アオイデーの調べ

大葺道生

4話:審美眼

「はいはいはいはい。ストップストップ」
桜ノ宮朝霞は手を叩きながらそう言って演奏を中断させた。
「さっきから速いって言ってんだろ。速弾きコンテストじゃないんだからさ」
桜ノ宮は長い髪を振り乱しながら言う。
「すいません」と浩文は額の汗をぬぐいながら言った。
「まあでもそれだけ速くても音程は崩れてないあたりお前はしっかりした技術は持ってるんだよ。なんて言うと思ったかボケ。音程に気を取られてテンポに集中できてないんだよ、ボケ」
「あんまりボケボケ言わないでくださいよ」
「だったら言わせないようにしてみな。――まあいいや。私も流石にちょっと疲れた休憩すんぞ」
「そういやお前今や時の人深山教授の研究室行ってきたんだったな。どうだった?」
桜ノ宮は浩文の母親の用意したショートケーキを口に運びやすいサイズに切り分けながら聞いた。
「すごかったですよ。あれは近い将来人間の演奏家を超えるかもしれませんね」
浩文は総一郎や高城が解説してくれたことを桜ノ宮に語った。
「へえ、興味深いな。多少なりとも脅威に感じるところがないと言えば嘘になるがね。数年前にオックスフォード大学の准教授がAIによる代々可能性が高い仕事と低い仕事を仕分けしたレポートを発表したんだが覚えているか?」
「ああ、なんとなくは」
そんなニュースがあったこと自体はかろうじて覚えていた。
「代替可能性の高い仕事と低い仕事、それぞれ100以上が挙げられているんだが、代替可能性の低い仕事のなかにはクラシック音楽家というのがあったな」
「じゃあそのオックスフォードの准教授さんはAIにクラシック音楽を本格的には演奏させるのはまだ早いと思ったんですね」
「創造性や対人スキルを要する仕事、非定型的な仕事はAIに代替されにくいそうだ。その准教授がどういう腹づもりでクラシック演奏家を代替されにくい仕事の側に仕分けしたのかはわからないが。
想像するに。クラシックの演奏というのは楽譜通りに演奏したらそれでいいってわけじゃないだろう」
浩文は頷いた。実際の演奏には楽譜に書かれている以上の情報量がある。例えばピアノでは同じ楽譜を小柄な人間と体格のいい人間が同じような弾き方――このような仮定は実際にはありえないが――で共にミスなく弾いたとしてもその音色は異なるという。
この場合は小柄な人間の演奏のほうがより繊細に聞こえ、大柄な人間のほうがより力強く聞こえることだろう。
ピアノに限った話ではないが、楽譜通りに弾いた演奏もそれぞれに個性がある。プロの演奏家はこれをある程度まで有意識的に操作し、一回の演奏のなかでも前半は繊細に弾いて、後半は力強く弾いたりなんてことをしてくる。
そしてどの曲のどの箇所をどういう風に弾くか、それを決めるのが曲の解釈だ。例えば悲しい背景を持った曲なのであれば悲しげに、楽しい背景を持った曲なのであれば楽しげに弾くという具合にだ。
それには作曲家の背景、作曲家の国の歴史、作曲の経緯、自分の演奏を聴いたときの聴衆の反応なんかを考える必要がある。
「それこそがクラシック演奏家に求められるオリジナリティだろう。私もそれは人間にしかできないと思っていた。でもそんなことも未来にはありえるのかな」
「そういえば俺アオイデーにいい演奏だって言われましたよ。予選での演奏を聴いたそうで」
「なんだ自慢か?」
「いやそういうわけじゃなくて。つまりアオイデーにはアオイデーなりの審美眼がすでに備わっているってことですよね」
「ふん、そうとは限らないんじゃないか。アオイデーには膨大な演奏のデータが詰まっているんだろう。
さらにおそらくお前の先輩である高城なり音楽に心得のある人間がその演奏データの評価値を付けているはずだ。これは90点、あれは50点って具合にな。それはいずれどのような演奏が価値ある演奏とされるのかという価値体系を作り出す。
お前の演奏はその価値体系とどれだけ楽譜に正確かということからいい演奏とされたに過ぎないかもしれない」
「つまりアオイデーは自らの感性に則って判断したのではなく、他人に設定した感性にあてはめて判断したに過ぎないということですか?」
「ザッツライト。もっとも人間の審美眼も所詮は同じような仕組みなのかもしれない」
「と言いますと?」
「例えば私たちは名曲や名画を真に世間の評価と切り離して判断することはできない。名曲と言われているから名曲なんだと思ったり、あるいは名曲に聴こえたりするなんてこともあるんじゃないのか。
音楽については私はできる限りそういうものを排して判断したいと少なくとも自分では思っている。しかし美術のほうははっきり言って自信がないな。
それに私たちの審美眼や味覚なんかは幼いころに聴いたものや見たもの、食べたものが源泉にあると思わないか? だからこそ国が違えば審美眼や味覚は大きく異なる
それと人間がアオイデー演奏データベースをインプットする過程、その原理はほとんど変わりないんじゃないかなとも思ってね」
何やら難しい話になってきた。

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