マーブルピッチ

大葺道生

第0話【宮道というピッチャー】

バッターのバットのはるか上を剛速球が唸りを上げながら通り抜けていく。主審がストライクとバッターアウトを宣告する。宮道大理の所属するチーム、東北沢シニアが3年生最後の試合で優勝を決めた瞬間だった。ナインがマウンド上に集まって喜びを分かち合っている。
宮道大理はスタンドからそれを恨めしそうに見つめていた。彼は名門東北沢シニアで投手をやっていたが、中学3年間の間はとうとう公式戦では1度の出番も与えられることなく終えることとなった。監督やチームメイトの話にも上の空で最後の大会を優勝で締めくくることができた喜びに耽ることもなく早々に宮道は帰宅した。
2週間後のことだった。宮道は高校では野球を続けようかどうしようかと自らの進路について悩みながらも日々のトレーニングを続けていた。続けるとしてどれぐらいの高校に行くべきだろうか。できれば甲子園には行きたい。かといって中学時代のように全く試合に出れないのでは本末転倒だ。それに推薦を望むべくでもないということも考えなければならない。一般入試で入れるところとなると、さらに学校は限られてくる。
彼が夕方のランニングから帰ると、家には意外な人物が訪れていた。宮道が小学校のころに所属していたチームの監督を務めていた大石光一である。彼は夕食を食べて、自分の家のようにくつろいでいた。相変わらず遠慮の知らない人だと思い、宮道はほほえましくなる。小学生のころ所属していたチームは決して強いチームではなかったが、比較的楽しい思い出が多かった。もっとも当時は自分がチームのエースであり、今のチームと違い試合で活躍できていたからかもしれない。
大石が少し話さないかと言って、宮道を外に連れ出した。とりあえず2人は近所の運動公園を訪れていた。野球に携わる人間が話すなら野球をしながらのほうが話が弾むだろう。そう思った大石は宮路に頼んでグラブ2つとボール、バットを持ってきてもらった。大石と宮道はキャッチボールをする。
小学生の時よりはやはり成長してるな。
ボールを受けながら大石はそう思った。キャッチボールの段階なので何とも言えないが、中学生投手とはそこそこというところか。
「監督、今確か高校野球の監督をやってるんでしたよね」
宮道は年賀状で見た記憶を頼りに質問する。
「ああ、花緑学院っていう横浜の私立高校の野球部だ。元々数年前まで女子校だったからな。そもそも男子生徒が少ないんだよ。学校側も野球部に力を入れてくれてるんだが、それでも2,3年合わせて14人しかいない。苦労は尽きねえよ」
「で、今日は何をしに来たんですか?」
「お前、うちの高校に来いよ。来年から特待生の枠を1つもらってる。その枠をお前にやりたいと思ってる」
宮道は返事の代わりに怪訝そうな目をした。確かに宮道の所属していた東北沢シニアは中学野球の名門チームであり、とりわけ宮道の学年は中学野球史上最強とすら評されることがあった。とはいえ宮道は中学3年間で一度も試合に出ることはできなかったのだ。
「まず1つ目は俺の監督としての経験が浅すぎてほとんどの選手は誘いに乗ってこないってことだ。チームの実績自体もほとんどないし、無理はないけどな。だから俺の教え子で一番の出世頭のお前になんとか来てくれないかと頼みに来たわけだ」
宮道は監督のボールをキャッチしながら返事する。
「監督は知らないんすか。俺は中学3年間一度も公式戦のベンチに入れてないんですよ」
「知ってるよ。でもお前の小学生時代の実力も知ってる。あのまま成長してくれていれば十分戦力になるだろう。それにお前が試合に出れないぐらいで腐って練習に手を抜くようなやつじゃないことも知ってる」
宮道は大石の言葉に目頭が熱くなるのを感じた。
「わかりましたよ。でも俺は昔の縁故で特待生に選んでもらうつもりはないんで、きっちり俺の今の実力を見てください。それで俺を特待生として欲しいか決めてください」
大石はうなずくと、宮道の持ってきたバットを持ってゆっくりと構えた。大石は高校時代県下中堅のチームで4番打者を張っていたほどのプレイヤーだ。流石に今現在もその時の実力を維持しているとは思えないが、中学をこれから出る宮道にとっては強敵であることに変わりはないだろう。
お互いのウォーミングアップのために宮道は何球か投げる。しかしそのうちの多くは鋭い当たりでピンポン玉のようにフェンスまで伸びていった。
「とりあえず1打席勝負な」
そう言って大石は構えた。大石は昔と同じようにクローズドスクエア――バッターボックスの後の足をホームベースから遠くに置く立ち方――で右打席に立った。ホームベースに対して平行に立つのに比べると、わずかながらピッチャーに対して背中側を見せていることになる。最初から身体をひねっているため反動を生み出しやすく強い打球を打つことができる。一方でその立ち方ゆえにピッチャーのフォームを見辛くなるというデメリットがある。また外角が得意で、内角が不得意というのも特徴だろう。


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大石はバットをゆらゆらと回しながらタイミングを取り始める。宮道はオーソドックスな上手投げのフォームから内角高めにストレートを投げ込んでくる。大石はバットを出すがレフト方向のファールゾーンに落ちた。
結構厳しいコースに来ていたなと大石は今の一球を思い起こす。
――昔からコントロールは得意分野だったもんな。さらに成長してる。しかもいきなりクローズドの泣き所である内角攻めとは。判断力や観察眼も大したものだ。対して球速は110キロちょっとってところか。確かに全国レベルではないけど、中学生としては十分及第点かな。
2球目は低めのボールゾーンにカーブが投じられる。大石は余裕を持って見逃した。次辺り速い球を投げるための見せ球だろう。3球目は外角にストレートが投じられた。大石は外野を超えるつもりでスイングするが、振り遅れの空振りに終わった。さっきとは打って変わって速く感じる投球だった。しかし実際の球速はほとんど変わっていない。これが宮道の最大の武器だった。
大石はこれといって目立った武器のない宮道に小学生時代ある武器を仕込んだ。盗塁を阻止するための素早いモーションでの投球、クイックをランナーがいないときにも用いるというものだ。つまり2つのタイミングのモーションを使い分けることによって打者をゆさぶろうというものである。フォームでタイミングの差を作るのは球の速度でタイミングの差を作るのに比べればより対応する時間が長いという点から比較的対応しやすいといえよう。
しかし野球は100分の数秒で空振りとジャストミートが分かれると言われるスポーツである。その効果は決して小さなものではない。また通常クイックをした分だけ十分にボールに体重を乗せることができず、球速や制球力を落とす投手が多いなか宮道は通常のフォームでもクイックでもほとんど遜色のない球を投げることができた。加えて、
――宮道のやつ、小学生のころよりクイックの速度が上がってやがる。でも次はねえぜ。速いフォームでも普通のフォームでも対応してやる。
4球目はインコースに投じられたストレートだった。読み通りとばかりに大石はバットを振り抜いた。ボールがフェンスを越えていくのをイメージした。しかし打球はサード方向にぼてぼての当たりが転がるだけとなった。
宮路はあまりにも自分のイメージ通りの空振りが奪えたことにほくそ笑む。これが中学時代彼が必死で磨き上げた新たな武器だった。普通のフォームより遅い投球名付けて〈スロウ〉である。
これが後に変幻自在のフォームで名だたる打者を翻弄することになる宮道大理の伝説の幕開けであった。


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4月5日 私立花緑学院
本日、この私立花緑学院は入学式を迎えていた。校門でビラを配りながら男子生徒二人が談笑している。
「ついに例の一年をおがめるわけだ」
彼の名は清野。この花緑学院の野球部の部員である。彼らは現在自分たちが所属している野球部の勧誘をしているところだ。
「そんな期待しすぎないほうがいいんじゃないか。いくら特待生と言っても、コネも実績もないうちの高校に来てくれるような奴はそんな大した選手じゃないだろ」
もう一人の名は高田。同じく野球部の部員である。
「まあ俺も全国トップクラスの選手が来るとは思ってないさ。それでも期待しちまうじゃねーの」
「まあ全くってことはないけどな。それにしても投手か」
「ああ」
「まあうちのエースがそう簡単にポジション奪われるとは思わないけど、また荒れそうだな。あいつ」
高田の言葉を受け、清野も面倒臭そうにため息をつく。


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くだんの花緑学院特待生、宮道大理は理事長に呼ばれ理事長室を訪れていた。聞くところによると今年から導入された花緑学院野球特待生制度は彼の強い希望があってのことだという。
「ようこそ宮道君。今日からバリバリ頼むよ。君がわが校を甲子園に連れて行ってくれることをぜひ期待している」
「ええ。任せてください」
とは言うものの宮道には自分がエースとなってチームを甲子園まで導く想像などまるでできていなかった。彼は結局中学3年間公式戦で登板することはできなかったからだ。怪我などの特別な事情などなく、ただ単に自分より上のピッチャーが何人もいたからである。
もちろん。彼の所属していたチームは名門中の名門であったため、万年ベンチ外とはいえそれなりの実力はあるという自負はある。小学校時代の恩師のためにチームをいいところまで連れて行きたいというモチベーションもある。しかし甲子園、ましてやそれまで甲子園に縁のなかったチームをそこまでたどり着かせるほどの実力が自分にあるとはとても考えられなかった。
「今日改めて君を呼んだのはわが校の監督を紹介したいと思ってのことなんだよ」
「……理事長お忘れかもしれませんが、僕は小学生のころ監督の指導を受けておりまして」
「ああ、彼は解任したよ。ここまで設備を整えたにも拘わらず彼はこの2年まるで結果を出せなかったからね」
宮道は入学前に監督に聞いた話を思い出す。この花緑学院はそれまで女子校だったものの3年前から経営難のため共学校となった。しかしそれでも入学者は思ったほどは増えず、学校は生徒集めのために2年前から野球部に力を入れることにしたという。宮道の恩師である監督が登用されたのも丁度そのときのことであるという。
と、宮道は学校の来歴を思い出すとともに監督が理事長は堪え性のない人だとぼやいていたのを思い出す。
すると理事長室のドアをノックする音が聞こえる。
「常木先生ですか? どうぞ」
「失礼します」
スラっとした長身の男性が入室してくる。おそらくこの人物が理事長が宮道に会わせたい新監督なのだろう。まだ年齢も20代そこそこといったところで体格も背は割と高いが、身体に厚みがあるというわけではない。とても高校野球の名監督という風には見えなかった。
「こちらが新監督の常木先生だ」
「よろしくお願いします。宮道くん」
常木は柔和な笑みを浮かべながら宮道に手を差し出す。さわやかな教師だ。野球部の監督としての是非はともかくとして、好感の持てる人物であった。
「常木先生は前の学校では女子ソフトボールの顧問をしていたらしいんだが、なんとそのチームを県大会準優勝まで導いているんだ。野球の指導者の経験はないそうだが、本人は野球経験があるらしいし大した問題ではないだろう」
大した問題じゃないわけないだろ。宮道はそう心の中で毒づいた。

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