【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
八十九時限目 大和撫子でいられれば ⑤
どうして──なんて、訊き返すのは野暮だろうか? 脈絡もなく、そんな願望を洩らすとも思えない。天野さんには、きっと、そうに至った理由があるんだろう。……どんな理由があるというんだ? 『接吻を交わしたい』という願望に、深い理由なんてあるか? ……欲望や、劣情以外に、理由なんて無い。
「いいの……? だめなの……?」
天野さんは濡れっぽい声で僕に問うと、拳一個分程度距離を詰めて寄り、婀娜めいた表情を浮かべる。漏れる吐息が耳を擽ぐるようだ。眼を閉じて答えを委ねてしまえば、僕の唇が天野さんの柔らかそうな唇に触れる。そして、道徳も、常識も、全部すっ飛ばして、重なった唇に、盲目的で妄信的な哀を乗せる──。
……正直に言えば、その問いに拒否する理由は無い。
健全な男子高校生なら、一度は夢見るシチュエーションだろう。その相手が同級生とあれば尚更だ。
だけど、
「……駄目だよ」
僕は拒絶した。
天野さんを酷く傷つけてしまう事実も苦慮したけど、気の迷いや、一時の色情に流されたら、それこそ、離岸流に呑み込まれたあの時のように溺れてしまう。そして、抜け出せなくなって、息が出来なくなる。──欲望を満たすだけの口づけなんて、虚しいだけだ。なんて、格好つけてみるけど、心の中では『折角のチャンスなのに』と、浅ましく思う自分がいる。本音と建前は、いつもこうして対立して、いっかな思うようにならない。
「……そうよね。ごめんなさい」
拳一個分の距離が、ひと一人分くらいの距離になった。その距離を流れる漆黒の海は、気が遠くなりそうな困難と、延々と続く後悔が相半ばする感情が、轟々と渦巻いているようで、今の僕では、その海を渡り切る船を操ることは出来そうにない。
「臆病でごめん」
結局は臆病なんだ。天野さんの好意に応えられないのも、佐竹の好意を無下にするのも、それを肯定してしまう自分も全部、僕が中途半端だからだ。手に入れたら、離れてしまう。受け入れたら、壊れてしまう。
これが離壊の本質だ。
然ればとて、いつまでも現状維持ではいられないのもわかってる。
「本当に、優志君は臆病よ……、だけど、それも優志君だから、ちゃんと受け入れるわ」
「……」
「でも、〝受け入れる事〟と〝容認する事〟は違う。だから、勘違いしないでね」
「肝に命じておきます……」
天野さんは微苦笑しながら、隣に置いていた弁当箱を鞄にしまうと、両足を投げるようにしてベンチから立ち上がった。
「私は、諦めないわよ」
そう言い残して、足早に校舎へと走り去る後ろ姿を、僕は呆然と見つめている。
諦めない、か。
──何を? なんて考えて、僕は首を振った。
……それを考える事こそ、野暮というものだ。
それに、今、考えなければならないのは、大人びた表情をしていた天野さんのことではない。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、学校中に響いた──。
* * *
「まさか、ここまで値が張るとは……」
「今月、ガチで金欠になりそうだわ」
「アンタはもっと計画的にお金を使いなさいよ。財布の中身も佐竹ってちゃ、全身佐竹じゃない」
「俺は紛う事無き佐竹なんだが!?」
駅近くにある百貨店のフルーツ売り場で、僕らは、お見舞いに渡すフルーツバスケットの値段を視て、驚愕を露にしていた。
これまでお見舞いに行くとなると、空手に、気持ち程度の言葉で済ませていたけど、行く場所が場所だけに、『休みの分のプリントを持ってきましたー』では、門前払いを食らう。ドレスコードのある式場に、普段着、サンダルで向かうようなものだ。だから、形だけでも見栄を張って、月ノ宮家の中へ侵入……ではなく、招いて貰う必要がある。
まさか、フルーツバスケットを持った客人を、あっちいけと門前払いするような態度は取らないはずだ──と、小賢しく算段を企ててみたが、
「パイナップル、バナナ、蜜柑、メロン、グレープフルーツで六千円とか……。これ、八割はメロンの値段だろ。ほら、マスクメロンだぞ。マジで」
「佐竹。恥ずかしいから、それ以上息をしないでくれないかな」
「死ねる!?」
さすがに辛辣過ぎたか。別にいいか。佐竹だし。
予算は四千円に税が付いた値段だったけど、六千か……これはやり過ぎじゃないだろうか? しかし、店頭に並んでいるのは、椀飯振舞を体現したようなバスケットしかない。
どうしたものかと路頭に迷っていると、天野さんは何か思いついたのか、「ちょっと待ってて」と、売り場のおばちゃん店員さんの元へ小走りして行った。
「何か策でも思いついたのか?」
「どうだろう。少なからず、僕らよりはこういう知識を持ってるだろうね」
なんで女子というのは、男子よりも、こういう状況で打開策を見出せるのだろうか? 因みに、男子だと『妥協策』が浮かぶ。例えば『プリンでいいんじゃないか?』とかね。でも、和菓子屋にあるプリンは舌を鳴らす程に美味で、それはそれでありなんじゃないか? とも思うけど、そんな都合よく和菓子屋は無い。だからこの場合、デザートコーナーにある『なめらか口どけプリン』とか、『プッチンプリン』とかになるだろう。それではさすがに安上がり過ぎて、堂々と顔向け出来そうもないなぁ。
「なあ、この際だからシュークリームとかでよくね? 普通に、マジで」
……ほらね? 男子の浅知恵なんて、大体、こんなもんです。
佐竹とショートコント『男子あるある』をやっていると、話を終えた天野さんが嬉々とした安堵の表情で戻ってきた。
「店員さんに話を訊いたら、私達が好きなフルーツを選んでもいいって言ってたわ。どうにか予算に収められそうね」
「マジか! 神かよ!」
違います。彼女は人間です。〈No,She is human,〉
中学生の英文の訳みたいな感想が浮かぶも、僕はそれを呑み下し、天野さんのファインプレーに賛辞を送る。
「……それで、どれくらいに抑えられるの?」
「メロンを選ばなければ、三、四千くらいにはなるんじゃないかしら?」
僕らは店員さんが用意してくれたバスケットを視て、ひとつの決断を迫られた。
「なあ、これ……、メロンかスイカが無ぇと、見栄え悪くねぇか……」
「遺憾だけど、僕もそう思う」
「……バスケットは、諦めましょうか? いえ、まだ諦めるような時間じゃないわ!」
そうして、僕らは百貨店を後にした。
佐竹の片手にあるバスケットの中には、メロンの代わりに、バナナがもう一房、申し訳なさそうに横たわっている。月ノ宮さん、バナナ、大好きだといいが……。
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