紅心中

Mifa

III.

それから二十分ほど、マナは出てこなかった。流石のあいつでも、緊急を要する症状が見られれば呼んでくるだろう。



さしずめ、他愛もない話を持ちかけているのだろう。精神面が問題なのかもしれないから、今だけはそれも有り難い。
しかし、普段のノラを考えると、そう会話が盛り上がる相手とも思えないのだが。


「お待たせ」


ようやく部屋から出たマナは、満面の笑みで僕にピースをした。


「やっぱりストレスだろうね。今すぐどうこう出来るものでも無さそうだし、落ち着くまでは兄さんが側にいてあげて」


肩をぽん、と大きく叩かれ、僕は言われるがままバックヤードへと入った。
ノラは扉に背を向けて寝ていたが、僕が来たことに気づき、ゆっくりと天井へ向き直した。


「マナがうるさくしませんでしたか」


テーブルにつけてある椅子を一つ引っ張ってきて、彼女のすぐ隣に腰掛ける。
彼女は天井を眺めたまま、しばらく言葉を返さなかった。やがて口を開き、


「兄妹……?」


と尋ねた。そういえば彼女らは初対面だし、マナが妹だということも伝えていない。
そうか、気まずかったかもしれない。気が動転していたのだろうか、そこまで頭が回らなかった。


「ええ、妹です。すみません、説明もなしに二人きりにして」


「あの子から聞いた。私、別に聞かれて困る事もないから……」


ほう、とノラはゆっくり息を吐いた。
もしも、今が冬でなかったら。
息が白煙になって目に見えなければ。
僕は彼女だって呼吸を繰り返し、生きているのだという事を忘れそうになる。


何を話したのか、と訊きたくなったけれど、それはやめておくことにした。あまり根掘り葉掘り突っ込んでも、彼女を困らせるだけだ。
今はとにかく、ゆっくり休ませること。それだけだ。


「閉店までまだまだ時間もあります。ゆっくり休んでください」


クッションに垂れかかった髪。青白い肌。おぼろげな瞳。
こんなにも弱々しく、苦しんでいるというのに。何故だろう、とても美しく見えてしまうのだ。
薄弱こそが彼女にとって最高の化粧だなんて、そんな悲しい考え方はしたくないのに。



「ねえ」


彼女は、僕の顔を見て、何度か視線を泳がせながら、ブランケットに口元を埋める。


「もっと、側に来て」


言われるがまま、椅子を引いて身を寄せる。次の瞬間、ノラは僕の手を取り、強く握りしめた。


「ごめん……しばらく、こうさせて」


その手は恐ろしく冷たく、そして強張っていた。波打つ脈拍はかなり早い。
膝を腹部まで寄せ上げ、母体に眠る赤子のように丸くなる。
その姿からは、いつものノラの面影は見えない。


「大丈夫です。側にいますから」


背中あたりをぽんぽんとさすって、手を握り返す。
きっとノラは、恐れているんだ。自分の中で何かが壊れていく事を。誰にも融けあえず、一人でこの世界と共存していかなくてはならない現実を。
彼女もまた、人間なのだ。



バックヤードの向こうから、微かに音楽が聞こえてくる。珍しく邦楽が流れている。
厳かに鳴り続けるスネアドラムと、情緒溢れるアコースティック・ギターが、湿った空間にじんわりと広がっていく。


「たまには邦楽も良いものですね」


彼女の細い指先をそっとなぞりながら、僕は呟いた。返事があるとは思っていなかったが、


「悲しい歌詞だね」


と、彼女もぽつりと零した。確かに、とても暗い曲だとは思う。
「この季節咲き誇る、白い花を摘んで――」


サビに合わせて、小さく歌う。そういえば最近は、聴いてばかりで歌っていなかったな。
どうせならノラを連れてカラオケでも行こうか。趣味も合うだろうし、案外楽しめるかもしれない。


「歌、上手いと思う」


正直、今は寝ていたほうがいいのだと思うけれど、会話によって身体の緊張がほぐれるのならそれも構わない。
しかし、彼女に褒められると照れてしまう。今度はこちらが強張ってしまいそうだ。


「白い花って、どれのことを指しているんでしょうね。百合かな、僕は花とか詳しくないんですが」


道端にある花を見つけることを無価値だとは思わない。
しかし、それに付けられた名前も、込められた意味もまるで知らない。
まるですれ違っていく人間同士みたいに。



彼女ならその情景に、どんな名前を選ぶだろう。単なる好奇心として、僕は尋ねた。
白い花と言えば、百合か菊あたりが定番だ。ノラもそうなのかと思っていたが、答えは違った。


「レウィシア……じゃないかな」


「それ、どんな花なんですか?」


「調べたら、多分出てくる。煙草のときみたいに」


初めて会った日のことか。思い返せば、我ながら大胆な事をしたものだ。
あんな些細な会話から、まさか今こうして、手をつなぎあうことになるとは。兎角、人生は予想外の連続か。



五分の旋律の後にその曲も終わり、オーロラの『Runaway』へと移った。静かだが、芯のある力強い歌声が響く。
ノラの顔を見ると、また目を閉じていた。眠ったのだろうか、と握られた手を両手で包んだ。
その行為に、大した意味はない。ただ中腰だと辛かったから、重心をそちらへずらそうとしただけだ。でも、


「ありがとう……ウル」


彼女はそう笑った。
名前を呼んでもらえた。
笑ってくれた。
「何故だろう」よりも、僕のほうが「ありがとう」と言いたくなるほど、とにかく嬉しかった。


「連れて帰って、私のいるべき場所へ。いるべき場所へ――」


曲はクライマックスに入っていた。
壮大な、果ての見えない歌声が、何度もその言葉を繰り返している。

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