【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

三百三十七時限目 苦味を感じること


 猛る気持ちを抑えながら東梅ノ原駅行きのバスに乗り込み、後方二列目のドア側の席に座った。混み合うバスで相席になるのは仕方ない。だが、さも当然かのように座られるのは釈然としなかった。心の中で舌打ちをする、のを言い表す〈しんちゅうぜつ〉という四文字熟語が僕の中で誕生した瞬間にバスが発車した。

 最近、自分の時間がだれかに操られているような感覚に陥る。八戸先輩の依頼を早急に解決して、日常へ戻りたい、という焦りもあった。でも、時間は一定に刻み続ける。窓の外を流れる風景だって時速四〇キロ程度だ。

 自分の意思を介さずに僕の時間が過ぎていくのは、どうにもこうにも我慢ならない。プライベートな時間が欲しいという意味ではなくて、もっとこう、あれだ。……言葉が出てこない気持ち悪さは、車酔いに似た感覚だ。

 赤信号でバスが止まった。窓の外にはこけの生えた石垣が見える。石垣の上にはあずまやがあり、サイケデリックな装飾がされた象の像──駄洒落ではない──が、つぶらな瞳を僕に向けていた。

 象を信仰する神社なのだろうか。

 この像を見る度に疑問を浮かべるけれど、そんな疑問も信号が青に変わってバスが発進すると忘れてしまう。そして、再び東梅ノ原駅行きのバスに乗り、今日と同じ場所で停車する都度、いまと似たような疑問を浮かべては忘れる、を繰り返すのだ。

 たしかめることはできるが、駅からここまでわざわざ足を運ぶ手間は億劫で、タクシーやら市営バスを利用するにもお金が勿体無いし、たしかめたところで、『象の像が大きいぞう』くらいの感想しか出てこないだろう。

 流れる景色の中に、そういった『気になった場所』は多く点在する。地元で人気のカフェ、寂れた外観の本屋、名前もわからない川に架かる橋、どれも知っていて知らない場所だ。そういう場所は知らないまま、『覚えていても無駄な記憶』として排除されていく。

 イヤホンを両耳に突っ込み、心を落ち着かせようとビリー・ジョエルのピアノマンを流した。軽やかに弾むピアノ、爽やかな旋律を奏でるハーモニカ。若かりし頃のビリー・ジョエルは少年のような声でラララと歌う。僕にジントニックはまだ早い。

 暫くして、バスが駅前ロータリーに到着した。

 停車位置の前にはコンビニがある。ついふらっと立ち寄りたくなるけれども、いまは一刻も早くダンデライオンに到着したい気持ちが勝った。ロータリーの中央にある桜の木を迂回して、反対側へ競歩で移動する。走りたいとも思ったが、梅高生徒の目が気になって、気持ちだけが前のめりになっていた。

 駅前の大通りから外れると、そこには昭和的な裏道が広がっている。野良猫が横切り、百貨店で買い物を終えた主婦が歩く裏道はどこか懐かしい風景だ。個人経営の居酒屋を過ぎれば、左奥に百貨店の裏口が見える。対面にあるコインパーキングには何度かお世話になった。車も持っていない身で『お世話になった』というのもおかしな話だな、と失笑してしまった。

 コインパーキング手前にある雑居ビルと雑居ビルに挟まれて、ダンデライオンはひっそりと営業していた。この時間になると、ダンデライオンの窓にはカーテンが引かれる。僕が店にいるときは風景を見たいからそのままにしているけれど、空きのテーブル席のカーテンは閉めるのが決まりらしい。

 この裏道は太陽が沈むと、茜色の光が道を真っ直ぐに照らす。『一昔前は、茜色通りなんて呼ばれ方もしていたらしいよ』って、いつだったか一人で足を運んだときに照史さんが話してくれた。




 ダンデライオンのドアを開けると小気味よいドアベルが鳴り、珈琲の香りが出迎えてくれた。入口付近に置かれている振り子時計は、今日ものんびりと振り子を揺らす。奥へ進むと年代物のレジスターがあり、カウンターの中では照史さんが笑顔で「いらっしゃい」と微笑みかけてくれる。

 いつもの風景に安堵したのも束の間、僕らの特等席から「鶴賀君、こっちだよ」と八戸先輩の声が訊こえて、夢見心地だった僕は現実に引き戻された。

 壁際の窓席には八戸先輩が座り、向かいに関根さん、その隣には天野さんが座っていた。状況からして、八戸先輩は僕が訪れるまでの間に二人と打ち解けていたようだ。八戸先輩の手招きに誘われるまま隣に座ると、関根さんは「やっと来たか」と演技っぽく呟いた。だれの真似だよ。

 天野さんをチラッと窺うと、なんとも言い難い表情を浮かべながら「こんにちは」と挨拶した。なんだか他人行儀に訊こえて返すのを躊躇ったけど、気のせいだと思うことにして同じ挨拶で返事した。

 なにを話していたのか、なんて訊くのも野暮だ。この場に八戸先輩と関根さんがいるのだから、生徒会について話をしていたに違いない。当然、天野さんも同じ席にいるのだから、これまでの経緯は把握したはずだ。

 天野さんは、二人の話を訊いてどう思っただろう。それをたしかめるのが怖くて、天野さんから目を逸らした。

「どうして目を逸らすの?」

「あ、いや……べつに」

 そう、とだけ呟いて、天野さんはテーブルに置いてあるコーヒーカップを手に取った。湯気が出ていない。もうすっかり冷めてしまっている。それでも天野さんは唇を窄めて、冷めた珈琲に息を吹きかけた。

「あ」

 と、声が訊こえた。

「僕もたまにやるよ」

「日常的にホットを飲む人がやりがちだね」

 八戸先輩はそう言ったけど、関根さんだけはわからない感覚だったらしい。眉を顰めながら思案顔で、「そうなの?」と僕に問いかける。

「お風呂に入ってるときにさ、顔を洗おうとして洗顔フォームを手で泡立てて、間違えて髪を洗おうとした経験はない?」

「あるある!」

「自分は歯ブラシに間違えて洗顔フォームをつけたことがあるねえ……。どうしようか迷ったよ」

 どうしたんですか? って関根さんが訊ねると八戸先輩は顎に手を当てながら、「歯ブラシからこそいで洗顔したよ」と言った後に、「そのままブラッシングすれば顔の汚れも更に落ちたかも知れないね」なんて、その道のプロが訊いたら『てやんでえ!』と言いそうな台詞を吐いた。

 この世に生み出された全ての物体には、必ず理由が存在している。歯ブラシが口内を清潔にするために作られたように、洗顔フォームが顔の汚れを落とすために作られたように、理由無くして物作りは成立しない。

 例外があるとするなら、それは人間だろう。どうしてこの世に生まれてきたのか、自分にはどんな価値があるのか、それを知らないのは人間だけかも知れない。

「お待たせ」

 照史さんがブレンドを持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

 苦味が欲しかった。

 苦味を感じていないと逃げ出したくなってしまいそうだったから。

 湯立つ珈琲の表面を上から覗いても、自分の顔は映らない。が、天井から吊るされたライトを反射して、虹色の膜が見えた。黒と虹色のコントラストは毒々しいけど、美味しいんだから不思議。体に悪い食べ物のほとんどは美味しいのだから、現代を生きる若者の食生活が偏るのも納得である。

「さて、ようやっと役者が揃ったことだし、話を進めようじゃないか」

 関根さんが「うむ」と頷き、天野さんは無言で首肯した。








【感謝】

 この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』にお目通し頂きまして、誠にありがとうございます。皆様がいつも読んで下さるおかげで最新話をお届けできています。まだまだ未熟な私ですが、これからもご贔屓にして頂けたら幸いです。

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【話数について】

 当作品は『小説家になろう』と同時進行で投稿しておりますが、『小説家になろう』と『ノベルバ』では、話数が異なっています。その理由は、ノベルバに『章』という概念が無く、無理矢理作品に反映させているため、その分、余計に話数が増えているのです。なので、『小説家になろう』でも、『ノベルバ』でも、進行状況は変わりません。読みやすい方、使いやすい方をお選び下さい♪

【作品の投稿について】

 当作品は『毎日投稿』では御座いません。毎日投稿を心掛けてはいますが、作業が煮詰まってしまったり、リアルが現実的に、本当に多忙な場合、投稿を見送らせて頂くことも御座います。その際は、次の投稿までお待ち下さると嬉しい限りです。予め、ご了承ください。

 これからも──

 女装男子のインビジブルな恋愛事情。

 を、よろしくお願い申し上げます。(=ω=)ノ

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