【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

八十八時限目 大和撫子でいられれば ④


 教室は閑散としていた。それでも、閑古鳥は鳴かない。

 綺麗に整列された机が、窓から差し込む光によって影を伸ばす。ゴウンゴウンと忙しなく動いているのは、教室後方、棚の上に置かれた水槽の酸素ポンプのモーター音だろう。静かな教室にやたら響いていた。

 その水槽の中でメダカ達が悠々と泳いでいる。

 僕は水槽の中に餌を一摘み入れると、腹を空かせたメダカ達がその餌を待ってましたと言わんばかりに、元気よく啄む。

 こんな狭い空間に閉じ込められて、メダカ達の一生は終わる。

 そう考えると、魚を飼うという行為自体が、何だか酷く、非・人道的行為に思えてならないけど、メダカからすれば僕らも同じように視えるのかもしれない。

 僕は動物愛護を猛烈に訴えるような過激派ではないし、ましてや、ベジタリアンでもなく、極一般的な無神論者だ。無神論を語ってはいても、高校入試前には神社で合格祈願をしたし、毎年、クリスマスを祝っている。クリスマスはキリストの誕生日ではない。とか、ネットで読んだ事があるけど、クリスマスを祝っている大多数の人間は、キリストではなく、七面鳥の冥福を祈っているはずだ。だから実質、クリスマスは七面鳥の葬式。──僕の中で、クリスマスに対する特別な感情が無くなった。元から無いけど。

 水槽の前で懺悔しても仕方がない。そして、メダカ達にはいい迷惑だっただろう。お詫びにもう一摘み、餌を入れておく。

 どこからともなく深い溜め息が聞こえた。

 その主を教室に探すも、未だ教室には僕しかいないので、その溜め息の犯人は僕だったようだ。なるほど、叙述トリックはこうして生まれるんだな。いや、ちょっと違うか。だけど今なら密室は作れるかもしれない。

 自分の席に腰を下ろして、鞄を枕代わりに、隙間からイヤホンのコードを伸ばして、いつも通りに狸寝入りを決め込んだ。音楽は鳴らさない。どうせ、いい所で佐竹に起こされるのだから。……狸寝入りとは?

 僕は天野さんと、海の件以来、距離を図り倦ねていた。どうも上手く歯車が噛み合わない。だから、会話も余所余所しくなる。有り体の事しか言えなくなる。

 思い返せば、あれは、確かに随分と遠回しで下手な喩えだった。だけど、グリム童話を読み返す気にはなれそうもない。

 遠くの方で、誰かが教室の電気をつける音が聞こえた。ああ、そう言えば点けてなかったっけ。ごめんよ誰かさん。うっかりしてたんだ。また心にもない謝罪を誰にでもなくしているのは、無意識に、罪から逃れたいからだろうか。それも、違う気がするけど、はて、どうだろうか。

 明かりが点いたという事は、閑静な教室に誰かがやって来た証拠で、おそらくは〈2バス勢〉が到着したのだろう。ぞろぞろと教室に、退屈混じりの足音が増えた。徒然なるままに、日暮し、すずりにむかひて──徒然草の有名な一節が頭を過る。
 

「おい、起きろ」

 やたら重い衝撃が僕の後頭部を揺らす。

 チョップするなら、せめて力加減を考えて欲しい。その衝撃で名前を忘れたじゃないか。えっと、たけ、竹……。

「ああ……、おはよう。竹林ちくりん

「竹が増えてんじゃねぇか!?」

 朝から元気だな、佐竹。竹生える。

 佐竹は呆れ顔で僕の前にある自分の席へ腰掛けた後、体は中央へ、背凭れを肘置き代わりに足を組んだ。その堂々とした態度、さすがはクラスカースト上位だ。裸の王様と罵れたらどんなにいいだろう。しかし、そこまで馬鹿ではないので悪態は呑み込んだ。

「……つか、マジで恋莉と何かあったか?」

 きっと、あったんだろう。ただ、それを認めてしまえば、余計に問題が増えて、気苦労が増す。だから、

「あったかと言われたらあったし、無かったと言えば無かった」

 などと、あやふやに、居心地の悪さに言葉を濁した。

「はあ? なんだそれ」

「なんだろうね。僕にもわからないよ」

「何があったか知らんけど、放課後までには何とかしておけよ?」

 そして、佐竹は僕の返答を待たずに、仲良しグループの中へ溶け込んだ。

 もう一度天野さんへと視線を向けると、天野さんの周りにも数人の女子が集まっている。

 佐竹にしても、天野さんにしても、帰るべき場所があるのなら、その場所にずっと住み続ければいいのに、どうして僕に構うのだろうか。どうして、僕に未確定な居場所を作るのだろうか。それが『優しさ』だと定義するのなら、優しさという物は何と残酷だろう。

 誰にでも優しいから、僕にも優しい。僕は彼、彼女らのモブであり、慈しむ心はあれど、愛しさを向けられる筋合いはないのに……止めた。これでは逆戻りだ。考えるな、感じろ。強請るな、勝ち取れ。さすれば与えられん。……何が、欲しいんだろう。




 * * *




 午前の授業が終わり、机の横に引っ掛けている鞄の中にある弁当箱を、弁当箱を? べんとう、ばこ……? うげぇ……弁当を持ってくるのを忘れたらしい。嗚呼、僕の好物であるレッドホットエビチリペッパーズが……。頭の中でパラレルユニバースがバイザウェイして、アンコールにカルフォルニケイションまで流れてちょっと豪華。だけど、それで腹を満たす事は出来ない。

 仕方がない、学食を買うか……いや、今日は出費が嵩む。サンドイッチにすれば半額で済ませられる。カツサンドがあればいいな。あれ、美味しいんだよね。そう思うと、少しは気も紛れる。

 僕が席を立つと、なぜかクラス連中の視線が僕に向けられる。……え、そんなに煩く椅子を引きましたかね? いやいや、『お前、誰?』みたいな視線を向けられても困るんですが。むしろそれは僕の台詞で、お前ら誰だよのガリバー状態。まあ、きっと僕が悪いんだろう。多分、知らないけど。

 空気が目立って申し訳ないですね……。以後、適当に気をつけますわ。満員電車で申し訳なさそうに横切るサラリーマンみたいに、片手で謝罪の体を表しながら、人心地無い空間から脱出すると、廊下で天野さんとばったり会ってしまった。何とも気まずい。

「優志君、お昼は?」

「弁当忘れて、これから学食の購買でサンドイッチを買いに行く所だよ」

「そうなんだ。エビチリ食べれなくて残念ね」

「え?」

 どうして僕がエビチリ好きだって知ってるんだ? ──の、『エビ』まで言葉が出掛かっていたかもしれない。むしろ全部言った気がする。いや、言ってた。語尾は違ったけど。

「だって、いつもエビチリが入ってるじゃない」

「確かに」

 『確えび』の方が、この場合は正しかったか? というか、あまりじろじろと弁当の中身を視られると、家庭の事情を見透かされるような気がして嫌なんですが。洞察力が凄いのはわかったけど……って、それは今に始まった事じゃないか。僕と佐竹の嘘を看破した天野さんに、下手な嘘は通用しない……あれ? じゃあ、僕がこれまでうんたらかんたら云々言ってたのも見透かされていたり……それこそ杞憂か。

 何だか居た堪れない雰囲気に、僕も、天野さんも、それ以上言葉を交える事が憚られて、沈黙が続いてしまった。

「……じゃ、じゃあ、僕はこれにて」

 ドロンします。嫁がこれでこれなんで……とか、さっきから『サラリーマンがよくやる言い訳シリーズ』が頭に浮かぶのはどうしてだろう。

「待って!」

 その声は、騒つく廊下にやたら響いた。

 天野さんも思いがけずに出た大声だったようで、薄っすら頬を染めながら、俯いて、それでも、両手を固く握りしめて、決意したかのように僕の眼を視る。

「ふたりっきりで話がしたいんだけど、いつもの場所まで、いい?」

「今から?」

「今から」

 あの、僕、お腹減ってるんですけどねぇ……。



 そこはかとなく、風も夏より涼しくなってきた。

 だからといってこのベストプレイスを捨てることは出来ない。風は友達さ! 翼君かな? 若林君の鉄壁振りは異常。そして、僕にはガッツが足りない。ガッツもだけど、昼飯が無い。足りない所の騒ぎではなかった。

 校庭の隅に置かれたベンチは、木陰の下にあるので、上手い具合に木漏れ日が芝部を照らしている。天野さんとこうしてベンチに並んで座るのは、これで何度目だろうか? 男子高校生が羨むシチュエーションではあるものの、それを嬉々として喜べないのは、まるでお通夜のような状況に置かれているからだろう。

 野球部が昼練をしている声が遠くから聞こえる。

 バットの芯で白球を捉えた甲高い音が響き、その球は大きなアーチを描いて、吸い込まれるように野手のグローブに収まった。後少し角度が違ったらホームランだったかもしれない。だけど、僕に野球の知識なんて、スリーアウトでチェンジくらいなものであり、ピッチャーとバッターの鬩ぎ合いなど、当然わかるはずもなく、ましてや、自分と自分の鬩ぎ合いにすら戸惑い、度を失うくらいだ。どうも駆け引きには向いていない。

「朝の事なんだけど、……ごめんなさい」

 間が持たなくなったのだろう、天野さんは隣に座ったまま、体だけを屈める。

 女の子を先に謝らせるなんて、漢としてどうなんだろうか? それでも僕はやってないと言えば、全てがFになってインシテミル。……そうそう、桐島、部活やめるってよ。桐島って誰だよ。そんな名前のクラスメイト、おそらくいない。──多分。知らないけど。

 言葉を選んでいる内に、すこぶるどうでもいい事を思い浮かべる悪癖は、もう一生治らなそうだ。だから、

「僕の方こそ、……ごめん」

 きっと、僕はピエロよりも道化て視えるんだろう。しかし、これでは些か動機不十分だ。何に対しての謝罪なのかわからない。

 僕がもごもごとしていると、天野さんは、それでも律儀に、自分の感情を僕に伝えようとする。

「何だかずっと、喉に引っかかって取れない何かがあって、今まではそれでもいいって思ってたけど、楓が理由も言わずに休んだから……急に、怖くなって……私、何言ってるんだろ」

 にへらと力無く微笑む天野さんの表情は哀愁を帯びていて、僕の心臓をぎゅっと締め付ける。そんな表情をされても、僕にはどうする事も出来ない。どうにかしたいという気持ちは無きにしも非ずだが、

「……僕も、そうなんだ」

 衝いて吐いた言葉は、同意だった。

 だけど、これでは言葉足らずだと思い、急いで言葉を付け足す。

「どうしていいのかわからないのは、僕も同じで、だけど、えっと……、ちゃんと、考えてるから」

 誠実には誠実で返すのが人情というものだ。ただ、応えるべくした答えが、余りにも不誠実過ぎた。──何を、とは言えない。そう問われたら、何と返答するべきか思案に余る。どうにかこの答えで手を打って貰えないだろうか? と、僕は眼を伏せて視線を切った。

「そう、だよね。……ただ」

「うん?」

「これからは、どんな言葉でもいいから、呑み込まないで? ……ちゃんと、受け止めるから」

「僕が思ってる事なんて、大概がくだらない妄言みたいなもんだよ?」

「それでも、遠慮されるよりいい」

「わかった」

 野球部員達がグラウンドから撤収を始めた。そろそろ、昼休みが終わる。

 結局、お昼ご飯にはありつけなかったが、それは天野さんも同じだ。腰の上に用意してあるピンクのバンダナが巻かれている弁当箱は、ついに開くことはなかった。

「ねえ、優志君」

「なに?」

「キス、しても、いい……?」

 時が止まった気がしたのは、余りにも現実味がない言葉を投げかけられたから、かもしれない──。



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