恋は盲目とは言いますが
第10話
8月18日
少し前に妹は退院したが、音桐はまだ病室を訪れていた。もちろん桜子を見舞うためだ。前回訪れた際から10日近くが空いてしまった。お盆ということで久しぶりに長い休みが取れた母が実家に帰省するのに、妹と一緒についていったのだ。
病室を訪れると、そこにはすでに楓子がいた。男友達だという湯島孝平も一緒だった。
楓子は音桐を一瞥すると、「よぉ、『皆川さん』」とからかうような声をあげる。やはり楓子は音桐が偽名を使っているということに薄々気づいているようだった。
孝平は黙って深々と頭を下げた。音桐が病室で彼に会うのは確か3回目になるが、彼が言葉を発したところをほとんど見たことがない。外見と年齢の割に寡黙な男なのだ。
「はい」
そう言って楓子は音桐の前に病室の端に積まれている丸椅子を差し出してくれる。
「ありがとう、楓子さん」
と言って音桐はその丸椅子に座るが、瞬間病室が変な空気に包まれたことを悟った。
「皆川君、楓子のこと下の名前で呼ぶようになったんだね。というか下の名前知ってたっけ。なんか前に会ったときより親しげだし」
その桜子の発言で音桐はどうやら彼女があの日の一件を完全には把握していないことに気付いた。
「ああ、いやこの前たまたま駅前であってさ。そのときちょっと立ち話したんだ。下の名前で読んでるのは、星合さんと同じように『星合さん』って呼んだら区別着かないだろう」
桜子はいぶかしむような目をやめてくれない。少し言い訳くさかっただろうか。
「別にいいんだけどさ。でも妬けちゃうなあ。私のことは星合さんって呼んでるのに、楓子だけ下の名前だなんて。ねえ、湯島くん」
「そうっすね。俺も楓子に下の名前で呼んでもらうまで1年ぐらいかかったんで」
孝平は眉ひとつ動かさずにそんなことを言う。そういうことを言うときにはもう少し表情を変えてほしいものだ。じゃないと冗談に聞こえない。あるいは冗談ではないのだろうか。
しかし妬けるなんて表現をよく異性との関係において使えるものだ、と音桐は思った。自分には無理だ。そんな風に相手への好意を見破られたり、誤解されたりしそうな発言は冗談でも言えない。もっとも桜子の発言が冗談であることは誰の目にも明らかであり、自身の臆病が過ぎるだけだということはわかっている。
「皆川君、せっかくだから私のことも下の名前で桜子って呼んでくれない?」
「え、いや、それは……」
「嫌なの?」
「嫌なわけじゃないけど。心の準備というか……」
「じゃあ準備期間を1分与えましょう」
1分!? 桜子は右手の人差し指を立てながら60から逆に数字をカウントしていく。音桐は黙っていた。隣では孝平と楓子がこのあとどこかに行こうと話している。
「桜子。リピートアフタミー」
彼女はおどけたように言った。
「……桜子さん」
「よくできました、俊君」
桜子は破顔する。音桐は、それは自分のような嘘吐きには眩しすぎると思った。
「さん付けはないほうがいいかもしれませんけど、いきなり呼び捨てで呼び合うのは私も若干恥ずかしいですし、ここはよしとしましょう」
2
その日は楓子や孝平と一緒に帰ることになった。駅まで辿り着くと楓子が喫茶店でも行かないかと誘ってきた。
「いいけど、邪魔じゃない?」と音桐は尋ねる。
「別に邪魔じゃないですよ。孝平も別にいいよね」
「楓子がいいならそれでいいよ」と孝平は言った。この2人一体どういう関係なのだろうか。
音桐たち3人は駅前にある極小規模なエリアにチェーン展開しているドーナツ屋に入った。楓子は真剣にドーナツを吟味している。
2人は中学生。音桐は高校生。こういう場合は高校生として奢ったほうがいいのだろうか。そんなことを考えながら財布の中にいくらあったっけって思い浮かべていると孝平が話しかけてくる。
「楓子から誘ったんですから奢ろうとか考えなくていいですよ。あいつも病院にお姉さんの見舞い行くって行ったら駅前で寄り道用の小遣いぐらいはもらってるみたいですから」
孝平は流し目を決めながらそう言った。
――なんだ。こいつ本当に中学生か。僕が中学生のときはこんな風に気を遣うことなんてできなかった。というかいまもできてない。かっこいい。 結局音桐と孝平は2人ともコーヒーを注文し、楓子はアイスティーとドーナツ2つを注文した。
一番最後に席についた楓子はどさりと席に座ると足を組んだ。スカートでそんなことをすると、彼女の足がかなり付け根に近い部分まで見えてしまう。音桐が思わず目をそらすと、隣では孝平がにこにこしながら平然と彼女の足を凝視していた。
「今日のやり取りでなんとなく想像ついたけどさ、皆川さん姉さんに偽名で自己紹介しちゃって引っ込みつかなくなってるんだよね」
はい、その通りです。そう返すほかなかった。
「なんでそういうことするのかなあ」
楓子はドーナツをかじり、頭を抱える。
「いや多分2人にはわからないと思う」
「わからないかどうかなんて聞いてみないとわからないじゃん」
楓子はまっすぐにこちらを見つめながら言った。
「言っとくけど、こっちだって黙ってあげてるんだから説明責任あるよね」
それについても返す言葉はなかった。
音桐は自分の本名が『音桐壮二』であること、桜子とはクラスメイトであること、桜子とは同じ文芸部に所属していたことを告白した。
楓子はそこまで聞いた上で眉間に皺を寄せる。
「ますますわかんないんだけど、なんで嘘ついたの」
「いや、だからそれが多分君たちにはわかんないというか……」
ダン。楓子がテーブルの上を拳で叩いた音だ。
「だからわかんないか、どうかなんてわからないって言ってるじゃないですか」
楓子はまくし立てるように怒鳴った。音桐たちは当然のように店内中の視線を集めていた。
「楓子、とりあえず落ち着こう」
そう提案したのはもちろん孝平だった。
少し前に妹は退院したが、音桐はまだ病室を訪れていた。もちろん桜子を見舞うためだ。前回訪れた際から10日近くが空いてしまった。お盆ということで久しぶりに長い休みが取れた母が実家に帰省するのに、妹と一緒についていったのだ。
病室を訪れると、そこにはすでに楓子がいた。男友達だという湯島孝平も一緒だった。
楓子は音桐を一瞥すると、「よぉ、『皆川さん』」とからかうような声をあげる。やはり楓子は音桐が偽名を使っているということに薄々気づいているようだった。
孝平は黙って深々と頭を下げた。音桐が病室で彼に会うのは確か3回目になるが、彼が言葉を発したところをほとんど見たことがない。外見と年齢の割に寡黙な男なのだ。
「はい」
そう言って楓子は音桐の前に病室の端に積まれている丸椅子を差し出してくれる。
「ありがとう、楓子さん」
と言って音桐はその丸椅子に座るが、瞬間病室が変な空気に包まれたことを悟った。
「皆川君、楓子のこと下の名前で呼ぶようになったんだね。というか下の名前知ってたっけ。なんか前に会ったときより親しげだし」
その桜子の発言で音桐はどうやら彼女があの日の一件を完全には把握していないことに気付いた。
「ああ、いやこの前たまたま駅前であってさ。そのときちょっと立ち話したんだ。下の名前で読んでるのは、星合さんと同じように『星合さん』って呼んだら区別着かないだろう」
桜子はいぶかしむような目をやめてくれない。少し言い訳くさかっただろうか。
「別にいいんだけどさ。でも妬けちゃうなあ。私のことは星合さんって呼んでるのに、楓子だけ下の名前だなんて。ねえ、湯島くん」
「そうっすね。俺も楓子に下の名前で呼んでもらうまで1年ぐらいかかったんで」
孝平は眉ひとつ動かさずにそんなことを言う。そういうことを言うときにはもう少し表情を変えてほしいものだ。じゃないと冗談に聞こえない。あるいは冗談ではないのだろうか。
しかし妬けるなんて表現をよく異性との関係において使えるものだ、と音桐は思った。自分には無理だ。そんな風に相手への好意を見破られたり、誤解されたりしそうな発言は冗談でも言えない。もっとも桜子の発言が冗談であることは誰の目にも明らかであり、自身の臆病が過ぎるだけだということはわかっている。
「皆川君、せっかくだから私のことも下の名前で桜子って呼んでくれない?」
「え、いや、それは……」
「嫌なの?」
「嫌なわけじゃないけど。心の準備というか……」
「じゃあ準備期間を1分与えましょう」
1分!? 桜子は右手の人差し指を立てながら60から逆に数字をカウントしていく。音桐は黙っていた。隣では孝平と楓子がこのあとどこかに行こうと話している。
「桜子。リピートアフタミー」
彼女はおどけたように言った。
「……桜子さん」
「よくできました、俊君」
桜子は破顔する。音桐は、それは自分のような嘘吐きには眩しすぎると思った。
「さん付けはないほうがいいかもしれませんけど、いきなり呼び捨てで呼び合うのは私も若干恥ずかしいですし、ここはよしとしましょう」
2
その日は楓子や孝平と一緒に帰ることになった。駅まで辿り着くと楓子が喫茶店でも行かないかと誘ってきた。
「いいけど、邪魔じゃない?」と音桐は尋ねる。
「別に邪魔じゃないですよ。孝平も別にいいよね」
「楓子がいいならそれでいいよ」と孝平は言った。この2人一体どういう関係なのだろうか。
音桐たち3人は駅前にある極小規模なエリアにチェーン展開しているドーナツ屋に入った。楓子は真剣にドーナツを吟味している。
2人は中学生。音桐は高校生。こういう場合は高校生として奢ったほうがいいのだろうか。そんなことを考えながら財布の中にいくらあったっけって思い浮かべていると孝平が話しかけてくる。
「楓子から誘ったんですから奢ろうとか考えなくていいですよ。あいつも病院にお姉さんの見舞い行くって行ったら駅前で寄り道用の小遣いぐらいはもらってるみたいですから」
孝平は流し目を決めながらそう言った。
――なんだ。こいつ本当に中学生か。僕が中学生のときはこんな風に気を遣うことなんてできなかった。というかいまもできてない。かっこいい。 結局音桐と孝平は2人ともコーヒーを注文し、楓子はアイスティーとドーナツ2つを注文した。
一番最後に席についた楓子はどさりと席に座ると足を組んだ。スカートでそんなことをすると、彼女の足がかなり付け根に近い部分まで見えてしまう。音桐が思わず目をそらすと、隣では孝平がにこにこしながら平然と彼女の足を凝視していた。
「今日のやり取りでなんとなく想像ついたけどさ、皆川さん姉さんに偽名で自己紹介しちゃって引っ込みつかなくなってるんだよね」
はい、その通りです。そう返すほかなかった。
「なんでそういうことするのかなあ」
楓子はドーナツをかじり、頭を抱える。
「いや多分2人にはわからないと思う」
「わからないかどうかなんて聞いてみないとわからないじゃん」
楓子はまっすぐにこちらを見つめながら言った。
「言っとくけど、こっちだって黙ってあげてるんだから説明責任あるよね」
それについても返す言葉はなかった。
音桐は自分の本名が『音桐壮二』であること、桜子とはクラスメイトであること、桜子とは同じ文芸部に所属していたことを告白した。
楓子はそこまで聞いた上で眉間に皺を寄せる。
「ますますわかんないんだけど、なんで嘘ついたの」
「いや、だからそれが多分君たちにはわかんないというか……」
ダン。楓子がテーブルの上を拳で叩いた音だ。
「だからわかんないか、どうかなんてわからないって言ってるじゃないですか」
楓子はまくし立てるように怒鳴った。音桐たちは当然のように店内中の視線を集めていた。
「楓子、とりあえず落ち着こう」
そう提案したのはもちろん孝平だった。
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