【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百三十七時限目 天野恋莉の家族事情
「ただいま」
玄関を開けても家の中は真っ暗で、照明はついていなかった。
いつもならそろそろお母さんが夕飯の支度をするので、テレビの雑音と俎板を叩く音が聴こえてくるはずだけど……と首を傾げて、そう言え昨日、友達とお酒を呑みに行くと言っていたのを思い出した。つまり、この家にいるのは中学二年生の弟の奏翔だけになる。
弟の成績は私の中学時代よりも高い。
昔は『お姉ちゃん』と慕ってくれたのに、今では『お姉ちゃん』の『お』が抜けて『姉さん』と呼ぶようになり、私を避けるようになったので、会話という会話はここ数年していない。それを寂しいとは思わないけど、……佐竹姉弟とは大違いね。
さてと、夕飯の支度でもしようかしら? 廊下とリビングを隔てる扉を開く。
「……ソース臭い」
部屋中にカップ焼きそばのソースの匂いが充満している。
時間も時間だし、そんな事だろうとは思っていたけど……。
私との接点を極力減らそうとする奏翔は、私が夕飯を作る日になるとインスタント食品を先に食べて済ませるのだ。
お母さん程ではないにしろ、私の手料理だってそこそこは食べれるのに──なんて髀肉の嘆を洩らしても仕方が無い。
自分一人の為に料理をするのは億劫だから、私もカップ麺で済ませようかと流し台下の棚を開けてみるが、残念な事にカップ麺は疎か乾麺類のストックも無かった。
「ダンデライオンでサンドイッチを食べてくればよかったわね……」
一度着替えてから近所にあるコンビニへ向かおうと、二階にある自室に向かうべく、『く』の字階段を一段上がった時、上段からみしりと床が軋む音が聴こえた。
振り向くようにして視上げると、そこにはばつの悪そうな顔をしている奏翔が、私を見下すように眉を顰めて睨んでいる。
「……」
──やっぱり無視。
うんとかすんとか言ってもいいだろうに、奏翔は『何も視なかった』と言わんばかりに踵を返した。これにはさすがの私も我慢ならず、「ちょっと!」と、声を荒げて呼び止めた。
「挨拶くらいしたらどうなの?」
「……どうも」
「〝どうも〟って、他人じゃないのにそんな挨拶やめなさいよ」
「他人でしょう。……僕と姉さんは血が繋がってないんだから」
私と奏翔は腹違いの姉弟で、奏翔は今のお母さんとの間に出来た子供だ。
……私を産んだ母親は、私を出産した直後に他界している。
妻を亡くした数年後に、今のお母さんと『授かり婚』のような形で再婚したお父さんを、私は責めようとは思わなかった。多分、尋常じゃない程の悲しみを、一人で抱え込む事が出来なかったんだろう。それに、再婚相手は私の出産を手助けしていた助産師さんなので恨むに恨めない。──私を我が子のように可愛がってくれたし。
この事実は『天野家の秘密』として、傷付き易い奏翔には公言していなかったけど、奏翔が中学校に入学した時、お父さんがうっかり口を滑らせて発覚してしまい、それ以来、奏翔は私に対して他人行儀を貫いている。
「……もういいかな。勉強の続きをしたいんだけど」
「アンタは本当にこのままでいいと思ってるの?」
──すると、奏翔は鼻で笑うに失笑した。
「ずっと僕を騙していた姉さんが言う台詞じゃないと思うけど、……そうだな、別にいいんじゃない? こういう関係も僕が高校に入学するまでの辛抱だから。僕は全寮制の私立高校に進学して、大学に進学すると同時に一人暮らしをする。父さんと母さんにも了承を得てるのは姉さんも知っての通りだ。僕は僕の人生を、姉さんは姉さんの人生を──それでいいでしょ」
「……」
言い返そうと思えば幾らでも言い返せるけど、それで奏翔が納得するとも思えないので、私は喉元まで出かかった言葉の数々をぐっと呑み込んだ。
「言い返さないのは懸命な判断だよ。……最初に道理から外れたのは、姉さん達の方なんだから」
奏翔は吐き捨てるようにして、自分の部屋の扉を閉ざした。
「それでも私は……」
その願いはもう、叶う事は無いかもしれない──。
* * *
もしも私の家庭環境について、優志君に相談したら、佐竹の件の時と同様に、一緒になって頭を抱えて解決に導いてくれるだろうか……。
「──いいえ、それこそ道理から外れてるわ」
着替えを済ませて家を出た私は、コンビニに向かいながら、そんな事を延々と考えていた。
──外はもうすっかり暗くなっている。
雨の影響もあって頬に当たる風が余計に冷たく感じるけど、頭を冷やすには丁度いい温度かも知れない。夕方には雲の切れ目から太陽が顔を覗かせていたけれど、空には再び分厚そうな雲がかかって、星も月も隠れてしまっている。路肩にある排水溝には、雨に流された落ち葉が溜まって壁を作り、入り口を塞き止めているけど、その隙間を縫うようにして、溜まった雨がちょろちょろと流れる。閑散とした路地に、その音だけが殊更に響いていた。
電柱の上部にある街灯が頼りなく感じる頃、大通りに面しているコンビニの明かりが煌々と夜の道を照らす。
自動ドアを通るとお馴染みの入店音が鳴った。
同時に店内の奥の方から「あっせぇ〜」と、とてもやる気を感じられないアルバイトの挨拶。私は特に気にするでもなく、カップ麺コーナーへと向かったが──しかし、どうにも食欲が無い。
あんな事があった矢先、「さて、何を食べようかしら?」……となるはずもないが、それでも入店してしまった手前、何も買わずに出るのも自分のプライドが許さない。
こういう所は損な性格だと思う。
軽食で済ませようとお弁当コーナーへ。
様々なお弁当やおにぎりが並ぶ中、私は昆布おにぎりと、飾り程度に陳列してあったインスタントの石蓴の味噌汁を手に取りレジへ向かった。
「あらぁっした。……ったっせぇー」
多分、『ありがとうございました。またお越し下さいませ』と言っているのだろうけど、絶対にちゃんと言う気が無いのが手に取るように明らかだ。でも、夜のコンビニなんてこんなものかと、片手に持つビニール袋を揺らしながら自動ドアを潜った。
昆布おにぎりと石蓴の味噌なんて自分でも作れそうな物を買ってしまった事に、ほんのちょっぴり後悔しながら来た道を戻る。その途中、大きなゴールデンレトリバーを散歩させている人とすれ違い、暫く動物と触れ合っていないと気がついた。
家には動物がいない。
昔も今もその先の未来にも、犬や猫は飼わないだろう。
奏翔が喘息持ちなので仕方が無いけど、……と考えて、奏翔はあと数年したら家を出るんだと思い出した。
──本気、なんだろう。
おそらく奏翔は血の繋がりなんて気にしていない。
怒りの原因はそれではなくて、『私達が秘密にしていた事』に対してご立腹なのは百も承知だ。お父さんもお母さんも奏翔のひとり立ちについては賛成しているけれど、このまま送り出していいはずもない。
『今はそっとしておいてやれ』
お父さんはそう言うけど、時間が解決するのは奏翔が大人になってからだろう。
悠長に事を構えていたら、家族の絆なんて綻んでしまうのは明白だ。
「こんな状況でクリスマスパーティーもないわね……」
私がいなくても泉は大丈夫だろう。
あの子は変な子だけど、誰かと打ち解けるのは得意だ。人懐っこいし、甘え上手だし、何より強い子だから心配は無い。それに比べて私ときたら、一丁前にプライドだけは高いだけで、他はてんで駄目だ。
──今でも、あの海で起きた事が忘れられないでいる。
その傷がじゅくじゅくと化膿して、摘み出しても治る気配が無い。心に溜まった鬱積が大きな穴を作り、私の全てを呑み込まんと大口を開けているのだ。どうにかして穴を塞ごうと努力してみたけどその努力も虚しく、ブラックホールのように呑み込んでしまう。
一番質が悪いのは、どれもこれも自分が撒いた種だという事。それなのに、誰かの手を借りるなんて虫がいい話だ。……こんな気持ちをずっと引き摺ったままでは、クリスマスパーティーを楽しむなんて不可能ね。
私がこの日に購入したおにぎりと味噌汁は、袋のまま弟の部屋のドアの取手にぶら下げた──。
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