 俺のつぶやきに沙弥佳がやや困惑げな表情を浮かべた。沙弥佳もまた俺と同じ結論に辿り着いたのだろう。日本にいるとき、坂上の研究所で、シンガポールのときは海底で。あるいは、数日前見たツングース化の地下実験上で、それに出会ったという記憶が俺たちの脳裏にはあったのだ。
 だが、ツングースカの化物については候補から外れる。すでに実戦投入の段階になっているが、わざわざ自国内でそれを行うメリットなどどこにもない。坂上の研究所についても然りだ。あれは俺の目の前で確かに上体を吹き飛ばされて死んだはずだった。となれば、残りはシンガポール沖のあの化物くらいしか思い浮かばない。
 だが、あれはシンガポール沖、つまり広い意味ではイギリスのものだ。ロシア国内にいるはずがない。だとすれば、俺の知らない第四の存在が現れたというのだろうか。俺は小さくかぶりを振って、その思いつきをとっぱらった。有り得ない話ではないが、今はそれを立証する手立てなど何一つないので保留としておく他なかった。
 ともあれ、仮にそんな化物が突如として部隊の前に現れたとしたら、連中が妙に殺気立っていたのも理解できないではない。逃げるのに必死だったろうし、寒さにも耐えなくてはならない。だが、あんな食料も何もない場所では、それもいつまでも居られる状況ではない。
「もし、”あれ”が襲ったとして、どこに行ったのかしら」
 現場を見つめていた沙弥佳がそんなことを口走った。言われてみれば確かにその通りで、部隊を襲った化物はどこへ行ったというのだろう。凄惨な死体が数体転がっているのを満足して、どこか別の場所に向かったのだとしても部隊の生き残りであるらしいロッジを襲撃した連中を放っておくというのもおかしな話である。
 あの化物たちを幾度か目の当たりにした俺の経験からは、奴らはまるで憎しみか何かに駆られたように対象を根絶やしにしなければ気がすまないと言わんばかりに、破壊行動を繰り返していた。だというのに、この現場はそうではない。数人分の死体があるのは確かだが、生き残りがいて、それも何キロも離れたあのロッジまで辿り着けたほどなのだ。まるで、逃げた連中になど興味はないと言い残しているかのようだ。
(いや、もしかしたらそれも有り得るか?)
 確かにあの化物どもは、全てがこぞって凶悪な連中だったがどこか人の理性らしきものを残しているように思える部分が見受けられた。初めに出会ったゴメルにしても、奴は捕まえた俺を見て笑っていたように見えたし、シンガポール沖の奴だって元は人間で、あんな姿になったのを嘆いていたように見えた。ツングースカの地下実験場にいた狼人間だってそうだ。
 奴らは元の性格によって、それぞれに個性が存在しているのではないか。人の理性に近いそれを持っているのではないか。もちろん、それに近いだけの知性もだ。奴らは見かけこそ人ではないが、中身は人間そのものなのではないのか。思えば、ミスター・ベーアの屋敷で見せられた映像にあった天井を這う未知の生物もまた、今なら奴らと同じなんではないのか……そんな風に思えてならない。
「とにかく、今はノリリスクを目指そう。あそこに行けば何か分かるはずだ」
 俺はそういってスノーモービルに乗り込んだ。こんな現場があると分かっていれば、包囲していた連中から何か聞くこともできたかもしれないが、今となっては後の祭りだ。ともかく、ノリリスクに行かないことには始まらない。こんな場所にいたところで、何もできやしないのだ。
 スノーモービルを再びノリリスクの方へと向け前進し始めた。ここからはノリリスクまでパイプ・ラインが敷かれているはずだというレオンの証言を信じるなら、それに沿っていけば間違いない。パイプ・ラインは途中雪や地中に埋もれてしまっているため、ドゥディンカからは真っ直ぐノリリスクに向かうことはできなかったので、ここらからはだいぶ楽になる。
 俺の後に二人が続く。あんな現場を目の当たりにしてか、二人とも無言のままだ。沙弥佳は何か思うところがあったのかもっしれないが、遠藤に至ってはいくら訓練を受けているとはいえ、あまりに凄惨な現場に声を失っている様子だ。ちらりと遠藤のほうを見やると、明らかに顔色が良くない。
 まぁ、騒いだり喚かれたりしないだけマシだ。こんな状況で黄色い声なんぞ上げられては、こっちも困る。ここらから先はいつ何時敵と出くわしてもおかしくないのだ。
(それにしても)
 走行中ではあったが、やはり俺もあの現場のことが頭にこびりついていた。いくら人の死が日常茶飯事の世界とはいえ、そうそう慣れるものでもなく、おまけにあんな凄惨な現場などそう拝めるものではないので、どうしても頭の奥に焼きついてしまう。同時に、あの異様な現場を作ったその原因に対してもだ。
 沙弥佳が半ば確信的にそう口にしたためか、俺の中にも同様のことを強く考えてしまっていたのだ。あの化物の存在を目と鼻の先に感じ取ったことがない遠藤にはわからないだろうが、連中の放つ異様で独特な雰囲気はとても普通とは言い難い。対峙するだけで、自身の命の危険を感じざるを得ないほどの強烈な存在感。その残り香を、あの現場には残されて感じられて仕方ない。
 だが、沙弥佳がああいったのにも決して根拠がないわけでもないだろう。もちろん、現場の痕跡然り、それ以上にあいつにとっては因縁深いはずのNEAB-2の存在がちらついているはずに違いないのだ。人のそれ以上の何かを持っている沙弥佳だからこそ、それを強く感じ取ったのだ。
 俺はえも言われぬ予感に胸中をくすぶられ、無意識のうちにスノーモービルを操作するハンドルを握る手に、無駄に力をこめていた。これから先何が出てこようと驚かないと決めた俺ではあったが、やはり本能はあの現場を残した存在への恐怖を確実に悟っているのだ。
 おそらく、いいや、間違いなくノリリスクには再びあの化物たちと相見えることになるだろう。それを確かに俺の中にある何かが囁いていた。

 ドゥディンカから伸びるパイプ・ラインに沿ってノリリスクを目指す俺たちは、間で小休止をとりつつ、そろそろ一〇〇キロ以上の移動に終止符が打たれようとしていた。パイプ・ラインは豪雪にまみれてなのか、あるいは地中に埋もれてしまっているのか判断できないが、時折見えなくなることもあって方向を見失いそうになった。しかし、それももう終わりだ。
「見えてきた」
 ノリリスク市はロシアの閉鎖都市の一つであるため、容易に町への侵入はできないが俺は前方に見えてきた明らかな人工物を指差しながら、後に続く二人に向けてそう言った。遠くには細長く、先から煙を吹き上げているのが確認できる。どうやら煙突であるらしい。
 と同時に、辺りからはこれまで存在していた木々などがめっきり姿が見えなくなっていた。そのおかげで、まだ十数キロも離れているはずの煙突の影がこんな遠方からでもはっきりと伺うことができるのだ。もちろん、それは周囲の空気がこれでもかといわんばかりに乾燥しているためもあるだろうが、障害物がないというだけでまるで場違いに感じるほど、煙突の影は奇妙に浮き立って見えるのだ。
「殺風景な街ね」
 横についた遠藤が声を張り上げる。その感想に俺も頷きながら返した。
「レオンの話じゃ目標の場所は、あの煙突の辺りらしい」
「どうやって入るの」
 今度は沙弥佳が大声で聞いてきた。ノリリスクは二一世紀に入ってすぐに秘密都市に指定された街だ。それからというもの、観光旅行者はおろか、たとえロシア人といっても簡単に通行できる場所ではない。その点ではツングースカの秘密都市と大差ないが、あちらと違うのは、ノリリスクには一般人が多く存在するという点だろう。
 ノリリスクは世界最北の一〇万人都市として有名で、ロシアで少しでも地理に詳しければ誰もが知る場所だ。そのノリリスクが秘密都市に指定されている理由は、ここが世界最大のニッケル採掘場というのが最も大きい。その生産量は、全世界で生産されるおよそ五分の一に当たり、国内においてはその生産量のほぼ全てをここで生産しているほどだ。
 ニッケルという物質そのものは、早くは少なくとも産業革命後成長著しかったロンドンの工業地帯では、すでに硬貨や工業機械用品などにも使われるなど、非常に有益な工業用物質として重宝するようになっていった。それは二〇世紀になると当たり前のものとなり、六〇年代以降は特に宇宙開発の分野では大きく成果を伸ばしたほどだ。
 その有用性は二一世紀に入ってなお大きく、現代では引き続き宇宙開発の分野ではもちろん、その特性を活かして記憶合金や水素蓄電などの素材としても使われている。そんな鉱物を世界の五分の一も生産しているということは、ロシアにとっては国内需要はもちろん、経済効果は決して無視できるはずがない。
 このため、ここノリリスクの重要性はますます高まっていき、旧ソ連の崩壊とともに秘密都市としての役割を終えたはずだったが、二〇〇一年からは再び秘密都市として指定されたという経緯がある。これは、それだけ凄まじい経済効果があるということだが、それは都市に住む人間たちの懐事情にもダイレクトに影響しているという。ノリリスクの住民は、こんな生活に厳しい地方でありながら、収入はロシア国内での平均年収の二倍、場合によっては三倍とも四倍ともそれ以上とも言われるほどで、経済面では潤っているといってもいい。
 しかし、その弊害は確実に起こっていた。産業革命後において、経済発展著しい国では必ず起こることだが、環境被害が非常に大きいのだ。産業革命を起こしたイギリス、ロンドンではかつて霧の街と比喩されるほどの煤煙が街を四六時中包み、二〇世紀に入ってもアメリカのシリコンバレー、あるいは高度経済成長を果たした日本では公害病などがそれだ。
 事実、このノリリスクでも同様のことが起きていた。目の前の風景は、ノリリスクの街が見えてきてからというもの急変し、それまでは見渡す限りの雪しかなかった世界から一転、今では雪はあるが一面白銀の雪世界というわけではなく、所々に痩せた焦げ茶色をした大地が見える。雪が積もっている箇所も確かに多いが、それでも積もっている積雪量は膝の高さにすら達していないといった具合だ。
 おまけに、あの煙突から延々と吐き出され続ける濛々とした煙だ。純粋なニッケルを精製するためには、その過程で加熱溶解しなくてはならないため、この際にどうしても鉱物に含まれる不純物が加熱されて発生した煙に混じる。その煙を外に排出しなくては、炉内に自不純物が溜まる一方になることで煙突を作る必要があるのだ。もっとも、これは鉱物から純物質を精錬するには必要な過程なので、ニッケルに限ったことではないが。
 このニッケル鉱の不純物の大部分は銅であることから、同時に大量の銅も産出されることになる。この結果、鉱物を精錬する際に大量の排煙によってノリリスクの市街ち周辺およそ三〇キロは空気中に舞っているニッケル、銅、さらには銅精錬で不純物として出るヒ素などがかすかに混じり、ノリリスクを世界有数の汚染都市としてもその名を轟かせるほどに、街を覆っている大気汚染は凄まじい。
 それだけに、俺たちはレオンから調達していたマスクを取り出し、口元を覆うように装着する。厳密にはこの程度で大量の毒素にまみれた空気を遮断できるとは思えないが、ないよりはマシだろう。それに、こんな街にいつまでも滞在する気もない。やることをすませたら、さっさと退散するのだからこれで十分だ。
 しかしながら、ノリリスク周辺を覆うこの大気有害は想像以上にひどかった。というのも、マスクをしていても関係なしに有害なものを思わせる臭いが鼻をついて仕方ないのだ。ノリリスクの鉱発掘業に携わっている者の家族、特に子供にはこの地域を離れさせ都会に出すのが慣例といってもいいほどだと聞くが、これは単に高給取りだからこそ子供に学ばせたいという親心以外にも、ここよりは新鮮だろう外気の場所へ移したいとする思惑もあってのことなのかもしれない。
 明らかに人体に有害なものを思わせずにいられない空気を吸いながら、俺たちはノリリスクの市街地へと向かった。市街地とはいうが、ノリリスクそのものは市街地以外にはほとんどといっていいほど人が住んではいないため、市街地を事実上の市域として考えるべきなのかもしれないが。
 こうして、煙突が見え始めてから数時間、俺たちはようやく市街地の手前のところにまでやってきた。そこまで目測でざっと三キロといったところだろうか。市街地の最外壁は五階建ての集合住宅のみすぼらしさを感じさせずにいられない壁が、数百メートルに渡って軒を連ねている。
 集合住宅とはいうが、日本のようなマンションなどではなく、所謂アパートメントと呼ばれるものだ。寒さ極まるこの地で、日本と同じ住宅事情であるはずがないのは当然だが、ここから見る限りでは、どれも全く瓜二つという具合の建家が立ち並ぶ団地といった具合だ。その様が、まるで外界からの侵入を拒む外壁のように見えなくもない。
 ここからは歩きだ。周囲は不思議と、とても北極圏に近いとは思えないほど雪が少なく、泥混じり、もはや雪すら積もっていない場所も多く見られる。なんというか、都市部で久しぶりの大雪が降り積もった直後といった具合といえばわかりやすいだろうか。それに、たった今の今までスノーモービルで移動していたからそう感じるからかは判断のしようもないが、どうもここら一帯は暖かくも感じられる。
 俺たちはスノーモービルを乗り捨て、ちょっとした大きめの雪のくぼみに突っ込ませて極力目立たないようにすると、荷物を担ぎながら市街地へと向かってあまり雪の覆われていない道なき道を歩き出した。ノリリスク市域は、周囲が平野になっているためか遮るものは何もない。所々に何かの上に降り積もった雪がちょっとした壁を作ってはいるものの、基本的には見渡す限り雪原が広がっており、その中にぽつんと街が存在するといった感が強い。
 このため、向こうからはこちらが丸見えになっている。レオンの説明ではツングースカ同様に街全体がフェンスで囲まれているらしい。しかし問題は街を囲むフェンスではなく、街の中央に聳え立つ煙突群、つまりはニッケル鉱の精錬所のほうだ。あそこでは、精錬所をさらにフェンスで区切られているそうで、二重の警備網が敷かれているという。
 そこで俺たちがとったルートは、ドゥディンカから伸びるパイプ・ラインに沿って街へと入り、そこで情報収集をした後、精錬所へと侵入するルートだ。そもそも精錬所に入る必要もなさそうだが、レオンの情報によるとドミトリー・ボーリンの一味ではないかとされる連中がその精錬所に入っていったという。つまり、俺たちも精錬所に侵入しなくてはならないというわけだ。
 さらに精錬所への入所許可証も必要になる。とにかく敵に極力察知されないためにも、この許可証の入手は必須だ。レオンの話では、それがあれば精錬所にまでは入れるはずだということなので、ここはなんとしても許可証を手に入れなくてはならない。
 だがそれだけではない。街への侵入にも、パイプ・ラインを沿っていけばいいと言う単純なものではあるが、なんせ街からはこちらが丸見えのため、最悪敵と一戦交える可能性もある。こちらから向かって左手に一キロほど進んだところには、どうやら話に聞いていたドゥディンカとを繋ぐ国道らしいものも見える。雪に隠れがちで車の天井部分がスライドしているようにしか見えないが、時折車両が通行しているのが分かるのだ。
 今のところ、見えているのは車高から判断してセダンなどの一般車両だろうが、もし軍用車、あるいはトラックなどの車高のあるものが通れば、確実にパイプ・ラインに沿って街へと歩いている不審者三名の姿を見つけることになるのは言うに固くない。もっとも……そうなったらそうなったらで、沙弥佳の力に頼るのはもちろん、最悪強行突破も念頭には入れてある。
 俺たちは一列に隊列を組み、無言のまま市街地へと向かっていた。すでに行程は、スノーモービルを乗り捨ててから四分の三ほどの地点だ。左手に見える国道の方にも注意を配っていたが、これまでのところ、注意すべきものはない。後はこのまま何事もなければと心に念じて間もなくのことだった。最後尾を行く沙弥佳が何かに向かって指差しながら言った。
「ねぇ、あれ見て」
 そう沙弥佳が指差す先に視線を送る。その先には、どうにもおかしなことが起こり始めていたのだ。
「光ってる、のかしら? あれ」
「……らしい」
 その光景はなんともおかしなもので、精錬所の辺りだと思われる場所の上空に向かって、巨大な一筋の光の柱が立っていたのだ。ほんの一分か二分ほど前まであんなのはなかったので、突然にノリリスク上空に巨大な光の柱が現れたのだ。その光の柱は、まるで有害物質にまみれたノリリスク上空の厚い雲を突き刺すように、まっすぐと天に向かっている。
 先ほど、何者かに強襲されたらしい部隊のことが頭を過ぎる。あの現場を作り出した主とあの光の柱はなんらかの因果関係があるのではないか。そんな風に思えてならなかったのだ。少なくとも、全く無関係というわけにはいくまい。今分かる多くのピースが、ここノリリスクに集結している中で、何もないと決め付けるのは明らかに早計な話この上ない。
 その様子に少しの間見惚けていると、街のほうから混乱めいた騒々しい気配が漂ってきた。外壁に一番近い、フェンスすぐ脇を通る道を、数台の軍用車がゴロゴロと雪を踏みしめながらアパートメントを右に、市街地の方へと向かっていくのが見えた。どうやら、守備の人員は最低限に、どこか別の場所へと向かうよう指示が出されたのかもしれない。そうでなければ、何台もの軍用車が通り過ぎていくはずがない。もし警備の交代時間ならさすがに一台か二台で十分だろう。
「とにかく急ごう。手薄になった今がチャンスだ」
 俺たちは雪の中を足を取られつつも走り、フェンスまで残りの行程を全て終えてやってると、すぐさま俺は背負っていたサックからこんなこともあろうかと工具を取り出してフェンスの金網を素早く切っていく。一人では遅いからと、反対側を沙弥佳が手伝う。
 こうして、フェンスを破って街へと侵入した。こうして街へ侵入してみると、一層街は不穏な雰囲気と緊張に包まれているのが実感できる。もちろん、この間も怪しげな光の柱は天へと伸び続けたままだ。それを見つめて、街のどこからか人々のざわめきだった不安の声が響いてくる。
 街へと侵入した俺たちは、その光の柱へ向かって走り出した。こうなっては注意深く潜入する意味もあまりない。今は少しでも早くあの光の柱の元にまで行かなくてはならない。
 街の外壁となっているアパートメントの黄身がかった気色の悪い白の壁を背に、しながらアパートメントの向こうの様子を探るため顔を出した。すると想像通り、住民らしい人々が光の柱を目の当たりにして、各々が不安げに指差しながら喚いているのが見えた。その中から二人、まだ一〇代の少年だろうか、周りの制止を振り切ってその方向へと走り去っていった。
 俺は頷いて、反対側の道へと駆けると続いて二人もやってくる。同様のことを二度三度と繰り返すうちに、俺たちは街の目抜き通りらしい、そこそこの幅のある通りに出た。ノリリスクの街は、気味が悪いくらいに等則的に建造物が作られているため、中心部に出るのも早いようだ。
 だが、それはこちらとしては好都合だ。下手に大都市だと、中心へ出るのにちょっとした遠回りになる場合もある。それは特にヨーロッパの街に多い傾向で、直進しているはずがどういうわけか湾曲し、ようやく目抜き通りに出ることができ、そこから向かう場所へ向かうといった具合だ。おかげで最悪、五分で行けるところを一〇分一五分なんてこともあったりする。まぁ、そこら辺は土地勘もものを言ったりする部分ではあるが。
 ともかく、この街は決して横広がりの街ではない。中心部を通りすぎると、数ブロックと行かずにすぐ荒涼な大地が目の前に広がる。その先に、例の光の柱があった。いや、正確には俺たちが目標としていた精錬所の敷地内から、何かが漏れるように天を照らし出していた。
 精錬所では、工場内から何十何百という人間が走り出てきており、明らかに何か異常あったことを示している。しかも、こんな近くにまできたところで、ようやく敷地内から異常を知らせる警報が鳴っているのが分かるほど警報音は小さく、それがロシアという国では未だに人命よりも、まず中で行われていることの方が重要だという秘密主義を否応なく感じさせる。
 煙突群の中央辺りから伸びていると思われた光の柱だが、こうして近くまでやってきてみると実際にはそうではなく、煙突群よりもさらに奥の方から発せられているようだった。煙突が影になっているが、姿かたちの全てが逆行で見えなくなるほどではない。煙突群の中央辺りからなら、煙突の影が見えなくなるほど目が眩むはずだ。
 俺は正体不明の光の柱を眩しくも見つめ、集まってきていた住民の一人を適当に捕まえて何が起きたのかを問い詰めたが、向こうも突然辺りが明るすぎるくらいになったのを異常と考えて外に出てきたばかりらしく、全く分からないと喚いた。俺は舌打ちし、眩い光に目を凝らしながら誰もが光に目を奪われ、まぶしそうにしている今が敷地内に入るチャンスだと直感し、近くのフェンスに近寄るとフェンスをよじ登る。
「あ、あんた」
 フェンスをよじ登る俺に、遠藤が驚いたようにいった。二人にも来るよう合図すると、沙弥佳は軽く助走をつけて飛び上がると、まるで猿か何かのようにあっと言う間にフェンスを駆け上がってジャンプし、敷地内へと着地した。その軽やかさに、俺は少しばかし目を見張りつつも、同様にフェンスの上にまでたどり着いたところで敷地内へとジャンプする。
 遠藤もさすがにそうするしかないとフェンスをよじ登ろうとした時だった。さすがにチャンスなどあっという間で、フェンスに手をつけて登ろうとした遠藤を見つけた一人の兵士が、こちらに向かって怒声を浴びせてきた。もちろん、その手には銃を構えている。このままでは射撃の的だ。敷地内のすぐ先は精錬所の裏口になっており、走ればギリギリ扉のところまで行けそうという微妙な距離だ。
 さすがの遠藤も焦った様子で、フェンスを中腹まで昇ったところだった。兵士から問答無用の射撃に、俺のすぐ目の前でその足を撃たれ苦痛に短い悲鳴をあげてフェンスから落ちる。
「遠藤っ」
「あたしはいいから、あんたたちは行って」
「……くそっ。無事でいろよ。行くぞ」
 判断に迷いそうになった俺に遠藤がそう言い放ち、俺は振り返りドアまで一直線に走り出す。沙弥佳も同様に走り始めるが、ここまでずっと道中共にしてきたあの女に、それなりに親近感を覚えていたのかその顔には苦い表情が浮かんでいる。
 ドアへと走る俺たちの背後から、こちらに再び怒声があがると、すぐに弾丸が走る足元のコンクリートの地面を弾く。走りつつも、ちらりと背後を見やると、地面に伏せている遠藤が撃たれた右足、ここから判断できないが太ももの辺りを手で押さえながら、兵士から足蹴にされているのが見えた。
「くっ」
 撃ってきたらしい兵士は、なおもこちらに向かって銃を構えているがこうも対象が走っていては、照準も定まるはずがなく諦めている様子だ。しかし、銃を持つ反対の手には無線機があり、それを使って喚いているのも窺えた。強行突破したことで追手がかかってしまったらしい。
「早く」
 一足早く扉のところにまで辿り着いた沙弥佳が、扉を開けて叫ぶ。俺も決して足は遅くないはずだが、沙弥佳の足は俺よりも遥かに速いようで、おまけにあまり息も切らしていない様子だ。そんな沙弥佳の遅れて扉に辿り着くと、すぐに扉を閉めるて中から簡易錠をかける。大した時間稼ぎにはならないだろうが、数十秒でも時間が稼げるならしないに越したことはない。
「これで、ここは少しの間いいだろう。それよりもここはどこだ」
「倉庫か何かかしら。薬品なんかが入ってる箱がたくさん置いてあるわ」
 施錠し終えたところで周囲を見回した。沙弥佳がそう思うのももっともで、確かに周りには何に使うのか俺たちには用途の知れない化学薬品は然り、端の壁際には日本のハイゼックスなんかもパレットの上に箱詰めで何十箱と積まれていた。他にも、キャビネットに乗せられた工具やもう使われていないらしいヘルメットなど、とにかく物置のようなごちゃごちゃとした場所だ。
 まぁ、この辺りはいくら半ば国有化している会社の工場とはいえ、見取り図くらいはどこかにあるはずだ。俺はひとまず、それを目当てに物置部屋の中を移動したが、ざっと見て回ってもそれらしいものは見当たらない。どうやら、ここは本当に一部の限られた人間だけが使う、物置部屋でしかないようだった。
 しかし、工場のより内側へと続く扉は見つかった。先ほど入ってきた扉が裏口なら、当然こちらが部屋の正面扉ということになる。実に、先ほどの扉よりも重厚で分厚い、薄緑色の塗料が剥げかかった金属製の横開きの扉だ。北方の地というだけあって、扉はエアー式ではなく油圧式だ。いくら他の北方地域の街と比べて暖かめとはいえ、この地が寒い地域だということに変わりはないのでそれは仕方ないのだが、未だに油圧式というのが何とも古めかしくロシアっぽさを感じさせる。
 ゴロゴロとゆっくり開いた扉を出ると、すぐさま部屋の外にある油圧ポンプのボタンを押して扉を締め直す。再び外に出た形になるが、やはり続々と精錬所内から多くの人間が外へと出てくるのを見て、ここが相当に巨大な工場だというのを実感する。おそらく、五分や一〇分そこらでは所内の人間全ての避難を完了させることなどできないだろう。
「見て」
 沙弥佳が指差す方向に、既に人が出ていった後なのだろう、開きっぱなしの扉があった。構造そのものはここの扉と同じ油圧式のものだ。同じ工場の中で違うというのもおかしな話なので、当然といえば当然だ。それを見つけた俺たちは、一向に収まりそうにない眩い光に照らされた工場敷地内を開かれた扉に向かって走る。
 途中まだ訓練ではないことに今さら気付いたのか、はたまたそうしたくともできなかったのか定かではないが数人の作業員達とすれ違う。一目散に逃げる連中は、反対に進む俺たちのことなど気に留めることはなく、あっという間に姿が見えなくなった。しかし、おかげで俺達も気にすることなく所内を移動できる。
「待って。見取り図がある」
 小走りに幅の狭い工場内の通路を進んでいたところ、沙弥佳が俺を呼び止めた。工場の壁に貼り付けられたプラスチック製の盤面に、この所内の見取り図がプリントされている。近寄って見てみると、どうやら今いるのは精錬所の北西部分に辺り、例の煙突部分のある区画までは少し距離がありそうだった。
 見取り図の内容を頭に入れると、俺はそれを頼りに再び通路を足早に移動していく。見取り図にはきちんと、それぞれの工場の出入り口なども描かれていたため、おかげで闇雲に動き回る必要はなくなるのは助かった。頭の中に描いた見取り図と実物を照らし合わせながら、工場内を移動し出入り口にたどり着き再び油圧式の扉のボタンを押した。
 通路を挟んで次の工場は、いよいよ本格的に精錬所の中心部、発掘された鉱物の錬成を行う区画だ。工場内に入ると、一気に硬質さを強く感じさせる臭いが鼻腔をついた。採掘する鉱物の臭いはもちろんだが、それを行うための機械の錆びた臭いや、駆動部分に差されているはずの油の臭いといったものが混じりあった臭いだ。
 一応マスクはしているものの、こんなのは書いて字のごとく気休め程度でしかなかった。もはやマスクなど不要といってもいいレベルの異臭で、そのきつさは軽い立ち眩みすら覚えるほどだった。確かに、こんな場所で日がな働くとなれば作業員たちの給料も良いはずだ。ヤワな奴なら一日だって持つことはないだろうと思ってしまえるほど、きつい異臭に思わず顔をしかめていた。
「大丈夫か」
「ええ、大丈夫だけど……結構きつい」
 俺はその異臭に耐え兼ねて、隣にいる沙弥佳にそういった。さすがの沙弥佳もこの異臭に顔をしかめ、口と鼻を手で覆っている。それも分からないでもないが、呼吸をしている以上は結局は同じなので、俺は覚悟を決めてマスクを取った。マスクを取ると、より一層異臭の”コク”が強まり、軽い嘔吐すら覚えそうになる。空気中に、人体に影響のありそうな物質が微粒子となって舞ってしまっているのかもしれない。
 精錬所の中枢を担う採掘工場に入ったところの右手には、再び先ほどと似たような見取り図がかけられている。やはり工場の中心だけあって、より特別になっているのは当然といったところか。しかし、よくよく思うと採掘のために行っている作業現場のはずなのに、重機類は一切なく、全てが工場に備え付けの機械しか見当たらないのだ。もちろん、工場内を持ち運ぶための移動手段であるフォークリフトなどはあるが、通常採掘現場などで多く見られるはずのダンプだとか、パワーショベル、ドリルといった重機の姿がまるでない。
 改めて工場内を見てみると、どこか風変わりに思えてくる。別に工場などで働いた経験もない俺だが、これまで任務の成り行きで何度か工場の中を見てきたことがある程度の知識でも、どこかこの採掘の仕方は何かが違うように思えるのだ。これではまるで、採掘現場というより、どちらかといえば地下水脈でも堀り当てるためのような気がしてならない。
 無人となった工場内では、ごんごんと無機質に動き続ける機械の稼働する音と、地下からはかすかに唸るような音が響いてくる。その音がなんなのか俺には想像もつかないが、異常事態が起こってなおも機械を動かしたままというのが、どうにも連中の儲け主義を象徴しているようだった。
「この機械、地下から石を運び上げてるのかしら」
「そうだろう。ここらはロシア最大、つまりは世界最大のニッケル鉱の採掘現場だからな。それを他の工場で精錬して純ニッケルを取り出してるってところか」
 巨大な機械で、長年掘り続けているであろうそこを今だ底へ向かって掘り続けているようだった。長年の採掘によりできた穴の直径は、ここから見る限りざっと二〇、いや二五メートルはありそうだ。そんな巨大な穴の中心あたりにまで伸びた採掘作業用の機械の長いアームが、穴の底に向かって採掘された鉱物をコンベアーに乗せて巻き上げている。
 巻き上げられたコンベアーには、地下で採れた大小様々な鉱石が無数にあり、それが今度は地上に横滑りになっているコンベアーの上に落とし込む形でまた別の場所へと、自動で運び出される仕組みになっているようだ。一体どこに繋がっているのは分からないが、見たところそのコンベアーに沿って進むしか道はなさそうなので、採掘されたばかりの鉱石が乗ったコンベアーが流れる方へ向かう。
 コンベアーの脇には、人が一人ようやく通れる程度の狭い幅しかない金網の通路があり、奥の方を覗いてみるとそれがずっと先まで続いているのが分かった。俺がまず先にコンベアー脇の通路に出て進んだ。採掘現場の奥に採れた鉱物を流し、その先ですぐに精錬するための区画があるらしい。
 奥へと続くこの通路は、元々地下の採掘のため掘られた横穴のようだった。そこに無理やりコンベアーと通路を設置したためだろう、このトンネルは俺の身長と体格には小さくて狭く、歩くのにも一苦労だ。それが何百メートルも続くのかと思うと、全身に妙な痛みが走りそうな嫌な想像をしてしまう。
 しかし、それでも何もかもが悪いというわけではなく、これまで冷寒さしか感じなかった場所を移動し続けてきた俺たちにとって、トンネル内部はとても暖かかった。地下というのは人間にとっては夏には涼しく、冬には暖かく感じるというのは本当なのだ。この点は本当に助かった。
 そんなことを考えつつ先を進んだ。殺しているがトンネルの中ではどうしても音が反響しやすい。俺と後ろを来る沙弥佳の二人分の足音がどうにも不気味に聞こえる。無言で進んでいるというのもそれを増長させているが、どうにも気が気でない。多分、これまでは遠藤がいたからこういう状況にはなりにくいからだったからだろう。
 そんなことを考えていたのが雰囲気で伝わったのか、はたまた俺の意識しすぎなのか分からないが沙弥佳が小声で話しかけてきた。
「彼女、大丈夫かしら」
「遠藤か。わからん。元はロシア側と手を組んでたんだ、なんとかするさ。今はそうとしか言えない」
「そう、そうよね」
 再び沈黙が降りる。昔はこんなでもなかったはずなのに、どうしても会話が続かない。だいぶ慣れてきたとはいえ、やはりこの雰囲気には馴染めることはないかもしれない。
「本当にこの先にあの人がいるの」
「さあな。でも今は行くしかないだろう。気になることは山ほどあるからな。ドミトリー・ボーリンがどんな理由で武田と手を組んだのか、気にならないわけでもないからな」
 そんなどうでも良いことを話しながら進んでいると、突然、進行方向右に抜けるトンネルが現れた。もちろん、そこにもコンベアーが伸びているが、今は稼働していないのか止まっている。それも、コンベアーを巻き込むためのチェーン部分などの錆び付き具合から判断すると、すでに何ヶ月も稼働していない様子だ。
「ということはこのまま直進だな」
「そうみたい。こっちはずっと先に錠が降りてるみたいだわ」
「錠? どこに」
 何気なく呟いた沙弥佳の言葉に疑問を持った俺は、沙弥佳が見つめる先を目を細めて見てみたものの、その先は真っ暗で何も窺えない。良く見えないだけかともう一度目を凝らしてみたが、やはり同じだった。
「……私には良く見えるの」
 俺の様子に思わず苦笑いしながら、沙弥佳が付け加えた。小さく肩をすくめて、止めた足を再び真っ直ぐに歩ませる。ただでさえ天井の低いトンネルの中に据え付けられているコンベアーの下を思い切り腰を低くし、狭い隙間をなんとかくぐり抜ける。くぐり抜ける際に、無理に隙間を抜けたせいで身体のあちこちに擦り付けられた鈍い痛みがあった。
 俺の様子を見ていた沙弥佳は、俺とは逆にコンベアーの上をするりと抜けてみせた。しなやかなその動作に無駄はなく、四苦八苦した俺とは逆に涼しい表情をしている。体格と体積がまるで違うのだからそれは仕方ないのだが、不公平さを覚えてかぶりを振る。
「なに」
「いや。俺ももう少し細身だと今みたいなこともできたんだろうと思ってな」
 吐き捨てるようにいって前を向き、再び先へ向かって移動し始めた。まぁ、沙弥佳は昔から運動神経も悪くなかったし、再会してからも明らかに人間離れした部分がないわけでもないので、こうした効果も齎しているのかもしれないと無理矢理に自分を納得させる。こんなことにいちいち不平を漏らしたところで意味もない。
 さらに二〇〇メートルは歩いただろうか、ようやく出口が見え始めた。うっすらと光って見えるのは、出口の向こうに何らかの光源が周囲を照らしているためだろう。それを目にしてこの長いトンネルにも終わりが近づいていることを認識し、進める足取りもつい速くなる。
 これまで光が見えなかったのは、直進しているように見えて実際にはこのトンネルが緩やかに、しかし複雑に湾曲しているためだ。このおかげで、トンネルを真っ直ぐに進んではいても、実際には入口からは九〇度近くも右に、あるいは左に向いていることもあったに違いない。ともかく、コンベアーが流動する方へ進んでまずは正解だったというわけだ。
 そのまま出口へ直進していく内に、前方から地底奥深くから鳴り響く地響きにも似た音が聞こえだし、進むにつれて次第にその音が大きくなってきた。何か、得体の知れない巨大生物の腹の中にでもいるような、そんなある種の恐怖心を持たせる響きだ。
 さらに進んでいくと、これまでずっと平坦に流れてきていたコンベアーのベルトが、段々と下降してきていた。トンネルは下から上へ向かって掘られているらしい。どうせならフラットのまま横穴を作って、そのままコンベアーを設置したほうが作りやすそうなものだが、どうしたことかトンネルはますます傾斜を強めていく。
 傾斜の強まりが大きくなるにつれ、出口から見える明かりも強まりを見せる。傾斜が始まる前から光があるように見えたのは、どうやらそれだけこの光源からの明かりがそれだけ強いということなのだろうが、それと共に周囲の岩石もまた光を反射しやすい物質も多く含んでいるようだ。
 俺たちは、強まっていく下への傾斜に足を滑らせないよう細心の注意をしながら、金網の通路にぐっと足を踏ん張らせながら、同時に手も使って転落しないように降りていく。すると、ここでようやく狭かったトンネルが広くなっていき、これまでのような半中腰のような窮屈な姿勢から解放される。最も、今はそれ以上に傾斜に気をつけなければならないが。
「待て。人の声だ」
 沙弥佳も同様に踏ん張るにはだいぶきつくなり始めたところで、自重を用いながら足早に傾斜を降りようとしていたところだった。そこを俺は半ば見上げる形でそれを制止した。すぐ近くを稼働しているコンベアーと地響きのような音に混じって、かすかに人の声が聞こえたのだ。
「ここからはゆっくり降りていこう」
 沙弥佳もそれに頷き、そっと、もはや通路とは言えない金網の梯子を降下する。俺もそうしながら、聞こえた人の声に注意深く耳を傾ける。しかし、ここからでは確かに人の声というのを確認できる程度でしかなく、もっと出口のほうまで出なくては内容までは聞き取ることはできなさそうだった。
 さらに、数メートルは下ったろうか。広がってきていたトンネルの幅はさらに広くなり、傾斜もさらに強くなる。これまで金網が半ば梯子のような状態であったが、ここでついに金網から完全な梯子へと切り替わった。しかし、梯子の方が逆に安定し、さらに昇降も行いやすい。
 梯子に手足をかけた状態で数段降りたところで、その真上に沙弥佳も降りてくる。その様子を確認して真下を見ると、それまで不明瞭だった人の声がなんとか聞き取れるくらいのレベルにまでなった。武器を手にした兵士が二人、それに声の主らしいスーツを着た男の二人だ。兵士二人はスーツの男たちの護衛だろう。
「やれやれ。ようやく完成にまで漕ぎ着けたようだ」
「これもあんた方のおかげといったところだな」
「そこは是非とも感謝してもらいたいところだがね。西側がマシンを完成させて、すでに六年以上も経っている」
「まぁ、そういうな。連中のモノよりもこちらの方が遥かに性能は高い。なんせ、まだ人類が到達し得てないと言われる量子コンピュータが搭載されてるんだぜ? こいつの演算能力の高さを利用すれば、間違いなく西側のシステムをも崩壊させることができるんだ」
「それはそうだが」
 スーツの男二人はロシア語で会話しながら、今しがたいた場所からどこか別の場所へと去っていった。当然護衛らしい兵士もそれについて行き、辺りから人の気配が消える。俺は素早く梯子を降りて、都合の良さそうなところで男たちのいた通路に飛び降り、続いて沙弥佳も同様にほとんど足音なく飛び降りてきた。
「今の話、どういう意味だ。完成とかいってたが」
「私にも良く分からない。けれど、飛行機でのことを思い出せばやっぱりタイムマシンのことと何か関係があるんじゃない?」
「だが量子コンピュータとか言ってたのも気になるぜ。タイムマシンとこれが何か関係があるのか。というより、量子コンピュータってなんなんだ」
「私が以前聞いたことあるのは、現在のスーパーコンピュータの何倍も何十倍も高い演算能力を持ってるってことくらい。もしかしたらもっとすごいかもしれない。けれど、良くは知らないわ」
「現代のスーパーコンピュータよりも遥かに高性能なコンピュータってわけか」
 そういう沙弥佳の言葉に、視界に映る巨大な装置を見つめながら頷いた。一体どんな機能を兼ね備えているのか、巨大な円形の機械で、その上から吊り下げられているような状態だ。装置が円形ということもあり、立っている場所からは装置の真下を伺うことはできない。もしかしたら、球体の底でも何かしら支えがあるのかもしれないが、だとしてもここまで巨大なものを支えるには十分な太さのものが必要だから、おそらく吊り下げ式だろう。
 巨大な球体装置は中にも入ることができるのか、装置の周囲にいくつかの通路らしいものが筋となって真っ直ぐに伸びているのが見える。今いる場所も、巨大な球体装置に繋がる通路の一つのようで、男たちが消えていった方を見ると奥へと続く道と、左右に枝分かれし球体に伸びる通路へと繋がる道と、三方になっている。
 俺と沙弥佳はそこで背負ってきたサックを降ろし、素早く中から銃を取り出すと足早に男たちの後を追って移動し始める。ここは、それなりに大きなホールになっているのか、思っている以上にちょっとした音でも反響する。足音などは以ての外で、こうなっては足音を気にしても仕方ない。
 通路を小走りに進む俺は、横目で巨大な球体へ視線をやる。あの男たちはこれを見つめながら完成したと言っていた。そして、ここにいるはずらしい武田の存在。
 確実に奴に近づいているはずなのに、どういうわけか気持ちは近づくにつれますます距離が離れていくような、奇妙な感覚にとらわれながら、グリップを握る手に一段と力が入っていた。



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