紅心中

Mifa

II.

その日はそこそこの客足だった。
べらぼうに忙しいとまでは言わないが、かといって暇を持て余す時間もそれほど無かった。
ちらちらとテーブルの動き具合を確認するたび、一番奥に見えるノラの姿が目に入る。
今日は本を読まず、ひたすら煙草を吸っていた。



左手に持った煙草を、口に付けるでもなくただ煙を消費するだけ。
額の辺りに掌を乗せて、じっとテーブルを見つめている。
そして突然、灰皿に煙草を押し込み、トイレへと歩いていった。この間、一緒に歩いたときと違い、かなり早足だ。



少し気になって、僕は手を動かしたまま、そちらの一点をじっと見ていた。
しばらくして、彼女が出てきた。その時の顔は、あまりに衝撃的だった。



美しくも儚げな顔立ち、というのは初対面のときから感じていたが、その時はもっとひどかった。
青白い肌と、この世全てを恨んでいるかのように凶暴な目つき、かすかに震えている肩。明らかに正常とは言い難かった。
眉をぐっと寄せて、過呼吸に近い荒れた呼吸を繰り返している。ゆっくりと席に座り込み、いつもより少しだけ深く腰掛け、彼女は天井を仰ぎ、目を閉じた。


「あの」


僕は思わず、そこへ駆け寄ってしまった。いつもなら決して踏み入れない距離に、飛び込んでしまった。


「大丈夫ですか、もしよければ、バックヤードで横になった方が」


店長を見る。彼は静かに頷き、カウンターの裏に続く扉を開いてくれた。
さすがのジュリアも、いつもの軽々しい表情が曇っている。それほどに、彼女の顔は壊れかけていた。


「……だいじょうぶ」


消え入るような、か細い声。なぜ彼女は、いつも悲しそうな言葉を発するのだろう。
しかし、周囲の客の視線を感じ取ったのだろう、再び立ち上がり、僕の肩を掴んだ。



かなり苦しいのだろう。全体重がのしかかってくる。
にもかかわらず、あまりに軽い。その姿からは想像もつかない、それは抜け殻のような。


「ごめん……二人とも、ごめん……」


今にも死にそうだ、と一度は思いもしたが、そんな弱々しい声など聞きたくはない。
素っ気なくて、何を考えているか分からなくて、謎多き美女。
ノラは、そうであってくれればそれだけで良いというのに。人間とは、どうしてかくも報われないのか。



空いたもう一方の掌を手に取り、ゆっくりとバックヤードの方へ誘導する。
ジュリアがそれに続き、僕とは反対側に立って彼女の背中を支えてくれた。その時、


「おいすー。兄さん、来たよぉ」


厄介なタイミングでマナがやって来てしまった。もう昼前だ。何時に起きたというのか。
いや、それよりも。彼女はジュリア以上に面倒な相手と言っていい。



というのも、こういう局面に立ち会った時、ジュリアはやはりまともな感性を発揮するのだ。
現にこうして、軽口のひとつも言わず、迅速に対応をしている。それは店員として当たり前の行動ではあるが、やはり人間性が伴っていなければとっさに行動へは移せない。
だから、普段は彼のことを小馬鹿にしたりもするが、僕は彼を嫌ってなどいない。



しかし、マナは別だ。うなだれたノラ、それを支える僕とジュリア。それをしばし見つめてから、彼女はするりと歩を進め、空いている席へ向かっていく。
彼女の思想を一言で表現するなら、


「兄さん、ラテアートよろしくね」


自分勝手。彼女の見る世界には、常に自分が存在していなくてはならないのだ。



この状況を目の当たりにして、取ってつけたような励ましをしろとは言わない。
しかしまるっきり無視してしまうのもおかしい。
はっきりと言おう。僕はそんな彼女の感性を、全く理解できない。



バックヤードには広めのソファが置いてある。
元は客席として使っていたらしいが、革が擦れてきてしまったためにこちらへ左遷されたのだ。
それでも座り心地はそう変わらない。綿が飛び出しているわけでも、ぎしぎし軋むわけでもない。



一応、劣化してしまっている背もたれの部分をブランケットで覆い、彼女をそこに寝かせた。更に別のブランケットをかけ、ひとまずは息を吐いた。


「ウルっち、看病は頼んだよ」


ジュリアの意外な一言に、僕は慌てて振り返る。てっきり、自分が看病を、とサボる口実にするものかと思っていた。


「店はどうするの?」
「たまには働くっての。心配するなよなぁ」


とはいえ、やっぱり心配だ。いや、僕が休みの日でも問題なく営業できているのだから、彼だってやる時はやる男だろうけれど、いざ目の前でそれを言われてもそわそわしてしまう。
かといって、彼女を放ったらかしにも出来ない。


「店長に相談しよう」


平凡だが、一番確実な手段でもある。状況説明は、ジュリアより僕のほうが手っ取り早いだろう。フロアへと戻り、店長の元へ駆け寄る。


「様子はどうかな」


至って冷静に、彼は声をかけてくれた。


「しばらくは側にいたほうが良いでしょうね。ジュリアは、僕が付いていた方がいいと言っていますが……」


「うん、心配なのかもしれないけれど、そこは信頼してあげてほしい。彼も根は真っ直ぐな子だからね」


最もな話だ。己の傲慢さが恥ずかしくなる。曲がりなりにも、共に働いてきた間柄だ。
いい加減、自分一人でやりきろうなどという独りよがりな行動は慎むべきなのだろう。


「ねえ」


唐突に、カウンターに声が飛び込んでくる。マナだ。カウンターに腕を乗っけて、身体を浮かせてぴょこぴょこしている。


「さっきの人、大丈夫だったの」


「お前は気にしなくていい」


「そうは言うけどさ……まあ良いや。私、様子見ておこうか?」


ちらりと、マナの視線が僕の後方へと移る。バックヤードへの扉が開きっぱなしだ。
店長が音もなくそちらへ向かい、そっと扉を閉めた。


「仮にもお客さんだ。出来ないよ」


「分かってないなあ。男性陣を卑下するわけじゃないけどさ、女性同士でしか確認できない話とかもあるんだよ?」


それを言われてしまうと、何も返せない。何か起きた時に、僕は彼女の素肌を暴こうとは決して思えない。


「それじゃあ、僕らの聞き辛い部分はお前に任せる。問題なさそうなら、僕が交代する」


彼女のやりたいように事が進行するのは好ましくないが、しかし的を射ているのも事実だ。
彼女には女性にしか分からない部分を確認してもらい、後は僕が引き受ける。これがギリギリの落としどころだ。



バックヤードにマナを連れ、部屋にはノラと彼女とだけになる。扉を閉める直前、マナは、


「勝手に開けないでよ」


そう言って、笑った。それが二つの意味を含んだ言葉だと、僕は気づけなかった。

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