【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
五十八時限目 初デートは愁いを帯びて ④[中]
「僕は、自分がわからないんだ」
ここ最近は、特にわからない。
「少しでもみんなに近づかないとって思って優梨になることを選んだけど、本当にそれでいいのかって何度も自問自答してるんだ」
答えは僕の内側にあるはずなのに、辿り着く気配がなかった。
なんとかしようと足掻いているこの状況と、自分自身を模索する様は酷似している気がする。
底なし沼で喩えるか、海に喩えるか、の違いだけだ。
どちらにしても沈んでいくのだから、似たようなものだろう。
あと少しなのに……。
僕の体力も限界に達しようとしている。海水を送る手と腕が、殊更に重くなった。全身の筋肉が、悲鳴を上げている。海水を飲み過ぎたせいもあって気分も悪い。
天野さんを支えている右手だけは絶対に離してはならない、と力を入れているが、指先に力が入らなくなってきていた。
「ゆう、し……くん」
「天野さん。大丈夫。大丈夫だからね」
天野さんは譫言のように、僕の名前を頻りに呼ぶ。その都度「大丈夫だ」と返しているが、それは、自分自身に向けた言葉かも知れない。
大丈夫、は呪いだ。
僕が僕に掛ける呪い、なんだ。
体力が限界だなんて、そんな悠長なことを言っている場合じゃないだろ。失敗も、言い訳も、後で腐るほどできるじゃないか。反省は、助かってからでも遅くはない。
いまは、体が鉛のように重くなろうが、棒のようになろうが、知ったことじゃない。前へ進め。生きる努力を怠るな。死んでも死ぬな。
友だち一人救えないなら、英雄を語ってんじゃねえ!
ふと、首に回された天野さんの食指がピクリと動いた。
「ゆうし、くん。……大丈夫、だよ」
「え?」
「私、待ってるから……。ずっと」
「……うん。待ってて」
励ます側なのに、励まされていたら世話ないな。自分の弱さを痛感した。
僕の呪いが体を巡る。
前に進む原動力とか、そんな口先だけの言葉じゃなくて、仮初めの言葉じゃなくて、その言葉が心の空白を埋めていく。
最後の力を振り絞るように、腕を、足を、五感も細胞もフル動員して岸を目指して泳ぐと、やっと浅瀬に足を着けることができた。
「天野さん、戻ってこれたよ! 僕たちは助かったんだ!」
返事は、返って来なかった。
* * *
駆けつけたライフセーバーたちの救助と介抱によって、僕らは助かった。
天野さんはいま、救護室のベッドの上で静かに眠っている。命に別状は無いが、攣った脹脛の痛みは二、三日続くだろう、とのことだ。施された処置は湿布と包帯だけ。症状が酷くなったりしたら直ぐに病院に行きなさい、と念を押された。
大事に至らなくてよかったと安堵したのも束の間で、僕たちを保護してくれたライフセーバーの方に「キミ。ちょっといいかな」と声をかけられて、海難救助隊本部に呼び出された。
救護室の隣にある本部は、壁を隔てた隣にある。外から見れば平屋のような全体図だ。規模はそこまで大きくはない。本部入口のドアを三回ノックすると、「どうぞ」と中から声が訊こえた。僕をこの場へ呼んだ人の声だ。
「失礼します」
言って、ドアを開ける。思ったよりも軽いドアで、薄い。
海難救助隊本部なんて威風のある呼び名だけれど、部屋の中はこじんまりとした作り。ぱっと見で、通信機器と救難用具が揃った保健室のような印象を受けた。
「座って待っていてくれる?」
若い隊員は笑顔で僕に言うと、そのまま退室してしまった。
一人になった僕は、若い隊員の指示に従って、室内の中央に用意されたパイプ椅子に姿勢を正して座る。居心地が悪い。こういう場に呼び出されるということは、説教されると察しがつく。生徒指導室に呼び出された感覚に近い。まあ、僕は至って真面目な生徒なので、教師から呼び出されるような間抜けなことはしないけど。
数分が経過して、黄色に赤のラインが入ったジャージを着た男性が入室した。引き締まった足の筋肉は、過酷なトレー二ングを積んできた証拠だろう。細面の切れ目、シュッと締まった顎、オールバックにした髪型。意外にも、睫毛が長い。この人が海難救助隊の隊長であることは一目でわかった。
「気分はどうかな。気持ちが悪かったり、頭が痛かったりは無いと訊いたが」
凛とした声で、すれ違いざまに言う。
「大丈夫です」
そうか、と言いながら、僕の目の前にあるデスクの椅子を引いて座った。
デスクの上には応答用のマイクや、ファイル、ノートパソコンが置いてある。必要以外の物を置かない主義なのだろう。見た目にそぐわしい几帳面な性格のようだ。
「隊長の堂島です」
唐突な自己紹介に口を開こうとしたら、
「鶴賀君、だったか?」
僕が口を開くよりも先に、堂島さんが言う。
救護テントで軽く事情を説明した際に、氏名と年齢、通っている学校名を訊かれた。堂島さんは、それらを記した書類に予め目を通していたようだ。
「はい」
と、首肯した。
「その格好は……?」
「あ、ええと……」
僕は現在、とても滑稽な姿をしている。
天野さんを助けることに必死で、ウィッグが外れて流されてしまったのだ。予備を取りに戻る暇無くこの場所に呼ばれたもので、堂島さんには、さぞ奇妙な格好をした少年だ、と思われたに違いない。
「いや、個人の趣味をとやかくは言うまい」
やはり、いろいろな意味で勘違いされている。……勘違い、なのだろうか? 自分でもよくわからない。
堂島さんはデスクに両肘をついて、やや前屈みに上体を乗り出した。
「キミは、離岸流の対策を知っていたようだね。調べにはそう書いてあったが」
一言一句、丁寧に発音するのが堂島さんの喋り方らしい。訊き取り易い分、訊かれたほうは誤魔化しが効かないだろう。まるで、警察に尋問されている気分だ。
「ネットで得ただけの知識です」
答えると、堂島さんは「なるほど」と呟いた。
「得た知識は素晴らしいものだが、褒められた行いではなかったことは理解しているな? 勿論、我々にも落ち度はある。キミだけを責めることはできないが、私は、隊長として、伝えなければならないんだ。今後、同じようなことが起きないように」
そこで一度話を区切り、堂島さんは睨めるように僕を見た。
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