【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
三百九十六時限目 異性装パーティー 3/6
今日を無事に過ごせればいつも通りの日常に回帰できる、と意気込みながら出入口のドアを開いた。パンケーキの甘い匂いに満たされているホールでは、メイドや執事たちが忙しなく動いている。無論、エリスも例外ではない。あちこちから「エリスたーん」と声が飛び交うこの光景こそ、人気ナンバーワン足り得る証拠だ。時折見せる溜息を吐きたそうな困った表情も、エリスファンにはぐっときて堪らないのだろう。
出入口付近にあるテーブルに〈ご予約席〉という文字が書かれた木製のスタンドが立てられているその席の前で、レインさんが待っていた。
私を見るなり破顔して、
「よく似合ってますね」
黒の燕尾服をぱりっと着こなしているレインさんに言われると、なんだか嫌味に訊こえてならないが、「ありがとうございます」と愛想笑いをしてみせた。
「緊張していますか?」
私の肩を撫でるように触れ、ウィッグの髪を私の耳にかけた。吃驚して手を弾きそうになったその手をぐっと堪える。レインさんなりの気遣いなんだ、と思うことにした。
レインさんの手首からメントール系の清涼感ある匂いがした。隠れたお洒落に気を遣うのも大切だけど、間近で嗅ぐとちょっときつい。花粉が飛び交う春先であれば、有難いと思うかもしれないが。とはいえ、目は覚める。
「まさか自分がこういう立ち位置になるとは思っていなかったので」
レインさんの提案は、私が打ち出した案をスムーズに運べる助力になった。でも、足枷にもなっている。いい迷惑だとまでは言わないけれども、面倒を背負ったことに変わりはない。『目的を達成するために道化を演じてみせろ』と言われたような気分だ。
「リラックスしていきましょう」
ほら、と背中を叩かれた。
「しゃきっとして」
いまの私はレインさんの後輩にあたるので指示されるのは致し方ないことなのだが、ボディタッチが多くないですかね。仕事ってこういうものなのかな。社会経験がゼロに等しい私では前例がないので比較できない。
はい、と答えてレインさんの後をついていく。
店を入ってすぐのところで見慣れた三人が立っていた。不安そうに周囲を窺う天野姉弟とは対照的に、楓ちゃんは「ロマンチックが止まらない」と言いたげで、目を爛々とさせていた。
「あ」
といち早く私に気がついたのは、奏翔君だった。それに数秒遅れて二人の目が私を捉える。
「お待ちしておりました。本日はどうぞごゆっくりとお寛ぎください」
レインさんに倣い、私もスカートの裾を摘んでお辞儀をした。
「あ、そっか。今日、僕たちは〝招待された〟って設定だったね」
奏翔君、設定とかメタい発言はしない!
「この日を心待ちにしておりました」
楓ちゃんはこういう形式的なやり取りに慣れているようだ。さすがは月ノ宮家のお嬢様。堂々とした態度は、踏んだ場数が違う、と然らしめるようだ。
「えっと、私たちはどこに行けばいいのかしら」
天野さんだけは私の姿も見ても不安を隠しきれずにいる。そう、それでいいんだよレンちゃん、と思った。先の二人の順応スピードが異常であり、レンちゃんだけが正常な反応だった。
「これから皆様にはお召し物を着替えていただきます。──優梨さん、ご案内を」
「あ、はい。どうぞこちらへ」
私のぎこちなさたるや否や、噛み合わない歯車を無理矢理動かしているみたいだ。電池切れかけのお喋りキモカワ人形のそれと大差ない、たどたどしい口調だった。
隣にだれもいなければ役に入り込めるのだけれど、レインさんというお手本がいると、どうも自分のペースに持っていけない。その点、収録に望む声優さんたちは、こういったプレッシャーを跳ね除けて演技をするのだから頭が上がらないね。
どうにか立て直さないと、と考えながら、結局無言で三人を二階の更衣室まで案内した。
試着室にはカトリーヌさんが待機していた。ドアを開けた瞬間、「よくぞきた」と言わんばかりに眼鏡をくいっと持ち上げた。そんな演技は必要ないのだけれど。
生暖かい視線を向けられたカトリーヌさんは、気恥しさを誤魔化すように、こほん、と咳払いする。そして何事もなかったかのように、
「私が皆様のお着替えを手伝わせて頂きます」
カトリーヌさんの登場により、今度は奏翔君が硬直した。奏翔君はカトリーヌさんに苦手意識があるようだ。然し、ここで怯んでいたら常連になんてなれないぞと思い、とんっと背中を押す。
「ちょ、ちょっと優梨さ」
「では、奏翔様から始めましょう」
少々お待ちください、と私たちは締め出されてしまった。なんかもっとこう説明とかしないの? という目でレンちゃんが私を見る。すかさず「あはは」と乾いた笑みで返した。カトリーヌさんは絶対に着せ替え人形が大好きだと思う。衣装選びに口出ししてそうだし。というか、奏翔君の衣装に至ってはローレンスさんではなくカトリーヌさんが選んだのでは? と私は睨んでいた。
「奏翔さんはどのような衣装を?」
楓ちゃんが私に訊ねる。
「それは見てからのお楽しみ、ということで」
楽しみですね、と楓ちゃんは不敵に笑う。レンちゃんの弟、奏翔君を手篭めにして天野家を侵食するつもりじゃないだろうかと憂慮しそうになるくらい暗黒な笑みだった。
「あまり変な衣装を着せて欲しくないのだけれど」
「大丈夫だと思うよ」
ローレンスさんが選んだ、という言質に基づいたごもっともな意見だが、その心配はしなくていい。今回の衣装はかなり本気だ。なんなら私が着たいとすら思う。パーティーが終わったらカトリーヌさんに服のメーカーをこっそり訊いてみよっと。
がちゃり、ドアが開き、私たちの視線がドアの向こう側に注がれる。部屋の中央で両手を前に組んだ少女は、ロイヤルブルーの腕出しロリータ調ドレスを着て、儚げな表情で俯いていた。
ドレスの首元にある大きめなリボンからスカートの下まで、一直線を描くように付けられた白いボタンがいいアクセントになっている。左右の腰辺りに付けられているリボンが可愛い。靴はドレスと同じ色のスエードパンプスが採用され、首下まであるショートボブのウィッグは、光が当たるとやや緑色に見えた。
私と楓ちゃんの驚きも然ることながら、言葉を失うほど驚愕していたのはレンちゃんだった。奏翔君が女装した姿を見るのはこれで二度目だけれど、以前とは比べ物にならないほど可愛いらしく変貌している。その隣でドヤ顔をするカトリーヌさん。アナタもアナタでちょっと茶目っ気が過ぎませんかと言いたい。言わないけど。
「似合う、かな」
心配そうに声を震わせている奏翔君。でも、念願の女装ができたことが嬉しいようで、口元は薄っすら微笑んでいた。私と違い、奏翔君は女装を本気で趣味としようとしている。あの日助けて貰った恩をこういう形で返せたのは喜んでいいだろう。でも、後々レンちゃんに苦言を呈されるのかと思っと素直に喜べない。今日という日の真相は明かさない、と心に決めた。
「さ、さすがは恋莉さんの弟ですね。似合い過ぎて吐血しそうになりました」
楓ちゃんは暴走モードに突入しそうになるのを、唇を噛みしめて我慢していた。天野家ならばだれでもいいのか!? 私が奏翔君を守らねば。既成事実を作られたら、それこそおしまいだあ。
複雑な表情で弟を見ていたらレンちゃんだったが、はあと息を吐いて、
「べ、べつに奏翔の趣味を否定していたつもりはないのだけれど、これを見せられたら文句の付けようがないわ」
「姉さん!」
俯いていた顔を前に向け、向日葵のような明るい笑顔で姉を見る。よかったね、本当によかったね、と。私はどういう立ち位置で天野姉弟を見ているのやら。
「でも、私の服は貸さないわよ?」
「恋莉様は胸が大きいので、奏翔様には合わないと思います」
空気を読まずにずばりと言い切ったのは、カトリーヌさんだった。
「ちょ、ちょっとカトリーヌさん!?」
私が止めに入ろうとすると、楓ちゃんが片手を広げてそれを阻んだ。
「いまは服のサイズの話をしているのですよ、恋莉さん」
そう、なんだけど。
私の隣で恥ずかしさに肩を震わせているレンちゃんの気持ちを考えると居た堪れない気持ちになる。せめてもっと違う言い回しができなかったものだろうか。スイカとか、マスクメロンとか。──どっちもどっちだった。
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