【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

六十一時限目 彼女たちの後悔[後]


「人肌って、どうして安心するんだろうね」

 苦し紛れに吐いた言葉は、脈略もへったくれもない、小学生の絵日記みたいな感想だった。それでも、口を止めようとは思わなかった。御為倒しでもいい。言い訳になってもいい。レンちゃんが求めている答えじゃなかったとしても、口を動かしながら考えればいいだろう。……少々っぱちになっていた。

「起きてしまったことは仕方がないって、割り切れるほど単純な出来事じゃなかったし」

 異性──いまは同性と言ったほうがいいのかも知れない──に触れられても、私の心臓は穏やかに鼓動していた。強引でも、声にしてみたのがよかったのかも。感情が整理されていくのを実感する。

「私も、レンちゃんも、死の瀬戸際を体験してしまったから、その恐怖が離れないんだよね」

 後悔も残っている。

「だけど、それでも、私は楽しかったよ」

 嘘かも知れない。

 でも、本当だとも言える。

「来年も……」

 ──ううん。

 次の言葉を言いかけて、やめた。来年があるとは限らないからだ。この関係が破綻している可能性だって充分に有り得る。そして、その引き金を引くのはレンちゃんでもなければ佐竹君でもなく、況してや楓ちゃんでもない……私なのだろう。

 順風満帆だと思えた生活が容易く瓦解してしまうのを、私は知っている。崩壊して、再生して、再び形になったものを『元通り』と呼べるのかは、そのときになってみないとわからない。だけど、あぶれてしまうものだってあるはず。四捨五入すれば消えてしまうもの。それを見なかったことにしてしまうのは簡単。でも、失ってから気づくものだってある。だから、失ってしまう前に、私のことを〈友だち〉と呼んでくれた人たちには誠意を尽くそう。

「……誘ってくれて、ありがと」

 これが、最初の一歩。

 間もなくして、上り電車が到着した。




 * * *




 ユウちゃんに見送られて、私は電車に乗り込んだ。

 冷房が過剰に効く電車の中は肌寒く、右頬に残っていた温もりさえもなかったかのように冷えてしまった。でも、残していても苦しくなるだけだと思えば諦めもついた。

 加速し続ける夜の風景を眺めながら、はあと溜息は零してフラットシートの隅に座り、中吊り広告に目を向けた。芸能人の不倫に政治家の汚職。そして、グラビアアイドルの袋とじ。〈夏の特別号〉と謳っているけれど、書いてあることは普段と変わらないのはどうしてかしら。強いて挙げるならば『この夏、最高に熱いデートスポット一〇選!』が気になるけれど、読んだところで誘う相手がいない……いや、誘えなくなったというほうがいまの心象を得た表現だ。

「デート、か……」

 だれもいないことを確認してから呟いた。

 ユウちゃんにも、優志君にも気を遣わせてしまったし、最後の最後でズルをした。傷心しきったふりをして相手の気を引こうとするのは低俗な行為であり、弁解の余地もないくらい利己的な態度だった。

 私はこんなにも浅ましい女だっただろうか……どうだろう。もしかするとこれが本性かも知れないし、違うかもわからない。自分のことは自分がよく知っているなんて、それこそ思い上がりなのだろう。日本人は自己評価が低過ぎる、と言われていたりするけれども、岡目八目に下される他人の評価こそ正当な判断だ、とも言える。もっとも、その中間くらいが丁度いい評価ではあるけど。

 自分のことをはっきりと『女である』と意識したのは、初潮を迎えた頃ではなくて、初めて好きな相手ができた瞬間だった。つまり、私が女になったのは、ユウちゃんに恋をしてからになる。それまでは、恋だの愛だの言っている暇もなかったし──テニス部と受験勉強で忙しかった──性格上、異性から好まれることはなかった。下品な目で見られることは多々あったけど、それは恋慕の情ではなくて、色欲とか劣情だ。

 男子から向けられるのはそればかりで、気持ち悪い視線を浴びせられることに嫌気がさしていた……そう考えると、ユウちゃんに恋心を抱いたのは必然だったのかも。まあ、ユウちゃんは優志君であり、正しくは男性ではある。でも、中性的な見た目だし、なにより、下心みたいなものを感じないのがいい。

 さっき、私が寄り添ったとき、普通の男子だったらキスを迫ってきてもおかしくないムードだった。仮に、隣にいたのが佐竹で、キスを迫ってきたとしたら、間違いなく顔面にグーを浴びせていた。ごめん、とは思う。

 ユウちゃんに女性の嫌な部分を見せられたのは、結果的にはよかったのかも知れない。友だちという関係ではあり得ない行動をした。それによって、私のことを意識してくれたらって……あれ? これでは、私に下品な目を向けてきた男子たちと同じじゃない!

「なにやってんだろ、私」

 本当に、なにがしたかったんだろう。

 楽しみだった海デートを台無しにして、そればかりではなく、傷ついている自分にめいていして、悲劇のヒロインみたいに落ち込んでみせるなんてどうかしてる。自己嫌悪に嫌悪感を重ねたところで、それは自己嫌悪以外の何物でもないのに。

 最寄り駅に到着した。

 電車が走り去ったあとに見える駅前の風景は、一瞬だけだけど、この世界と瓜二つの世界を垣間見てしまったような錯覚に陥る。勿論、そんなことがあるはずないわけで、単なる勘違いだ。都市伝説じゃあるまいし、そもそも都市伝説ってなに? 怪談となにが違うのかわからないんですけど。どうでもいい悪態を、心の中だけで吐いた。

 改札に向かう途中にあったアイスの自販機に目を奪われて、足を止めた。ここにも〈夏限定〉がある。塩を含んだアイスらしいけれど、私の食指は動かされなかった。アイスを食べる気分でもないし、先程から匂ってくるファーストフード店のハンバーガー臭も鬱陶しい。普段は気にも留めないのに、どうしてだろう。

 改札を出た。そこでようやく、今日という日が終わったんだと実感した。終わってしまった、と殊更に思った。醜態を晒して、卑怯者になって、嫌な女のまま今日が終わる。忽然と寂しさに襲われて、悲しくなってしまった。触れ合っていたときの温もりが恋しい。熱は忘れてしまったけれども、右手に、ユウちゃんの左手を掴んだ感触は残っている。それが余計に寂しさを増長させて……ああもうどうしよう、泣きそうだ。

「離れたくなかったなあ……」

 俯きながら歩いていると、私の足元にだけ雨が降りだした。雨が酷くなるにつれて、呼吸もし辛くなり、肩が揺れる。アルコールを飲んだ記憶はないのに、ひっくひっくと嗚咽が漏れた。胸が苦しい。後悔してもしきれないくらい後悔している。時間が巻き戻せるのなら、なんて考えても意味がないのに、何度も考えてしまっている自分が滑稽で無様だった。

 ユウちゃんはもう、帰宅しただろうか……。バッグから携帯端末を取り出して待ち受け画面を呼び起こしてみたけれど、どの面下げて、なにを語ればいいかもわからず画面を閉じた。声を訊いてしまったら、もっと惨めな気分になりそう。

 携帯端末を握り締めたままなのは、ユウちゃんから連絡が来るかもという途轍もなく都合のいい望みを、便利な機械に託していたからかも知れなかった。


 

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