【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
一百三十四時限目 彼女の真意は知らぬまま
先程よりも勢力を増した雨は、校舎の壁や地面を打ち付けてる。季節外れの大雨か、或いは、埼玉県の空が雪に対して必死に抵抗しているんだろう……単純に、上空の雲の中にある水蒸気が凍るような気温じゃない、というだけだが、やっぱり埼玉の空は頑固だと思う。
校内に響く雨音が嫌に耳に刺さるような静けさだ。
下駄箱から靴を取り出して、地面にぽいっと投げるように置く。片方はちゃんと地面に靴底を付けたが、もう片方は横に倒れてしまった。
そういえば、こんなお天気占いを幼少期にやっていたっけ。
片方の靴を蹴り飛ばして、靴底が地面に付けば晴れ、横に倒れたら雨、靴底が天を仰げば雪……だったかな。とどのつまり、現在は雨が降っているので、右の靴は目下の状況を物語っている事になるわけだ。
いつまでも寝転がしていては、靴も迷惑だろうと膝を折って位置を正していたら、
「優志君」
不意に訊き覚えのある声が、濡れっぽく僕の名を呼ぶ。
僕の事を『優志君』と呼んだ彼女は、ほんのりと頬を赤らませて、緊張でもしているかのように肩を強張らせていた。緊張するような間柄ではない……と思うけど、切羽詰まっている印象を受ける。
「どうしたの天野さん。……何か問題でも起きた?」
家庭環境の問題か、或いは人間関係の縺れか。
僕なんかでは役不足のはずなのに、ここ数ヶ月はどうしてか多事多難だ。というか、その半分以上は佐竹経由なのが納得出来ない。
トラベルメーカーにも程があるだろう。
僕は省エネ主義ではあるけれど癖毛ではないし、現場を視ただけで犯人を導き出す文豪の名を冠した探偵でもない。そういう謎解きめいた事は、余りにも口が悪い執事や、霊界探偵にでも依頼して欲しい。
だが、そういう事ではないらしい。
天野さんは否定の意味を込めて首を振った。
それならどうして僕をそんな必死そうな眼で視るんだろう? ……なんて然もありなんとする程、僕はラノベの主人公のように鈍感じゃない。だって天野さんの気持ちはずっと前から訊いているし、その返事を遅らせているのは僕自身だ。素っ頓狂を装うのは不誠実にも程がある。
「……やっぱり、また今度でいいわ。今日は雨だし」
「そう?」
もしかして、ダンデライオンへのお誘いだったんだろうか?
こんなに雨が降ってなければ快く同行したけど、さすがにこの雨の中、ダンデライオンに行く気分にはなれない。……けど、本当にただのお誘いだったのか? どうしてもと言われたら断固として断る理由も無いし、久しぶりに天野さんと二人きりで話すのもいいなと思う。
……そんな考えは、さすがにお花畑過ぎるだろうなぁ。
「それじゃあ、何かあったら連絡して?」
僕がそう口にすると、天野さんはにへらと笑う。
「そうするわね」
バイバイ──。
僕に手を振って教室へと戻る姿は、バスに乗り込んだ後も脳裏から離れてくれなかった。
* * *
帰宅後も天野さんから連絡は無かった。その代わり、琴美さんからの揶揄いメッセージが幾つか届いたけど、それら全てを既読無視して、ベッドの上にごろりと寝転がった。
いつもより湿度の高い部屋は、どうにも居心地が悪い──理由は多分それだけじゃないなと、枕元に放った携帯端末を視た。
無機質なすべすべの黒色ボディの背面には、天井と照明が反射している。ついでに指紋も付着いているけど、僕は殺人事件の犯人ではないので、食器洗剤で洗い流すような事はしない。気が向いた時に柔らかい布で拭き取ればいいかとそのままにして、このまま寝転がっていたら寝てしまいそうだから、勉強卓の椅子に移動した。
年季の入った木目調の勉強卓は、僕が小学校に入学する時に父さんが入学祝いに購入してくれた物だ。その頃はピカピカに輝く程綺麗だった勉強卓も、今では所々に傷が付いているし、輝きもくすんでしまった。特に傷が酷いのは腹部が当たる手前部分で、表面に触れてみると少しざらざらしている。
こうしてまじまじ視ると存外ぼろぼろだが、慣れ親しんだこの勉強卓には愛着もそれなりにあるので買い換えようとは思わない。買い換える資金が無いだけとか、決してそういう理由ではない。絶対だ! ──僕は誰に対して言い訳してるんだろう?
「珈琲でも淹れて、読書でもするかな」
今日の宿題はまだ終わってないけど、あと数ページで読み終わるし、結末を知らないままでは寝覚めが悪い。……こうして自分に言い訳しながら、ありとあらゆる課題や疑問、そして突きつけられている難問の答えを先送りにするのは悪い癖だと自覚はしているが、人間の根本や性根は簡単に直るようなものじゃない。
……だってほら、僕はまたもや思考をぐるぐるさせているのだから。
「寒っ……」
未だ両親は帰って来ない。
社畜って大変だなぁ……と他人事に呟いたが、両親は同じ会社に勤めていて帰りも遅い。そこから導き出される答え──琴美さんの言葉を借りればバトルドームで超エキサイティン! ツクダオリジナルから僕の妹か弟が出来る可能性も……あまり考えたくない話なので、がしがしと頭を掻き毟ってから、台所にある冷蔵庫の中にあったチョコをちょこっと摘んだ。
なんて猪口才な駄洒落だろう、……チョコだけに。
頭の中で笑点のテーマが流れてパフッと締め括った頃、電気ケトルのお湯が沸いた。
コップにインスタントコーヒーの粉を適量入れて、そこにお湯を注ぐ。適当に淹れた泥水のようなお湯を味見程度に一口。
……ほほう、安定の不味さだ。
世の中には『不味い具合が癖になる』ような魔の食べ物がある。例えるならば、パーキングエリアと市民プールで食べるラーメンとカレー。スキー場にある食堂で食べるカレーうどんは別格。そして冷食のエビチリもなかなかのお手前だが、母さんの作るエビチリには勝てない。
冷食と手料理を比べるのはさすがに失礼だな、前言撤回。
小皿にチョコを数個入れて、それと珈琲を両手に持って再び自室へと戻った僕は、ようやく読書に勤しめると、勉強卓にそれらを置いて、読書するテリトリーを確保した。
いざ、尋常に読書! なんて息巻いてはいないけど、本を読む際の空間作りは案外大切なのだ。珈琲や紅茶などに含まれるカフェインを適度に摂取する事により眠気を抑制しつつ、チョコや飴玉などの甘味で脳疲労を緩和する。特に、翻訳された洋書の言い回しは独特だったりするのだが、ハロルド・アンダーソンの本を訳している人はその中でもかなり特殊だと言える。『I love you』を〈月が綺麗ですね〉と訳した夏目漱石……とまでは言わないが、『どうしてこんな訳になるの?』というような感情表現の言い回しが多い。まあ、英文を読んだわけじゃないので、本当はそのまま訳しているだけなのかもしれない。ハロルド・アンダーソンという作家は、結構偏屈者なイメージでもあるし。
ぱらりぱらりとページを捲る音、そして、壁掛け時計のこちこちと秒針が鳴る音、さーっと空気を吐き出すエアコンの音が支配する僕の部屋で、突如、異質な電子音が鳴った。
発信源を探したら、辿り着いた携帯端末。これが人の心なら、思慮深さもわからないだろう。なんて、藤原基央っぽく謳ってみたが、ええっとつまり、……一体何のことを言ってるのかさっぱりわからないな。
ベッドにうつ伏せで眠りこけていた携帯端末を中腰になって取り、手の中で今日に前後ろ反転させてから、表示されている名前を確認した。
『天野恋莉』
その名前をタップするのに、どれくらい時間を要しただろう。ウルトラマンのカラータイマーが鳴るくらいか、カップ麺が完成するくらいか、一リットルの水を電気ケトルで沸かすくらいか……恐らくはそれくらい。その間に過ぎった緊張感を生唾と一緒にごくりと呑み下してから、「よし」と臍を固めてアプリを開いた。
『もう家に着いた?』
顔文字も絵文字も無く、それだけ視たら飾り気の無いただの暇潰しの常套句だけど、この文字を送信するまでにどれ程の躊躇いがあったんだろうかと想像して、申し訳無さに頭が下がる思いだ。
「二時間前には帰宅してたよ」
僕はこれだけの文字しか送信しなかったが、余りにも素っ気無い気がして「天野さんはもう帰宅したの?」と付け足す。……返信は直ぐに返ってきた。
『うん』
その数秒後に、
『冷えたからシャワー浴びたわ』
と、健全な男子高校生なら『うおおおっ!』と歓喜しそうな返信文。だけど僕は、それとは遠く掛け離れた感覚に襲われている。
──生きた心地がしない、名状し難い緊迫感。
天野さんはこれから何を語るのだろうか?
それに対して、僕はどう答えられるだろうか。
その答えをまだ用意出来ずにいるが、天野さんは待ってはくれない。
『あれから色々と考えたんだけど』
あれからとは海の件? それとも佐竹姉弟の喧嘩騒動から? それよりも、もっと前の話? 頭の中で走馬灯のように、これまでの記憶が蘇ってくる。
『もしかして佐竹のこと好きなの?』
「──な、何を言ってるんだ!?」
思わず声が出て、危うく手元にあった携帯端末を床に落としそうになった。
「佐竹に対して恋愛感情はまだ抱いてないよ」
焦りながらだったので、あまり深く考えずに送信したけど、天野さんは僕の焦りを見逃してはくれなかった。
『まだって事は、可能性はゼロじゃないってことね』
……やはりそこを見落としてはくれないか。
可能性の話をするなら、確かにゼロとは言い切れないけど、確率論を話したらキリがない。それを言うなら明日は辺り一面に銀世界が広がっているかもしれないし、隕石が地球に接近してハルマゲドンするかもしれないだろ? そして大天使ガブリエルが終末を告げるラッパを吹いて、世紀末が訪れる可能性だって無きにしも非ず。
『神と和解せよ』
の文字が誰かに悪戯されて、
『ネコと和解せよ』
になっている聖書の看板の画像がチラついた。
──そんな事はどうでもいい。
僕は天野さんの問いかけに、何と返信するべきだろうか? 一頻り悩んだ末に、「まだわからない」とだけ返した。
『まだ、答えは出てないのね』
そして数秒開けてから送信された『よかった』の文字が、天野さんの今の気持ちを代弁しているようだった。
僕が返信をせずにいると、言を待たずに送信されて来た文字は、
『明日はきっと雪になるかもしれないわ。楽しみね』
それはまるで、ハロルド・アンダーソンが書く本の登場人物の台詞を書き写したかのような、何か意味を含むような言葉に感じた。
雪が降るのを楽しみにするような高校生は少ない。
ちょっと拗らせている男子生徒が言う所の『雪だりぃって言っている俺かっけー』的に、雪を疎ましく思う高校生は多いけど、天野さんはそれとは逆に『降って欲しい』と言うような口振りだ。
雪が触れば電車が止まる。
そうなると学校には行けないし、積雪量によっては閉鎖になるから、学校を休める口実の台風よりもレアだけど、天野さんは学校に通うのを苦に思って無さそうだしなぁ。だけど僕はその真意を確かめないまま「そうだね」とだけ返信して、それ以降、天野さんから返信が来る事はなかった。
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