【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百九十四時限目 そして僕らのチョコはレートを上げてパーティーはサークる ⑦
「こんな物しか出せないけど」
照史さんは冷蔵庫の中から500ミリリットルのミネラルウォーターを取り出して差し出す。それを有り難く受け取り一口、二口飲んで、近くにあるカウンターテーブルへと置いた。
「チョコ作りはどうだったかな?」
「はい。おかげさまで無事に終わりました」
それはよかったね、と照史さんは微笑んだ。
ユウちゃんはまだ着替えている最中だ。かなり気合いの入ったメイクだったので、化粧を落とすのにもう少し時間がかかると見越して私にミネラルウォーターをくれたのかしら? それとも、開口するきっかけが欲しかったのかもしれない。
「普段もこの水を使ってるんですか?」
普段という言い方は言葉足らずだったかもと思い、「珈琲を淹れる時とか」と付け加える。
「いや、普段は水道水を濾過して使っていてね。……水道水と言っても、秩父の山奥から引いている水だから、市販のミネラルウォーターに引けを取らないくらい美味しいんだ」
そっか。だからここの水は水道水の嫌な匂いもしなくて、ほんのりとした甘みがあるんだ。いつも美味しいお水だなぁと思っていたけど、そんなカラクリがあったとは。
「店の裏手にタンクがあって、一〇日に一度、業者から取り寄せてる。これは先代のマスターの拘りみたいでさ、〝うちの珈琲の味はこの水が鍵なんだぜ〟って自慢していたよ。だからミネラルウォーターを買っても、結局この水を飲んじゃうから増える一方でね」
照史さんが業務用の大きな冷蔵庫を開くと、上段部分にペットボトルが四本寝かせて置いてあった。
こうしてまじまじと、ダンデライオンの冷蔵庫の中を視るのは初めてかもしれない。人様の家の冷蔵庫の中を覗くのは行儀悪いけど、ここは照史さんの職場であっても家じゃないし、セーフ……よね?
冷蔵庫の中にはサンドイッチに使う食材や、明日の営業用に備えて作られたアイスコーヒーとアイスティー、他にも細々としたタッパが幾つもある。タッパの中身はピクルスやオリーブの実、一口大にカットされたルッコラ、ケッパー、他にも色々と小分けにされている。特に目を引いたのは二種類のチーズだ。ブロック状にカットされているチェダーチーズとモッツァレラチーズ。このチーズをサンドしただけでも充分に美味しいのに、サーモンやツナメルトソースなんかを挟んだら絶品に決まってる。
ああ、久しぶりにサーモンサンドが食べたくなってきたわ……。
「そう言えば、ここにあるパンは照史さんが焼いているんですか?」
「そうしたいのは山々なんだけどね、さすがにそこまでは手が回らないから、知り合いから購入しているよ。そこでサンドイッチなどのレシピを教わったんだ。元々この店にあったサンドイッチはBLTサンドしか無くてね。ナポリタンなんかもやっていたんだけど、……あれは不味かったなぁ」
昔を懐かしみながら苦笑いする照史さんの脳裏には、先代マスターとの思い出が蘇っているのかしら。私も会ってみたかったけれど、照史さんの口振りから察するに、もう亡くなっているのね。何だか私まで寂しい気持ちになり、感傷的になってしまう。
「あ、でもマフィンやケーキなんかは僕が焼いているよ。それくらいなら合間を縫って作れるからね」
「その作り方もお知り合いに訊いたんですか?」
そうそう、と頷く。
「照史さんは器用なんですね」
「器用だったらうちの店はもっと儲かってるんだけどなぁ」
気さくなマスターがいて、美味しい料理と珈琲、流行る要素はいくらでもあるのに、立地条件が悪いだけでこうも客が来ないものなのかしら? 隠れ家としは充分足りえる店ではあるし、お忍びで通うには持って来いだけど、手頃なカフェチェーン店が近所にあるし、そっちに客が流れてる。だから、この店に初見で入ろうとは私も思わないかもしれない。でも、一歩勇気を踏み出して中へ入れば、そこにはフォトジェニックな空間があって、お洒落な雰囲気を演出しているから女子人気も上がりそうなものだけど客層は高い。以前、一人でダンデライオンに入った時なんて、テーブル席で将棋を指しながら珈琲を飲む老齢の常連がいたりした。この店は案外何でも有りなのだ。だから居心地がいい反面、初見さんには近寄り難い雰囲気もある──って、何を勝手に分析しているのかしら? 差し出がましいにも程があるわね。
営業の話に流れてしまい、口数が減ってしまった。これはいけないとすかさず──
「照史さんはチョコを貰う予定はあるんですか?」
何の気なしに質問したつもりだった。でも、その質問を訊いた照史さんは眉をぴくりと動かして、辛酸を嘗めるかのように答える。
「お客さんから貰う事はあるんだけど、ね」
「あ、ごめんなさい。私、そんなつもりで訊いたわけじゃ……」
「いやいや、気にしないで。──まあ、過去にはそういう関係の人もいたんだけど、あまりに甲斐性の無いボクに嫌気が差したんだろうなぁ……いつの日かぱったりと連絡が取れなくなってしまったんだ。情けない話だね」
私から視ても照史さんは優良物件だと思うけど、今の照史さんと過去の照史さんは全くの別人みたいな言い草だ。過去に何があったのかしら……と詮索するのはやめた方がよさそうね。
「それでも毎年、律儀にチョコをくれるお姫様がいるから、今年もチョコの心配は無いかな」
誰、とは言わない。
でも、私にもそのお姫様が誰なのかは想像がつく。
そのお姫様はきっと明日、私にもチョコをくれるのだろう。当然、私も彼女用にチョコを用意してる。
渡すのも、渡されるのも気が重いなんて初めての経験だ。そしておそらく──いや、あまり深く考えないでおこう。
どちらにしても、私の答えは決まっているのだから。
* * *
倉庫から出ると、ダンデライオンの空気が重く感じた。照史さんと天野さんは何か話していたようだけど、一体どんな会話をしていたのか……訊ねられそうな雰囲気ではない。
「すみません、お待たせしました」
深々とお辞儀をしてお礼を言うと、照史さんは「大丈夫だよ」と優しく声をかけてくれた。でも、言葉の裏にはそれとは関係無い、僕には察しもつかないような気持ちが込められているようにも感じる。怒りではなく、どこか寂しげのような──それは小さな違和感だけれど、異質な感情を感じ取ってしまった手前、それを無視する事はできない。
「何かあった?」
天野さんに訊ねてみたが、首を振るだけで答えては貰えなかった。
「さ、今日は遅いからもう帰りなさい」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
──とは言ったものの、何だか釈然としない。
科学の実験でメスシリンダーを使う時、『どうしてオスシリンダーは存在しないのか?』と考えてしまうくらいの気になるレベルだが、これ以上の追従はやめて欲しいという表情を見せる天野さんの眼が怖い。
照史さんに別れの挨拶を済ませて店を出た。
やたら静かな町の空気は冷たいけれど、火照った頬を引き締めるには丁度いい温度だ──だが、この居心地の悪さは何だ? もしかして僕、また何かやっちゃいました? それは賢者のお孫さんアルフォード。ぶっ飛ばせ常識をー♪ というフレーズが頭を過ぎるが、僕の日常はそこそこ常識をぶっ飛ばしている連中に囲まれているので、ぶっ飛んでない日常がそろそろ欲しい所ではある。
大通りを進むトラックの走行音が耳に残るような狭い路地を、僕と天野さんは縦に並んで歩く。ダンデライオンを出てからというもの、ろくすっぽ会話らしい会話はしていない。ここまで気まずいと逆に笑ってしまいそうになるな。笑えないけど。
「天野さん、どうしたの?」
さすがに我慢の限界に達した僕は、前を歩く天野さんに声をかけた。三歩程前を進んでいた天野さんは僕の声を訊いて、歩くスピードを落として足並みを徐々に揃えていく。
「はぁ……、ごめんなさい。毒気に当てられてたみたいね。私、どうかしてたわ。きっと明日の事を考えてナーバスになってたのかも」
「まあ、僕も不安ではあるけど──」
そこで僕はふっと思い出した。
ここにいるはずの彼女がいない。どこでいなくなったんだろうか? あれ? 片付けには参加してなかった気がするぞ?
「──そう言えば、関根さんはどこに行ったの? 僕らは最後まで残る予定じゃなかったっけ?」
「泉は門限の問題があって、他の子達と一緒に帰ったわ。……あれ、知らなかった?」
全く、何も知らされてはいない。
いつものメンバーが揃っていたから特に気にもしなかったけど、今回は関根さんも僕らの輪に混じっていたんだ。あんな濃いキャラを忘れていたとは、僕も自分の事で精一杯だったと改めて痛感する。
「ああ、ごめん。話の腰を折っちゃって」
「いいの、大した話じゃないから」
こんな事になる前は、たかがチョコの押し売りの日だろと思っていた。然し、それぞれの思惑がこうも重なると、バレンタインというのは厄介なイベントだ。これのどこが『ハッピーバレンタイン』なのだろう? 企業は『とりあえず〝ハッピー〟を付けておけばいい』と考えている、頭ハッピーな人が多いんだろうか。そこまで来たならギター持って反戦を訴えてくれよ……それはヒッピーか。ハッピーでもヒッピーでもヨッシーでもメッシーでも何でもいいけど。最後辺りからハッピー関係なくなっちゃったよ!? これはハライッチー。
大した話じゃないと天野さんは言うが、僕からしたら大問題なわけで、僕の本番は明日なのだ。今日はどうにか乗り越えたけど、明日を上手く乗り越えられる自信は今の所無い。
後腐れ無し──なんてのは甘えだ。
必ず一方は傷ついて、もう片方は悔やむ。それが道理であるならば救済も無く、あるのは罪の意識だけ。でも、僕にはその罪の意識ってヤツを感じられそうもないから、悲劇のヒロインは宇治原君に宛てがわれるだろう。まあ、それさえも許す気は無いのだが。
火中の栗を拾う、なんて言い方もあるけど、飛んで火に入る夏の虫とも言う。僕が栗を拾う最中、宇治原君はその火に飛び込むのだから、これは喧嘩両成敗となるか? いや、断罪するのは僕だ。彼に逃げ場は与えてやらない。
月ノ宮さんの行動も気になるには気になるのだが、一番気になるのはやはり佐竹だろう。
『俺も決めたんだ』
佐竹はそう言った。
何を決めたのかの言質は取れなかったけれど、明日、佐竹も何か行動を起こす気だろう。『自暴自棄になったのか?』とも思ったけれど、あの眼はそういう眼ではなかった。『決めた』という言葉通り、決意に溢れた眼をしていた。
僕の邪魔にならないといいんだけどなぁ……佐竹だし、案外僕を止めに来る可能性も考えておかないと。
「優志君も色々と問題を抱えてるのね──ねえ、明日なんて来なきゃいいって思わない?」
「え?」
「だって、誰も幸せにならないもの。バレンタインなのに幸せが訪れないなんて、不幸以外の何物でもないわ」
「……そう、かもね」
そう、だとしても──。
「明日は来るよ」
天野さんは僕の言葉を呑み込んでから、他人事のように、
「──残酷よね」
それだけ呟いた。
ああ、本当に残酷だ。
悲惨と言い換えてもいい。
誰も幸せになる事はない、アンハッピーバレンタイン。
だからお菓子業界は、バレンタインの枕詞を早急に変えるべきなんだ──そうでなければこんなもの、皮肉にすらもなり得ないだろ。
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by 瀬野 或
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