【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

六十二時限目 精根尽き果て候へば[前]


 電車からバスに乗り換えて地元に戻ってきた私は、このまま帰宅する気分にもなれず自宅近くにある公園を目指して歩いていた。

 横断歩道ではない道路を渡ると、進行方向に自販機が見える。公園に寄る前に飲み物を買っておくのも悪くない。

 どうせ私のことだから、ああだこうだとちんもっこうするに違いないわけで、ならばお供に缶コーヒーがあれば、宙ぶらりんになる手をご無沙汰にすることもなくなるだろう、という魂胆である。

 小銭を投入口に入れると、買って下さいと言わんばかりに、商品選択ボタンが緑のランプを点灯させた。

 缶コーヒーと思ったが、苦みは要らない。

 どうせ買うなら口当たりがよくてまろやかなカフェオレにしよう、と下段中央にあるボタンを押す。勢いよく落下した缶が、取り出し口の中で大袈裟な音を出した。それを拾いあげながらふと、もう〈優梨〉を演じる必要はないのではないか、と思った。

 田舎町の夜は極端にひとがなくなるので、知り合いに声をかけられることも、身バレを心配する必要もない。服装がどうであれ、優梨を演じ続けても無駄なだけだ。……もういいか。溜息を吐くように呟いて、〈優梨〉から〈優志〉に心をシフトさせる。

 僕は解離性同一性障害ではないのだから、『感情をシフトさせる』なんて言い回しをするのは大袈裟だろう。

 やっていることは、舞台役者のような感覚に近い。

 無論、悪意があって相手を騙そうとしているわけでもなければ、ネット上でたまに見かける厨二病よろしくな『多重人格』を装っているわけでもない。

 必要だからやっているだけ、この一言に尽きる。

 閑静な住宅街を歩いていると、あずまやのある公園が見えた。自販機で購入したカフェオレを飲むだけならこの公園で充分だろうと足を踏み入れて、四阿のベンチに座る。

 四本のコンクリート柱に支えられる天井は、褐色に塗装された木材が張り巡らされて、藤のつるが絡まり日差しを防げるような作りになっていた。

 それゆえに、この公園の名前は〈フジ公園〉という安直で捻りもないネーミングなのだが、公園の名前なんてどこもそんなものである。逆に、ハイセンスな名前にされても苦笑いしてしまうばかりだ。

 遊具と呼べる物は、高さが異なる鉄棒が三つ、ブランコ、滑り台、砂場、バイクを模したスプリング遊具が二つ。まあまあ、子どもがそれなりに遊べる公園ではある。

 敷地面積もそこそこにあるので、キャッチボールやサッカーボールの蹴り合いくらいも可能。だが然し、大人の事情でボールの持ち込みは禁止されていた。

 そうなると、広場を利用して遊べるのは、おにごっこ、いろおに、ダルマさんがころんだ、くらいか。

 そんなことを考えながら、カフェオレのプルタブを開けてちびちび飲む。

 公園全体を照らす丸い照明灯には、蛾などの虫が数匹ほど群がっていて気持ちが悪い。

 全ての虫が苦手というわけじゃないが、蛾だけはどうしても無理だ。ぷっくりしている胴体と、ふさふさの触角を見るたびに背筋があわ立つ。ああ、想像したら腕に鳥肌が。

 頭を振ってそれらを散らし、夜の空を仰ぐ。

 満天の星空と呼ぶには心許ない空。満点はあげられないな、と下らない駄洒落を零した。

 どうでもいいが、先程からカレーの匂いがどこからともなく匂ってきて、とてもじゃないがシリアスな展開は望めそうにない。どうでもいいついでにカレーライスとライスカレーの違いについて携帯端末で調べてみる。

 どうやら、ライスカレーは水に浸したスプーンで食べるらしい。

 スプーンを冷やす意味は、特にないとか。

 昔は箸を湿らせて出す習慣もあったようだが、スプーンにそんな習慣もなく、では、どうしてそんな珍妙なことをするようになったのかというと、某メーカーが作成したカレーのCMが起因となっているようだ。テレビの影響力を、改めて実感した。

 鼻がカレー臭に慣れ始めて気にならなくなった頃合いを見計らい、両手で持ったカフェオレの缶に目を落とす。お笑い芸人のなんとか鈴木の顔そっくりだ。

 目になっている部分を凝視しながら、今日という日を振り返る。あんなことが起きなければ、最後も笑顔で天野さんを見送れたはずだった。僕が人目を避けるあまりに天野さんを危険な目に合わせてしまった、と言っても過言ではない。

 熊田さんの店の前ががら空きだったのは、事前にライフセーバーが注意喚起をしていたからだったとすれば説明もつく。

 実際に放送があったのかまでは、わからない。これらはあくまでも、僕の主観的な考えでしかないのだ。

 もう少し早く到着していれば、あったかも知れない放送を訊き逃すこともなかったと思うと後悔ばかりが先立ってしまって、まともに思考することもできなかった。精根尽き果て候へば、なんて書き出せば純文学的にも読めるだろうけども、そんな言い回しが似合うような一日じゃなかった。


 

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品