【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
八十六時限目 大和撫子でいられれば ③
重苦しい沈黙が続く。もう、テイクファイブは聴こえない。
閑散とした店の中、水道の蛇口から水滴が落ちてシンクを叩く。耳障りとは思はないけど、それとなく不安を掻き立てて参る。その所為で口の中が酸っぱくなった気がしたが、これはオレンジジュースの蘞みかもしれない。
照史さんは珈琲片手に、ちらりと窓の外を視た。顰みに倣うにして、僕も外を眺めると、茜色だった風景は、すっかり黒を色濃くしている。夜が始まった。文学的に表現するなら、夜の帳が下りた、だろうか? 生憎、僕はそこまで文豪の作品に精通しているわけじゃない。偏に、読書が趣味でも、宮沢賢治を読まないひとだっている。好きな本を好きなだけ、勝手気儘に気紛れに。ひょっこり顔を出した黒猫が、路地裏に溶け込むように。
整った顔立ちの照史さんは、佐竹とはまた違ったタイプの美男だ。自然と漂う気品を感じるのは、やはり月ノ宮の血だろうか。よく視ると睫毛が長い。顎の関節下にあるホクロが色っぽい。……何を観察してるんだ、僕は。
「意地悪をするつもりはないんだ」
未だに視線は窓の外を向いてるので、その表情から心象を鑑みる事は出来なかった。こそあれ、申し訳なさそうに話す声音から、幾らか察する事は出来る。
「口止め、ですか」
「まあ、そうだね」
随分とそれも歯切れが悪い。
店の前の道を照らす街灯が、今にも切れそうにカチカチと点灯している。その点滅の合間に少女の姿が浮かんだら怖いな、なんて、時々放送している恐怖映像を思い浮かべた。まあ、随分と季節外れではあるが。
「だからボクは、これ以上、楓についてあれこれ言う事は出来ないんだ」
拒絶ではなく、それは『答え』だ。その答えが不服だとしても、口の中に残る酸味と同じく、甘んじて受け入れなければならない。酸っぱいんだか、甘いんだか、本当にオレンジジュースという飲み物は不思議な味がする。
照史さんはわざとらしく猿臂を伸ばして背伸びをした。どうやら話はここまでらしい。
「ありがとうございました」
「ボクは何も答えてないよ。だから、礼を言う必要は無い」
「じゃあ、ご馳走様でした」
「全く……、頑固だな。お粗末様でした」
僕はオレンジジュース代を省いた代金を支払おうとしたが、照史さんはそれを受け取らなかった。何ともまあ、お財布に優しい店である。しかし、それでは先に支払いを済ませたふたりに申し訳が立たない。だから僕は、閉店作業を始めた照史さんの眼を盗み、こっそりと、レジ横にあるキャッシュトレイに夏目漱石先生を一枚置いて、抜き足差し足忍び足、日向は木の葉にて最強、と言わんばかりに、足音を盗むように店を出ようとしたのだが、ドアベルはそれを許してくれなかった。
「楓の事、頼んだよ」
テーブルを拭く手を止めて、視線だけを向ける照史さんに、
「……善処します」
とだけ返した。
その返事は返って来ない。もしかすると首肯だけ返答したのかも知れないけど、直ぐに店を出てしまった僕には、それを知る由もなかった。
* * *
もう見慣れてしまった風景も、夜になれば幾らか新鮮に視えたりするもので、駅前ロータリーには居酒屋のティッシュ配りに勤しんでいる高校生くらいのアルバイトの子が、気怠そうに「安くなるクーポン券が付いてますよー」と、道行く人々に配っているけど、誰一人としてそれを受け取ろうとしない。そのチラシを僕にまで配ろうとするものだから、つい足を止めてしまった。
「どっすかー……って、未成年じゃん。てか、高校生?」
随分とぐいぐい来る呼び込みだな。足を止めた僕も僕だが。というか、香水がキツいな。やたら甘ったるい香りだけど、これがシャネルの5番か!? ……そんなはずはない。むしろ、その香りを嗅いだ事が無い僕は、それがもし不正解だとしても判断出来ない。格付けチェックされたら、僕は、シトラスの香りがするトイレの芳香剤の方を選びそうだ。
「はい……。それでは」
見ず知らずのひとから物を貰ってはいけないと、小学校に入る前から習っていた僕は、その習わしに従って、その場を立ち去ろうとしたのだけれど、
「もしかして、梅高?」
『しかし、敵に回り込まれた!』というテロップも虚しく、逃してはくれない雰囲気になっていた。
「はい。そうですけど」
「やっぱし! その制服、友達も着てたからそうじゃないかと思ったんだー」
「そうですか。それでは」
知らないひとに声を掛けられても着いていかないと、小学一年生になった頃、担任の先生に教わったので、僕はその教えを守ろうとしたんだけど、
「キミ、一年?」
「ええ、まあ。そうですけど」
どうやら『逃走』のコマンドは使えないイベント戦らしい。頭の中でテッ、テッ、テーレー、テッテッテーと、緊張感もへったくれもない戦闘曲が流れた。これは俺の物語だ。素敵だね。きっとその物語は1000の言葉に続くんだろう。……あれは黒歴史だけど。
というか、何なんだこのひと、霊圧が強過ぎる。
最近流行りの肉食系女子だろうか?
僕は空気系男子なので、こういう女子を相手にするのは苦手だ。空気系って、なんだかプラズマクラスターが搭載されてそうだな。どうでもいいけど。
「やっぱし! 私も一年なんだー」
「なるほど」
……特に関心も無い。興味も無い。おまけに香水がキツい。それはさっきも思ったか。しかし、先程から『やっぱし』という言葉がやたら鼻に付く。正しくは『やっぱり』だ。こういう細かい所が気になるお年頃なので、この女子とは相入れそうもない。というか、仕事しろ。ちらシ、クバれ。かゆ、うま。……バイオかな?
「一年って事は、天野恋莉って子、知ってる?」
「え? ……同じクラスですけど」
これはさすがに予想外だった。
どうして天野さんの名前がこのひとから出て来るのか、と頭を捻って考えてみたら、やっぱしさんは僕の制服を視て『友達も着てる』、と言っていたのを思い出した。友達と自称するくらいには、気兼ねなく話す間柄なんだろう。
「やば! 世間は狭いねー。恋莉に会ったらよろしく言っといて! あ、自己紹介してなかった。私は春原凛花だから!」
「鶴賀優志です。……善処します」
さっきも似たような返事をした気がする。然りとて、あの時とは心地が違う。
「鶴賀優志、つるが、ゆうし……うん。よろしくね、ルガシー♪」
「るが、しぃ……?」
レガシーかな? それは車だ。これまで何度かあだ名を付けられた事が無きにしも非ずだけど、さすがに『ルガシー』と呼ばれた事はなかった。どんなセンスだよ。奇抜にも程があるだろ。その付け方を基準にするなら、アナタは『ハラカー♪』になるのだが?
自己紹介を済ませて、僕は再び足を動かす。なるべく早く、なるべく距離を取るように。
何故か受け取ってしまった居酒屋のチラシには、『一杯目の生ビール(中)半額!』と赤文字白枠で書かれている。高校生にこんなチラシを渡すとは……紙飛行機でも作れと言うのだろうか?
他校の生徒で、天野さんの友達、か……。というか、なんて名前だっけ? やたら香水がキツかった印象しかない。それと、やっぱし。『やっぱしさん』じゃ伝わらないよな、どう伝えればいい? まさか、もう一度名前を訊きに戻るなんて、そんな滑稽な事は出来ないよな、やっぱし。取り敢えず、容姿だけは遠目で確認しておこう。そう思って駅手前から来た道を『白眼!』と振り返るも、そこにハラカーさんの姿はなかった。……日向は木の葉にて最強じゃなかったのか? 詮方なし、これも因果だろう。そういうものだと受け止める他にない。
因果? 運命? 言葉選びと他人の名前と顔を覚えるのは、どうも苦手だ。
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