【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

一百十一時限目 佐竹と雨地 ④


 姉貴以外の〈女性の胸部〉を視るのは初めてだった。それも〈同年代タメ〉という、一番身近にあって一番離れた距離にいる相手のを……、だ。だが、まじまじと視ていいモノではない。まさか臆面も無く、それも堂々と晒け出すとは思わず、俺は咄嗟に、アマっちから体ごと逸らした。

「わ、わかったからしまえって」

「なんだ。オレの胸を視て欲情でもしたか?」

 欲情なんてするはずがない。

 俺はアマっちをずっと『男』だと思っていたから、胸の膨らみを視てもまだ脳が処理出来ていないらしく、『一般的な男性よりも胸部が大きい男』という認識で働いている。

「そういうのは大切な相手が出来たら、その相手に視せろよ」

「純情なんだな。オレは胸部を男に視られても、どうということはない。……オレは〝男〟だからな」

「は? ……意味わかんねぇ」

 俺の背後で服の掠れる音が聴こえる。

「もういいぞ」

 その呼び声を訊いて振り向くと、男性用の制服を着ているアマっちが、口元に薄ら笑みを浮かべながら俺を見下ろしている。

 生物学的に言えば女だ。──そう、アマっちは言った。

 言われてみれば、アマっちの手は男性のごつごつとした手ではなくキメ細やかで、爪も綺麗に透き通っている。胸を露わにした時、腹筋が割れていた。二の腕にもしっかりと筋肉がついていたので、何かしらのトレーニングをしているのだろうと予想出来る。背丈は優志よりも大きく、俺よりは小さい。女性からすれば大きい方だが、男性目線で言えば平均身長だろう。声もハスキーだし、『ジェンダーレス男子』と言われたら、「なるほど」と納得してしまう。両耳にピアスの穴が空いているのはそれ故かと思ったが、もしかするとアマっちの『女性らしさの名残り』なのかもしれない。今は片耳にシルバーの小さなピアスが付いているだけだが、過去に、もっと可愛らしいピアスを両耳に付けていたりしたのか? ……それも想像つかないが。

「アマっちは、つまりどっち・・・なんだ?」

「生物学的に言えば女だが、オレはその性を認めていない。心は男だ」

 体は女、心は男……。

「つまり〝性同一性障害〟ってわけか?」

「その呼び方は好きじゃない。オレは〝トランスジェンダー〟なんだ」

「トランスジェンダー?」

「トランスジェンダーの説明を義信にしても理解出来るとは思えないが、簡単に言ってしまうと〝性自認と周囲から視られる性が異なる状態〟を指す。〝性同一性障害〟もこの〝トランスジェンダー〟という言葉の括りに入るが、オレはこの〝障害〟という言葉に違和感があるから、その呼び方は使いたくない」

 アマっちの場合は『性自認』が『体と心で食い違っている』って事か。男性用の服を着用するようになった経緯は定かじゃないが、ここまで来るのにどれだけ苦悩して足掻いたのか想像を絶する。程よく筋肉が付いているのも、『女性らしさを隠す為』なら殊更だ。

 俺の悩みなんて、アマっちからすれば可愛いもんだろうな。

 ──そう思うと、自分が情けなくなる。

 だけど、俺に胸部を視せる意味はあったんだろうか? 確かに俺は馬鹿だが、説明さえしてくれればそれで済む話だ。それで理解出来ない程、俺のおつむは弱くない。

 もしや露出癖でもあるのか!? ……なんて、おちゃらける雰囲気でもないよな。

「オレが女だと知ってどう思った」

「……正直、戸惑ってる」

 だろうな。──と、アマっちは呟いた。

「だが、オレは義信にどう思われようが構わん。お前がクラスの連中に言いふらしたとしても、オレは自分を変えるつもりはない。……義信、お前はどうなんだ。優志が好きだって気持ちは本物なんだろ。それとも、自分を殺してクラス連中を取るか?」

 そんな事はない。──と、断言出来なかった。

 これまで、自分なりに悩んで、答えを模索したつもりだった。変わろうとも思ったし、その為に勉強もした。だけど俺は、どうもアプローチの仕方を間違えたらしい。変わらなければならなかったのは言葉や考え方ではなく、精神的なものだったんだ。覚悟と言ってもいい。

 俺とアマっちの違いはそこにある。

「今すぐ答えを出せってわけじゃない。だけど、義信がそうやって立ち止まっている間に、優志が誰かに取られてしまうって事も考えておくんだな。……安心しろ、オレはアイツを恋愛対象にはしていない。面白いヤツだとは思うけどな」

 その言葉に安心した自分が、更に腹立たしい。

「……寒くなってきたな」

 そう言って、アマっちは両肘を抱き締める。

 雨風を凌げると言っても、ひんやりとした体育館では体の熱を奪われる。こんな所で上半身裸になれば、尚更そうだろう。

 さっきまで聴こえていた体育館一階の作業の音も、いつの間にか聴こえなくなっている。それだけの時間を費やしていたようだ。窓から差し込む斜光が、バスケゴールの影の角度を変えている。遠くの空から烏の鳴き声。そして、午前最後の授業の終わりを告げるチャイムが体育館二階に響いた。

 クラスの片付けをサボるつもりは毛頭無かったが、結果としてサボる事になってしまったようだ。教室に戻ったら、速攻でアイツらに平謝りするしかない。特に楓と恋莉は柳眉を逆立てているはずだ。それって普通にやべぇ状況じゃねぇか……?

 アマっちはゴール下にあったボールを徐に拾い上げて、倉庫までダン、ダン、とドリブルしながら進んでいく。靱やかに曲がる腕は初心者のそれではない。シュートを決めた時もそうだが、中学時代にバスケ部に入ってたんだろうか? 物腰が経験者だと語っている。そして、倉庫の青い扉を開いて奥へと入った所で、俺はその場から立ち上がった。

 考えはひとつも纏まっちゃいない。

 それ所か、余計にこんがらがっていた。……つか、俺の周りにいるヤツらって特殊過ぎやしないか? 無論、俺も含めてだが。

「恋愛って、こんなに難しいもんだったのか……?」

 楓は恋莉が好きで、俺と恋莉は優志、優梨が好き。

 ……優志は、誰を好きになるんだろう。

 その相手が俺だったらいいのに、その可能性を考えられない。

 俺と優志が付き合っているイメージが全く浮かばない。

 姉貴はどうするんだろうか? 沙子さんと結婚するとかいう話し合いはまだ続いているが、その話題も最近は音沙汰無しで有耶無耶になりつつある。……何だか全てが朧気だ。

 では問題です。では何でしょう? というなぞなぞの答えが『で』は『問題』という答えを導いて、じゃあ、その根本的な問題って何だ? と考えた時、結局は虚無、空洞、空白、半透明なもので、問題定義もあったんもんじゃい。

 重い扉が締まる音が聴こえて、俺は立ち上がったままその場に棒立ちしていた事に気がついた。立ち上がったなら進めばいいのに、結局、その一歩すら踏み出す事も叶わなかったようだ。

「義信」

 ボールを片付け終わったアマっちが、中央辺りで俺を呼んだ。

「なんだよ、流星・・

「オレをそのあだ名で呼……今、なんて呼んだ?」

「アマっち」

「やっぱ殺す」

 残機はもう残ってないぞ、残念だったな。

「これからどうするんだ」

 アマっちが訊ねた『これから』を指し示す意味は、さっきの続きなのか、それとも今日の予定なのか。恐らくは後者だと思いたい。

「教室に戻る。アマっちはどうすんだ?」

「帰る」

「……何しに来たんだよ」

「気分転換だ」

 それが学校に来た理由だとしたら、その結果は悲惨だな。これなら逆に、学校に来ない方が気分転換になったんじゃないかってレベルだ。普通に考えて。

 ──普通って、なんだろうな。

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