世界樹と輝石の姫君

神田えい

運命の一夜

「お嬢様ー!紫桜しおお嬢様ー!走ってはなりませんよー!」
かなり遠くから悲鳴に近い呼びかけが聞こえる。
無理もない。齢六十を越えたばあやを相手に、十六の乙女が言うことを聞かないのだから。体力の差は歴然だ。それでも離れていて声が聞こえるというのは、ばあやもなかなか声を張っているのだと思われる。
「ばあやー!私は先に行ってるから屋敷に戻っててー!」
「はーい なんと申しましたかー 」
ばあやの耳が遠かったらしく、紫桜の声は届かなかったようだ。
「私先に行ってるからー!屋敷に戻っててー!」
「聞こませんー!なんとー!?」
声を一度目より張ったが聞こえなかったらしい。残念ながらばあやを待っている時間は無いので再度呼びかける。
「聖羽と龍翔のところに!行ってくるわーー!!」
渾身の叫びでばあやの返答を待たずに集合場所へ走り出す。庭の生け垣を越えて、塀を乗り越え、しばらく走ったところにある裏山。紫桜の家の私有地でもあるその山には、子供三人で作り上げた手作り感満載のツリーハウスがある。
紫桜は何度も失敗しながら作り上げた、クッキーの入ったバスケットを握り締め、一息に塀を乗り越えた。


「今日はやけに遅かったな」
「シオン…遅刻…何回目…?今日は…流石に…心配した」
「ごめんごめん。ばあやを振り切るのに手間取っちゃって」
平謝りしながら入り口の梯子を上りきる。十六歳の少年少女が三人入ると窮屈さを感じるが、それも醍醐味だろう。床には紫桜の家から持ってきた、有り余っている客間の布団と枕。窓辺には聖羽きよはが適当に縫ったカーテン。子供の出来る限りで考えた秘密基地は、結構居心地が良かった。
「ドラゴと…二人でいるの…正直苦痛…」
「悪かったな!って頷くなよ遅れた分際で!」
「何よ、クッキーいらないの?」
すかさず攻撃に転じる紫桜。龍翔りゅうとが甘いもの、特に紫桜が作ったものに弱いことは知っている。
龍翔は苦虫を噛み潰したように押し黙った。
「遅れた理由はこれ焼いてたからでもある」
「なら…帳消し」
いただきます、と前置きして聖羽はクッキーを一つ口に放った。
「うまうま…」
「お、オレもっ。いいか!?」
「ちゃんといただきますしてよ?」
「いただきますっ!」
被せ気味に声を上げると龍翔はクッキーを頬張った。

「いやぁ…美味かった。ごちそうさん」
「ごちそうさまでした…」
「おそまつさまでした」
二人が満足げな顔をしているのを見て紫桜も同じように微笑む。
「ていうか二人とも味覚おかしいんじゃない?私が作ったクッキーって結構無理めな味してると思うんだけど…」
紫桜は空になったバスケットをしまいながら呟いた。
「おかしいのは…シオンの味覚…」
「お前の味覚ってなんかズレてんだよなぁ」
おら、茶飲め。と差し出してきたマグカップを受け取る。紫桜は五本もシュガースティックを紅茶に入れ、よくかき混ぜた。
「はぁ…美味し」
感嘆の声を漏らす紫桜に冷めた目で二人が呟く。
「うん、ズレてるな」
「めっちゃ…ズレてる…」
「そうかなぁ」
不意に龍翔が立ち上がった。といっても天井があまり高くないので腰を屈めながらだが。
「どうしたの?」
「今日剣道の練習あるの忘れてた。帰らねぇと」
「アンタよくそんなチャラついた髪色で許されてるわね。親父さんに怒られないの?」
「うるせ、毎日怒られとるわ」
梯子を降りながら手を振る。
「じゃあな。またなんかあったら呼んでくれ」
「うん。気をつけてね」
「ばいばい…」
龍翔が走っていく姿を窓から確認して、二人は残っているクッキーを片手に話を弾ませた。

外からも見えにくく、何より場所を知っているのはこの三人だけのこのツリーハウスで、紫桜が存分に羽根を伸ばした頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「ごめんね、聖羽。遅くなっちゃって」
「ん…大丈夫」
「送らせようか?」
すかさずポケットから携帯を取り出す。
「ううん…大丈夫…ありがと…」
「気をつけてよ?女の子一人って危ないんだから」
「キヨハには…問題ない…」
含むような笑い方をして、そのまま聖羽は闇に溶け込むように帰っていった。
「ん、私もかーえろ」
護衛がいないのが少し寂しいが、歌を歌えば問題ない。自分で作った即興曲。歌詞はつけられないのでハミングだけだ。
「〜♪〜〜♪」
がさ、と近くで音がしたが風で葉が擦れた音か。紫桜は気にせず歩き続け、その瞬間、

ガッと口と鼻を布で押さえ込まれ、息を呑んだ紫桜が含まれていた薬を思い切り吸い込んだ。
「んんんっ!!んんんむっ!?」
「少し黙ってもらおうか」
ふっと抜けるような感覚に、紫桜は脱力する。がくりと膝をつくと謎の人物は紫桜を抱え上げた。
「第一任務クリア。館にお連れしろ」




【有栖川邸・ダイニングにて】
「…紫桜しおに声は掛けたのか」
「ええ…でも返事がなくて」
料理を口に運ぶ手前で妻に問う。次女の紫桜は食べることも好きだし、料理をするのも好む。食事に遅れるとは思えないのだが。
紅梨あかりは」
「相変わらずです。声をかけたら問題ないと」
「そうか」
食べ終わった皿の右側にナイフとフォークを寄せ、席を立つ。
「ご馳走さま。千代、下げておいてくれ」
「はい」
ドアの近くに立っていたばあやに声をかけた。

紫桜がまだ幼く、自分の仕事もようやく軌道に乗り始めたころ、部屋をやると言ったら紫桜は何故か屋根裏部屋を選んだ。デザイナーに頼んで作った家具もいらんと言い、自分が選んだ木のシンプルな家具で統一した。
「紫桜」
ドアから光は漏れていない。寝ているのか?とドアをノックする。
「紫桜?」
返事はない。寝ているのだろう。
「紫桜、入るぞ」
静かにドアを開けると木の香りが広がり、カントリー調の家具や植物をモチーフにしたランプなどが目に入る。机の上には開かれたままのノートパソコンが置かれていた。そういえば部屋に入ったことがなかったと思い出す。そして紫桜が寝ているはずのベッドに目を向け、そして驚いた。布団の膨らみはない。紫桜がいない。
「おい、紫桜っどこだっ!」
部屋を探して、いないと気づき、部屋を飛び出す。
「おい誰か!悠歌ゆうか!千代!紅梨!誰か来てくれ!」
紫桜がいなくなってから既に二時間が経っていた。



体が重い。
項垂れそうな倦怠感が全身を襲う。目を開けて窓の外を見ると闇夜に一筋の光が射していた。闇に目が慣れるとようやく自分の現状を把握できた。
「おっと…気づいたか」
先程聞いた声ではない。どこかおどけたように話す男の声。
「…ここはどこなの?」
「ふーん、俺を誰かとは聞かないのね」
男はわからないといったふうに腕を上げた。
「悪いけど、おじさんここでお嬢さんの子守りしといてとしか言われてないのさ。だからここがどこかとは言えないし知らない。そのために連れてこられたようなもんだからね」
…意味がわからない。少女のお守りをするためだけに連れてこられた?意味がわからず首を捻っていると
「おい、A。ちゃんと任務はクリアできたんだろうな」
先程の人物が入ってきた。
「へいへい任務厨殿。もちろんクリアできておりますとも」
適当に返す男を睨みながら、被っていたフードを脱ぐ。すると月明かりに映える銀髪が淡く光って見えた。綺麗だと思ったが、女性か男性か判別できなかったため何も言わないでおいた。
「ようやく、王の任務をクリアできる」
細く息を吐きながら、紫桜に近づいてくる。
「輝石の輝きは?」
「俺っち一番目じゃないからわかんなーい。アンタ自分で見たんじゃないの?」
「ああ、見た」
だが、と前置いて紫桜の顎を少し上げる。品定めされている気分だ。
「今はまったくその様子がない。拍子抜けだな」
「勝手に期待して勝手にがっかりしないでもらえる?自分勝手ね」
「ふむ、口答えできるのか。この状況で」
銀髪の人物は紫桜から手を離すと手を二度叩いた。音はやけに部屋に響き渡り、それと同時に部屋に灯りが灯った。眩しさに目を閉じ、やがてゆっくりと開くと、大勢の黒いフードを被った人間がひしめき合っていた。皆同じ姿勢で。
「お前が要求を呑まなければ、ここの人間すべてでお前を汚す」
紫桜は何故か玉座に座っていることを理解し、肘置きで腕が固定されていることもわかった。そしてそこから延びる真っ赤なカーペットと磨かれたように光る白い床。どこかのお伽話で出てきそうな城。その玉座に紫桜は監禁されていた。
「汚す…?どういうこと」
「それはお前が要求を呑まなければわかることだ」
銀髪は玉座の前で膝をつくと、頭を垂れた。
「どうか歌ってくれないか、《あの歌》を。貴女の歌声で我が国に栄光と安寧をもたらしてほしい」
恭しく申す銀髪に、紫桜は困惑する。先程まで敬意を微塵も感じさせなかった銀髪が頭を下げているのだから。
「《あの歌》?どの歌かわからないんだけど…。それに私の歌声なんか平凡よ。なんの設定なのか知らないけど栄光とかもたらせるとは思えないし」
銀髪は顔を上げた。さっきは暗くて顔がよく見えなかったが、明るいところで見ればなかなか整った顔をしていた。金色の瞳に吸い込まれそうになる。
「先程林で歌っていた歌だ。頼む」
「ちょっと!そんなに頭を下げないで!」
再度頭を下げようとする銀髪を遮る。
「あんな歌でいいなら歌うから、これ」
腕を縛りつけてある拘束具を顎でしゃくる。「外してくれない?」
銀髪がAに視線をやると、Aは気怠げに拘束具の上に手を置いた。
「《解錠魔法アンロック》」
カチャン、と金属の音がして拘束具が外れる。紫桜は手錠の跡がついてしまった手首を擦りながら、立ち上がって息を吸い込んだ。

「待て、歌うな」
「っ!?」
声を発そうとした口が手でふわりと塞がれる。目に入ったのは切りそろえられた黒髪と、赤寄りの茶髪。
「こんなやつらの…ためなんかに…シオンの歌を…聞かせなくていい…」
「そうそう」
振り返ると二人の幼馴染が立っていた。紫桜の口を塞いだのは龍翔。その横で何故か着物を着ている聖羽。
「お前ら誰に手ぇ出したかわかってんのか?」
「最重要人物…である…シオンを…誘拐なんてしたら…国交…やばくなる…お?」
「それ以前に、だ」
武器に手をかけた二人がギラリと視線を光らせる。
「「誰の幼馴染に手ぇ出してんだよ」…ばーか」
龍翔は一旦紫桜を抱え、跳躍した。と同時に聖羽が帯に差してあった二本の刀を抜き、フードの集団に突っ込む。
「なんでここが?」
紫桜の問いかけに龍翔が視線を顔を向けてくる。そしてはっとした顔になると龍翔は袖で荒っぽく紫桜の目元を拭った。いつの間にか泣いていたらしい。
「輝石の光を辿ってここまで来たんだ。俺たち一番目は輝石の光が見えるから」
「輝石…?」
降ろされた場所で龍翔が剣を抜く。いつも振っている竹刀ではなく完全な真剣だ。
「銀髪の人も言ってた…何なの、輝石って」
「あー…あとで説明してやるから、ちょっと待ってろ」
龍翔は聖羽が二本の刀で舞い続けている広間に飛び込んでいった。敵が四方八方に飛んでいっている。何が起こっているのかまったくわからない。
「くそっ黒と赤が手を組んでいただと!?聞いていないぞ!」
銀髪がそう言いながら紫桜の腕を荒く掴む。
「来い!お前は我が銀の国が頂く!」
「いやっ!」
腕をなかなか振り払えない。全体重をかけて引っ張っていると、「えいっ…」という聖羽の声とともにいきなり引っ張っていた力が弱くなった。
「ぐあああッ」
目の前で血飛沫が飛び散る。聖羽が飛び上がり、銀髪の腕を上げ叩き切ったようだ。
「きさ…まぁッ!一瞬のうちにッ!?」
「お前…キヨハを…知らないの…?」
揃えて叩き切った刀を構え直して問いかける。
「キヨハは…黒の国の…第一皇女…そして…暗殺業も…結構してる…」
サンッ、と軽い斬撃音。あまりに速くて目を背けられない。紫桜は呆気にとられて銀髪を見ていた。
「《音無》の剣技…体感できる…いい機会だった…ね」
綺麗な断面を晒し、銀髪の左膝から下が転がり落ちた。
「ア゛アア゛アアッ!!!」
耳に残る悲鳴を上げる銀髪に聖羽は、
「殺さなくても…い、か。シオンが…目の前に…いるし…」
と冷めた目で言い放ち、刀を鞘に収め、袖に手を突っ込んだ。ずるりと引き出されたそれを、紫桜に渡す。
「ハープ?」
司法神フォルセティ竪琴ハープ…シオンの…ための…楽器…」
繊細な装飾が施されたそれは紫桜の手に取られると、ひゅっと縮んで掌で握り込めるほど小さくなった。聖羽は先程と同じように袖に手を入れて、今度は鎖を引きずり出した。
「これに…通して…首にかけて…。いつも持ち歩いて…」
なぜか淡い光を発する鎖をハープに通し、首にかける。それを確認した聖羽は龍翔に声をかけた。
「ドラゴ…任務完了…」
「お前が言うと隣で倒れてる奴と同じみたいだぞ」
笑いながら言われ聖羽が横を向くと、先程腕と膝から下を斬った銀髪が倒れていた。
「…エドゥアルドと…同じに…しないで…ほしい…」
「すまん」
聖羽は紫桜を横抱きに抱え上げ、一階に降りた。足が床についた途端、力が抜けてへたり込む。
「は…ごめん」
緊張の糸が切れて、涙腺が緩む。
「…ふ…ごめ…っ」
止まらない涙を拭っていると、頭に温かい手が乗った。
「来るの遅くなってごめんな?怖かっただろ」
「…っ別、に…っ」
そこまで言って、堪えきれなくなって、目の前の龍翔に抱きついた。
「ごめん…ちょっと…っ…貸して」
「そんなに謝るな」
紫桜の涙が収まるまで、龍翔はずっと紫桜の頭を撫でていた。聖羽はしゃくりあげる紫桜の背中をさすっていた。

「…あ、ありがと」
我に返って龍翔から離れる。自分の行動思い返して顔が熱い。
「帰らないと…時間やばいよね」
「そうだな」
歩き出した紫桜はしばらく歩いて、着いてきていない二人を不思議そうに振り返る。
「帰らないの?」
「いや…」
罰の悪そうな顔で俯く二人に紫桜は無理矢理笑顔を作った。
「そんな気に病まないでよ!あたしは大丈夫だしさ!ね?」
二人の表情は晴れない。
「遅くなったのも謝ったら許してもらえるよ!帰ろ?」
「ごめん!もう…」
「ごめんって…もうさっき謝ってもらったわよ?」
「違う…シオン…ごめん…」
「だからさっき謝って「もう向こうには帰れないんだ」………え?」
龍翔は俯いたままで、聖羽だけが顔を上げて、
「…もう…現実世界には…帰れない…」
静かにもう一度告げた。
「うそ…よね?ねぇっ…」
二人共項垂れて黙ったままだ。紫桜は何かを口にしようとして息を吸ったが、唐突に息が詰まる感覚に襲われた。うまく空気が吸えなくなる。
「くっ…はっ…は…っぁ…!」
「紫桜っ!?」
涙が溢れて、体中の力が入らない。熱を失ったみたいに寒くて。
駆け寄ってくる龍翔と聖羽の伸ばされた手を見ながら、ふっと気を失った。

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