【完結】女装男子のインビジブルな恋愛事情。
三十八時限目 月ノ宮照史は答えを導かない[前]
珈琲が苦手だった。
先行きの見えない黒。それを一口すれば現実を思い知らされるほどに苦い。『妙薬口に苦し』というような言葉もあるが珈琲は妙薬とは言えず、カフェインの過剰摂取は体に毒だ。それゆえに、体によい飲み物とは言い難い。
ある程度の年齢になると、珈琲の苦味が旨味に変化する。歳を重ねると味覚が鈍るから、というのが一般的な理由だろう。ビールを飲めなかった人が、ある日突然飲めるようになるのも味覚が鈍ったからだ、と言える。
味覚が鈍る、それだけを訊くとあまりいい気分はしないが、そのおかげで苦味のある野菜なんかも食べられるようになると考えれば悪くない変化だ、とも思う。
まるで、魔法使いに魔法を掛けられたかのように、前触れもなく味覚の変化が訪れるのは不思議だ。もしも、珈琲がそれを助長させているならば、『珈琲は魔法の飲み物』と言っても過言ではないだろう。だが、珈琲は〈趣向品〉である。人には得手不得手があるように、いくつ年を重ねても飲めない人は飲めないのだ。
それでも無理して飲んでいれば、やがて嫌いになってしまう。苦手なものを苦手なまま我慢して飲んでいるのだから尚更だ。勉強も同じで、数学が嫌いなまま数学の授業を受けても数学の本質を捉えることはできない。
珈琲と数学は偉く違うカテゴリではあるけれども、試行錯誤の繰り返しという点において、美味しい珈琲を淹れるのも、難しい問題を解くのも似たようなものだ、とボクは考えている。
珈琲と勉強には深い繋がりがあるのだ。
珈琲に含まれるカフェインには、脳を活性化させる効果がある。眠たくなるような場面で、珈琲に頼る人も少なくないだろう。受験勉強や一夜漬け、職員会議の場でも珈琲が振舞われる場合が多い。然し、珈琲に含まれるカフェイン濃度はそこまで高くない。
カフェインだけを摂取したいのならばドラッグストアに錠剤があるし、飲み物で言えば玉露が効果的だ。然れども、重要な場面で珈琲が選ばれる理由は〈苦味〉にあるのではないだろうか。
苦しい味、と書いて『苦味』とする理由。それは、自分自身を引き締める気付け薬、とも言えるだろう。
いつまでぬるま湯に浸っているつもりだ。
夢を見続けても叶うはずがない。
現実を見ろ。
珈琲を口に含むと、だれかにそう言われているような感覚に陥るときがある。幻聴と知りながら、その言葉に耳を傾けてしまったある日、ボクは珈琲を受け入れたのだろう。
だからこそ、ボクは珈琲が苦手だった──。
* * *
開店まで小一時間の暇ができた。
いつもより早く目を覚ましたボクは、朝を楽しむ間も無く家を出た。時間に余裕を持たせたかったのかも知れない。昨日の閉店後に焼いたマフィンの様子が気になったわけでもなく、カンパーニュの在庫が厳しいからというわけでもない。不安になる要素といえば客の数くらいなものだが、生活できる程度には稼げているので、心に負荷をかけるような不満もなかった。
それでも早く職場に到着したかったのは、1DKの部屋が息苦しいと感じたからだ。贅沢を言っているわけじゃない。月ノ宮邸の自室が恋しいとも思わない。ボクは現状で満足している。ではどうしてこうも焦燥感のようなものが喉にへばり付くのか、店に行けばその答えがわかるような気がしたからだ。
欲目を出せばあの人と同じになってしまう。
あの人はそれを『甘い』と一蹴した。考え方の根本が違えばわかり合うなんて到底無理だ。かるがゆえに、ボクはあの家を飛び出した。
あの日から、どれだけの年月を経ただろう。気にも留めずに毎日を過ごしていたもので、曜日の感覚まで曖昧だった。冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを見ると、今日は七月の日曜日らしい。七月になってから、もう一週間が経過しようとしているとは、歳を取ると時間の経過も早くなるものだと苦笑いしてカウンター席に座る。
この席を特等席にしている老齢の男性は、ボクがこの店のオーナーになる前からのお客様だった。前任のオーナーとは仲がよくて、暇な日は二人で将棋を指していた。勝つのはいつも老齢の男性で、その度に珈琲を一杯奢っていたと、葬式の日に涙ぐみながら語っていたのは印象深い。いつも寡黙は人が語る思い出話はボクの心に深く突き刺さった。そして、前任の偉大さを改めて実感させられた瞬間でもあった。
この店を構えた前オーナー、ボクの師匠である村田賢徳は、名前とは裏腹に自由奔放な性格で、義理人情に厚い男だった。
偉大過ぎる父に反抗して家を飛び出したボクは行き場所を失い、旅烏のように日本を渡り歩いた。目的の無い旅ほど不毛な日々はなく、預金もどんどんと減り、やむ得ずこの街に戻ってきた。心のどこかで〈月ノ宮〉の名に甘えていたからかも知れない。
だけど、現実はそう甘くなかった。
住所不定のボクを雇ってくれる会社はなく、いや、もしかすると、月ノ宮という名前のせいで採用を拒まれたのかもしれないが、結果、ホテルに泊まるお金も無くなり、路上生活を余儀なくされた。
然し、捨てる神あらば拾う神あり。草臥れたスーツ姿のボクを店の前で拾ってくれたのが師匠だった。
ボサボサの髪で無精髭を生やした熊のような体格のその人は、ボクよりも見窄らしかった。だが人は見かけによらず、無作法ではあったけれど、とても心温かい人物で、満身創痍になっているボクを快く店に招き入れてくれた。
余りのパンで作ったハムサンドと一杯の珈琲をご馳走してくれたが、いまも忘れることが出来ないほど不味かった。
ボクが苦虫を噛み潰すような表情で珈琲を啜っていたら、「不味いか? そりゃそうだろうな」と言って豪快に笑っていたのを思い出す。そして、「こっちはどうだ」と差し出された珈琲に衝撃を受けた。まさしく、青天の霹靂である。
師匠が最初に出した珈琲は、近所のスーパーで購入した〈匠ブレンド〉という銘柄のインスタントコーヒーで、次に出してくれたのが『本物の匠が淹れたブレンド』。豆を挽いて、顔に似合わず真剣な表情で淹れた最高の一杯だった。
──人間ってのは当たり前にある物が好きで、同時に嫌いなんだ。特別、限定、そういった謳い文句に飛びつくのは根底にそういう理由がある。だってそうだろ? 特別な物や限定品ってのはなかなか手に入るもんじゃねえ。でもな、あるんだよ。当たり前の中に、たまげるくらいのお宝が。
お前が飲んだその一杯はどうだ? 馬鹿みてえに美味いだろ? 案外、そういうもんは身近に転がってるもんよ。石ころみたいにな。焦って探してちゃ見つかるもんも見つからねぇ。そのうち見つかるだろ、くらいに思っておけばいい。
まあ、お前の人生だ、俺がどうこういうのもアレだけどよ。下ばっか見てねぇで、たまには空を見上げたり後ろを振り返ってみたりしてみろって話だ。
臆面も無く堂々と胸を張り、自信に満ち溢れた眼差しで紡がれた言葉は上品な言葉遣いではなかったけれど、訊いていて心地がよかった。
「よくよく考えると不器用な励まし方だ。……師匠らしいけど」
店に来てくれる年配の常連客は、師匠のお客さんたちだ。その常連さん方が来店する度に、いつも問われている気がする
──お前の特別は見つかったのか、と。
だからこそ、ボクは師匠に教わった『匠ブレンド』に自信を持って、平然した態度で提供する。
これがボクの誇りであり、特別ですよ──。
という意味を込めて。
師匠はもうこの世にはいない。熊のような体格なのに、交通事故であっさりと死んでしまった。どうやら熊でも自動車には勝てないらしい。それもそうか。
自らを犠牲にしてまで『当たり前の中にある特別』を教えてくれなくていいんですよ、師匠。
胸中で謝意を述べながら、ドアにぶら下げてある木製のプレートをひっくり返して〈Open〉の文字を前に出す。
「さて、今日もあの子たちは来るかな」
互い違いにかけてしまった上着のボタンのように、行き違い、すれ違い、間違い続ける彼らが辿り着く場所はどこだろうか。
それこそが青春だ、なんて簡単な言葉で片付けることはできないだろう日々を過ごしているあの子たちが、いつか大人になって『青春だった』という言葉で幕を閉じてしまわないことを密かに願いながら店中へ戻り、喫茶店〈ダンデライオン〉のマスターたり得る顔を作った。
読んで頂きまして誠にありがとうございます。
不都合でなければ感想など、よろしくお願いします。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
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