【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
五十九時限目 初デートは愁いを帯びて ⑤[前]
天野さんは、境界がはっきりしていない顔をしている。頭をそのままで左見右見し、きょとんとした目を僕に向けた。体力が尽きて数時間眠り、気がついたらベッドの上だ。記憶が曖昧なのも無理はないだろう。
「救護室だよ」
「ああ、そっか。私、足が攣って溺れて、それから……」
僕の一言で、おおよその検討が付いたようだ。上体を起こそうと体を僕の方へ向けて、両手でマットを突っ張る。だが、足の痛みはまだ引いていないようで、「いたっ」と眉を顰めた。
「足の痛みは二、三日で治るって言ってたけど、他に症状が出たら直ぐに病院に行ってくれって言ってたよ」
「うん、わかった」
「他に痛みは?」
訊ねる。
「喉がヒリヒリする」
溺れた拍子に海水を飲み過ぎて、扁桃腺が腫れているんだろう。パイプベッドの横にチェストがある。水差しと、個包装のフルーツのど飴が三つ置いてあった。水差しの水をコップに移して天野さんに手渡す。両手で受け取り、半分ほど飲んだ。
「ありがと」
残った水をチェストの上に戻す。
「オレンジ、グリーンアップル、ピーチ味があるけど、どれがいい?」
「じゃあ、アップルにしようかな」
グリーンアップルが描かれている小袋の端に切れ目を入れて渡すと、天野さんは「至れり尽くせりね」と微苦笑を浮かべながら、切れ目から破いて口に入れた。周囲にグリーンアップルの甘い香りが広がった。
天野さんは飴玉を転がしながら、ベッドの縁に座って周囲を窺っていた。部屋にあるのは鍵が掛かった薬品棚と、白いパイプベッドが三つ。周囲は薄緑のカーテンで仕切られている。学校の保健室との違いは、壁に通信機器が備えられていることくらいだろう。天野さんが運ばれてきたのは、一番端ベッドだった。
僕は立ち上がり、視界を遮っているカーテンを開けた。格子の付いた窓から茜色の斜光が伸びて、天野さんが座っているベッドを照らした。
「もう、夕暮れなのね」
その声色は力無く、見ていて居た堪らなくなって席を立った。
窓から外の様子を覗いた。海水浴客の大半は帰宅して、海で泳いでいる人は確認できない。本日の営業は終了しました、またのお越しをお待ちしております、を知らせる蛍の光は鳴っていなかった。
海岸では数人の大人たちがゴミ袋とトングを持ち、ゴミ拾いに勤しんでいる。多分、海の家で働いていた人たちだろう。着ているシャツに店名が書かれているけれど、遠過ぎてよく見えなかった。
「ウィッグを付けていなくても、違和感が仕事しないわね」
ほんの少しだけ、声に覇気が戻ったように思えた。
「褒められているんだか、貶されているんだかわからない感想をありがとう」
「嫌味で言ってるんじゃないわ」
と申されましても、こちらとしては判断できかねます……。
「ねえ、ちょっと隣に座らない?」
「え?」
「座って」
有無を言わせない目を向けられては、致し方無い。
「それじゃあ」
拳三つ分ほど間隔を取って座ったのが気に入らなかったのか、ムッとした顔をして距離を詰められた。肌と肌が密着して、熱が伝わる。いままで眠っていたからか、体温が高く感じた。いや、僕の体温が急上昇している可能性も否定できない。変な汗をかきそうだ。
「あの、ええと……、天野さん? 近過ぎやしませんかね?」
「別にいいじゃない。どさくさに紛れて胸も触ったくせに」
ぎくりとした。
「いや、あれは不可抗力というか、致し方なかったと言うべきか、不慮の事故であって本意ではなくて」
慌てふためいている僕をじろりと睨む。
「へえ、やっぱり触ったんだ」
鎌をかけられた!
「いやだって、そういうのを気にしている場合じゃ……」
「でも、触ったんでしょう?」
理由はどうであれ、その通りだ。
「……はい。誠に申し訳御座いませんでした」
座ったまま頭を下げた。
「そっかあ。私、優志君に胸を揉みしだかれちゃったんだ」
言い方に悪意しか感じられないのだが。然し、女性の胸はかなりデリケートな部分だ。心肺停止状態になっても、AEDを使用する際に肌を露出させられるくらいならば死を選ぶ、という戦国武士みたいなツワモノ女子もいるくらいだしな。僕がその場にいたら、「その潔さ見事なり」って、うっかり介錯してしまうかも知れない。知らんけど。
そうは言っても、僕は天野さんの胸部を触りたくて助けに戻ったわけじゃないのだ。そういう疚しい気持ちなんてなかったのだから、堂々としていればいい。
「あ、あの。言い訳かもしれないけれど、弁解の余地は与えて下さらないのでしょうか……?」
堂々としていればいい、という勢いはどこへいったのか、言葉は徐々に尻込みして、最終的に蚊の鳴くような声になっていた。
「冗談よ。顔を上げて?」
「人が悪いよ」
本当は「らしくない」と言いたかった。天野さんの口から『胸を揉みしだく』なんて台詞が出てくるなんて、だれも想像しないだろう。無理して笑おうとしているのか、ネタにして笑い飛ばしたいのか。どちらにせよ、この状況は如何ともし難い。
「それで、ご感想は?」
「あのときは必死だったから覚えてないよ」
「そうなの? ……じゃあ、もう一度触ってみる?」
溺れている天野さんを小脇に抱えたとき、たしかに僕は天野さん胸に触れただろうその感触は記憶にない。覚えているのは、泳いでも泳いでも進まない恐怖と海水の冷たさだけだ。だからというわけじゃないけれど、僕の中に潜む卑しさが『触れたい』と食指を動かした。
でも、
「遠慮しておくよ」
触れるはずが、ない。僕と天野さんの関係は、そこまで発展していないのだし、触れと言われて触れるほどの度胸もない。それでも、天野さんは執拗に「触ってよ」と食い下がった。
「どうしちゃったんだ、天野さん」
「どうもこうもないわ。私は、優志君に触って欲しいの!」
そう言って、僕の右手を握り締めた。
先程から、明らかに様子がおかしい。
「あのときの記憶がフラッシュバックしそうになるの。足が痛くて、上手く動けなくなって、海の中へ引き摺り込まれそうになる感覚が頭の中に残っているのよ。苦しくて、死んでしまうのかって思ったら、もう怖くて耐えられない」
瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
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