【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

二百三十五時限目 風吹けば名無しを探しに


 翌日の朝──。

 僕はバスと電車の乗り継いで、メイド喫茶〈らぶらどぉる〉へと辿り着いた。もう慣れてしまった道、見慣れてしまった世界、ここは二次元と三次元の中間にあたる聖域だと、らぶらどぉるの常連客は言っているとかいないとか。……確かに、そうかもしれないと思う。現実とは一線を越えたこの空間には、中世の雰囲気が漂っていた。匂いは、と僕は鼻を膨らませると、ダンデライオンと違った匂いがする。甘いような、ふわふわした気分になるような香り。全面禁煙のこの店には、シガレットの苦い匂いはしない。ダンデライオンはこういう縛りが無いので、常連さんがたまにセブンスターを吸っていたりする。でも、喫煙客はあまり来ない。世の中はもう禁煙こそが正義なのだ。煙草なんて百害あって一利無い。然しながら、文豪たちはゴールデンバットを好んで吸っていた。芥川龍之介、太宰治、中原中也、内田百間は朝日、ピースなどの高価な煙草を吸っていたらしいけど、『たまに吸いたくなる』と言って、ゴールデンバットを吸っていたらしい。彼ら文豪たちは、ゆらゆらと揺蕩う煙草の煙りに何を見たのだろうか。僕も二十歳になったら試しに吸ってみるのも悪くないが、その頃にはもう無くなっているだろうな。やっぱりやめておこう。

 僕は思う──どうして煙草税だけ引き上げて、酒税に関してはお咎め無しなのか? と。

 煙草の副流煙には有害な毒素が含まれているから、煙草の税率を上げているのだとすると、飲酒だって相当な害だろう。飲酒運転によって起こされた凄惨な事件のニュースは後を絶たず、上流国民は今日も暖気にワイン、ウイスキーを嗜みながら、美味しい肴に舌鼓を打つ。いい世の中になったものですね。政治家の先生方、いつもご苦労様です。僕は今日も元気にメイド喫茶へと足を運んでおります。敬礼。

「お前はまた入り口の前で何をしてるんだ」

「やあ、エリスちゃん。本日も麗しゅう御座います」

「嫌味か。殺すぞ」

 嫌味八割、本音二割の皮肉を吐いて、僕は出迎えてくれたエリスの背中を追った。通された席は二人用の席。向かいに座る予定の人はいないので、荷物置きにさせてもらった。ついでに上着を背凭れに引っかけて、厨房が伺えるほうの椅子に座る。よっこいしょういちっと。

「しょういち?」

「ああ。何でもないよ。あずきちゃんくらい何でもないことさ」

「お、おう?」

 テーブルの隣に立っているエリスは、不思議そうな眼で僕を見た。いや、ちょっと同情しているような顔にも視える。可哀想なヤツだ──鋭い眼が、そう僕に語り掛けているけれど、埼玉県民は『うまい、美味すぎる』としか訊こえない。それが埼玉県民だ。間違っても雑草を食べて病を治すなんてことはしないので、僕はあの漫画、そして映画に異議を唱えたい。地方ディスはいい加減に寒いから止めろ──と。

「ご注文は如何なさいますか」

「いつものを」

「こんな時間からオムライスか」

 そっちじゃない。そっちじゃないよ、エリスたん。

「適温のホットコーヒーをブラックで。砂糖とミルクはつけなくていいよ。あと、気持ち程度に摘める甘いお菓子があれば最高なんだよなぁ」

 ちらっ、ちらっとエリスの表情を窺う。

 どうして、こんな客はかなり迷惑だろう。僕も別に、エリスを困らせたいとは思っていない。ちょっとだけ、昨日散々無視してくれたお礼がしたい。それだけだ。

 エリスは眉間に皺を寄せて、しこたま面倒臭そうに顔を歪ませながら、「かしこまりました、ご主人様」と一礼する。

「え、本当に珈琲に合うお茶請けみたいなものがあるの?」

「曲がりにも〝メイド喫茶〟ですよ、ご主人様。こちらをご覧下さい」

 エリスは僕の右側に立てかけられているメニュー表に、「失礼致します」と手を伸ばして、最後のページを開いて見せた。エリスの指先には『小さな幸せ♪ チョコレート盛り合わせ ¥480ー』とある。なかなかいい値段するじゃないか。珈琲と百円違いなだけかよ。

「チョコの種類は、もしかしてブルボンですか……?」

 それとも森永? いや、明治という線もある。さすがにトップバリューということはないだろうけど、それはいつも食べてるしなぁ……。こういう店で提供されお菓子はスーパーで買える物ばかりというイメージで、期待値は絶望的に低い。逆に、ゴディバなんて出されても僕に味がわかるはずもないから、西友の自社ブランド『みなさまのお墨付き』でも文句は無いが──。

「──世の中には、知らないほうが身のため、という言葉があるんですよ。ご主人様」

 エリスは含みのある笑顔を湛えながら、僕の耳元で囁いた。その声が妙に色っぽく、ねっとりとしていた口調だったので、僕は思わず身を仰け反らせてしまった。

 エリスになっている流星は、驚くほどに色っぽい仕草をすることがあって、その度に僕は一驚したり、雨地流星が消えてしまうのではないか、自分が流星にしたことは間違いだったのではないかと、後悔や不安に近い感情を抱く。

 知らないほうが身のため、と僕は心の中で復唱した。

 それはチョコに限らず、だろう。好奇心が人を殺す──なんて言葉も、どこかで訊いた覚えがある。

 エリスから言われたその言葉の裏には、『手紙の主を探すな』という意味も込められているのかもしれない。……考え過ぎかもしれないけど。

 言葉の裏を探るのは僕の悪い癖だ。いつでもそうやって、裏を読もうとしてしまう。知らなければよかったことも沢山知ったし、疑うことで自分を守っていたような気もする。臆病なのかもな、と思う。僕はいつだって英雄にはなれないから、こそこそと生きているんだろう。それこそ、虎の威を借ること狐の如し──武田信玄風にしてみても、情けなさが滲み出て参るなぁ。

「じゃあ、そのチョコレート盛り合わせをハーフサイズで、半額でお願いします」

「殺すぞ♡」

 ですよねぇ……。




 こんなにたっくさん、チョコレート食べれなーい。と皿に積まれたチョコを視て思ったけれど、僕は小食アピールして自分可愛いをする女子にはなれそうにない。相変わらずエリスは忙しそうに、あっちへこっちへ店内を忙しなく行き来していた。その仕事っぷりを傍観しながらチョコを頬張っていると、いつの間にか残り数個になっている。いぃち、にいぃ、さぁん、しぃー、しぃー、しー……チョコが足りなああああい! と、お菊さんのように絶叫はしたりしないけど、僕の胃はまだまだ糖分を欲していた。お代わりするか? いやいや、チョコレート盛り合わせをお代わりしてたまるものか。チョコレート大好きさんかよ。大好きだけど。

 応接に暇が無いとしているのはエリスに限った話ではない。「ご主人様。ホットコーヒーのお代わりは如何でしょうか?」と訊ねてきた若い執事さんの爽やかスマイルに負けて三杯目の珈琲を注文するところだったが、これ以上カフェインを摂取したらトイレが近くなりそうだと、代わりにお水を一杯注文して、甘くなった口の中をリセットさせている。

 さーっとブラシでスネアを擦るような音を背後に、ぽろろんとピアノが鳴る。今日はメイド喫茶特有のハニーでポップな音楽ではなく、クラシカルなジャズが流れていた。このほうがしっくりくるのでは? と僕は思う。けれど、ここは曲がりにもメイド喫茶であり、盛り上がりに欠けるような気もする。

「今日はそういう日なんですよ」

 二杯目の水を持ってきてくれたメイドさん。

 確か名前は──

「マリーです、ご主人様。メイドは沢山いるので、名前まで覚えていられませんよね」

「常連にもなると、メイド全員の名前を把握してたりするんですか?」

 どうでしょう? ──と、マリーさんは一考して、「そういう方もいらっしゃいます」と、はにかむような笑顔を見せた。柔らくて、見る者を和ませるような笑顔だと思った。

「僕は顔と名前を覚えるのが苦手で、……すみません」

「私もです。一緒ですね♪」

 凄いな、この人──自分の笑顔が武器になることを理解しているように思える。だから、その笑顔に自信を持っているんだ。それに、さらっと『感覚の共有』までしてくるんだから、なかなかに策士だとも言える。彼女の笑顔を見ると、『私は無害ですので安心して下さい』と言われているような錯覚さえ感じた。

「マリーさんのファンは多そうですね」

「エリスさんには負けますよ。エリスさんって凄い方なんです。誰とでも分け隔てなく接するし、困ったご主人様相手にも一歩も引かなくて、それに……」

「それに?」

 あ、いえ、何でもないです! と、マリーさんは頬を染めた。

 ……なるほど、そういうことか。

「──ところで、なんですけど」

 マリーさんは改まって僕に訊ねた。

「今日はどのようなご用件でお帰りになられたんでしょうか? いえ、ご主人様がここに来るときは、何かしらあるんじゃないかと──ローレンス様が」

「あー」

 僕はこの店を気に入っていないわけではないけど、好んで来ようとは思わない。だって遠いし、ちょっと割高だし、それなりにぼったくられているような気さえするが、それを言うのは野暮ってものだから仕方が無いとしても、……やっぱりちょっと高くない? それは兎も角、用事が無ければ来ないことは確かだ。ローレンスさんも今頃、事務所にあるモニターで僕を監視しているんだろうな。そう考えると、プライバシーを侵害されているようで気持ちよくないが、ホールで不備が出ないか監視するのは仕事の範疇だ、と僕も思う。

「実は、エリスに訊きたいことがあるんですけど、なかなか切り出せないんです。忙しそうだし」

 こうしている間にも「エリスちゃーん! こっちきてー!」と客に呼ばれている。エリスのことが余程気に入っているのか、僕がここに来てから同じ客に、もう五回くらい呼ばれていた。恰幅のいい中年男性だ。この店は現実から切り離された世界である。あの男性も普段はスーツに身を包んで、上司、取引先にぺこぺこ頭を下げながら、お金のために働いているんだろう。そして、この店は彼のオアシスで、エリスはアイドルなのだ。あんなにふてぶてしい態度なのにな、と僕は思わずくすりと笑ってしまった。

「あとで、鶴賀様が呼んでいると伝えておきますね。……では、ごゆっくり」

「ありがとうございます」

 マリーさんは、僕が思っているよりも素直でいい人なんだと思う。多分、言葉に裏なんて無くて、思っていることを語っただけだろうな。僕はマリーさんのショートボブが揺れる背中を眺めながら、疑ってしまって申し訳ないと頭を下げた。

 朝からこの店に入り浸っていると、さすがに居心地も悪くなってくる。ホットコーヒーとチョコレート盛り合わせ、これだけでも充分な値段になるけれど、オムライスくらいは注文しようか──僕がメニュー表と睨めっこしていると、誰かが僕の左肩をつんつんと突ついた。

「用があるんだろ」

 あまり面白くないと眉を顰めるエリスは、振り向いた僕の頬に人差し指を突きつけた。

「古典的なイタズラに引っかかるなよ」

「そう思うなら、早くその指を引っ込めてくれない?」

「話の内容による」

「なるほど」

 このままだと喋りにくいのだが、致し方あるまい。

「僕の下駄箱に〝とある手紙〟が入ってたんだけど」

 エリスの人差し指が更に僕の頬を抉る。

「エリスたんは僕に何か隠し事をしているよね」

「〝たん〟を付けるな、出禁にするぞ」

「ああ、うん……それが交換条件というなら、僕は潔く出禁にされるけど」

「そんなに〝たん〟を付けて呼びたいのか? ──気持ち悪いぞ」

 そういう意味じゃないんだけどな──と、僕はエリスの人差し指を掴んで退かせた。

「僕の下駄箱に手紙を入れたのは、流星……エリスだよね」

 僕の問いに、エリスは無言で返した。それはつまり、『そうだ』と肯定していると同義だ。黙秘権が通用するのは取り調べ室のみ。こういう場で静観を選ぶのは、肯定と捉えられても文句は言えない。

「宛名はなかったんだ。探すな、とも書いてあった」

「そうか。なら、探さないほうが本人のためだろう」

「エリスは〝探さないでくれ〟と書き置きされたら探さないでいられる?」

「まあ、探すだろうな」

 あまり引き留めておくのは申し訳ない、仕事の邪魔になってしまう。

「今日は何時上がり?」

「順当にいけば一十七時だ──終わりまで待つつもりか?」

「今日は一日空いてるからね。都会の空気でも吸いながら、どこかで本でも読んでるよ」

「やめろよ。馬鹿か? ……明日は休みだから、明日じっくり話を訊いてやる。どこがいい」

 ダンデライオンはちょっと遠いんだよな……。

 できれば近場で落ち合いたいところだけど──。

「池袋でどう? いけふくろうに一〇時待ち合わせで」

「わかった──ただし、条件がある」

 条件? と僕は首を傾げた。

「当日、優梨の姿でこい。じゃなければ会ってやらん。その場にお前が居ても引き返すからな」

「ええ……まあ、別にいいけど」

 要件が済んだならとっとと帰れ──そう言ってエリスは店の奥へと戻っていった。

「はいはい、帰りますよ」

 本来なら僕がここに来なくても、メッセージのやり取りで済んだ話だ。

 なんだろう、ちょっとムカつく。

 僕は不満をなんとか堪えながら、会計を済ませてらぶらどぉるを出た。









 この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』にお目通しを頂きまして、誠にありがとうございます。

 もし『面白い』『応援してあげよう』と思って下さいましたら、☆マーク、♡マークを押して頂けますと、今後の活動の励みとなりますので、どうかご協力をお願いします。また、感想はお気軽にどうぞ。『面白かった』だけでも構いませんので、皆様のお声をお聞かせください。

 当作品は『小説家になろう』でも投稿しております。ノベルバの方が読みやすいと私は思っていますが、お好きな方をお選び下さい。

(小説家になろうとノベルバでは話数が違いますが、ノベルバには〝章〟という概念が無く、強引に作っているために話数の差が御座います。物語の進捗はどちらも同じです)

 最新話の投稿情報は、Twitterで告知しております。『瀬野 或』又は、『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』で検索するとヒットしますので、お気軽にフォロー、リスインして下さい。

 これからも『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』並びに、瀬野 或をよろしくお願い致します。

 by 瀬野 或

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品