豪運と七つ星

ノベルバユーザー257653

1-15 記述『聖なる者』

一週間が過ぎた。柊は路上で目が覚めた。ふらふらと立ち上がり、歩き始める。曇天、生温い空気。時が止まってから、この天気は変わらない。当然夜も来ない。寝たくなったら寝て、目的もなく歩く。そんな毎日だった。柊は一週間が過ぎたことすら知らない。ただ生きるために生きている。


ずっと何も食べていない。それなのにどうして死なないのか。そもそもどうしてこんな状況になっているのか、柊にはわからない。考えようにも、真っ白な頭の中に文字が生まれない。思考という行為が無意味だった。


長いこと家に帰っていない気がした。帰らなきゃ…となんとなく思うが、家の場所がわからない。自分の居場所がわからない。世界に響く音は、柊の足音と吐息だけ。足音のリズムに頭をぐわんぐわんと左右に揺らして、どこかわからない自分の家を探し続ける。


家が並んでいる。家ごとに表札がかかっている。
「田中」「馬場」「岩山」「柊」「下村」……




あれ、俺、名前、なん、だっけ。




歩き続けてスーパーが目に入る。以前柊が梨を奪った店ではないが、そんなことに気がつく柊ではない。そこでもやはり梨を一つ取ってまた歩き始める。何の味もしない。そもそもこれは食べ物なのだろうか。口に入ればなんだって一緒だ。


柊は海へたどり着いた。波一つない静かな海だ。海岸近くに壊れた飛行機が落ちている。
飛行機…空、飛べるんだっけ。いいな、それ…空、いつか飛んでみたいな…
柊は海岸沿いに歩き始めた。時々地面で寝て、起きてまた歩く。何を探して歩いているのかもわからない。そうしているうちに港へ着いた。


船が浮かんでいる。
柊は開いている扉から中に侵入する。船に乗るのは初めてだった。ウロウロしていたら、操縦室に着いた。ドアに鍵はかかっておらず、中に入って席に座る。目の前のはガラス越しに青い海。柊はレバーやらボタンやらを適当にいじる。船はゆっくり動き出した。


電車の時もそうだったが、柊が運転できるのは彼が経験を持つからではない。ただ運がいいだけだ。運よく扉が開いていて入ることができ、弄っていたら運よく動いただけだ。柊の持つ“豪運”に知らず知らずのうちに助けられていた。ただジャンケンに勝つ特技ではないのだ。


柊は放心状態のまま船に揺られる。どこに向かっているかなど知る由もない。ただ流されるままに流されて、辿り着いてからどうするか決める。虚ろな目で柊は海を見つめた。船が動くことで波紋が広がる。




波紋のように消えてしまいたい。




柊は瞬きの狭間に、そんな事を思った。




  *  *  *




「なんだ、どうなっている!」
「何が起こったのよ!」
「突然どうしたってんだ!クソッ!」
「わけがわからない!」
様々な言語で困惑と憤怒の声が上がる。それら全ての声が一体となって大きな喧騒を生んでいた。
山之上高校高校二年A組の生徒らも皆、困惑の表情であたりをキョロキョロと見回している。どうやらクラスの人は一箇所に集まっているらしい。さっきまで居たはずの教室はなく、当然机と椅子もなく、人だけが別の場所に移されたかのようだ。そして自分らクラスメイト以外にも多くの人間が集まっていると見え、見渡す限り人の頭が続いていて、終わりは見えない。地面は真っ白な床で、上空は青い空。その青空の遥か彼方に、真っ白な服で背中にちょこんと羽が生え、頭に黄金の輪が乗った何者かが数人飛んでいる。


「あれは…天使かな…?」
木戸照也は上を見上げて目を凝らす。
木戸は幾分落ち着いていた。柊からドッペルゲンガーの力を聞かされていた以上、身の周りで超常現象が起こるのは覚悟していたからだ。他の皆は急に場所が変わったことに戸惑っているようだが、多分違う。僕たちは死んだんだ、これは死後の世界。


こんなことをするには件のドッペルゲンガーくらいだろう、と考えた木戸はドッペルゲンガーを探すことにする。だがこの人混みの中、わざわざ探しに行く必要は無かった。彼は木戸の目の前にいた。すぐ後ろには天野がいるし、教室での位置関係はそのままで、互いに距離が縮まった、てとこだろうか。


「君のことは何と呼べばいいんだろうね…柊のドッペルゲンガーくん。」
「好きなように呼べば?お前が呼びたかったらな。」
「僕が君と話したいわけないだろ。柊をどうした。」
位置関係が保存されているなら、柊もまた木戸の目の前にいるはず…だがいない。ドッペルゲンガーの力で、柊だけがこの場に来ていない、そう直感した。


「君には聞きたいことが沢山ある。まず言っておくけど、僕に嘘は通じないから、下らない真似はするなよ。柊はどうした。答えろ。」
「なぜお前が上からモノを言う?お前は俺に立ち向かう手段があるのか?あと、質問には一切答えない。お前こそ、下らない真似はするんじゃない。」
「なんだと…!」
「俺に触るな。」
「…っ」
ドッペルゲンガーの首元に手を伸ばした木戸に一声、木戸の動きがピタリと止まる。絶対的な力。逆らおうとしても、ドッペルゲンガーへ手を伸ばすことはできない。
木戸は無念に唇を噛み締め、ドッペルゲンガーを睨むことしかできない。


約10分が経過した。集まっていた人数は少しずつ減っているようで、互いの間隔が広がってきている。今や、人の間を自由に動き回れるくらいには人が疎らになっていた。
そんな時、人の間を縫って、人間ではない者が歩いてきた。白い服、背に小さな羽、頭には黄金の輪。そのあまりに現実離れした姿に、彼女が通った近くの民衆がどよめく。彼女はスタスタと歩いてくると、ドッペルゲンガーの前で歩みを止めた。
「あなた、何者。」
「来てくれると思ってたよ、天使さん。大天使アウラ様に会わせて欲しい。」
隣の木戸はスッと目を細めた。やはりこのドッペルゲンガーは変だ。明らかに、普通の人間じゃない。
「どうしてあなたがアウラ様を知っているの。」
「色々訳があるんだ。とりあえず会わせて欲しい。」
「……許可が出たわ。ついて来て。」
「待って!」
立ち去ろうとした天使とドッペルゲンガーを木戸は呼び止める。天使は足を止めて振り返り、ものすごく面倒くさそうな顔で聞き返した。
「なに?」
「僕もついて行っていいかな。その話、聞かせてもらっても。」
「あなた、この男が一緒でもいいの。」
「構いません。」
木戸の予想に反して、ドッペルゲンガーはさらりと木戸の動向を許す。天使はそれを聞いて嘆息を吐いて瞼を閉じ、すぐに目を開く。
「許可が出たわ。あなたも来なさい。」
天使の後ろにドッペルゲンガー、木戸が続く。
足を一歩踏み出した瞬間、周りにいた人間が消滅した。木戸は思わず足を止めて、慌てて辺りを見回す。
「あの…」
「なにしてんの、早く来なさい。」
「はい…」
天使もドッペルゲンガーも全く不思議がる様子もなく、当たり前のように歩いている。木戸はイマイチ釈然としない思いを抱えながら、しかし何も聞かずについていく。


白一色の景色の前方に、人影が見える。木戸らを先導する天使のそれとは比べ物にならない、キラキラして大きな翼、豪華な天使の輪。立っているだけでも神々しい。これが究極の美か、と思わずうっとりする。これが大天使アウラ様か、と木戸は直感。何より翼がすごい。こんなに美しい白を木戸は見たことがない。翼の表面から常に光の粒子が溢れているかのようで、見ているだけで心が浄化される。
「連れて参りました、アウラ様。」
「ご苦労。下がってよいぞ。」
女性的な見た目に反して、言葉使いは力強い。しかしそれがまた格の高さを際立たせていた。木戸らを連れてきた天使はその場ですうっと消える。まるで病院でのドッペルゲンガーみたいだ、と木戸は思った。


「なんの用だ。お主、私を知っていたのか?」
「はい、アウラ様が死者の魂を扱っていることも。」
「…お主、一体それをどこで…それにお主には不思議な力があるな。生命体を全て殺して、なんのつもりだ。失礼、全てではないな、お主とそっくりな人間が生きている。」
「僕が喋っても大丈夫なのでしょうか?」
ドッペルゲンガーのその言葉使いに柊が重なる。柊の普段の一人称は「俺」だが、目上の相手には「僕」に変わる。そんなところまでそっくりだというのか。
「構わない。この空間でお主の力は通用しない。私にお主の力が及ぶこともない。安心しろ。」
「わかりました。実は僕は、大天使カイト様の力で、未来から来たんです。」


…え?木戸は耳を疑った。未来から来た…?何を言っているんだ。しかし彼の言葉に嘘の気配はない。もし、もしも、このドッペルゲンガーが未来から来たとしたら、もし、未来の柊だとしたら、そんなことは信じたくはないけれど、容姿や性質が柊に似ているのも納得がいく。だが木戸の知る柊は、このドッペルゲンガーのように力を使って人を傷つけることはない。何が何だかわからない。どういうことなのさ…木戸は固唾を呑んで次の言葉を待った。

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