【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

二百三十七時限目 覚悟はあるかと鶴賀優太郎は問う


 珍しいこともあるものだ。

 いつもなら真っ暗な鶴賀家なのに、今日はリビングの電気が灯っていて、駐車場には父さんの車があった。黒のワゴン車。どうしてワゴン車を選んだのかと父さんに訊ねたとき、父さんは「広いほうが何かと便利だろう? 荷物も沢山運べるしな」と自慢げに話していた。荷物を沢山運んだ記憶は無いんだけどな、と僕はこれまでの記憶を辿る。ああ、そう言えば一度だけ、軽井沢のキャンプ場に連れていってもらった。小学校低学年の頃だ。ジリジリと鳴く蝉の声、さらさらと囁くような木々のざわめきを思い出した。川魚を掴もうと川に入った僕が足を滑らせて全身ずぶ濡れになり、父さんは笑った。母さんには怒られた。「注意しなさいって言ったでしょ」と。蝉を捕まえて父さんに自慢したら「おお、やるじゃないか。母さんにも教えてあげよう」と、僕はその言葉を鵜呑みにして母さんの元へと向かい、きっと褒めてくれるだろうとわくわくしていたら、母さんに怒られた。「虫、苦手なのよー」と。それ以来キャンプに行かなくなったけど、これはどう考えても父さんのせいじゃないか? 川で魚を捕ろうと言い出したのも父さんだし、母さんに蝉を自慢してこいと言ったのも父さんだ。父さんは昔からイタズラが大好きで、そして、いつも笑っていた。父さんから叱られたこともない。あの頃の父さんは僕の特別な遊び相手で、今はちょっと面倒臭い父さん。優しいという印象は、今も昔も変わらない。

「ただいま」

 玄関の扉を開ける。返事は無い。テレビの音が廊下まで漏れていて、僕の声は掻き消されてしまったようだ。父さんは映画を観ているようで、ときどき爆発音が響いていた。ハリウッド映画かな? 特撮物かもしれない。アメリカヒーロー大集結のアレの可能性もある。そう言えば、キャプテン・アメリカは盾で戦うよね。盾の英雄か、成り上がるのかな? キャプテン・アメリカがこれ以上成り上がる要素は無いだろう。彼は既に英雄なんだから。

 薄暗い廊下を歩くと、フローリングの床がミシッと鳴る。築数十年だもんな、所々にガタがきていても不思議ではない。洗面台にあるガラスなんて、下部に石鹸跡が残って白くなっていたりするし、蛇口のステンレス部分もくすみがある。ごしごし擦っても取れないような、年季の入ったやつだ。研磨剤入りのスポンジで試してみようか──そう思って、去年の大掃除のときに磨いてみたところ、見事に落ちなかった。いつか必ず攻略してみせる。そう誓ってはみたが、取り敢えず未定。

 リビングの扉を開けると、父さんはビール片手にスタッフロールをぼんやり眺めていた。キッチンからは醤油が焼けるような匂いが漂ってくる。こういうのでいいんだよ、こういうので。わざわざ僕を驚かせようとしなくていいんだから、いつもこうしていて欲しい。

「ただいま、父さん。今日は早いんだね」

「おお、優志か。おかえり。お前もスタークの活躍を見るか?」

 父さんは右手を開いて僕に向けた。

「いや、僕はスタークさんよりもブルース・ウェイン派なんだ」

「高校生なのに渋いチョイスだ。悪くないぞ」

 ダークヒーローって、やっぱり格好いいもんな──父さんはそう言って、片手に持っているビールをぐぐいっと飲み干した。

「母さんにも挨拶してきなさい。きっと待ち焦がれているぞ?」

「……なにか企んでないよね」

「そんなことないぞ? ほら、早くいった」

 父さんは手元近くに置いていたリモコンを操作してトレーを開き、「よっこいしょういち」と立ち上がった。その言葉を使うような年齢じゃないのにな、どうして父さんは死語を使いたがるんだろう。その感性はよくわからないよ、まったく。

「ただいま、かあ──」

 キッチンに馬がいた。いや、正確には馬人間だ。首から下は人間で、首から上が馬。黒い鬣に茶色の肌、紛うこと無き馬人間が僕のほうを振り向いて、ひひんと鼻を鳴らす。眼はまん丸で、その表情が少しイラッとするのだけど、僕は何も見なかったことにしてキッチンを後にした。

「なん、だと……」

 ソファーの上で馬人間が胡座をかいていた。片手に空き缶を、もう片手にはリモコンを持ち、首を傾げてひひんと鳴く。その姿はまるで「お前が探しているのは、この空き缶か? それともリモコンか?」と訊ねているようだ。どっちも要らん、と僕は思う。僕が頭を振ると、馬人間はうんうん頷いて、背に隠していた人参を取り出した。三本入りのスーパーに置いてあるやつだ。それを僕に差し出して「ひひん」と鳴く。よくよく要らん、と僕は思う。だが、キッチンにいた馬人間は、その人参が欲しかったようで、僕に差し出された人参を横から奪うと、ソファーの馬人間の頬にキスをして、再びキッチンへと戻っていった。

 ──僕は、何を思えばいいんだろう。

 ──僕は、何を見せられているんだろう。

 無言で目の前にいる馬人間のマスクを引っぺがすと、父さんはイタズラっぽく笑っていた。

「驚いたか?」

「驚いたよ、あまりの下らなさにね」

 それでいいんだと、父さんはあははと笑った。

「シュール過ぎてついていけないんだけど」

「それが狙いだからなぁ」

 然し、そろそろ被り物で笑いを取るにも限界があるだろう。これまで何度も似たようなものを見せられていたら、嫌でも免疫が付いてしまうものだ。別に新境地を開拓して欲しいわけじゃない、思考を懲らせと言いたいんだ──言わないけど。

「そうだ、母さんから訊いたぞ。父さんに話したいことがあるんだって?」

「え」

 このタイミングで!?

 いや、ちゃんと話そうとは思っていたけど、こんな茶番の後で話すべき内容ではないんだけど……。だが、父さんはもう訊く気満々とした態度で、ずっしりと腰を構えている。「あとででいい?」とは、とても切り出せそうにない。普段はおちゃらけていて、僕を叱りつけるようなことをしない父さんだが、こういう真剣な場だと眼が変わる。僕は思わず生唾を呑んだ。目の前にいるのは父さんじゃなく、一家の大黒柱である父親。母さんのことが超大好きな、いつもの父さんとは別人だった。

 ──言わなきゃ、そう思うと膝が震えた。

 相手は家族だ。何も異端審問会を開いているわけじゃなし、ここまで緊張することもないはずだけど、どうにも上手く口が開かない。掌が汗ばみ、足の指は氷のように冷えている。寒いんだか、暑いんだかわからない感覚。額から流れる汗がシャツの襟に滲むのがわかった。まるで奈落の底に突き落とされたように、ぐらりと視界が歪む。

 ──でも、言わなきゃいけない。

 これまで僕がしてきたこと、それを父さんに自分の口から伝えるのが、母さんとの約束だ。

「父さん、実は──」

 振り絞った声は僕の唇を震わせて、そこから僕は何を話したのか、あまり覚えていない──。




  * * *




「そうか。よく話してくれたと思うよ」

 言ってすっきりした、というような清々しさは無い。まるで自らの罪を供述する罪人になった気分だった。然し、まだ終わっていない。罪を認めたとしても、裁判官の判決が言い渡されるまで、この異端審問は続く。

 さっきまでは夕飯を作っている物音が訊こえていたけれど、いつの間にやらその物音は訊こえなくなり、代わりに時計の秒針が刻む音、そして、エアコンが風を吐き出す音だけが部屋に響く。普段は気にもしない物音が僕を責め立てているような気がして、生きた心地がしなかった。もう、早く終わってくれ。僕は有罪で、死刑判決でも甘んじて受け入れるから──。

「いい報告、ではなかったな」

 まあ、そうだろう。『実は女装が趣味で、性別関係なく生きていきたい』と子供に言われて、喜ぶ親などいやしない。理解のある親でも、こればかりは容認できないとする方が普通だ。

「ごめんなさい」

「ふむ。それは何に対しての謝罪だ?」

「だって、〝いい報告〟じゃないから」

 父さんは鼻から大きく息を吐き出した。

「お前をそんな風に育てた覚えはない──とか、言われると思ったか?」

「え?」

「いいか優志。人間ってのは、越えてはいけない絶対的な一線ってものがある。例えば電車の黄色い線だったり、遮断機が下りた踏切だったりな? それと、考え無しに他人を傷つけるのも駄目だ。法律ってのはそれを文章化して、誰でも確認できるようにした物なんだよ。上手い具合に作られてる。問題があるとすれば抜け道があったり、文章が固過ぎて、気軽に読もうって思えないところだな。父さんはもっとフランクに読める法典をつくるべきだと思うよ。そうすれば子供だって読めるだろう? ──つまりな? その一線さえ守ってれば、優志は好きに人生を謳歌していい。女装や同性の恋愛は、万人に受け入れられるものじゃないが、その一線を越えない限り、父さんは何も言わない。そりゃ驚いたけどな? さすがに驚かないほうが無理ってもんだろう? いつか必ず、さっき、父さんが言ったように〝受け入れられない〟と、優志の存在自体を否定する声を嫌でも耳にするだろう。優志はそれでも続ける覚悟があるか?」

 ある──とは、断言できなかった。そう返事ができるほど、僕にはまだ人生経験が無い。これまで女装して、優梨と名乗り、受け入れられていたのは運がよかっただけだ。僕と似たような境遇の人たちと偶然に出会っていただけに過ぎず、批判や誹謗中傷を受けずに済んでいただけのこと。それを極運と言わずに何と呼ぶ? もし、宇治原君に優梨の正体は僕だと伝えたら、彼はきっと僕を白い目で視るだろう。

『女装がバレたら死ぬと思いなさい』

 琴美さんはあの日、玄関で僕にそう伝えてくれた。その意味は理解しているつもりだった。そう、『つもりだった』んだ。わかった振りをして、自分なら上手くやれると過信して、これまで何とかなっていたのは、周りが僕を支えてくれていたからだ。そんなことに今更気がつくなんて、僕はどうしようもなく愚かだ。

「怖くなったか?」

 父さんは僕を横に座らせると、肩に手を回して引き寄せた。久しぶりの温かさだった。ちょっと体温が高く感じるのは、アルコールのせいだろう。ビールの苦い匂いがする。

「いい報告じゃないと言ったのは、優志を脅すためだ」

「──かなり堪えたよ」

 そうだろ? と、父さんはいつも通りに笑った。

「父さんはな、優志が息子だろうが、娘になろうが一向に構わないんだ。ただ、茨の道を進む覚悟が知りたかったんだよ。まだその覚悟は備わっていないようだけど、それは残りの学校生活の中で、思う存分悩んで苦しみながら、それでも足掻いて答えを出しなさい。そして、その覚悟が決まったら、もう一度父さんに話すんだ。いいな?」

「……うん」

 ──やっぱり、父さんは優しかった。

 厳しい言葉の数々は、僕が後悔しないように気遣ってくれていたからだろう。もし、頭ごなしに否定されていたら、僕はどうなっていただろうか? それでも続ける覚悟が僕にはあっただろうか? 多分、無いだろう。父さんの答えは『保留』に近い答えだったけど、その答えを訊けただけでもよかったのかな。

 考えよう。

 もっと、自分について考えよう。

 僕が僕であり続けるために。

 あの二人を納得させられる答えを出すために──。









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