【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

二百二時限目 鶴賀優志は思い倦ねる


「それはどういうことかな、カトリーヌ」

「つまり、こういうことです」

 ふっと立ち上がり、自分が座っていた椅子を引いた。……何をするつもりだろう。

「ずっと鶴賀さんと面と向かい合っていたローレンス様はお気づきにならなかったと思いますが、……ご覧下さい」

 ローレンスさんは半信半疑で八の字を寄せながら、カトリーヌさんの指示通りにテーブルの下を覗き込んだ。

「こ、これは確かに」

 テーブルの上の下に珍しい物でもあったのだろうか? それとも、そこから視る景色に〈特別な何か〉を見出したとでも言うのか? そこにあるのは僕の足以外に無いはずだけど。

 ……うん? 足?

「鶴賀さんは無意識だと思いますが、内股になっています」

「え」

 指摘されて初めて気がついた。無意識に内股になっていたという事は、普段も座っている時、無意識に内股になっていたんだろうか?

 ……うわぁ、それは恥ずかしい。

 頬が赤くなるのを感じて思わず顔を伏せたけど、今更だよなぁ。

「私の知り得る限り、男性がこの座り方をしているのは不自然です」

「確かに……」

 ──確かに僕も、内股で座る男性を視た事は無いです。

「とどのつまり、彼は日常生活において、〝内股で座らなければならない理由があった〟と推測できます。そこから導き出される答えは──」

「わかりました。降参します……」

 そこまで断言されてしまったら、言い逃れはできないだろう。僕は端的に、身内の名前は出さないように注意しながら、『自分が両性であること』を二人に説明した。その間、二人はお茶を濁すような言動を一切見せず、僕の話を真剣な表情で、時折、顎を下げる程度に反応しながら耳をそばだててていた。

「──という事情があったんです」

「ありがとう、鶴賀君。これで、あれ程にメイドへの転向に抵抗していたエリスが承諾した理由に合点がいきました」

 腕を組みながら、「なるほど」と殊更に呟いているローレンスさんとは対照的に、カトリーヌさんは表情一つ変えない。ただ黙って、すっかり冷めてしまっている珈琲を飲んでいた。

「僕の弱みを握って、強制的にここで働かせる──なんてことは無いですよね?」

「それをしたら脅迫罪です」

 今まで静かに珈琲を飲んでいたカトリーヌさんは、空になったカップをテーブルにおいてから、淡々とした口調で間髪入れずに開口した。

「すみません。余計な事を言いました」

「いいえ。……鶴賀さんが心配しているような事にはなりませんのでご安心下さい」

 こういう店は『風俗営業店』でもあり、闇の深い仕事でもある。この店に半社会勢力との繋がりがあるとは思え無いけれど、用心に越した事はない。けれど……カトリーヌさんってちょっと怖いな。キツい性格というイメージで固定された。

「やはり、鶴賀君には、是非で働いて頂きたいですが、ご帰宅の時間も遅くなってしまいますし、今日はここまでとしましょう。もし気が向いたらこちらにご連絡ください」

 僕はローレンスさんから名刺を受けとった。高級感のある和紙素材で、メイリオ体で〈メイド喫茶らぶらどぉる〉という社名が印字されていて、その横に太字の明朝体で〈代表〉と、その下に〈ローレンス〉と書かれている。あくまでも本名は明かさないらしい。それがローレンスさんの拘りなのか、この店を背負う覚悟なのか。……それとも、単純に本名が嫌いなのかもしれないが、ここまでひた隠しされると、何が何でも知りたくなるのが人のさが

「──名刺も〝ローレンス〟なんですね」

「ええ。これが私の名前ですから」

 臆面も無く笑うローレンスさんの横で、カトリーヌさんが、「こういう人なんです」と苦笑いを浮かべていた。




 * * *


[雨地流星]
『今日は悪かったな』

[鶴賀優志]
『いや、別に。往復の電車代も貰ったから』

[雨地流星]
『そうか』
『どうするんだ』

[鶴賀優志]
『いい店だとは思う』
『でも、働く理由がないなぁ』

[雨地流星]
『だろうな』
『悪い』
『後片付けがまだなんだ』
『また後で』

[鶴賀優志]
『うん』

[雨地流星]
『いや』
『また明日』


 * * *


 帰りの電車に揺られながら、車輪が線路を擦る音をBGM代わりにして、すっかりと暗くなった窓の外、左から右へ流れるように移ろう夜の風景をぼうっと眺めていた。

 さっきのメッセージのやり取りでは、まだ〈エリスとしての職務〉が残っていてたらしく、僕が最後に送った『また明日、学校で』に既読は付かず、それから一切連絡は無い。

 車内に視線を移せば、前方に座っている中年サラリーマンがこっくりこっくり船を漕ぐ。

 隣に座っている女子高生は、退屈そうに携帯端末の画面と睨めっこ。……このままだとおっさんの頭が女子高生の肩にぶつかりそうだが、おっさんは紙一重で意識を取り戻して居住まいを正した。そして再び、どんぶらこ、どんぶらこ、として、次の駅に到着した瞬間に体をビクつかせると、ドアが閉まる数秒前にあり得ない程の瞬発力を発揮し、駆け足で電車から出ていった。だが、おっさんの下りる駅はここではなかったようで、踵を返して電車に戻ろうとした時、無情にもドアが閉まる。

 何でもない夜の事、二度とは戻れない夜──ロードの一節が不意に、僕の脳裏を掠めた。おっさんが今日起こした虎舞竜トラブルが、いつの日かToLOVEとらぶるになったら少しは報われるだろうと他人行儀に祈りながら、本日もお疲れ様でしたと心の中で敬礼。

 働いている人々が、ローレンスさんのように、僕の両親のように、楽しんで仕事をしているわけじゃない。どちらかと言えば仕方無く、生きるための金銭を得るため、苦しみに耐えながら歯を食いしばり労働に励んでいる。それが大人になるって事なのか。……子供の僕にはわからないし、大人である彼らも、『ただの高校生風情にわかってたまるものか』と思うだろう。

 電車はやがて最寄駅に到着して、僕の長い一日が終わった。

 翌日、特に予定も無いので『のんびりと朝寝坊を決め込んでやるぞ。ここぞとばかりに二度寝してやろう』としていたけれど、惰眠を貪る幸せは、寝起きに確認した形態端末の画面に表示されていたメッセージによって妨げられる事になる。差出人の名前を視たら、眠気は一気に吹っ飛んでしまった。


  * * *

[月ノ宮楓]
『おはようございます』
『もう起きていると思って連絡させて頂きました』

[月ノ宮楓]
『反応が無いので用件だけを書いておきます』
『お話したい事がありますので、本日の10時にダンデライオンに来てください』
『必ず』

[月ノ宮楓]
『お待ちしています』


 * * *


「必ずって、これはもう強制参加ってことか……」

 月ノ宮さんからの呼び出しとなれば、おそらくバレンタインの一件に違いない。ダンデライオンの珈琲が恋しくなってきたのはあるけれど、あまり気が進まないなぁと溜め息を零していると、今度は佐竹から着信。

『おお、お前にしちゃ珍しく早く出たな。うぃーす』

 そりゃまあ、片手に携帯端末を持っていればそうなる。そうじゃなかったら居留守使って、後日に『ごめん寝てた』で済ませていただろう。

「おはよう。……なに? 今日は残念ながら予定があるんだ。それじゃあね」

『〝なに?〟って訊ねる割には訊く耳すら貸さないかよ ︎ ……もしかして楓からの呼び出しか?』

 佐竹も? と訊ねたら、『ああ……』と電話越しから気まずそうに頷く声。

「って事は、天野さんも呼び出されたかな」

『どうだろうな。……多分』

 天野さんも今の状況をよしとは思っていないだろうから、このお誘いはいい機会なのかもしれない。でも、僕と佐竹を呼ぶ必要は無いのでは?

 二人でしっかりと話をつけて、関係の修復に望んだ方がいいはずだが……あの月ノ宮さんの事だ、何かしらの意図があるんだろう。

『行くのか?』

「必ず来いって書いてあったし」

『だよな』

 文脈はどうであれ、佐竹にも似たような内容を送信したんだろうと、佐竹の反応から察することができる。

『まあ、それはそうなんだけどな。俺がお前に電話したのは、優志宛てに送信したと思う内容が、俺の方に届いてたからなんだ』

「誤送信ってやつ? 月ノ宮さんにしては珍しいケアレスミスだね──で、その内容は?」

『〝お手数ですが、優梨さんとして来て下さい〟──だそうだ』

「わかった。準備するからもう切るよ」

『ああ。またあ』

 勢い余って佐竹の言葉を区切ってしまった。……まあいいや。

 月ノ宮さんは僕ではなくて〈優梨〉を指名した。

 この意味がわからない程、僕は愚鈍ではない。

 ダンデライオンに集まる時は大抵何かしら理由がある。

 その集まりに優梨を指名したとあらば、これはいよいよ修羅場かもしれない。

 選択を迫られる可能性だって、無きにしも非ずだ。

 これまで引き延ばしで曖昧にしていたツケが回ってきたと言えば、紛う方なき自業自得であり、身から出た錆であり、断頭台で首を晒す事になろうと、『これもときせつなのだ』と諦める他にないだろう。

 ──そうではある、が。

 月ノ宮さんが今の状況を悪化させるような、それこそ『悪手だ』と思うような事態を引き起こしたりするだろうか?

 あの文面から感じ取れた感情は、ヒステリーを起こして自暴自棄になっているようには思えない。それどころか、異様なまでの静けささえ感じた。

 だからと言って無策で行けば返り討ちだ。……最悪の事態は想定して損は無い。簡単な逃げ道も用意してくれないだろう。ある程度の、月ノ宮さんが、くらいの答えは用意しておかなければ。









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 by 瀬野 或

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