『 インパルス 』 ~宝くじで900億円当たったから、理想の国を作ることにした~
132話 一滴の雫
正巳が、『俺達と来ないか?』と言うとユミルは、ぽかんとした様子で口を開け、周囲をキョロキョロと見まわし始めた。
……誰に言った言葉なのか、分からなかったらしい。
見回しても、眠っているサナと少女、それにボス吉しか居ないだろうに……。
ユミルは、視線を彷徨わせた上で、何を血迷ったのか少女に視線を定めていた。
しかし、少女は既に一緒に来ることになっている。
ユミルも変だと思ったのだろう。
少女に合わせた視線をサナへと向けたり、ボス吉へ向けたりしている。
……その二人は、元々こちら側だ。
ユミルの様子を見ていたボス吉が、床に下ろされていたユミルの手の上に、自分の手を乗せた。そして――
ユミルが視線を向けた所で一鳴きした。
「にゃおん!」
通信機を外していた正巳には、ボス吉の言葉の意味が正確には分からなかった。
しかし、その仕草から言いたい事は分かる。
ユミルに『お主の事だぞ?』とでも言っているのだろう。
そんなボス吉に対して、不思議そうな顔をしたユミルが言った。
「ねこにゃん?」
「にゃぁ」
「どうしたにゃ?」
「にゃにゃぁ……」
「お腹空いたのですかにゃ?」
……『"パシッ!"』
痺れを切らしたのか、ボス吉がユミルの腕を猫パンチした。
――当然、加減されている。
「ねこにゃ――……私ですか?」
ボス吉が、促したお陰だろう。
ようやく、自分に対して掛けられた言葉だと、気が付いたらしい。
……それ程、戸惑う事でも無いだろうに。
「それで、どうだ?」
「い、いえ……しかし、私は……」
……この感じ、もしかしたら"ホテル"の秘密依頼中か?
「あれだ、別に抱えてる案件を終らせてからでも良いぞ?」
「あ、いえ、そういう事は無いのですが……」
少し迷っていたユミルだったが、やがて口を開いた。
「実は、ホテルを辞めていまして……」
「ああ、そうみたいだな」
ひと月以上前に、マムに話を聞いて知っている。
……マムから、『ユミルさんがホテルを辞めた様です』と聞いて、驚いてザイに確認をした。すると、ザイからも『確かです』と言われた。
ザイには、ユミルが辞めた理由も聞いた。
「それでしたら、私が既に役に立たない事をご存知かと……実際、お嬢様を守る事が出来ませんでしたし……」
……その事か。
ユミルは、綾香の護衛でありながら守る事が出来ず、挙句の果てに自分まで捕まってしまった。しかし、俺の勘だと、伍一会側が二人を攫う際に、手助けをした者が居た筈だ。
――それも、ユミルと綾香の身近に。
……と言うのも、途中までの"伍一会"の動きが完全過ぎるのだ。
幾ら手負いとは言っても、ユミルだ。
そう簡単に攫われるとは思えない。
少なくとも、二人の内何方かは逃走していた筈なのだ。
その様子は、救出に向かっている途中で、マムから聞いていた。
……そう、詳細に何があったのか聞いていたのだ。
……そう、聞いていた。
……ん?
「……そういう事か」
徐に通信機を取り出した正巳は、耳に取り付けると言った。
「マム?」
当然マムはこの会話を聞いていた筈だ。
――案の定、直ぐに返事があった。
「パパ……その、仕方なかったのです……危険の排除の為には……」
「分かってるさ。ただ、傷付けた人には謝らないといけないぞ?」
……マムは、いつも俺を中心に物事を処理する。
その弊害は、これ迄もあった。
小さな事は、俺がフォローを入れたりしていたし、マムの存在を明かさない為にもそれが最善だった。しかし、仲間に対してそれではダメだ。
◆
マム達は、電脳領域で会議をしていた。
そして、一つの結論が出た。
それは、何にも優先されるべき内容で――
つまり、『パパに嫌われない事が最重要』と言う事だった。
◆
少し葛藤があったのかも知れないが、やがてマムから返事があった。
「はい……パパ、その、嫌いになりましたか?」
「いや、そんな訳ないだろう? 変な心配をするな」
「あの、パパ……後でちゃんと謝るので……」
「ああ、そうだな」
……後で、マムの事もフォローする必要がありそうだ。
マムに、『後でな』と言うと通信を切った。
……目の前には、未だ状況が分からないと言った様子の、ユミルが居る。
改めて、ユミルに話しかける。
「ユミル、『役に立たない』と言う理由は、片腕が動かないからか?」
「はい……私は足手まといになると思いますので――」
皆迄言い終える前に、割って入った。
「その責任は、俺にあるな?」
「え……?」
「そもそも、腕が動かなくなったのは、半年前に俺を庇った時だろう?」
「いえ、あれは任務でしたので」
「だとしても、気を抜いていた俺を助けたのはユミルだ」
「私が入らなくとも、神楽様であれば――」
「今の俺ならば万が一にもないだろうな。でも、あの時の俺は素人だった」
「しかし……」
尚も食い下がろうとするユミルに、正巳は予め考えていた事を、実行する事にした。
「それでなんだが、もし腕が動かない事を気にしているのであれば――?」
『"ドンッ!"』
言い終える前に、車体が大きく揺れた。
「ちょ、ちょっと、ちょっとお兄様! これ、車、大変!」
……綾香が、慌てた様子で降りて来た。
……顔や頭が濡れている。
その黒髪は、一部が紅色がかっている様だ。
そんな綾香に、落ち着いた声色で言う。
「海に入ったか?」
「え、『海に入ったか?』じゃなくて……って、お兄様知ってたんですね?」
片目が紅く煌めいている。
「一言教えてくれても……お陰で濡れてしまいましたわ、ふふふ……」
……笑顔が怖い。
綾香に苦笑いを返して、ユミルに目を向けた。
ユミルには、特に驚いた様子が無い。
「ユミルは驚かないんだな」
ユミルに話を振ると、コクリと頷いてから答えた。
「乗車前に、水陸両用と確認出来ていましたので」
「ちょ、ちょっと、ユミは知ってたのに、教えてくれなかったの?」
「えっ、いえ、それほど重要では無いかなと思いまして」
「そ、そう…………まぁ、いいわ」
そして、『少し休もうかしら』と言うと、ボス吉達が横になっていた近くへと、歩いて行った。……横を通り過ぎた時に、その頬に薄っすらと涙の跡が見えた。
綾香が横になったのを確認して、ユミルに声を掛けた。
「ユミル、海を見ないか?」
「海ですか?」
ユミルは一瞬疑問符を浮かべたが、頷くと歩いて来た。
……多少濡れそうだが、問題無いだろう。
ユミルに先に上って貰う。
"上って"とは言っても、二メートル程だが。
ちょっとしたタラップを上がる。
先に上がっていたユミルに続いて、頭を出した。
湿った風を顔に感じる。
そして――
「ほぉ……」
――自然と声が漏れた。
視界が一気に開ける。
見渡す限りの"海"だ。
上って来る朝日が、海の表面を走っている。
振り返ると、先程着水したのであろう埠頭が見えた。
一メートル強あるだろう。
恐らく、あの埠頭から飛び込んだのだ。
「あれじゃあ、濡れるよな」
呟きながら、隣のユミルを見た。
向こうを出てくる際に、巻き直したのだろう。
片方の腕が、体にぴたりと固定されている。
「……」
ユミルは片手で体を支え、視線は海の先――太陽が差し込んでいく"向こう"へと向けられていた。その横顔は、何処か寂しそうだ。
「神楽様?」
ユミルの横顔を見ていたら、それに気が付いたユミルが『どうかしましたか?』と言って来た。そんなユミルに、(こういう時は直ぐに気が付くのに、何処か抜けてる時が有るんだよな)と苦笑してから、答えた。
「腕の事が気になっているのなら、その腕が治ったら一緒に来るか?」
「え? それは……もし、許されれば行きたいです」
その後に、『しかし、頂いた薬で足や他の傷は治りましたが――』と続けている。
恐らく、腕は治らないのではないか?と心配なようだ。
まあ、そんな事は関係ない。
必要な言質は取った。
「よし! 今の言葉、確かに聞いたぞ?」
そう言うと、懐からソレを取り出した。
それは、僅かに減った治療薬――レベル5の治療薬だ。
その薬を手渡す。
「これを飲んでみてくれ……もしダメなら、もっと強いのを試す」
「しかし――」
再び、食い下がろうとするユミルに、意識して投げやりに言う。
「それでもダメなら諦めるさ」
……当然、もしこれで治らなくても、如何にか治す術を探すに決まっているが。
「分かりました。それじゃあ、その……」
ユミルが、何やらモゴモゴしている。
「どうした?」
「あの、それじゃあ……これを飲ませて下さい」
……ユミルがそう言うと、渡した治療薬を返して来た。
「飲ませるって……?」
意味が分からなかったが、片腕で体を支えている姿を見て、思い至った。
「……すまん! 配慮が足りて無かった」
「ふぇっつ?! え、えぇ、あの何時でもだいじょぅ……」
恥ずかしそうにしているユミルを見ながら、申し訳に気分で一杯になった。
そして、(これ以上恥ずかしさを長引かせるのも良くない)と思った正巳は、その蓋を外すと――そのまま、ユミルの口元へと治療薬を持って行った。
「えっ? ――『ゴクゴク……』」
口元に注ぎ始めたのだが――ユミルが戸惑った表情を浮かべている。
(勢いが早すぎたかな?)と思い、流し込む速さを調整しながら、薬を飲ませた。
途中で、何かそういうプレイ《・・・》をしている気分になったが、『これは、薬を飲むために必要な医療的行為であって、そもそも恥ずかしいのは俺よりもユミルなのに、俺が恥ずかしがってたらダメだ!』と、如何にか耐え切った。
空になった容器をユミルの口元から外す。
「…………」
何となく、ユミルの視線が冷たい気がする。
そんな事は……いやいや、まさか。
そんな事は、無いはずなのだが……
「えっと、ユミルさんッ――!?」
ユミルに、何か不手際が有ったかを聞こうとしたのだが……
頬に柔らかい感触と、ほんのりと甘い香りを感じた。
「――っつ?」
「何となく、ですっ!」
……ユミルの顔は離れたが、その感触と香りは残っている。
……なんで?
…………
しばらくぼーっとしてしまった。
我に返ってユミルに目を向けると、微笑みを向けて来た。
……何故だか、ユミルは心なしか機嫌が戻っている。
まあ、減るモノでもないし、悪いモノでもない。
……取り敢えず、良い事にしておこう。
「えっと……その、腕はどうだ?」
正巳がはぐらかす様に言うとユミルは、それ迄体に固定していた布を外し始めた。
――そこに現れたのは、赤黒い線の走った腕だった。
元々白い筈の腕が、血の巡りが悪い為か、薄い紫に近い色へとなっている。
――固定していた布が、全て外れた。
すると、支えを失った腕が、だらりと垂れ下がってしまった。
「神楽様、やはり――」
「"正巳"で良いぞ。それに、ほら……」
言いながら、正巳はユミルの腕を慎重に持ち上げると、胸の高さで支えた。
「ほら、見てみろ」
支えている腕が、熱を持ち始めていた。
……赤黒い線が脈を打っている。
血管が、赤黒くなっていた様だ。
「これは?」
「確か、"再構築"だったかな? ……まあ、そんな感じだ」
治療薬に関して聞いた時、『レベルの違いは、再構築する範囲の違いです』と言われた。その中で、『再構築した組織は、基本的により強化されるので、バージョンアップと言うと分かり易いでしょうかね』とも言っていた。
ユミルは、『再構築ですか?』と不思議そうにしていたが、直ぐにその腕に視線を戻した。……腕が一回り膨張している。
――今まで何度か見て来たのと同じ現象だ。
レベル3程度迄であれば、それほど見た目での変化はない。
しかし、それ以上となると、見た目でも変化があった。
変化があると言っても、それは単に投薬直後の"治療中"の事だ。
治療後、見た目において変化が現れるような事は殆どないだろう。
綾香は、微妙に変化が出ているが……
俺が直接飲ませた事が、何か関係しているのかも知れない。
そのまま確認していると、綾香が何やら熱そうな仕草――顔の汗を拭ったり――をしていた。
「ちょっと良いか?」
「はい……?」
一応断ってから、ユミルの頬に手を触れた。
……かなり熱が高い。
「熱くないか――」
ユミルに、体調を確認しようとしたのだが、邪魔が入った。
「ヒュー流石リーダー!」
「男前!」
……ガウスとデューの声だ。
声がした方を見ると、斜め後方にもう一台車両が浮かんでいた。
その上には、同じ様に3人――ガウス、デュー、そしてザイが居た。
バロムは、少年の面倒を見ているのだろう。
岩斉も載せている筈で、監視は必要だ。
それにしても、ザイが居ながら……
……ん?
……どこから見てた?
その事をザイに聞こうとしたが、ザイの表情を見て止めた。
――何か、肩の荷が下りた様な顔をしていた。
しかし、数秒その顔を見ていたら、やっと気が付いたのか、二人に何やら指示を出し始めた。……指示を受けた二人は、一瞬で引き締まった顔を引きつらせながら降りて行った。
そんな様子を見て、ため息を付きながら振り返ると、気のせいかユミルの顔が赤らんで見えたが……どうやら朝日の光がそう見せたのかも知れない。
ユミルは、しきりに自分の頬に手を当てている。
……両手で。
「違和感ないか?」
正巳がそう聞くと、我に返ったユミルが一瞬フリーズした。
そして、改めて自分の腕を確認している。
……薄く、線が腕を這っているが、問題なさそうだ。
「あ、あの……これっ」
驚いて、腕を曲げたり手を握ったり開いたりしている。
そんな様子を見ながら、言った。
「これで、ユミルは俺達の仲間だな!」
「なかま……?」
「ああ、まあ強制はしないし、ユミルさえ良ければだが……」
「あの、本当に一緒に?」
信じきれない表情をしている。
「迷惑か?」
「そういう訳ではありませんが、何のお役に立てるか分かりませんが……」
「それなら考えてあるんだ」
「考えて、ですか?」
「ああ。……実は、俺達の新しい拠点が出来てな」
「新しい拠点……ホテルは、出られるのですね」
「あぁ、居心地は良いんだがな……まあ、独り立ちみたいなモノかな」
「独り立ち……」
『独り立ち』という言葉に反応した。……元営業マンとしては、このキーワードが落とし文句になると感じたが、今回は止めておいた。
「それで、その拠点の"メイド長"をして欲しいんだ」
「メイド長……ですか?」
「あぁ、まあウチには、家事全般のプロフェッショナルが居なくてな……」
このまま行くと、家事の全般をホテルで学んでいる"子供達"に、一任する事になりそうなのだ。……一応、マムからの定時報告とザイからの現任報告で、子供達が実務レベルにある事は知っている。
だからこそ、始めの内は誰か大人を頭に据えて、見本を見せる必要が有るのだ。
「メイド長自体は、研修中の子供達の中に代りとなる子が出て来たら、その子に引き継げば良い……少なくとも始めの内は、手本となる大人が必要なんだ」
そう言って、再度ユミルの答えを促した。
……これでダメなら、本人の意思を尊重する。
「そうですね……」
しばらく考え込んでいたユミルだったが、やがて顔を上げると言った。
「それでは、私の代わりとなる子供が成長するまでは、お受け致します」
これで、一つの目的が果たせた。
……ザイとの約束も、果たせる。
「『娘を宜しく』か……」
ザイが漏らした言葉を思い出し、心の中で(任された)と呟くと、手を差し出した。
「よろしくな、ユミル」
「はい、正巳様」
差し出した手を握ったユミルが、微笑んだ。
◆
その横顔を見ていた男は、不意に頬をつたった"一滴の雫"を指先に乗せると、車両内へと戻った。その目には、娘の旅立ちが一つの"終わり"として焼き付いていた。
「任務完了、ですね……」
呼吸するように呟いた言葉は、波間を裂く音に掻き消され、誰の元へも届く事が無かった。
……誰に言った言葉なのか、分からなかったらしい。
見回しても、眠っているサナと少女、それにボス吉しか居ないだろうに……。
ユミルは、視線を彷徨わせた上で、何を血迷ったのか少女に視線を定めていた。
しかし、少女は既に一緒に来ることになっている。
ユミルも変だと思ったのだろう。
少女に合わせた視線をサナへと向けたり、ボス吉へ向けたりしている。
……その二人は、元々こちら側だ。
ユミルの様子を見ていたボス吉が、床に下ろされていたユミルの手の上に、自分の手を乗せた。そして――
ユミルが視線を向けた所で一鳴きした。
「にゃおん!」
通信機を外していた正巳には、ボス吉の言葉の意味が正確には分からなかった。
しかし、その仕草から言いたい事は分かる。
ユミルに『お主の事だぞ?』とでも言っているのだろう。
そんなボス吉に対して、不思議そうな顔をしたユミルが言った。
「ねこにゃん?」
「にゃぁ」
「どうしたにゃ?」
「にゃにゃぁ……」
「お腹空いたのですかにゃ?」
……『"パシッ!"』
痺れを切らしたのか、ボス吉がユミルの腕を猫パンチした。
――当然、加減されている。
「ねこにゃ――……私ですか?」
ボス吉が、促したお陰だろう。
ようやく、自分に対して掛けられた言葉だと、気が付いたらしい。
……それ程、戸惑う事でも無いだろうに。
「それで、どうだ?」
「い、いえ……しかし、私は……」
……この感じ、もしかしたら"ホテル"の秘密依頼中か?
「あれだ、別に抱えてる案件を終らせてからでも良いぞ?」
「あ、いえ、そういう事は無いのですが……」
少し迷っていたユミルだったが、やがて口を開いた。
「実は、ホテルを辞めていまして……」
「ああ、そうみたいだな」
ひと月以上前に、マムに話を聞いて知っている。
……マムから、『ユミルさんがホテルを辞めた様です』と聞いて、驚いてザイに確認をした。すると、ザイからも『確かです』と言われた。
ザイには、ユミルが辞めた理由も聞いた。
「それでしたら、私が既に役に立たない事をご存知かと……実際、お嬢様を守る事が出来ませんでしたし……」
……その事か。
ユミルは、綾香の護衛でありながら守る事が出来ず、挙句の果てに自分まで捕まってしまった。しかし、俺の勘だと、伍一会側が二人を攫う際に、手助けをした者が居た筈だ。
――それも、ユミルと綾香の身近に。
……と言うのも、途中までの"伍一会"の動きが完全過ぎるのだ。
幾ら手負いとは言っても、ユミルだ。
そう簡単に攫われるとは思えない。
少なくとも、二人の内何方かは逃走していた筈なのだ。
その様子は、救出に向かっている途中で、マムから聞いていた。
……そう、詳細に何があったのか聞いていたのだ。
……そう、聞いていた。
……ん?
「……そういう事か」
徐に通信機を取り出した正巳は、耳に取り付けると言った。
「マム?」
当然マムはこの会話を聞いていた筈だ。
――案の定、直ぐに返事があった。
「パパ……その、仕方なかったのです……危険の排除の為には……」
「分かってるさ。ただ、傷付けた人には謝らないといけないぞ?」
……マムは、いつも俺を中心に物事を処理する。
その弊害は、これ迄もあった。
小さな事は、俺がフォローを入れたりしていたし、マムの存在を明かさない為にもそれが最善だった。しかし、仲間に対してそれではダメだ。
◆
マム達は、電脳領域で会議をしていた。
そして、一つの結論が出た。
それは、何にも優先されるべき内容で――
つまり、『パパに嫌われない事が最重要』と言う事だった。
◆
少し葛藤があったのかも知れないが、やがてマムから返事があった。
「はい……パパ、その、嫌いになりましたか?」
「いや、そんな訳ないだろう? 変な心配をするな」
「あの、パパ……後でちゃんと謝るので……」
「ああ、そうだな」
……後で、マムの事もフォローする必要がありそうだ。
マムに、『後でな』と言うと通信を切った。
……目の前には、未だ状況が分からないと言った様子の、ユミルが居る。
改めて、ユミルに話しかける。
「ユミル、『役に立たない』と言う理由は、片腕が動かないからか?」
「はい……私は足手まといになると思いますので――」
皆迄言い終える前に、割って入った。
「その責任は、俺にあるな?」
「え……?」
「そもそも、腕が動かなくなったのは、半年前に俺を庇った時だろう?」
「いえ、あれは任務でしたので」
「だとしても、気を抜いていた俺を助けたのはユミルだ」
「私が入らなくとも、神楽様であれば――」
「今の俺ならば万が一にもないだろうな。でも、あの時の俺は素人だった」
「しかし……」
尚も食い下がろうとするユミルに、正巳は予め考えていた事を、実行する事にした。
「それでなんだが、もし腕が動かない事を気にしているのであれば――?」
『"ドンッ!"』
言い終える前に、車体が大きく揺れた。
「ちょ、ちょっと、ちょっとお兄様! これ、車、大変!」
……綾香が、慌てた様子で降りて来た。
……顔や頭が濡れている。
その黒髪は、一部が紅色がかっている様だ。
そんな綾香に、落ち着いた声色で言う。
「海に入ったか?」
「え、『海に入ったか?』じゃなくて……って、お兄様知ってたんですね?」
片目が紅く煌めいている。
「一言教えてくれても……お陰で濡れてしまいましたわ、ふふふ……」
……笑顔が怖い。
綾香に苦笑いを返して、ユミルに目を向けた。
ユミルには、特に驚いた様子が無い。
「ユミルは驚かないんだな」
ユミルに話を振ると、コクリと頷いてから答えた。
「乗車前に、水陸両用と確認出来ていましたので」
「ちょ、ちょっと、ユミは知ってたのに、教えてくれなかったの?」
「えっ、いえ、それほど重要では無いかなと思いまして」
「そ、そう…………まぁ、いいわ」
そして、『少し休もうかしら』と言うと、ボス吉達が横になっていた近くへと、歩いて行った。……横を通り過ぎた時に、その頬に薄っすらと涙の跡が見えた。
綾香が横になったのを確認して、ユミルに声を掛けた。
「ユミル、海を見ないか?」
「海ですか?」
ユミルは一瞬疑問符を浮かべたが、頷くと歩いて来た。
……多少濡れそうだが、問題無いだろう。
ユミルに先に上って貰う。
"上って"とは言っても、二メートル程だが。
ちょっとしたタラップを上がる。
先に上がっていたユミルに続いて、頭を出した。
湿った風を顔に感じる。
そして――
「ほぉ……」
――自然と声が漏れた。
視界が一気に開ける。
見渡す限りの"海"だ。
上って来る朝日が、海の表面を走っている。
振り返ると、先程着水したのであろう埠頭が見えた。
一メートル強あるだろう。
恐らく、あの埠頭から飛び込んだのだ。
「あれじゃあ、濡れるよな」
呟きながら、隣のユミルを見た。
向こうを出てくる際に、巻き直したのだろう。
片方の腕が、体にぴたりと固定されている。
「……」
ユミルは片手で体を支え、視線は海の先――太陽が差し込んでいく"向こう"へと向けられていた。その横顔は、何処か寂しそうだ。
「神楽様?」
ユミルの横顔を見ていたら、それに気が付いたユミルが『どうかしましたか?』と言って来た。そんなユミルに、(こういう時は直ぐに気が付くのに、何処か抜けてる時が有るんだよな)と苦笑してから、答えた。
「腕の事が気になっているのなら、その腕が治ったら一緒に来るか?」
「え? それは……もし、許されれば行きたいです」
その後に、『しかし、頂いた薬で足や他の傷は治りましたが――』と続けている。
恐らく、腕は治らないのではないか?と心配なようだ。
まあ、そんな事は関係ない。
必要な言質は取った。
「よし! 今の言葉、確かに聞いたぞ?」
そう言うと、懐からソレを取り出した。
それは、僅かに減った治療薬――レベル5の治療薬だ。
その薬を手渡す。
「これを飲んでみてくれ……もしダメなら、もっと強いのを試す」
「しかし――」
再び、食い下がろうとするユミルに、意識して投げやりに言う。
「それでもダメなら諦めるさ」
……当然、もしこれで治らなくても、如何にか治す術を探すに決まっているが。
「分かりました。それじゃあ、その……」
ユミルが、何やらモゴモゴしている。
「どうした?」
「あの、それじゃあ……これを飲ませて下さい」
……ユミルがそう言うと、渡した治療薬を返して来た。
「飲ませるって……?」
意味が分からなかったが、片腕で体を支えている姿を見て、思い至った。
「……すまん! 配慮が足りて無かった」
「ふぇっつ?! え、えぇ、あの何時でもだいじょぅ……」
恥ずかしそうにしているユミルを見ながら、申し訳に気分で一杯になった。
そして、(これ以上恥ずかしさを長引かせるのも良くない)と思った正巳は、その蓋を外すと――そのまま、ユミルの口元へと治療薬を持って行った。
「えっ? ――『ゴクゴク……』」
口元に注ぎ始めたのだが――ユミルが戸惑った表情を浮かべている。
(勢いが早すぎたかな?)と思い、流し込む速さを調整しながら、薬を飲ませた。
途中で、何かそういうプレイ《・・・》をしている気分になったが、『これは、薬を飲むために必要な医療的行為であって、そもそも恥ずかしいのは俺よりもユミルなのに、俺が恥ずかしがってたらダメだ!』と、如何にか耐え切った。
空になった容器をユミルの口元から外す。
「…………」
何となく、ユミルの視線が冷たい気がする。
そんな事は……いやいや、まさか。
そんな事は、無いはずなのだが……
「えっと、ユミルさんッ――!?」
ユミルに、何か不手際が有ったかを聞こうとしたのだが……
頬に柔らかい感触と、ほんのりと甘い香りを感じた。
「――っつ?」
「何となく、ですっ!」
……ユミルの顔は離れたが、その感触と香りは残っている。
……なんで?
…………
しばらくぼーっとしてしまった。
我に返ってユミルに目を向けると、微笑みを向けて来た。
……何故だか、ユミルは心なしか機嫌が戻っている。
まあ、減るモノでもないし、悪いモノでもない。
……取り敢えず、良い事にしておこう。
「えっと……その、腕はどうだ?」
正巳がはぐらかす様に言うとユミルは、それ迄体に固定していた布を外し始めた。
――そこに現れたのは、赤黒い線の走った腕だった。
元々白い筈の腕が、血の巡りが悪い為か、薄い紫に近い色へとなっている。
――固定していた布が、全て外れた。
すると、支えを失った腕が、だらりと垂れ下がってしまった。
「神楽様、やはり――」
「"正巳"で良いぞ。それに、ほら……」
言いながら、正巳はユミルの腕を慎重に持ち上げると、胸の高さで支えた。
「ほら、見てみろ」
支えている腕が、熱を持ち始めていた。
……赤黒い線が脈を打っている。
血管が、赤黒くなっていた様だ。
「これは?」
「確か、"再構築"だったかな? ……まあ、そんな感じだ」
治療薬に関して聞いた時、『レベルの違いは、再構築する範囲の違いです』と言われた。その中で、『再構築した組織は、基本的により強化されるので、バージョンアップと言うと分かり易いでしょうかね』とも言っていた。
ユミルは、『再構築ですか?』と不思議そうにしていたが、直ぐにその腕に視線を戻した。……腕が一回り膨張している。
――今まで何度か見て来たのと同じ現象だ。
レベル3程度迄であれば、それほど見た目での変化はない。
しかし、それ以上となると、見た目でも変化があった。
変化があると言っても、それは単に投薬直後の"治療中"の事だ。
治療後、見た目において変化が現れるような事は殆どないだろう。
綾香は、微妙に変化が出ているが……
俺が直接飲ませた事が、何か関係しているのかも知れない。
そのまま確認していると、綾香が何やら熱そうな仕草――顔の汗を拭ったり――をしていた。
「ちょっと良いか?」
「はい……?」
一応断ってから、ユミルの頬に手を触れた。
……かなり熱が高い。
「熱くないか――」
ユミルに、体調を確認しようとしたのだが、邪魔が入った。
「ヒュー流石リーダー!」
「男前!」
……ガウスとデューの声だ。
声がした方を見ると、斜め後方にもう一台車両が浮かんでいた。
その上には、同じ様に3人――ガウス、デュー、そしてザイが居た。
バロムは、少年の面倒を見ているのだろう。
岩斉も載せている筈で、監視は必要だ。
それにしても、ザイが居ながら……
……ん?
……どこから見てた?
その事をザイに聞こうとしたが、ザイの表情を見て止めた。
――何か、肩の荷が下りた様な顔をしていた。
しかし、数秒その顔を見ていたら、やっと気が付いたのか、二人に何やら指示を出し始めた。……指示を受けた二人は、一瞬で引き締まった顔を引きつらせながら降りて行った。
そんな様子を見て、ため息を付きながら振り返ると、気のせいかユミルの顔が赤らんで見えたが……どうやら朝日の光がそう見せたのかも知れない。
ユミルは、しきりに自分の頬に手を当てている。
……両手で。
「違和感ないか?」
正巳がそう聞くと、我に返ったユミルが一瞬フリーズした。
そして、改めて自分の腕を確認している。
……薄く、線が腕を這っているが、問題なさそうだ。
「あ、あの……これっ」
驚いて、腕を曲げたり手を握ったり開いたりしている。
そんな様子を見ながら、言った。
「これで、ユミルは俺達の仲間だな!」
「なかま……?」
「ああ、まあ強制はしないし、ユミルさえ良ければだが……」
「あの、本当に一緒に?」
信じきれない表情をしている。
「迷惑か?」
「そういう訳ではありませんが、何のお役に立てるか分かりませんが……」
「それなら考えてあるんだ」
「考えて、ですか?」
「ああ。……実は、俺達の新しい拠点が出来てな」
「新しい拠点……ホテルは、出られるのですね」
「あぁ、居心地は良いんだがな……まあ、独り立ちみたいなモノかな」
「独り立ち……」
『独り立ち』という言葉に反応した。……元営業マンとしては、このキーワードが落とし文句になると感じたが、今回は止めておいた。
「それで、その拠点の"メイド長"をして欲しいんだ」
「メイド長……ですか?」
「あぁ、まあウチには、家事全般のプロフェッショナルが居なくてな……」
このまま行くと、家事の全般をホテルで学んでいる"子供達"に、一任する事になりそうなのだ。……一応、マムからの定時報告とザイからの現任報告で、子供達が実務レベルにある事は知っている。
だからこそ、始めの内は誰か大人を頭に据えて、見本を見せる必要が有るのだ。
「メイド長自体は、研修中の子供達の中に代りとなる子が出て来たら、その子に引き継げば良い……少なくとも始めの内は、手本となる大人が必要なんだ」
そう言って、再度ユミルの答えを促した。
……これでダメなら、本人の意思を尊重する。
「そうですね……」
しばらく考え込んでいたユミルだったが、やがて顔を上げると言った。
「それでは、私の代わりとなる子供が成長するまでは、お受け致します」
これで、一つの目的が果たせた。
……ザイとの約束も、果たせる。
「『娘を宜しく』か……」
ザイが漏らした言葉を思い出し、心の中で(任された)と呟くと、手を差し出した。
「よろしくな、ユミル」
「はい、正巳様」
差し出した手を握ったユミルが、微笑んだ。
◆
その横顔を見ていた男は、不意に頬をつたった"一滴の雫"を指先に乗せると、車両内へと戻った。その目には、娘の旅立ちが一つの"終わり"として焼き付いていた。
「任務完了、ですね……」
呼吸するように呟いた言葉は、波間を裂く音に掻き消され、誰の元へも届く事が無かった。
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