紅心中

Mifa

IV.

午後七時。閉店の少し前。しばしのうたた寝に身を委ねていたノラが目を覚ました。
だいぶ落ち着いた、という彼女の言葉を信じ、バックヤードを出る。
客は殆ど帰っており、マナもすでに帰ったことを店長から教えられる。



丁度いい、と僕は彼女を送り届ける事を提案した。あいつがいると話がややこしくなりそうだったからだ。
店長もジュリアも、文句一つ言わず賛成してくれた。つくづく温かい場所なのだと実感する。
しかしまあ、全てが滑らかな関係というわけでもなくて、


「ウルっち、早まるなよぉ?」


ジュリアはいつもの調子になって、脇を小突いてくる。
この面倒臭さが彼の持ち味であり、良さでもある。空気をほぐす良い役回りだ。
演じているわけではない、と信じたい。
私服に着替えて――と言っても、エプロンを外してコートを羽織れば出来上がりだが――出口へ戻る。


「で、でも……」


「お気になさらず。体調が戻られ、またご来店いただければ、それ以上の事はございません」


ノラは少し申し訳なさそうに、小さく頭を下げている。
どうやら、店長はお会計に目をつぶったらしい。
また来てくれれば、それだけでいい。
それは僕も同じ気持ちだ。全く、店長も粋なことをする。
でも、寂しくも思う。
また、「あなたがここにいたら」。
それは果たして叶うのか、と……恐らく僕だけが、不安に感じていることだろう。



「うわあ……」


外は雨が降っていた。天気予報が命中してしまった。
僕はふう、と息を吐き、傘を広げた。
彼女は首の後ろに手を回し、そこに何も無いと気づいて戸惑いを見せた。


「傘、持ってないんですか?」


どうやらフードを被るつもりだったらしい。この前のダッフルコートならそれも出来ただろうが、今日はPコートだからフードが付いていない。
どっちにしろ、この雨の中を濡れながら歩かせるなんて許可できない。


「良ければ、入ってください」


お店には貸出用の傘も何本かあるのだが、出る際に見たところ、全部無くなっていた。
ここ数日は晴れていたし、常連客特有の「降ったら借りればいいや」という信頼もあったのだろう。



彼女はありがとう、と呟き、隣に入った。
傘は特別大きいわけじゃないし、背丈だってやはりそう変わらない。なのにすっぽりと収まっているのが驚きだ。本当に華奢なのだ。



傘を持つ僕の腕、コートの肘の辺りを、彼女が摘む。
肩をきゅっと縮こませて、出来るだけ濡れないようにしている。
なんだろう、と一瞬悩んだが、それが手を繋ぐ代わりなのだと気づき、僕は何も言わず微笑んだ。
水たまりを避けて、軒下で落ちる大きな雨粒を傘に当てたりして、ほんの数分の送迎は静かに過ぎていく。



マンションの前に来て、僕はどうしたものかと思い悩んだ。
ここで別れるべきか、それとも部屋まできちんと送るべきか。こういう時の最適解を僕は知らない。オートロックの建物だし、流石に扉の前まで、というのはやり過ぎだろうか。
ノラは解除用のキーカードをかざし、自動ドアを開いた。そして手を伸ばし、僕を見る。


「少し、休んでいって」


その言葉に、何も迷うことなど無かった。僕の願いが叶うのだ。彼女に想いが芽生えたのだ。
ありがとう、とその手を取る僕の声が、もしも白煙のように目に見えるものだったなら。
きっと、邪な色に淀んで見える事だろう。



彼女の部屋は十二階、かなり上の方だった。
こういうの、上に行けばいくほど高いのだろうか。それとも早いもの順で、特に関係ないのか。
僕の家のアパルトメントは背が低いし、それほど家賃も高くないから、この手の相場が全然分からない。


「どうぞ」


緊張しながらも、上がり込む。自分の家以外で靴を脱ぐなんて、そうそうあるものじゃないから変な気分だ。
廊下を進むと、リビングに出た。その景色を見て、僕は言葉を失う。



僕の部屋も大したものなど置かれていないが、彼女はそれ以上だった。
テレビは無い。冷蔵庫もない。テーブルと椅子とベッドと、それから本棚だけ。本の数は僕よりも遥かに多いが、しかしあまりに生活感に欠けている。



傍らのゴミ箱からは、チョコの空き箱が顔を覗かせている。ちらりとそれを盗み見る。
中には、チョコやらカロリーメイトやら、その手の食べ物の空き箱しか入っていない。コンビニ弁当のパッケージすら無い。
普段、どんな食生活をしているかが一目瞭然だ。ファントマイルで過ごしているときと、ほぼ変わらないのだろう。


「何もないけど……適当に座って」


キッチンへと彼女は歩いていく。どうやらポッドはあるらしい。
缶を開けて、紅茶のパックを取り出している。彼女の言葉が頭を通り過ぎていく。僕は今、鼓動の高鳴りを抑えることに精一杯なのだ。


「あの、お構いなく」


お決まりの言葉を返して、彼女の背中を見守る。髪が左右に流れ、時折うなじが顕になる。



上品なティーカップに煎れられたのは、僕の好きなプリンス・オブ・ウェールズ。奥深い香りと程よい苦味が心地よいのだ。
テーブルにそれを置くと、僕はベッドで横になるよう提案する。



先刻の事があった手前、彼女も素直に従う。
普通ならここで、良からぬ行動を予期して、疑ってかかったりするのだろうか。
確かに、ほんの僅か、過ちに手を染めてしまいたい気持ちも無くはない。
しかし、それ以上に今は、舌と歯と胃袋が、「それ」を求めている。



ベッドは病院にあるそれと同じように、上半身の部分がリクライニングになっている。手動だが。
彼女は程よく上体が起こせる角度までそれを持ち上げ、布団に潜り込む。


「冷めないうちに……」


という彼女の気弱な声に、僕は首を振る。


「猫舌ですから、まだ大丈夫です」


これは勿論、嘘だ。


「ねえ、ノラ」


背後にある窓からは、未だ降り続ける雨音と、青白い空模様が映し出されている。
それに照らされる彼女のただでさえ薄く淡い肌が、より一層儚い色に染まっている。



きっと人間には、今にも消えてしまいそうなものを、美しいのだと錯覚してしまう欠陥があるのだろう。
桜の散り際に見惚れるように。いずれ溶けてしまう雪を愛するように。
僕は今、彼女を世界一綺麗な生き物だと、自信を持って言い切れる。
だから、僕は。



「ごめんなさい。出来れば、驚かないでほしい」


顔を近づける。目と目が、頬と頬が、今にも触れてしまいそうなほどに、近く。
彼女は一瞬身を跳ねさせて動揺を見せたが、身体を退けようとはしない。
なら、もう、後戻りは出来ない。


「ノラ、僕は貴方が好きだ」


唇をそっと近づける。
仄かに赤い彼女の唇が、温もりに触れる瞬間を待っている。
そして僕の口は、その唇を通り過ぎる。



他の雑多な人間に比べ、満たされる事なく、萎れていくばかりの喉元に、僕は喰らいついた。


Chapter 4 - END.

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