【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。

瀬野 或

五十四時限目 初デートは愁いを帯びて ①[前]


 レンちゃんとの待ち合わせに指定した場所は、お互いが目的地へ向かう途中に重なる駅だった。

 3番線と4番線ホームの中間にある待合室は、ほどよくエアコンが効いて涼しい。縦に並ぶベンチに座り、腕時計を見る。待ち合わせ時間まであと三〇分弱あった。慣れない水着が気を急かし、余裕を持って行動しようと早めに家を出たけれども、余白を持ち過ぎたかも知れない。

 レンちゃんを待っている間、手持ち無沙汰になるだろうと予想して持ってきたイヤホンを耳に付ける。

 携帯端末の音楽アプリを呼び起こしてボサノバを流した。以前はこういうジャンルを訊かなかった私だったが、ダンデライオンに通い続けているうちに興味を持つようになり、照史さんに手頃なアーティストを教えてもらってダウンロードした。ハスキーボイスの女性が囁くようにして歌う。言語はポルトガル語なので、歌詞の意味は全くわからない。でも、おそらくは恋愛の歌詞だ。……多分、そうだろう。

 待合室には私以外に五人が座っていた。各々、隣に遠慮するかのように一つ飛ばしで座っている。壁は強化ガラス張りなので、中の状況は外からでも確認できた。様子を見て、「やっぱりやめよう」って顔をしながら引き返す人も多い。

 まだ五席も余っているとはいえ、私が同じ状況に出くわしたら、先程引き返した二十代後半と思しき女性のように、ドアの前で踵を返してしまうだろう。これは、遠慮ではない。知らない人と至近距離で接触したくないからだ。

 それを、とある漫画では〈心の壁ATフィールド〉と喩えた。

 心の壁があるから自分を守れる。けれど、それが邪魔をして他人を受け入れられない。まるで私のことを言われているような気がして、あの漫画、それに属するアニメを見たとき、胸が苦しくなった。

 一番衝撃的だったのが映画版で、開始早々に主人公君が、病室で意識を失っているヒロインのはだけた姿を見ながら迸るパトスを発射するシーンだ。あのシーンは本当に必要だったのか、といまでも疑問に思っている。本当に最低だなって、私もつい口に出したものだ。

 約四分程度の曲がじゅ曲収録されたアルバムの三曲目が終わり、再び腕時計を見やる。そろそろレンちゃんも到着した頃合いだろう。そう思って腰を持ち上げると、待合室のドアが開いてレンちゃんがやってきた。




 * * *




 私の姿を捉えるなり、レンちゃんは狼狽するかのように目を丸くして口を開いた。

「どうして」

 レンちゃんは、優梨わたしがくることを想定していなかったようだ。『優志君のままでいいよ』と言ったのはレンちゃんだし、待ち合わせ場所の待合室に座って音楽を訊いているのは優志のほうだ、と思い込んでいたに違いない。

「驚いたわ。……すっごく」

 たっぷりと間を開けて、レンちゃんは言った。

「にいろいろと考えた結果、このほうがいいかなって」

 大衆監視の前で『女装した姿のほうが』とはいえない。レンちゃんもそれをわかっているからこそ、『優志』という男性名を伏せてくれたのだろう。『どうして』のあとの言葉が詰まったのはそのせいだ、と察した。

「まだ電車はこないから……、座る?」

「え、ええ。そうしようかしら」

 レンちゃんが座る席の表面をさっと手で払い、「どうぞ」と手差しをする。

「英国紳士みたい。……あ、淑女?」

 この場合どちらが正しいのかしら? と顎に手を当てながら一考していたレンちゃんは、「まあいっか」と呟き、私に目礼すると、スカートを抑えながら腰を下ろした。

「ユウちゃんがきてくれたのは嬉しいけど、水着は大丈夫なの?」

 うん、と頷く。

「いい感じのが手に入ったんだ」

「……本当に、大丈夫?」

 レンちゃんが心配しているのは私の下半身のことだ、というと語弊がありそうだけれど、男性が女性の水着を着用するということは、そういうことになる。レンちゃんは、ブーメラン型の水着にビキニの上を合わせた私の姿を想像したはずだ。

 上も下ももっこりしている姿はたしかに滑稽に思えるけれど、

「パレオがセットのやつだから、大丈夫だよ」

「それなら安心ね」

 レンちゃんの中である程度のイメージが湧いたようで、ほっと胸を撫で下ろした。

 待合室ということも相俟って、大声で会話するのは憚られる。隣に座るレンちゃんが「なにを訊いていたの?」とは言わず、自分の耳に指を向けて、目だけで訴えてきた。

「ボサノバだよ」

 訊く? とバッグの中にしまったイヤホンを取り出して見せつける。レンちゃんは頷いて、私の指先に触れるようにイヤホンを受け取り自分の左耳に付けた。ボサノバを流す。トラックは四曲目からでも問題はないだろう。ポルトガル語だし、どれも似たような曲調だし、物語性があるわけでもない。いや、もしかしたらあるのかも知れないけれど、それを知るには歌詞の翻訳から始めなければ。

 雰囲気や空気感を楽しむだけでもいいじゃないか。一々言葉の意味を考えていたら、会話だってまともにできやしない。

 日本人が英語に苦手意識を持つ理由に、文法を気にし過ぎる、というのがある。間違った文法では正しく伝わらない。といっても、日本人の日本語力だってめちゃくちゃだ。コミュニケーションだけを目的とするならば、文法なんて後からでもいいのかも知れない。

「あ、この曲、ダンデライオンで訊いたことある」

 曲名には〈Minha Querida〉とあった。読み方は『ミニャケリーダ』で合っていると思う。歌詞の中で頻繁に採用されている言葉だから、間違いではないだろうその意味までは、さっぱりわからない。大切な人に向けた曲だとしたら、〈あなたに〉とかそんな感じかな? と勝手に想像した。

「照史さんに教えてもらったから」

「あ、やっぱり」

 ふと、レンちゃんの露出した肩が、私の右肩に触れた。

「ち、近づかないと……、取れちゃう、から」

 頬を赤らめて、たどたどしく言う。

 そんな態度を取られたら、私だって恥ずかしくなる。

 携帯端末を取り出し、音楽アプリをバックグラウンド再生させながらメモを開いた。

『デート、楽しもうね』

 そう打ち込んで、レンちゃんに見せた。「私もいい?」と目だけで。レンちゃんに携帯端末を渡すと、フリック入力でささっと書き上げて私に返却する。画面には、『気を遣ってくれてありがと。楽しみましょうね』と記入してあった。

 私がこの姿を選んだ理由は、レンちゃんが喜ぶと思ったから、だけではない。初めてのデートで、しかも海水浴。好きでもない異性と二人きりで長時間過ごすのは苦痛だろうと考えて、優梨でいくことを決意した、という経緯だ。

 察しのいいレンちゃんが、それに気がつかないはずがない。それゆえに、『気を遣ってくれてありがと』。私の選択は間違っていなかったんだ、とこの一文を読んで安堵した。

 レンちゃんを横目で見る。両手を膝の上に乗せて、姿勢よく座っていた。サンダルの先から出ている足の爪は、桃色のマニキュアがうっすらと塗られて、ラメがキラキラ輝いていた。

 音楽を訊き入るようにして目を閉じた瞼からは、重力に逆らうようにまつ毛が伸びている。付けまつ毛だろうか。これから海に入るのに、なんて気にしてしまうのは、私の性別が男だからかも知れない。余計なお世話だなって、視線を腕時計に戻した。

「そろそろ電車がくる頃だね」

 言うと、レンちゃんはイヤホンを外して私に返した。

「いい曲だったわ。私もダウンロードしようかしら」

「自宅でカフェ気分を味わえるかもよ?」

「うーん、それはないかもだけど、リラックス効果は期待できそうね」

 立ち上がり、私に手を差し出した。

「いこ」

 差し出された手を掴み、

「うん」

 頷いてから立ち上がり、そのまま手を繋いで待合室を出た。


 

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