【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
五十七時限目 初デートは愁いを帯びて ③ [前]
杉無垢材の丸テーブルの上に、麦茶が入ったコップが二つ置いてある。
レンちゃんのコップは水の層と麦茶の層に分離していた。いくら店内が日陰と言えど、外であることに変わりはない。じっと座っていても額から汗が吹き出てくるほどだった。茹で上がりそうな暑さに食傷気味な私は、扇風機の一台や二台くらい用意してくれたら過酷な暑さも少しは和らぐというのに、と口を尖らせながら、レンちゃが着替え終わるのを待っていた。
テーブルと同じ材質の椅子は折り畳みできるタイプで、座板と背束が緩やかな曲線を描いている。座り心地は悪くないが、長時間座っているとお尻が痛くなりそうだ。左右に体を傾ければ、繋ぎ部分からミシミシ軋む音がする。テーブルも、椅子も、かなり使い込まれていそうだ。
この店が繁盛していた時期は、あったに違いない。いまでこそ閑古鳥すら寄り付かないような有様だけれど、拭き取り切れずに残るテーブルの油染みが、オリンピックのマークみたいなコップ跡が、過去の繁栄を案じさせる。
いくら四方が解放されているからと言っても、天井が低く薄暗い店内は、どこか陰湿めいていた。
ダンデライオンのような雰囲気づくりが欠如しているのみならず、店長があれではどうしようもない。
他人の第一印象は、見た目が九割を占めていると言っても過言ではない。まあ、それはそうだろう。ファーストコンタクトで中身を重視できる人なんて、神様か仏様くらいなものだ。神仏からすれば、私たちなんてヒト科に属する動物としか認識されない。認知も違えば認識も違う。文字通り、見る目が違うのだ。
人間が神の目を持っていれば、店長の見た目や接客業にあるまじき言葉遣いも些細な問題だろう。だが、ヒト科、ホモ・サピエンスである私たちは、聖書上、姿形こそ神に近い容姿で作られたとはいえ、他人を愛しむ心が希薄だ。特に、匿名が幅を利かせるインターネット世界だと、身バレしないのをいいことに、平気で他人を傷つけたりする。つまり、他人は他人に対して少なからず薄暗い感情があるのだ。インターネットではそれが露見しているに過ぎない。
自分に『おもてなし』の心があっても、他者が理解していなければ、上げる面も無し、である。そして、理解とは程遠い場所で、他人はだれかを自分勝手に理解するのだ。理を解したつもりで、堂々と値踏みして、嘘を吐く。
この店が負の連鎖の中にある、とは思わないが、郷に入っては郷に従え。長い物には巻かれろ。そして、石の上にも三年だ。三年待つまでに店が無くなる可能性もあるけれど、そればかりは、不況と運の無さを呪うしかない。
ダンデライオンのような華やかさがあれば客足も増えそうなものだが、そもそも長居するような場所じゃないし、人を雇おうにも人件費が払えるとは思えない。もう、長くないだろう。それに、私がどうこうできる問題じゃない。
この場に楓ちゃんがいれば、ありとあらゆるお節介をやいて、ダメ出しのテトリスを積み上げるかも知れないが、望まれなければ口出しないだろうな。
レンちゃんがシャワー室に入ってから、一十五分が経過しようとしていた。
女性の身支度は男性の倍時間が掛かる、と言われている。私は一人っ子で、母さんは身支度をささっと終わらせるような人だから、女性の身支度が長い理由にピンとこなかった。然し、いざ自分が女性と似た境遇になってみて、初めて「ああ、そういうことだったのか」と納得できた。
私も心の準備に手間取ったし、レンちゃんだけを責めたりなんてしない。
心の準備とは大袈裟な表現だが、これからもっと肌を露出するとなれば、気を引きしめておかなければならない。最悪の場合を想定しておくのも重要だ。
私が抱えるリスクは、自分が男性であることが周囲にバレてしまうことに他ならず、リスク管理が甘ければ、たちまち瓦解してしまうだろう。
あれ……?
私は、リスクを顧みず、大胆な行動ができるような性格だっただろうか。
自分の行動思考を鑑みて、ふとそんなことを思った。
* * *
中学生だった頃、ある日を境に『自分は平凡な人間だ』と気づいてしまった。気がついてしまった、と言うべきかも知れない。
本来、僕には秀でた才能なんかなくて、自分が凡人であると気がつくまで可能だった言動の数々は、偶々運がよかっただけなのだ。
その運も中学一年で使い果たし、高校に入学するまでは〈鶴賀優志〉としての空っぽの器だけが辛うじて存続している状態だった。
生活する上で欠かせない、他者とのコミュニケーションができなくなった理由は精神疾患じゃない。心の病気なんて言ったら、その病に苦しむ人々への冒涜だ。ただ単純に、『できる人がやればいい』と思ったのだ。自分よりも達者で、そういう人たちの邪魔をしてはいけない。だから、空気のような存在であることを選んだ。
中学生のときに担任に話したら、『鶴賀にしかできないことがあるんだから』と諌められると思った。たしかに、僕にしかできないことはある。でも、僕がわざわざやる必要もない。僕ができることは、大概にして他人もできる。しかも、僕よりも要領よくだ。
無理して我を通すのは、非合理的な考え方だ。ハングリー精神、ド根性、そういったスピリットは美しいものではある。
暴力が横行していた高校の最弱ラグビー部が全国に名を轟かせるまで至った話は有名で、泥臭いながらに美談だ。
それだって『努力を怠らない』という素晴らしい才能があったから成し得た偉業であり、僕はそこまで脳筋になれない。なりたくない、というのが本音だ。
人間には、適材適所がある。
僕の適した場所は教室の隅で、将来有望な彼らの邪魔にならないように存在感を消すことだ。そう思った瞬間、世界は灰色に染まって、ありとあらゆる五感が閉ざされた。
でも、灰色の世界は心地がよかった。なにも感じなければ、なにも心配することはない。闇雲に勉強して、読書をしながら物語に寄り添うだけでいい。勉強も、読書も、他人の邪魔にはならないのだから、なんて気楽だろう。
灰色の世界こそが僕の居場所で、僕が唯一息をすることが許される空間だった。
なのに。
高校生になって一ヶ月を過ぎたあの日、僕の世界は〈あの男〉の気まぐれによって見事に崩壊した。
佐竹義信。
見た目はチャラ男のそれだが、鼻筋が通った切れ長の目の高身長イケメン。パッと見だとバスケ部に所属していそうな彼は帰宅部で、僕の真向かいの席。
腰軽いヤツで、どこにでも顔を出し、遠慮なく輪の中に飛びこんでは、どっと笑いを巻き起こすのが佐竹の凄いところだ。
佐竹が嫌いと言うヤツを、僕は、僕以外に知らない。佐竹の人となりを知るまでは嫌悪感すら抱いてたけど、知ってからは『ああ、コイツはただ馬鹿なだけだ』と考え直した。
それから訳あって、天野恋莉と一悶着あり、佐竹の姉である琴美さんに出会い、月ノ宮楓に弱味を握られて現在に至る。
濃厚過ぎて笑ってしまうくらい一変した世界に、僕はいた。
そして、笑えない状況に陥っていた。
──こんなに大胆な行動ができる性格だっただろうか。
その答えを、僕はこれからも出さないだろう。
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