【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
四百三十五時限目 ほろ苦い味
適当なテーブルに座り、向かい合って、月見とろろそばを啜る。天野さんと同じメニューにしたのは、意図したわけではない。雨も降っているし、温かい麺類がいいと、道中、ぼんやり考えていた。
僕はうどんよりも蕎麦派だ。ちゃんとした蕎麦屋では、一年を通して冷たい蕎麦を注文するくらいすきだ、と言える。めんつゆにネギとわさびは入れない。それらの薬味は、蕎麦を啜ってから、ちょいと箸で摘み、そのまま口に運ぶ。
こうすることで、薬味とわさびの味をより堪能できるのだ。
蕎麦を食べ終えてまだ薬味が残っていれば、そこでようやく全てを投入して、蕎麦湯と共にいただく。通振っているわけではない。このほうが、蕎麦の風味を堪能できるというだけ。
温かい蕎麦は、基本的に自宅のみ。極たまに、駅のホームにある立ち食いそば屋で食べたりもするけれど、あれはどちらかというと、サービスエリアで食べるラーメンのような感覚に近い。つまり、美味しさを求めて入店するわけではないのだ。気分とか、雰囲気とか、そういった情緒を楽しむもの、と僕は思っている。
天野さんは七味唐辛子を使わないようだ。最初に玉子を割って、とろろと一緒に蕎麦を口に運ぶ。ずるる、と音を立てないように食べるのは、マナーを気にしているためか。それとも、僕が目の前にいるせいで、気楽に食べれられないのかもしれない。ならば、と僕は、勢いよく蕎麦を啜ってみせた。ずるる、ずる、ずるるる。
「優志君は豪快なのね」
「どこぞの馬の骨が考えた〝食事マナー〟よりも、僕は江戸時代から続く伝統的な食べ方を尊重しているだけさ」
もっとも、江戸時代に、蕎麦は啜って食べるって作法があったのかは定かではないにしろ、『喉で食べる』という粋なフレーズには好感が持てる。まあこれだって、どこぞの馬の骨が考えたキャッチコピーなのだけれど。というか、おっさん臭いよね。昭和臭が漂う文言だ。
「でも、世界ではあり得ない食べ方だって言われてるわよね。ヌーハラだって」
ヌーハラとは、ヌードルハラスメント、の略称である。海外では、麺を啜って食べる文化がない。なにも知らずに日本に訪れた海外の旅客がラーメン屋に入って衝撃を受けた、なんて話は有名である。
では、お隣りの国である中華人民共和国や大韓民国は、どのようにして麺類を食べているのだろうか。啜る食べ方がポピュラーな日本と違って、アジアに属する国々では、音を立てずに食しているのか。──どうにも想像できない。
スープの一滴まで残すことなく食べた。
天野さんの分も一緒にして食器を片付けて戻ると、テーブルの上にクッキーが置いてあった。袋の口が黄色の毛糸モールで閉じられていて、手作り感が溢れていた。
「これは?」
「クッキーのお返しにクッキーというのもあれなんだけど、優志君に貰ったクッキーを食べたら、自分でも焼きたくなっちゃって。よかったら食後のデザートにして?」
と、鞄から自分用のクッキーを取り出した。
「まあ、ちょっと失敗しちゃったんだけどね」
天野さんは、恥ずかしそうに笑った。
「そうなの? とても美味しそうだけど」
言われなければわからない程度の失敗なんて、失敗とは呼ばないだろう。封を開けて、星型のクッキーを齧った。さくっと小気味よい音が脳に響いた。
「どう?」
不安そうな表情で、味の様子を伺う。
「どこを失敗したのかわからないくらいだ。美味しいよ」
「ちょっと焼き過ぎちゃったの。優志君に渡す分は、そのなかでもまともなのを選んだんだけど、美味しいって言ってもらえてよかったわ」
ほと胸を撫で下ろして、自分のクッキーを一齧りする。
「食べられないことはない、かな」
「そう言われると、どんなものか食べてみたくなるなあ」
「あげないわよ?」
「じゃあ、ひとつ交換ってことでどうでしょう?」
「そっちも私が焼いたクッキーなんだけど?」
たしかに、と僕は口に出さず頷いた。
「せっかく美味しいクッキーがあるのに、飲み物が水というのも味気ないよね。珈琲と紅茶、どっちがいい?」
「紅茶がいいかな」
財布を取り出し、代金を支払おうとする。
僕は頭を振り、「そのクッキーと交換で」と笑った。
* * *
放課後になっても雨は止まず、勢いこそ多少は衰えたものの、窓辺から見下ろした地面のところどころに水溜りができていた。この雨は、いつになったら止むのだろうか。駅に到着する時間には、止んでほしいと願う。雨に打たれながら自転車を走らせるのは、なかなかにスリリングなのだ。
教室のだれかが、「雨とか超うぜえ」と愚痴った。この言い方と声は、元沼君だな。杉田君のリアクション目的で、わざと声を大にしたのだろう。でも、杉田君は「おう」と答えるだけ。当てが外れた元沼君の舌打ちが、いまにも訊こえてきそうだった。
「当分の間は止まなそうだな。ガチで」
僕の横に立った佐竹が、味もそっけもなく呟いた。
「俺、傘持ってくるの忘れたんだよなあ、普通に」
「その言い分だと、傘を持ってこないのが佐竹の常識みたいに訊こえるね」
僕と佐竹はお互いに、窓の外を見つめたまま、会話を続けた。
「ちげえし。言葉の綾ってやつだ」
「ふうん。ま、どうでもいいよ」
「ダンデライオンで雨宿りすっか?」
ダンデライオン、と僕は思った。
犬飼弟との一件があって、僕はダンデライオンと距離を取っている。文芸部員である犬飼弟がいつ部活で利用するかもわからない状態では、気軽にとはいかない。
犬飼弟の飄々とした態度が苦手ってわけじゃない。あれくらい、僕だったら容易く転がせる自信がある。
犬飼弟に会いたくないのは、それとは別の理由がある。勝負だったとはいえ、間接的に、犬飼弟を振ったようなものだ。合わせる顔がないのではなく、顔を合わせたくないといったほうが、心象的にも当て嵌る。
「今日は遠慮しておくよ」
本音を言えば、美味しい珈琲でほっこりしたい。カプチーノの気分だった。
「じゃ、しゃあない。──太陽のこと、気にしてんのか」
「……別に」
「どっちにしても、優志は悪くねえよ。お前を景品みたいにした、俺たちが悪いんだ」
佐竹は単に巻き込まれただけじゃないの? と喉元まで出かかったけれど、それを口にしなかった。諸悪の根源は犬飼弟だ。だからこそ、身から出た錆然として振る舞う必要がある。
仮に、犬飼先輩の弟が八戸先輩に泣きついたとしても、僕は態度を変えちゃいけないのだ。それが、僕にできるけじめってやつだろう。
「終わったもんをくどくどと考えたって、しょうがねえだろ?」
「そう、だね」
「んじゃ、俺は帰るわ。また明日な」
佐竹は僕の頭を片手でわしゃわしゃってして、教室を出ていく。ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で整えながら、佐竹の寂しそうな背中を見送った。
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