マーブルピッチ

大葺道生

第10話【有馬という打者】

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そろそろ出番が来るかもしれないということで宮道はブルペンでの登板準備を切り上げてベンチで待機しているときのことだった。宮道は気になったことを常木に尋ねる。
「もう3点差付いてますけど全力出していいんですか?」
春の県大会は最後まで勝ったとしても甲子園まではつながらない。春季関東大会をテレビで見る人はほとんどいないだろう。学校の知名度を上げるためなら、あるいは甲子園出場という多くの高校球児の目標を果たすためなら、ここは本来の実力を隠しておくというのも手ではある。そのうえ柊光相手に3点差では、仮に宮道がこの先0点に抑えたところで勝つことができない可能性は高い。
「もちろん、全力で投げてください。春とはいえ、うちは野球で人を集めようとしているわけですからね。一番重要な夏の甲子園に出るのは重要ですが、コンスタントに結果を残すことも重要ですよ。それに相手は秋の準優勝校、柊光学園です。その柊光とあと4イニングもやれるんです。これは個々の選手の実力はあるが、実戦経験の少ないこのチームが成長するチャンスですよ。全力でやらないでどうするんですか」
「了解です」
そう言って宮道は気合を入れる。


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5回裏 花緑かろく学院対柊光しゅうこう学園 1-5 無死3塁
柘榴塚ざくろづかはしっかりと歩幅を図りながらリードを取りながら宮道みやみちのピッチャーとしての特徴を思い出していた。
――宮道のやつはそういや牽制がうまかったな。さらにレベルアップしてることも考えてあのとき帰塁できるギリギリだった場所から1歩分だけベースに近いところにリードを取ろう――
そうしてリードを決めた瞬間のことだった。宮道から鋭い牽制が入る。しかし柘榴塚は余裕を持って3塁に帰塁することができた。
――ほぼイメージ通り。牽制はあんまり進化してないのかな――
サードが宮道に返球したのを確認した柘榴塚は再び同じ歩幅でリードを取る。そこからさらに2球の牽制を食らう。
――しつこいな。何球投げてもお前の牽制じゃ俺をアウトにするのは無理だよ――
宮道はようやく打者に向かって投げる。それは凄まじい速度のクイックから投じられたストレートだった。森本から振り遅れ気味の空振りを奪う。これで2ストライクノーボール。
――なんだよ。今のクイック。とんでもなく速かったぞ。……やっぱり前の試合は猫を被ってやがったか。これだけのクイックがあるから牽制は磨く必要はなかったってことね。嬉しくなるじゃないか。またお前と最高の勝負ができる。……とはいえ、また今のクイックで来られたらと思うと簡単に盗塁はできてねえな――
柘榴塚は先ほどよりも広いリードを取る。宮道が直前に見せた〈速いクイック〉のおかげで今の宮道は少なくとも4段階のフォームを使い分けることができることがわかった。その厄介さを重く見て、自らが本塁に近づくことによってせめて〈スロウ〉の選択肢を消してやろうという狙いがあった。
――宮道の牽制ならここまではリードが取れるはずだ――
サインのやり取りがうまくいかないのか、柘榴塚は2球続けて首を振った。
次の瞬間のことだった。先ほどよりも格段に速い牽制が宮道の手元から放たれる。柘榴塚は一瞬何が起きたかわからず、時間が止まったような感覚を覚える。
無論即座に帰塁するが、間に合わずサードのグラブでタッチされると、審判がアウトを宣告した。柘榴塚はベンチに帰りながら思案する。
――やられた。宮道は最初の3球はあえて緩く投げて、本命の牽制でアウトにするつもりだったんだ。いやいや待てよ。なんでこんな手に引っかかってるんだ。これぐらいやってくるやつは中学の時もいたじゃねえか。……俺は宮道の牽制は中学時代見慣れたつもりだった。そのタイミングそっくりの牽制が今日も来たんだ。視野が狭くなっていた。いや違うか。宮道に誘導されたんだ、俺の思考を。あの速いクイックを見て、俺はクイックをこれだけ進化させたから牽制を磨く必要はなかったんだなと得心した。さらに1回戦を見て、宮道が何かを隠しているかのような感覚を覚えたが、その正体はこのクイックだったのかと納得した。あのクイックを前にせめて森本さんが遅いフォームのことを考えなくて済むようにとリードを広げた。そういう思考の過程をあいつに踏まされたのか――
ベンチに帰った柘榴塚は思わず壁を殴ろうとして止める。こんなところで怪我をするわけにはいかなかった。それにまだ十分に信頼を得ていない自分が監督や上級生の目の前で物に当たる姿なんて見せられない。
グラウンドを見ると丁度森本が〈スロウ〉からのカーブでショートフライに打ち取られたところだった。


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3番松原への5球目、〈速いクイック〉からインコースへのストレートが投じられた。松原は振り遅れ、思い切り差し込まれてしまう。打ち取った当たりだったが、打球はセカンドの頭を超えてライト前のポテンヒットとなる。
松原がガッツポーズをするとともに柊光側のスタンドから歓声が響く。と同時に有馬コールが鳴り響いた。宮道はボールをいじりながらマウンドを踏み鳴らす。有馬の打撃フォームはオープンスタンス――ピッチャーに近い足をホームベースから遠ざける構え、クローズドサークルやスクエアスタンスに比べるとピッチャーに身体の正面を向けていることになる――。オープンスタンスは一般的には身体の正面をピッチャーに向けているため、両目でピッチャーを見ている、つまりはピッチャーの球を見やすいという特徴がある。また身体を最初から開いているため内角を打ちやすく、一方で外角は苦手と言われている。しかし実際有馬の打撃成績を見ると、外角を特に苦手にしているというデータはなかった。コース、球種、ピッチャーの利き腕などに関係なくコンスタントに打つ隙のない選手と言えよう。
石田が悩んだ末にサインを送ると、有馬への1球目、〈速いクイック〉からのストレートを宮道はインコースに叩き込んだ。有馬は悠然とした態度でそれを見送ると、バッターボックスから外れて、軽く1スイングする。直前の1球の軌道を追ったかのようなスイングだ。
2球目は〈遅いスロウ〉からのカーブ。1球目との組み合わせは、現状宮道の投じることのできる最大の緩急差の組み合わせだった。ボールになってもいいと考え、低めギリギリに投げ込む。幸いボールストライクゾーンに向かっていった。
有馬はその緩急差に体勢を崩されるも持ち直してバットを振り抜いた。思いっきり引っ張られたボールは放物線をほとんど描かない弾丸ライナーのままレフトポールに直撃する。一拍おいて柊光スタンドは狂乱したかのように騒ぎ立てる。
あと10センチ左か下にずれていればホームランではなかっただろう。もっともそれでも2塁打は確定であり、宮道にとっては何の慰めにもならなかった。


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有馬が宮道から本塁打を打った直後の花緑学院ベンチ内のことであった。
「宮道ってなんか圧倒的な格上相手に妙に弱いところありますよね。紅白試合のときも青木さん相手に2打数2安打で打ち込まれてたし」と梶尾が言うと、控え捕手の井ノ口が反応する。
「好打者の条件ってのは色々あるけど、青木さんも有馬さんもスイングスピードが速いタイプの好打者なんだ。多分この2チームのなかでも2人のスイングスピードは頭抜けてる。宮道の5段階のフォームは結局はリリース前までに全て判別できるんだよな。それに球速も120キロと特別速いわけではない。むしろ有馬みたいなプロに行くであろう打者の主戦場からすると遅いぐらいだ。だからスイングスピードの速い打者は投げられたあとでも十分立て直せるんじゃないかな。もちろん、全然効果がないってことはないんだろうけど」
「確かに宮道はフォームの特殊さを除けば、球筋も球威も普通ですからね」と梶尾は納得した風に言った。


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その後、宮道は5番諏訪と6番黒田に連続してフォアボールを与えてしまう。石田は何よりもストレートのコントロールが悪くなっているのを気にかけ、マウンドに駆け寄る。
――基本のストレートがこれだと、組み立てにならないぞ――
「大丈夫か」と石田は宮道に声をかける。
「大丈夫です」と汗はぬぐいながら宮道は言う。こんな厳しい展開ながらも宮道の目にはまだ闘志の色が見えた。わかった、これ以上点はやれないぞ、と言って石田は守備位置に戻る。
――宮道のやつ何かやろうとしてるみたいだな。ランナー二人いる状況でこの状態のストレートを投げられるのはいつ後逸するかわからなくて怖くて仕方がないが、そういうことなら俺が止めてやる――
続く7番加藤への4球目のことだった。真ん中高めに外れたストレートを空振り、加藤は三振に喫す。しかし低めのサインを出したところに高めのボールが来たため石田はうまく捕球することができなかった。なんとか飛びついてボールを前に落とすが、打者の加藤は振り逃げで出塁してしまう。2死満塁。あと1点でも取られれば7回コールド条件の7点差。絶対絶命の状況で次の打者を迎えることとなった。


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『8番林崎俊二君に代わりまして朽木庸介君。バッターは朽木庸介君』
柊光学園は2番手ピッチャー林崎に代えて、朽木を代打に送り込む。ややムラがあるが、長打力のある期待の2年生である。林崎はまだまだ投げられそうだが、ほぼ決着の着いた試合であるためできるだけ控えの選手を試したいというのが柊光監督の狙いだった。
朽木は自分の名前がコールされると2度ほどその場でスイングして打席へ向かった。柊光は伝統的にスタメンを足の速い打者で揃える傾向にあるが、足は遅いものの
特別優れた長所のある選手に関しては、過去例外がなかったわけではなかった。朽木は自身もまたその例外として採用されることを狙っていた。
――さあて宮道君だったか。俺の踏み台になってもらうぜ。有馬さんに変化球をスタンドまで持ってかれたからか、さっきからストレート増やしてるみたいだけど、俺の得意球もストレートだ――
1球目、宮道はインローボールゾーンにスライダーを投じる。朽木は余裕を持ちながらそれを見送った。
――今のコースのスライダー、俺が秋季大会で初球に手を出してゲッツーを打ったときと同じボールだな。こいつら結構ウチのデータをそろえてやがる。でも俺があの時ひっかけたのはMax130キロ後半は出てる投手のスライダーだぜ。この投手の球じゃ無理だろ――
2球目を投じようとして宮道は足を上げる。
――来た。これは1番速いフォーム――
投じられた球はストレートだったが、朽木は振り遅れ気味になりながらも外野横のファールゾーンまで打球を飛ばす。
――オケオケ。これが最速ね。次は通用しねえぞ――
朽木は今の球をイメージしながら振ると、構え直す。
――3球目はっと、……普通のフォーム。来た! ストレート――
朽木のバットはボールの下を叩いて、打球は真後ろに飛んでバックネットに突き刺さった。
――……速さとキレが上がってやがる。手を抜いてやがったのか。いやこんだけボコボコにやられてるのに今更そんなことしてる余裕あるわけねえか。俺が目測を誤ったんだ。今度はしっかり捉える。……次は……、遅いフォーム――
宮道は5段階のうち1番遅いフォームでストレートを投じた。真ん中高めの絶好球、朽木はスタンドインをイメージながら振り抜いた。しかしバットは空を切る。石田はボールを取り損ね、足元すぐ近くに弾いてしまうが、そのままホームを踏みフォースアウトとなる。これでスリーアウト。
ベンチに帰ろうとする朽木にネクストで待機していた星が声をかける。
「何やってんだよ。最後の球はっきりしたボール球だったぜ」「はぁ……?」
朽木は星の発言に呆気に取られる。
――どう考えても絶好球だっただろうが――

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