【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

一百二十八時限目 佐竹姉弟の喧嘩 ②


 店内に流れるジャズピアノが余韻を残しながら、ゆっくりとフェードアウトしていく。アマっちは霧のように残るピアノの音が霧散するまでの間、黙して語らず、トラックが次の曲に移り変わって、ライドシンバルがリズムを刻み始めると同時に「そうか」とだけ答えた。

 沈黙が空間を支配していた数刻のみぎり、カウンターで珈琲を飲んでいたおばさんが優しい声で「御馳走様でした」と言い残して退店した。それが口火となったのか、常連の爺さんと、スーツ姿の男性も続く。これで店内に残る客は、俺と姉貴、そしてアマっちの三人のみ。もう遠慮する事は無いだろう。ようやっと心置きなく声が出せると思った俺は、他人事のように言い放ったアマっちに抗言しようと口を開いた。

「そうかって、……それだけかよ?」

 俺の問いかけに対してアマっちは、

「お前がそう思ってるのならそうなんだろ。オレは義信じゃない。だからお前がどう考えてどう判断したのかなんてわからない。譲れない考えがあってそう判断したと断言出来るのなら、そうなんじゃないか?」

 と、素っ気も味気も、関心も無く返した。

 ちらりと姉貴に横目を使うと、姉貴は相も変わらず無聊ぶりょうを慰めるように、外の景色を遠望している。

 俺の回答なんてどうでもいいらしい。

 アマっちが岡目を使うのはわかる──だが、姉貴に悠悠閑閑ゆうゆうかんかんとされるのは腑に落ちない。

「おい姉貴。さっきから余所見してんじゃねぇよ」

「……」

「シカトかよ」

 ぺっと唾を吐き捨てたくなる気持ちを堪えて、どこを視るでもなく、眼に止まった天井に吊るされたプロペラに眼を飛ばす。グルグルとゆったり回転する羽みたいなヤツ、あれを他の店や施設でも見かけるけど、一体どんな効果があるんだ? 扇風機にしては弱過ぎるし、かと言って強で風を送られても料理や書類が吹き飛ぶだけだ。……意味ねぇんじゃね? 割とガチで。

 ──後で優志に訊いてみるか、読書家は物知りと相場が決まってるしな。

 俺も姉貴もだんまりを決め込んでいるので、険悪でよどんだ空気がダンデライオンに充満すると、耐え切れなくなったアマっちがげんなりと眉を落として、テーブルを指でトントンと二回小突いた。

「お前らなぁ……、まあいい。義信は珈琲でも飲んでろ。オレは琴美と話すから、興味有るなら小耳でも立ててな」

 姉貴の言い分なんて、理不尽で、横暴で、根拠もへったくれも無い屁理屈だろ。

 ……まあ、それでも訊いてやらない事もない。

「琴美」

 アマっちはまるで、駄々をこねる子供をあやすような優しい声で、姉貴の名前を呼んだ。

 俺とは随分扱いが違うじゃねぇか。

 あれか、男女差別か? それとも単に俺が舐められてるだけか?

 ……だろうな。

 名前を呼ばれた姉貴は返事をせずに、眼だけアマっちに向けた。

 左手の頬をテーブルの角に置いて、手の甲に頬を乗せている。潰れた頬が姉貴の左眼を細めているので、余計に眼つきが悪く視えるも、アマっちはそれを気にする様子は無い。あくまで中立を貫いているんだろうけど、4:6の割合で姉貴を優遇している気がするんだが? 言わずもがな、少ない方が俺だ。

 むくれっ面でストローを咥えている姉貴は返事の変わりに、口に咥えたストローを縦に揺らす。

「オレは琴美がどんな人物で、どういう考え方をするのかわからない。当然だろ? ついさっき知り合ったばかりだしな。そんな短期間で琴美の全てを知った……なんて、思い上がるつもりは毛頭無い」

 アマっちは不意にテーブルの上へと視線を落とした。

 視線の先を辿ると、空になったコーヒーカップとガラスのストレートグラス。

 それに気づいた俺は照史さんを呼ぼうとしたが、その隙に俺の前にある水が入ったグラスを手に取り、勝手に一口飲んだ。

「おい! それ俺の」

「硬い事言うな。オレと関節キスが出来て嬉しいだろ」

 フッとキザったらしくアマっちは笑う。

「嬉しくねぇよ!」

 お前の事情を考慮すると結構複雑なんだぞ!? 割とガチで!

 そう思った時、梅高祭の片付けをすっぽかして体育館二階で赤裸々に語られた話と、大胆に視せられたアマっちの乳房が脳裏に過ぎり、いかんいかんけしからんと頭をブンブン振って、よこしまな記憶を払った。……多分、Bくらいあったな。

 俺が『心頭滅却すればヤバい涼しい』と、心を精錬させる努力をしている最中も、話はどんどん進んでいく。

「詳しい話は知らないが、まだ琴美の中で答えは出てないんだろ。だから義信に何度も責付かれて、売り言葉に買い言葉で返した。……違うか?」

「──答えは出てるのよ。でも、それは」

 そこで話を区切って、姉貴は大きく深呼吸するかのように息を吐き出した。

「そのタイミングは今じゃない」

 その答えは初耳だった──。

 俺が何度も問い質しても姉貴は言を左右して、のらりくらりと逃れていたのに、アマっちが質問したら素直に白状しやがった。

 ……俺は実の弟だぞ。

 弟に言わないで、道すがら知り合った他人には簡単に口を開くのかよ。

 ──こんなの、納得出来るはずも無い。

 憤りを言葉に出そうと身を乗りだしたが、それを横眼で視ていたアマっちが左手で俺の太腿に触れて、『今は堪えろ』と言いたげに首を振る。

「……そうか。それじゃあ、琴美にも義信と同じ質問をするぞ。──琴美はどっちだと思う」

「私は──」

 俺の右腿に置かれているアマっちの手にぎゅっと力が入る。

『どんな答えが出てくるにしろ、今は受け止めろ』

 その手の温もりに、そう言われた気がしてならなかった──。

「私は暴力だと思うわ」



 窓辺から差し込む夕陽が嫌に眩しかった。

 思わず顰めた眉は、眉間に深く皺を作っただろう。

 沈黙を紛らわせるように、サックスソロがプワーっと音を伸ばしている。

 雰囲気のいい夕暮れ時。

 百貨店の裏道を紅葉色に染める空は、カメラのシャッターを切るには充分過ぎる理由になる。

 哀愁漂うサックスも相俟って、湯気立つ珈琲も一段と美味しく感じるだろう。

 ──何事も無ければの話だが。

 姉貴の口から衝いて出た答えは俺と違って、それが俺を〈拒絶〉するかのように、頭の中で乱反射している。

 どうしてだ? と質問を返す時間はたっぷりあったのに、その一言さえ発する事を憚られるような状況。

 後味の悪いガムを噛んで、吐き出す紙が手元に無く、始末悪げにもごもごと舌の奥で転がしているような不快感に苛まれながら、俺は誰かがこの居心地の悪い沈黙を破るのを待った。

 左腿に置かれていたアマっちの手は既に離されて、仄かに残る一抹の温もりが、余計に俺の心を騒つかせる。

 これ以上この話題を続けても、誰も徳はしないだろう。

 むしろ、損をするだけだ。

 我儘な姉貴はいつもの事で、俺が謝れば済む。

 そして、だからお前は愚弟なのだ──と悪態吐いて、姉貴は部屋で原稿やら課題のレポートやらに取りかかるだろう。

 それが、俺と姉貴が往々と繰り返してきた姉弟喧嘩だ。

 今回もこれで結末を迎えればいい、……そう思って開口しようとしたが、俺と同じくして口を開いたアマっちが先に口を切った。

「お前ら、本当に面倒臭い姉弟だな」

 そうだろうな、俺もそう思う。

 姉貴は嘲笑しながら、

「それでも付き添う物好きさんもいるけどねぇー」

 と、悪びれる様子も無く唇を窄めながら皮肉を吐く。

 アマっちは俺らの選択を訊いてどう思ったんだろうか? 不意に首を向けると、俺の水を当然かのようにぐびぐびと飲み干してから、「そうだな」と、いつもの仏頂面で答えた。



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