【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

一百二十七時限目 佐竹姉弟の喧嘩 ①


 ダンデライオンの入口のドアを開くと、天井に設置されたスピーカーからジャズピアノの音色。そして、香り高い珈琲の匂いが俺の鼻をくすぐる。もう嗅ぎ慣れた香りだというのに、何度嗅いでも「いい香りだな」と舌鼓を打つのは、それだけ照史さんが淹れる珈琲が美味いって事だろう。

 振り子時計と観葉植物の間を抜けると、木目調のカウンターテーブルがある。席数は五席、椅子部分が丸い回転式のパイプ椅子が席数分、等間隔で並べられてあるが、この席全てが埋まった所を俺は視た事がない。今日もひとつ飛ばしで常連客と思わしき爺さんと、偶々入ったであろうスーツ姿の男性。そして、買い物帰りに寄った主婦のおばちゃんが、隣の空いている椅子の上にビニール袋を乗せていた。

 カウンターの奥はキッチンになっていて、照史さんはここで珈琲を淹れたり、サンドイッチ等を調理する。今日は全ての客のオーダーを終わらせていたのか、洗い終わった食器類を布巾で丁寧に拭いていた。

 照史さんは拭いていたグラスを背後にある棚へ置いた後、「やあ、いらっしゃい」と、いつもと同じように俺に微笑んだ。

「うっす……あの、姉貴は?」

 俺の問いに頷きだけで返した照史さんは、視線をテーブル席の方へ移した。どうやらいつもの席にいるらしいが、この距離で話し声が聴こえてこないのが不気味だ。恐る恐る照史さんが向けた視線の先を辿るように首を向けると、いつもの席の壁際に姉貴が座り、眼を細めて俺を睨みつけていた。姉貴の対面に座ってるのはアマっちだろう。赤茶色のフード付きパーカーは、優梨が視せてくれた写真の色と一致している。

 俺は照史さんにブレンドを注文してから、姉貴達が座るいつもの席へと足を向けた。

「……」

「……」

 おう、とか、御機嫌よう、とか、そういう挨拶をする雰囲気では無いので、俺も姉貴も眼を合わせた所で無言。アマっちだけが「やっときたか」とだけ反応して、通路側の席の椅子を引いた。その椅子に腰掛けると、タイミングを見計らったように、照史さんがお冷を持ってきて、去り際に耳元で「May the Force be with youフォースと共にあれ」と囁いた。──俺はジェダイじゃないんだが? 眼前右側にいるアネキンと戦うにはそれなりの力が必要で、隣に座るアマっちに「アマっち頼むぞ、ガチで」と懇願してみる。

「そのあだ名で呼ぶな殺すぞ」

 今日も決まり文句は絶好調らしい。

 流星のそれ・・はパンのヒーローが言う『元気一〇〇倍!』に通じるものがある。機嫌が悪い時は単刀直入に『死ね』と言うからな。……つか、口悪過ぎねぇか? 流星は色々と混み入った退っ引きならぬ事情があって口調を荒げているのかも知れねぇけど、クラスにいる男子でもここまで悪態は吐かないぞ? 普通にガチで。

「何しに来たの、義信。今、デート中なんだけど」

 姉貴が目角を立てながら、強い口調で抗議してきた。

「婚約前の癖に何言ってんだ。それに、差し向けたのは姉貴の方だろ」

 一触即発モードで空気が悪い。

 隣にいるアマっちは大層人心地無いだろう。 

「お前が喧嘩を買ってどうするんだ、義信。後、琴美も琴美だ。暴れたいなら外でやってくれ。そうじゃないなら静かに話せよ」

「わかってるわよ」

 ……これは俺も予想していなかった。

 姉貴がアマっちの言う事を訊くのは百歩譲って正論だからわかる。俺が眼を丸くして驚いたのは、アマっちが姉貴を『琴美』と呼び捨てで呼んだ事だ。優志だって『さん』を付けるし、絶対に敬語は外さない。上下関係にそこまで煩くない姉貴だが、今日会ったばかりのアマっちにそこまで許すのか?

 俺がここに来るまでの間、姉貴とアマっちの間に何があったんだ……?

「優志から大雑把に経緯は訊いた。琴美は義信に謝る気は無いだろ」

「当然じゃない」

 当然なのかよ! ムカつくな、マジで。

「……で、義信はどうだ?」

「なんで俺が姉貴に頭を下げなきゃいけねぇんだよ。悪いのはヒステリーを起こした姉貴だろ? 俺が謝るのは筋違いだ」

「──ま、そう言うだろうな」

 アマっちは所在無さげに呟き、手元の氷だけ入ったコップを唇に当てて、氷を口の中へ放り込むとゴリゴリ噛み砕いた。アマっちが氷を噛み砕いている間に、照史さんが淹れてくれた珈琲が手元に届く。その珈琲を口に含むと、今日はやたら苦味が濃く感じて眉間に皺が寄った。

 姉貴は姉貴で外の風景をむように眺めては、ボソボソと声にならない声で呟いていたが、多分、俺に対しての悪口雑言あっくうぞうごんだろう事はわかる。だから俺も目の前にある壁に掛けられた風景画を視ながら口を窄めて、ぶつくさと罵詈雑言ばりぞうごんを吐いてると、氷を食べ終えたアマっちが「どうしようもない姉弟だな」と嘲笑して、大きな溜め息を零した。

「義信。一つ訊ねるが、どうして琴美が怒ってるのかわかるか?」

 姉貴が俺にキレた理由なんて、そんなの決まってる。

「結婚の事を責付せつかれて、ヒステリックになっただけだろ?」

「ふうん。……で、琴美はどうして義信が腹を立てたのかわかるか?」

「どうでもいいわ、そんなの」

 ──どうでもいい、だと?

 俺がこれまで姉貴に散々虚仮こけにされて、我儘も訊いて、それでも我慢してきたってのに、それすらも『どうでもいい』で済ませる気か? ──これまでの不当な扱いが脳裏を過る。

「あ? ふざけんなよ」

「ふざけてないわよー?」

 姉貴は俺を挑発するな眼つきで嘲った。しかし──

「……はいはい。そういうの面倒臭いから黙れ」

 アマっちはあくまでペースを崩さずに、難無く司会進行をしていく。

「先ずは義信の悪い点だ」

「は? 俺が悪い所なんて無──」

「黙れ殺すぞ」

 今日一で睨まれた気がする。

 その眼は据わっていて、俺の発言を許さないという意思が容易に受け取れた。

 下手したら殺されないまでも、左頬は確実に抉られそうだったので、俺は喉元にまで込み上げていた鬱憤を水で呑み下して、きまり悪く舌を打つ。

「実の姉が相手だとしても、須くは女性だ。男と女では体の構造も思考の原理も違う。だからと言ってフェミニストになれって言ってるわけじゃない。家族っていうのは一番近しい他人だ。そんな相手に〝ヒステリックな女だ〟って言ってみろ、普通はキレるよな。男で例えるなら〝女々しいヤツだ〟とか〝根性無し〟って言うようなもんだぞ? 双方意味は違えど、腹立たしいと思う言葉には変わりない」

「さすがは流星、わかってるわねー」

 すかさず姉貴が茶々を入れるも、流星がぎろりと睨んで黙殺する。

「喧嘩すんのは結構だ。思う存分にやればいい。なんなら殴り合いでもいいぞ。でもそれは相手の気持ちを汲んで、それでも主張を曲げられない時だけだ。相手をけなしておとしめるだけの行為は喧嘩じゃない。……それは単なる暴力だ。義信、お前はどっちだと思う。喧嘩か? それとも暴力か?」

「俺は……」

 俺の怒りの根源は姉貴への不満だ。

 結婚どうこうは別に問題じゃない。

 仮に姉貴が紗子さんと結婚するのなら、俺は祝福する気満々だった。親父やお袋は猛反対するかもしれないけど言い出したら訊かない性格だから、勘当されても一緒になる覚悟だろう。もしそうなったとしても、それは姉貴の選んだ選択で、姉貴の人生だ。険しい道程になるだろうけど、それもわかった上で決断するなら俺も何も言わない。──ただ、俺は最近の姉貴の言動の数々を視て、感じて、何か不満があるような気がしてならなかった。

 紗子さんとは何度か話し合いの場を設けているらしいが、帰ってきちゃ自棄酒やけざけして俺に絡んでくる。……その様子を視て、

『結婚はどうなってるんだ?』

 と訊ねるのは普通だろ?

 それなのに、

『アンタには関係無い』

 ……って吐き捨てられたら、頭にくるのは当然な流れだ。

 だから俺は──

「喧嘩だと思ってる」

 そう、アマっちに告げた。



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