『 インパルス 』 ~宝くじで900億円当たったから、理想の国を作ることにした~

時雲

82話 帰還 [ハクエン]

 図らずも正巳が名付け親となった少年は、正巳の腕の中でこれ迄の人生を思い出していた。それは、まるで一つの人生が終わり、もう一つの人生が始まる。そんな感覚に近いものだった。









 物心ついた頃、既にそこに居た。


 温度のない床、灰色の天井、時折受ける罵声と衝撃。


 初めの内は、痛みに泣いたり、声を上げたりした。


 しかし、泣くと更に強く打たれ、声を上げると面白そうに笑われた。


 ……いつの間にか、痛みは薄くなっていた。


 言葉は自然に覚えていた。


 言葉には種類があり、同じ事を表現する言葉が、複数ある事にも気が付いた。


 歩けるようになってからは、なるべく目立たないように歩いた。


 歩かない日が続くと、足が動かなくなるのを経験した。……なるべく歩く事にした。


 ある日、施設に来た”ぼくしさま”とぶつかりそうになった。


 普段から、周囲にやさしい顔を向けていたので(大丈夫かな)と思っていたら、思った通り『おやおや、元気がいい事ですねぇ』と言って許してくれた。


 その日から僕は、”ぼくしさま”が来る度に、近くに行って話を聞くのが、習慣になった。


 ”ぼくしさま”は、何時も優しくて、何時もニコニコしていて、何時も心配してくれた。それに、数字の事や、簡単な計算を教えてくれたりした。


 そんなある日、外から子供が連れられて来た。


 その子供は、僕よりも4つか5つ年上で、暫く泣き続けていた。


 仕方なく慰めていると、次第に落ち着いたようだった。


 その子は落ち着くと、自分の話し始めた。


 『親に預けられた』と言っていたが、どうやら”売られて来た”ようだった。


 子供達が売り買いされている事は、夜密かに抜け出した時に、知っていた。


 暫く、その子と一緒に暮らす日々が続いた。


 話していて、”幼過ぎる”気がしたが、”子供”とはそういうモノなのかも知れないと思った。


 数カ月経ったある日、大人たちが『あのガキ、そろそろ出荷だな。14歳で売られるとしたら、”娼婦”か?』と話しているのを聞いた。


 僕が10歳と云う事を知っていたので、恐らく一緒の部屋にいる子の事だと分かった。


 どうやら、売られて行くらしかった。


 夜、その話を伝えた。


 しばらく考えた後に、『逃げよう?』と言って来た。


 今まで”逃げる”という事を、考えた事も無かった。


 驚いていたら、手を引かれたので、仕方なく着いて行く事にした。


 途中までは上手く逃げられた。


 しかし、外へと飛び出た瞬間、全身を悪寒が走り抜けた。


 全てがゆっくりと見えた。


 立ち止まった僕に、驚いたその子が振り返った。


 しかし、それまでだった。


 『パンッ!』と言う乾いた音の後、前を歩いていた子が地面に倒れた。


 ……目の前で、驚いた顔がゆっくりと、歪んでいくのが見えた。


 ……目を閉じても、脳裏に、その光景が繰り返された。


 頭を地面に打ち付けた。


 額に熱を感じたが、その”夢”は消えなかった。


 ……目が覚めると、部屋の中に居た。


 目を覚ました事が知られ、大人が入って来た。


 酷く怒っていた。


 『お前のせいで、商品がダメになった。代わりに、お前を”男娼”として売り飛ばすから覚悟しろ』と、言われた。正直、どうでも良いと思った。


 その日は、何も喉を通らなかった。


 一日中、自分が何を間違えたのかを考えていた。


 ……答えは出なかった。


 次の日、ぼくしさまが施設に来た。


 驚いたのと、嬉しかったのとで近くに走り寄ると、ニコニコした顔のまま、髪の毛を掴まれた。


 一瞬訳が分からなかったが、鈍い痛み・・で思わず声が出た。


 いつの間にか、”痛み”が戻っている事に驚いたが、それよりも”ぼくしさま”が本当に、あの”ぼくしさま”だとは思えず混乱していた。


 混乱している中、そのまま引き摺って行かれ、一つの部屋に入れられた。


 そして、『お前には何の価値も無い。未熟児で生まれ、捨てられ、折角”商品”として育てたのに、損害を出す。果ては、お前自身売り物にならない。……覚悟していろ、お前は死ぬまで道具だ。何の価値も無い、生きている意味も無いが、玩具おもちゃ位にはなれるだろう……折角、手を付けづに居た”上物”までダメにしやがって!』


 そう言うと”ぼくしさま”は震える手で、徐に取り出した煙草に火を点け、一服した。


 そんな様子を見ながら”ぼくしさま”の言った、言葉の意味を考えてみた。


 『何の価値も無い、生きている意味も無い』


 確かに、そうなのかも知れない。


 ”価値が無く、生きている意味が無い”


 そう思うと、涙が出て来た。


 何の涙か分からなかったが、胸の奥の奥、背骨と背中の間辺りがズキズキと痛んだ。


 胸を掻きむしっても、押さえつけても、痛みは治まらなかった。


 そんな様子を見ていた”ぼくしさま”が、『うるさいですよ』と言いながら、煙草を押し付けて来た。


 焼けるような痛みが、腕に走った。


 その後、何本か煙草を吸った後、”ぼくしさま”は部屋を出て行った。


 ……その日から、部屋にはカギがかけられるようになった。


 今までは、僕だけ自由に歩き回れたのに、どうやら今いる部屋が”専用”になった様だった。


 ……それからは、毎日職員や知らない人、時々”ぼくしさま”が部屋に来ては”一服”して行くようになっていた。


 感じるようになっていた痛みは、再び感じなくなり、与えられる食事は最低限命が繋がる程度。


 それでも、それでも、考えていた。


 『何の価値も無い、生きている意味も無いのであれば、なぜ生きているのだろうか、何の為に居るのだろうか』と。


 それから時が過ぎ、すっかり歩けなくなっていた。


 日中、部屋を歩き回る様にしていたのだが、もう2年以上前から栄養が足りなくて、体を支えるだけの力が足にはなくなっていたのだ。


 ……相変わらず、夜になると”一服”しに来る者はいた。


 今日も、そうだった。


 職員の中でも、質の悪い”イタズラ”をしてくるグループの内の一人、やたらと下半身を触って来る男だった。


 一通りの事をされた後、男が出て行こうとしたのだが、如何やら扉に鍵が掛かっている様だった。何度も、『ふざけてないで、出せ!』と無線で言っていた男だったが、一向に開かないようだった。


 男が苛立ちながら戻って来て、こう言った。


『まったく、あいつら! ……しかたねぇ、もう少し遊んでいくか!』


 そう言った男が、再び向かって来た。


 ……暫くして、満足したらしい男が、煙草を取り出した。


 そして、火を付けようとしたのだが……


 次の瞬間、男は拘束されていた。


 ……扉が開いている。


 いつの間にか、物音を少しも立てずに入って来たらしい。


『誰ですか?』


 そう口を開こうとしたが、入って来た女性は静かに首を振ってこう言った。


『後から来る人に、伝えなさい』


 そう言い、男を縛り上げた後、出て行ってしまった。


 ……(何を伝えろと言うのか)そんな風に、疑問を感じたが、ふと思い出した。


『価値が無く、生きている意味が無い』


 ……しかし、その価値のない僕が、こうして助けられた。


 ……助けられたというのは、初めての経験だ。


 誰も助けて等くれなかった。


 逆に、助けを求めて来た子を死なせてしまった。


 それなら、何が出来ると言うのか。


 そんな事を考えていたら、扉が開いた。


 ……大きな、今まで見た中で最も大きな男だった。


 ……この男に、”伝えれば良いのか”と思った。


 しかし、扉を開いた男は、何やら部屋を見渡した後で出て行ってしまった。


 ……


 伝える事も出来ないのか。


 ただ、『ありがとう』と言いたかっただけなのに。


 ……


 そうだ、伝えたいのは”ありがとう”だ。


 そう思ったら、居ても立っても居られない気持ちになった。


 しかし、足で立って歩き出す事は出来ない。


 ……どうにかして、伝えたい。


 そう願った時、再び扉が開いた。


 入って来たのは、鋭い目をした男だった。


 その目は、一度俺に目を留め、直ぐに部屋内をぐるりと一瞥した。


 ……男が近づきながら聞いて来る。


『……その傷は誰にやられた?』


 その問いには直接答えず、質問した。


『あなたが、伝えるべき、人ですか?』


 確かにそう言ったつもりが、上手く唇が動かず、音にならなかった。


 男はそのまま去ると思った。


 ……こんな僕に、わざわざ付き合う必要などない。


 しかし、予想は外れた。


 男は、耳を口元まで近づけて来たのだ。


 確信した。


 この男が、”伝えるべき人だ”と。


 迷わず、出せる全力で言葉にした。


『ありがとう』


 ……上手く伝えられたか分からなかった。


 しかし、男には確かに伝わっていたようで……


『もう大丈夫だ』


 そう言ってくれた。


 その後男は、施設の奴に幾つか質問した後、男の命を終わらせていた。


 ……その一連の動きは、綺麗だった。


 静かに、ただ静かに見入っていた。


 男が、不意に『名前は?』と聞いて来たので、思い返してみた。


 しかし、”名前”と言うモノは持ったことが無かった。勿論、他の人には有った様だが、自分にはなかったので、他の人の名前に興味を持ったことも無かった。


 正直に答えた。


『名前無いです』


 すると、男は考える様な仕草をした後で、こう言った。


『よし……”ハクエン”だな』


 一瞬何の事か分からなかったが、直ぐに、自分の”名前”が与えられたのだと気が付いた。


 そのことに気が付いた瞬間、始めて認められた気がした。


 ここに居る事を、生きている事を、存在している事を。


 胸の奥から、例えようのない感情が湧き出して来た。


 知らない内に、涙が溢れていた。


 ……こんなに、自分の内に水分があった事に驚いたが、男が僕を見ながら言った『誕生日、おめでとう』という言葉に”伝えたい言葉”が自然に口を突いて出た。


『ありがとう』


 しばらくそうして泣いていたが、落ち着いて来た頃に、男が『後で迎えに来る』と言って、出て行った。……施設の男は、そのまま外へと引きずり出されて行った。


 扉の外へ出て行く男を見ながら、ふと、男の名前が気になった。



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