【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百四十八時限目 諦められない事がある
〈少年として生きる彼の朝の出来事〉
こんな早くに学校へ向かうのは久しぶりだ──だから、朝の冷たい空気がつんと鼻に染みるのも、部活に向かう連中の怠そうな顔を拝むのも、高校一年という時間が後数ヶ月で終わるという事実も然して興味は無いのだが、最近、鬱積のような違和感に苛まれて嫌気がさす。それを〈焦燥感〉と呼ぶには、オレの中で定義付けができていない。ただひたすらに、『このまま終わっていいものだろうか』と、疑問だけが付き纏ってくる。
下駄箱でサンダルに履き替えて職員室へと向かう道すがら、そんなどうしようもない杞憂が頭の中に掠めた。
職員室に向かうのはどうもにも慣れない。それはオレだけに限らず、全国の学生がそう思うはずだ。何度か出向いたり、呼び出されたりして出入りしているけれど、職員室にいるのは全員が須く教師で、オレは教師に対して好意を抱けるようなガリ勉君ではないし、今回の呼び出しだってどうせ碌でもない事だろう。
それでも──
「昼に校内放送で呼び出しを喰らうよりはマシか」
三木原章治こと、三木原商事の呼び出しには心当たりがある……どうせ、単位がどうの、出席日数がこうのだろう──そうだとするならば、これからは真面目に登校して、お勉強に勤しめば多少なりとも誠意は見せられる。
……気は進まないが、やるしかないだろう。
陽が差し込まない暗がりの廊下を進んだ突当たり、校内掲示板に貼ってある『火の用心』のポスターの右端の画鋲が取れていたのが気になって足を止めた。
まるでドックイヤーのように垂れ下がっているが、おそらく、他の掲示物を貼る際に、画鋲が足りなくなって、誰かがそこから拝借したんだろう。
「間抜けな部活はどれだ」
脳を叩き起こすには手頃だろう。
長方形の掲示板には、所狭しに様々な部活勧誘ポスターが貼られている。だが、いつまでも貼っていいという代物ではない。期限は二週間、その期日が過ぎると教員か、掲示板を管理している『掲示板近くの教室の当番』が剥がす仕組みになっている。いつ剥がすかの判断は、掲示物の右隅にある判子を視れば一目瞭然、判子で『張り出し期限』が打刻されている。つまり、一番若い日にちの掲示物、或いは『おしらせ』を貼った部活が犯人だ。
「放送部、囲碁部、オカ研……犯人はこの中のどれかってわけだな」
そして、この掲示板にはもう一つルールが存在する。それは、『掲示物を貼る際は左上から順々に貼る』というルールだ。
とどのつまり、一番左上にある掲示物か、右下にある掲示物が犯人の部活ということになる。この掲示板の左端には、ポスターサイズの『火の用心』が貼られていて、その隣に貼られている部活勧誘紙には、昨日の日付けの判子が打刻してあった。もう片方、右下にある勧誘紙には一昨日の打刻、ということは……
「──囲碁部のクセに、詰めが甘いな」
眠気覚しには丁度いい謎解きだった。おかげで、さっきよりも脳が回転している。これから担任に会うのに、寝ぼけた調子じゃもまともに問答できないだろう……けど、オレが担任の呼び出しに応じたのはあくまでもついでだ──今はそれよりも、目の前にある問題の方が気がかり。
朝、まだクラスの連中が登校していないこの時間帯が、唯一、アイツと一対一で話せるチャンスだ。
「……とは言ったものの、単位がやばいのも放置できないか」
勉強に関しては、それこそアイツに頼むのが妥当だろう。
「それを話せる余裕があれば、……クリスマスか」
こういう気持ちはとっくに捨てたはずだったのに、オレの中で『アイツらとクリスマスを過ごすのも悪くない』って思いが、ほんの僅かに燻っている。
「柄じゃないな」
けれど、高校一年の思い出作りとしては、悪くないだろう。
アイツらになら、もっと正直になってもいいんじゃないか。
『誘ってくれてありがとう』
……と、打ち明けてもいいんじゃないだろうか。
寝不足というのは思考を鈍らせる。
思考が鈍るという事は、授業にも身が入らないという事であり、午前中の授業はミミズが這ったような字でノートに書き取って終わった。
昼休みの現在、そのノートを周りに隠すようにして広げて読み直しているけれど、僕と睡魔の奮闘記のように、あっちらこっちら謎の線が引かれていた。果たしてこれを、『書き取った』と言っていいのだろうか? ──というか、授業の記憶もあまりないので、月ノ宮さんか天野さんにノートを視せて貰えたらいいのだが、今日はなかなかにハードルが高い。
天野さんには、朝からべったりと月ノ宮さんが張り付いている。そのせいで、月ノ宮ファンクラブの面々も天野さんグループと混ざり合ってちょっとしたカオス。
この二グループが巻き起こしているケミストリーが、教室で殊更に異様な空気を醸し出していた。
このクラスは佐竹の尽力によって纏まっているけれど、それでも『仲良しグループ』は存在していて、その内の二大勢力が合体しているのだ。あの中に「ちょっといいかな」と入っていくのはさすがに無理がある……あれではまるで人の壁だ。その向こう側に行くには、心臓を捧げるくらいの覚悟が必要だろう──まあ、打つ手が無い訳でもない。
こちらには鎧の巨人相当に突進力のある佐竹がいる。然し、佐竹が行動に出たとしても、壁の向こう側にいる本物の脅威を跳ね除けられるはずもないか……あれ? これって打つ手無しじゃん。佐竹つっかえ。
この調子では、放課後も無理だろう。
月ノ宮さんのディフェンスは、鉄壁と言わざるを得ない。
そこまでして僕を、天野さんに近づけさせたくないのだろうか? まあ、普段も僕から話しかける事なんて滅多に無いけど……露骨過ぎて、天野さんもちょっと引いてないか? てか、さっきから関根さんと眼が合うんだけど、何もしないなら僕をちらちら視ないでくれない? 普通の男子高校生なら『あれ? もしかして自分に気があるんじゃね?』って、勘違いするくらいはちらちらと視られている。
関根さんが気にしている事は、〈昨日の件〉だろうくらいには検討もつくけど、だからと言ってどうもできない現状は、ただひたすらに沈黙を守るだけだ……てか、どさくさに紛れてにへらと意味ありげに笑いながら、小さく手を振られても困るんだけど。
「楓もガチだな」
僕の机に突っ伏しながら、顔だけを僕に向けている佐竹は、心配そうな表情を浮かべている。
「つーかさ、今は対立するよりも、協力しながら事を運んだ方が解決策も見つけられんじゃねぇの?」
「佐竹にしてはまともな意見じゃん。……正しくその通りだよ」
月ノ宮さんと天野さんもこの場に加わって、天野さんが抱えている問題について話し合えたらいいことは僕にだってわかっているけど、それを月ノ宮さんが許さない。『勝負』と銘打った以上、月ノ宮さんは勝ちにこだわるだろう。
『それこそが月ノ宮家の家訓である』
と、いつも言っているし、意中の相手が困っているなら助けてあげたい、何かしてあげたい、そう思う気持ちも理解できる。寧ろ、僕以上に月ノ宮さんは『どうにかしなければ』と思考を巡らせているに違いない。
「このままじゃいけないのはわかってる。だから僕は、月ノ宮さんとは違うやり方法で、この状況を打開するしかない」
「その方法って?」
「人脈を駆使するしかないでしょ?」
「お前の人脈って……?」
「と、友達の友達レベルだけど……」
佐竹は絶対に、『優志に人脈なんてあるはずがない』と思ったんだろう……そりゃまあ、自慢じゃないけど、このクラスでカースト下位で、発言力も影響力も無いから、佐竹が疑問に思うのも無理はない。それに、僕が持っている人脈は偶然の産物で、自らどうにかしようとして手に入れたものじゃないしなぁ。
「……優志。〝友達の友達〟は、自分を指す言葉だぞ?」
どっかのだれかさんみたいな、訊いた事がある皮肉だ。
「佐竹さ、僕をリスペクトでもしてるの?」
「五月からの付き合いだぞ、優志の皮肉が俺に感染るのも当然じゃね? 普通に、ガチで」
まだ数ヶ月程度の中だから、長い付き合いとは言えないんじゃない? でも、佐竹はそんな言い回しをしてドヤ顔を決めたが、そのドヤ顔が妙に鼻につく。
佐竹のドヤ顔を崩しすために、矛盾点を突きつける事にしよう。
「……でも、僕に佐竹の〝ウェーイな成分〟は感染る様子も無いから、佐竹の言う所の普通は〝普通じゃない〟って証明になっちゃったね」
──はい論破。
佐竹は唇を尖らせて、不満げな表情をしながら、
「お前のそういう所、本当に可愛くないよな。……優梨になってる時は、すげぇ可愛いのに」
とぼやきながら、僕をぎろりと睨んだ。
「……佐竹はどっちが好き?」
しまった──思わず口に出してから、はっと我に返る。
いつかは訊かなければならない質問だけど、今、その質問に答えられても受け止められそうにない。佐竹だって答え難いだろうに、天野さんの件でいっぱいいっぱいになってたから油断してた……。
「ごめん、今のはな──」
訊き流してくれていいのに、僕が発言を取り消すのを妨げるように「まあ」と矢継ぎ早に言葉を挟み、突っ伏した姿勢を正して──
「俺にはどっちも必要だ」
佐竹は恥ずかしがる様子もなく、僕の眼を視てそう言い切った。
僕の両頬がかっと熱くなってくるのを感じて、思わず──
「……イケメンは臭い台詞を吐くのが使命なの?」
「うるせ」
照れ臭さを隠すように皮肉を吐いて、その場をやり過ごそうとしたけど──そっか、佐竹は僕自身を視てるんだ。僕でもなく、優梨でもなく、両方を視野に入れて考えてくれている。それはとても嬉しいし、やっぱり恥ずかしい。
「……兎に角。僕は僕のやり方で、天野さんの鬱積を晴らす術を探るよ」
「何か困った事があったら連絡しろよ?」
「そうならないようにするけど、そういう事態に陥ったら連絡する……かも」
「お、おう……」
そう返事をした佐竹の表情を、僕は直視する事ができなかった。
きっと、林檎みたいに頬が真っ赤だろうから──。
窓に茜色の陽が差し込む。
教室に残っている生徒は少なく、その中に月ノ宮さんと天野さんの姿は無い。どうやら徹底的に僕を天野さんに近づけない作戦らしい……結局、天野さんと会話する事無く本日の時間割りは終わった──けれど、ここまでは想定内だ。寧ろ、放課後は早く帰ってもらわないと僕が困る。
月ノ宮さんは僕を天野さんに近づけさせない事によって、情報が漏れる事を恐れたんだろう……でも、僕は既にある程度の情報を仕入れている。今日、天野さんと話したかったのは、天野さんの家を訪ねてもいいか了承を得るためだったけど──恨むなら、月ノ宮さんを恨んで欲しい。
そろそろ、学校から離れてもいいだろう。
時間も充分開けたし、何より、これから会う人との約束の時間も差し迫っている。
鞄から携帯端末を取り出して、連絡が来ているか確認すると、メッセージが一件入っていた。
『こっちはもう終わってるけど、そっちはどんな感じー?』
文末に、顎に手を当てる顔の絵文字が添えられている。
僕の周りで絵文字を使うのは天野さんと関根さんくらいだが、この相手はその二人ではない──ついでに言うと関根さんの場合、単語の一つ一つに絵文字を添えてくるので読み難いまである。何なのあれ、出会い系のサクラじゃないんだからやめた方がいいよ。あと、いちいち小文字に変換するのも阿保っぽいから即やめるべきだ。よし、今度言おう……今度ね?
夕陽に照らされる廊下は、ノスタルジックを感じずにはいられない。
さっきまでは吹奏楽部の演奏が教室まで届いていたけれど、おそらく片付けの時間だろう。窓からグラウンドを睥睨すれば、サッカー部と野球部も用具を片付けている。そんな彼、彼女達は、きっと青春を謳歌しているんだろう。コンサートで失敗して賞を逃して涙したり、勝てない試合だとわかっていても懸命に挑んだり──そして、卒業してから数年後、大人になって『あの頃はよかった』と感傷に浸る。
ちょっと前まではそれが馬鹿馬鹿しく思えたけど、目標を立てて、それに向かって突き進む事は悪い事じゃないと今は思える。その感覚は僕が捨ててしまった物で、それを今でも持っている彼らが羨ましかったんだろう。
……けど、やっぱり僕には青春がわからない。
青春なんて言葉は大人が感傷に浸るべく思いついた言葉で、子供の頃の夢を諦めるための言葉だと僕は思う。そうでもしないと、やりきれない感情を吐き出せないんだ。『青春なんてなかった』と断言してしまえば、自分がこれまで辿ってきた道が、苦労が、その全てが水の泡になるから。
……だから僕は、今を青春とは呼ばない。
諦めたくない事があるから。
諦めたくない想いがあるから。
青春なんて簡単な言葉で一括りにして、ちり紙交換車が回収するのを待つくらいなら、僕は子供のままで構わない。
悟った振りをして、達観を決め込んで、岡目八目盤面を視るのはもうやめだ。
これまで受けた誠意は、ちゃんと返済しないといけない。
そして、あの海での出来事も、ちゃんと終わらせよう。
僕のためにも、天野さんのためにも──。
『今、学校を出た』
  ──バス停でバスを待ちながら、たったそれだけの短文を返した。
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