【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

五十六時限目 初デートは愁いを帯びて 〜天野恋莉の場合〜[前]


 シャワー室のドアが閉じたのを背中越しに感じながら、私は両手を放り投げるようにしてテーブルに突っ伏している。

 日陰になっている店内は静かで、妙に心地がいいと思った。

 営業しているのかしていないのか定かではない海の家で、私がだけが店内にいる。店長さん──と呼ぶべきなのだろか──は、ずっとキッチンの中だ。まだ自己紹介もしていないけど、わざわざ店員さんに自己紹介するほどでもないだろう、とも思う。

 コンビニで買い物をする際に、『私の名前は天野恋莉と申しますが、アイスコーヒーをおひとつ下さいな』なんて面倒なことをする真摯な人は、日本中を探したって見つかりっこない。

 余程のお嬢様か、世間知らずか、山奥の田舎から息子を訪ねて遠路遥々都会に来た、気のいいおじいちゃん、或いはおばあちゃんくらいなものだ。

 そういう場面に出くわすとほっこりと胸が温まるけど、日常で遭遇するハートウォーミングなドラマなんてテレビの中だけの物語に過ぎず、実際は怒鳴り散らしながらお金を投げつけたりしている老人を目の当たりにするばかりだった。

 だけど、今日は朝から心がほかほかしている。

 優志君が〈ユウちゃん〉の姿で駅の待合室にいたとき、私を気遣ってくれたんだって嬉しくなった。

 以前、私は彼女に告白同然の言葉を伝えている。その気持ちを汲んでくれたことがなによりも嬉しかったけれども、素性がバレるリスクが高い海デートであの姿を選んだのは危険だ。

 であればこそ、『優志君のままでいいよ』と伝えたのに。

「忖度させるようなこと、言ってしまったかしら」

 電車の中では浮かれ過ぎて、思い出すのも恥ずかしいような行動を取ってしまった私は、自分の行いを顧みて、ただひたすらに自己嫌悪するのみだった。

 ポイフルの味は、よくわからなかった──。




「いけない」

 折角の海デートなのだから、と上体を起こした。

 周囲を見る。海の家と言えば、お座敷のイメージが強い。なるべく多くの客を押し込むならば、カフェのようなスタイルよりも相席にしたほうが回転率も上がるだろう。

 でも、この店は店長さんの意向なのか、丸テーブルに四つの椅子一組で、数十個の席が設けられたカフェスタイルで統一されていた。

 キッチン、と呼ぶよりも、調理場。

 店長さんはそこに入って直ぐに照明のスイッチを入れたけれど、薄暗さが残っている。

 まるで、公園にあるようなあずまやに、頼りない電球を数個取り付けたような感じ。……と、ユウちゃんにそう説明したらわかってもらえるかしら?

 調理場の正面上部には、海の家らしいメニューが短冊のように貼り付けてある。焼きそば、ラーメン、カレー、冷やし中華、焼きもろこし、かき氷各種、等々。その中で一際目を引いたのは〈油うどん〉という料理だった。

「油うどん……、どんなうどんかしら?」

「ああ。それは、ラー油にザクザクのフライドガーリックとオニオン、そして最後に卵黄を乗せたやつだ。そうだな、油そばのうどんバージョンって想像するのが早い」

 と、言いながら、テーブルに二つの麦茶の入ったコップを置いた。

「あ、すみません」

 こんなに大柄な体型にも拘らず、接近していることに気がつかないなんて。

 独り言を訊かれてしまった気恥ずかしさを押し殺しながらコップに手を伸ばした。一口飲む。大粒の氷が入った麦茶は渇いていた喉を潤すばかりか、熱くなった体を冷やしてくれた。

「あの、お代は?」

「サービスだ。まだ沢山あるから存分に飲んでくれ」

 がはは、と大口を開けて豪快に笑う。

 第一印象は怖そうな人だったけれど、根は優しい人みたいで安心した。よく見ると、つぶらな瞳をしている。

 店長さんをファンタジー小説で喩えるならば、きこりやドワーフといった風貌だ。酒場でエールを片手に意気揚々と歌ってる、みたいな絵が浮かんだ。

 それにしても。

 ここまでの道のりにある海の家は大盛況だったのに、この店だけ取り残されたように客が寄り付かないのはどうしてだろう。私たちが訪れるまで、照明も落としていたみたいだし……。

「あの、もしかして今日はお休みでしたか?」

 言うと、店長さんは頭を振った。

「ウチは見ての通りオンボロだ。それに、場所も悪いし店主の見た目も悪い。悪いだらけじゃ客も寄り付かねえ。まあ、それでもギリギリやれなくもない。なにより、海が好きなもんでな。やめらんねえんだわ」

 たしかに、この店はお世辞にも綺麗とは呼べないし、店内の照明が薄暗いのも相俟って近寄りがたさは否めない。

 よく、この店に入ろうと決めたものだ。

 この店しか選択の余地がなかったのもあるけれども、もし、この海に泉たちと来ていたら近づきもしないし、存在すら知らぬまま帰宅していたことだろう。

「私たちには、むしろ空き具合は嬉しいですけど……あ、すみません」

 陽気な店長さんに感化されて、つい余計なことを言ってしまった。

「いやいや、お気になさらずってやつだ。……連れの子は学校の友だちか?」

「そう、ですね……」

 私とユウちゃんの関係性は、友だち。

 まだ、友だち。 

 恋人、と紹介できる日がくるのかも、わからない。

「なんだか歯切れが悪いな」

 私の表情を見て、心配そうに言った。

「強引に誘ってしまったので、ちょっと罪悪感があるんです」

 そうか、と店長さんは一考しながら髭を撫でる。

「まあ、あれだ。若いうちはいろいろあるだろうけど、海で泳ぎゃそんなことも忘れんだろうよ。だから、そう気にする必要もねえさ」

「あ、すみません。つい愚痴みたいなことを……」

「はっはっはっ! 青春じゃねえか大いに結構! 店は閑古鳥が鳴きそうなくらい暇だしな。お喋り好きな店主に付き合ってやった程度に思っておけばいいってもんよ」

 言葉遣いは荒いけど、気さくに話せるという点におけば、これくらい豪快なほうが海の家らしい。……のかも知れない。

 店長さんとお喋りしているうちに胸の中にあった胸のつかえは取れて、心が軽くなった。

「さあて、仕事だ仕事!」

 両手で頬を叩いて気合を入れると踵を返し、肩で風を切るように歩きながら調理場へ戻っていった。
 

 

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