【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
五十五時限目 初デートは愁いを帯びて ②[後]
階段の先は砂浜が広がっていた。
一面に海水浴客がいる。砂浜にパラソルをさして休憩している人や、簡易テントを張る者もいた。奥の方には野外ステージが設立してあるけれども、いまのところは鳴りを潜めている。なんらかのイベントがあれば放送が入るだろう。
一般参加の水着コンテスト、なんてのは実際にあるのだろうか?
海水浴事情に詳しくないない私が知る知識は、アニメと漫画とラノベから得たものが大半を占めているので信憑性は無いに等しい。
「想像を絶する人の多さだわ」
隣を歩くレンんちゃんが、有り体なことを言う。
「夏だし、海は鉄板かあ。人の海、とはよく言ったものね」
「どこで着替える?」
問題はそこだ。
「先ずは着替えができそうな海の家を探しましょう」
知名度しかないこの海浜公園には、海の家が軒並みある。
パラソルの貸し出しは勿論、飲食店も充実しているが、それも中央から離れると客も減っていく。出入口から離れるのは面倒だから、という理由だろう。それは、なるべく人目を憚りたい私にとって好都合だった。
鉄板の上を歩いているような砂浜を大分歩き、一番隅っこにある海の家の前に立った。かなり年季の入った木造二階建ての海の家は、営業しているかすらわからないほど寂れている。オープンカフェのようだけれど、オシャレな雰囲気は微塵もない。どちらかと言えば相席タイプの居酒屋か、市民プールの食事処って感じだ。
「どうしよっか」
ここまできて引き返すのも難だ、という意味が含まれていそうな問いだった。私たちは、何軒もある海の家をスルーしてここまできた。再び日除けのない砂浜を歩いて反対側の海の家を探すよりも、この店に決めたい。それに、反対側にある海の家は、奥に野外ステージがある。
──ここしかないかもね。
──そうよね。
私とレンちゃんはお互いの意思を確認し合ってから、客がいない店内へと進んだ。
「すみませーん」
レンちゃんが遠慮がちに声を出した。
薄暗い店内には、人影がない。人がいなければ影もないのは当然だけれども、この店の場合はそれに輪をかけていない。店内の片隅に置いてある浮き輪のレンタル品を見ながら、そう思った。外の喧騒が店内の物静かさに拍車を掛けている。
「すみませーん!」
無反応に苛ついたのか、殊更に大きな声に棘を感じる。……すると、どこからか「あいよう」って野太い声で返事が訊こえた。ミシミシ、木が軋む音。ドタドタと階段を下りてきたのは、熊のような体格で、口元にもっさりと髭を生やした男性だった。
水色のアロハに白のハーフパンツ、木製のサンダルを履いた店主はボサボサの頭を掻きながら、申し訳なさそうに笑う。
「大声を出させてすまんかったなあ」
「あ、いえ。……大丈夫です」
大柄の店主を前にして、レンちゃんは一歩後退りしながら答えた。
見た目からして豪快な性格をしていそうだ。客商売には必須と言っても過言ではない『接客ルール』を無視した言葉遣いに、清潔感を度外視した風貌。道理で客が寄り付かないわけだ、と私は納得した。
「あの」
硬直しているレンちゃんに代わって口を開いた。
「おう。なんだ?」
「シャワールームをお借りしたいんですけど、大丈夫でしょうか?」
「ウチの店は古いから温水こそ出ないが、それでもいいなら遠慮なく使ってくれや。あのドアの向こうにある」
シャワールームのドアに右手の親指を向けながら答えた。礼儀作法は兎も角として、悪い人ではないらしい。見た目と言葉遣いで損をしている、という印象に変わった。
「使い終わったら声をかけてくれ。……ああ、別にシャワーで金をせびろうとかみみっちいことは言わんが、一応な?」
「わかりました、ありがとうございます」
私たちがシャワールームに向かうと、店主は見送るでもなくキッチンに入っていった。
シャワールームは店の奥、トイレの隣にあった。ドアには〈シャワー室〉の表札と、手書きで『トイレは左のドア』の注意書きがしてある。過去に間違えて入った客がいたのだろうその用途は……、あまり考えたくない。
シャワー室前にあるテーブルに荷物を置くと、レンちゃんは椅子を引いて座った。心做しか、表情に疲れが見える。そう思うや否や、レンちゃんはテーブルにぐでんと突っ伏した。
「なんだかやけに疲れたわ……。ユウちゃん、先に着替えていいわよ。私はその間、ここで休んでるから」
「わかった」
そう言って、ドアを開いた。
ドア付近にあるスイッチをオンにすると、薄暗い照明が点いた。シャワー室の中は想像以上の狭さで、人が一人着替えるスペースしかない。脱衣所とシャワー室は、一枚のビニールカーテンで遮られているのみ。シャワー室の様子こそ見えないだけマシだろう。もっとも、ドアに鍵をしてしまえば覗かれる心配はないのだが。
カーテンを開くと、壁の上部にシャワーヘッドが固定されてある。プッシュ式の時間止め水栓は、銭湯や温泉にあるやつだ。店主の言った通り、温水は無い。まあ、海の家なんてどこもこんな感じなんだろうと思いながらカーテンを閉じた。
脱衣所にある棚の上に、竹で編んだ大きな籠が用意してあった。この中に着替えを入れてくれってことらしい。その籠にプールバッグの中身を移して、くすんだ鏡の前に立った。水着は服の下に着ているので、パレオを巻くだけ。あとは、化粧が落ちていないか、水着が乱れていないかとチェックしていく。一番厄介なのはウィッグだけど、かなり頑丈に固定されているから問題はなさそうだ。……多分。
優梨の姿で肌を露出するのは、女装バレのリスクが平時よりも格段に跳ね上がる。私の見た目は男子らしくない体型だから、とは安心できない。丸みを帯びた肩のラインも、ツルツルな肌も、華奢な体もそれなりに見えるとはいえ、油断してはいけない。
「この水着で、本当によかったのかな」
琴美さんの口車に乗せられたのは否定できない。
──これくらいしないと、優梨ちゃんは逆に目立つから!
と言っていたけど、どう考えたって派手な配色だ。可愛いけど、鏡に映る私はなかなかのロリっ娘だ。肩甲骨くらいまで伸びるウィッグを団子状に纏め上げて、脱いだ洋服を畳んでからプールバッグにしまった。
ここから一歩でも外に出れば、誤魔化しは通じない。
大丈夫、きっと上手くやれる──。
呪文みたいに何度も呟いたこの言葉は、一種の呪いのようだ。
呪文という言葉は呪う文と書くのだから、当然といえば当然だが、これを〈呪い〉とすれば言葉の印象もがらりと変化する。
だから私は、私を呪う。
今日を優梨として完璧に過ごせるように、レンちゃんと楽しい一日を過ごせるように、そう祈るよな気持ちでドアノブに手を伸ばした。
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