誰よりもきれいな色になれ

みずかなで

夢は揺れる-6

 僕の母は、いわゆる芸術家だった。
 音楽に秀でていて、母が弾くピアノの音色を子供の頃から何度も聞いていた。繊細で優美な音で育った僕は、母の背中を追いながら自分も音楽を奏でるのだろうなあと夢見ていた。
 でも、僕には才能なんてなかった。
 ピアノの鍵盤を前にすると指が震え、譜面にある旋律のイメージさえ湧かない。リズム感がなくて弾けたとしてもボロボロの音が、汚い旋律が響くだけ。
 そして母は熱心な教育ママだった。鍵盤を弾く僕の手を間違ったら叩き、いびつな音だったら叩き、受け答えしたら叩き。僕は操り人形だったかもしれない。
 母は口癖のように言っていた。ーーあなたは私の夢だから、と。洗脳に近いものだったかもしれない。
 指導しても指導しても、それでも上達しない僕に、母はいつも発狂していた。
 ーー私の子なのに何で。
 知らないよ。僕も悔しくてたまらない。
 ーー努力不足だ。
 そうかもしれない。
 ーー私の夢は叶えられない。
 それは僕には関係ない。
 物心がついた頃からそんな母の姿を見てきた。だから怖くて仕方がない。芸術に向き合うことも、才能のない自分に向き合うことも。母と話すことも。
 だから逃げてきた。ずっと小言を言われるのも現実を突きつけらるのも嫌で仕方がなかった。
 幸い母は僕のことを諦めてくれた。でも母に見捨てられたという現実がやはり僕の心を刺しては殺す。なにも考えないようにしようとしても、その事実は幼い僕につきまとう。
 そのころからだろうか、僕が見る景色が小さく見えた。何も起こらないという非日常が逆に怖い。
 不思議な感覚だ。だが心地よいとさえ思ってしまう。
 何も起こらない、自分にストレスの負荷がかかることがこれから一切起こらない、という甘い蜜を吸って生きることは快感でしかなかった。
 勉強も音楽とは関係ないことを学び、高校も大学も芸術科ではなく普遍的な学部があるところに進学した。
 それで充実したかと言われればしていない。しかしあのまま母の教育を受けていたら、自分の精神が壊れてしまっていたかもしれない。
 僕は、普通を好むほかなかった。
 諦めるのは逃げじゃあない。逃げるのは許されることだ。自分の中で正当化してこれからも過ごしていくだろうと思っていた。

「何年振りだろ、すごく楽しかった」
 ゲームセンターに寄ったり、街でウインドウショッピングしたり、それなりに楽しんでくれたようで良かった。あんまり女性と出歩くことが少ない僕がちゃんとエスコートできるのか心配だったが、大丈夫なようで安心した。
 公園への帰り道、隣で彼女は笑っていた。満足げな顔を浮かべ、2000円ほどかけてUFOキャッチャーで手に入れたクマのぬいぐるみを抱えていた。
 今まで見たことのない笑顔だ。もし今までのこと関係なしに出会えていたら……いや、会うことすら難しいだろう。
 彼女があの公園に行くことなんてなかった。おそらく僕もない。だからこの出会いも、彼女の力によって実現できた。これは否定できない事実だ。
 空は暗くなりかけていた。夕陽の沈みかけのオレンジが僕らを照らし、影を明るく照らしては長く伸ばす。目に突き刺さるような日差しで思わず目を細めてしまう。
 ねえ、と彼女は駆け出して僕の前に躍り出る。そして夕陽を背に彼女は若干俯いた。小さい影は僕を覆いきれなかったが、逆光でその表情は見えなかった。
「私は、あなたが私の絵を認めてくれたから、それが嬉しくて自分の中でまた会いたいと祈っていた。美術館で会えた時、嬉しいなって思って。でもこれ以上は会うことはないだろうなと予感してて」
 でも、と言葉を強めた。若干の涙声で少し驚いた。何を告白しようとしているのか、どんな言葉を僕に投げつけようとしているのか見当もつかない。
「なんで、また会いに来てくれたのかなって。私の事をなんで知ろうとしてくれるのかなって。あなたには関係のないことなのに」
 関係のないこと。それは確かにそうだ。
「それは嫌だったってこと、なのかな」
「違う」
 否定の言葉は強かった。
「そうじゃないの。私の気持ちを知ろうとしてくれて嬉しかった。私の能力を信じてくれて嬉しかった」
 でも、と言葉を続けた。
 夕陽の照らす力が弱くなって、闇が空間を支配しようとする。逆光も消え、表情が見えた。目尻に涙がたまっている、泣いている。それはどんな涙なんだろう。
「私と関わると面倒なことになる、絶対あなたも分かっていたはず。なのに、なんでまた……会いにきてくれたのか、それだけが分からない。ずっと見て見ぬ振りをされた私は、助けを呼ぶのも叶わなかった」
 今度は大きい声で、彼女は精一杯上げる。
「ねえ、教えて。何で助けようとしてくれるの……面倒くさいことに巻き込んでしまうかもしれないのに、明らかに私は地雷なのに。そのせいで助けてくれようとする誰かが、あなたが、離れていくのを見るのが、もう怖い」
 つんざく彼女の悲痛な叫びは僕の鼓膜を突き抜けて僕の体内に響いてくる。
 ずっと自分のことを聞き入れてくれる人を探してて、でもなかなかそんな人はいない。世間的には気持ち悪い絵を描き続けるおかしい人だ。おかしい人に関われるほど、世間は暇ではない。
 僕は何で彼女の事が気になって会いに行ったのだろう。思い出せば簡単だ、彼女の名前がゴッホだったから。
 おそらく僕は稀な人間で、普通なら人の名前は聞いといて自分は偉人の名前を名乗る人に関わろうとはしないだろう。でも僕には、それ以外でもそれなりの理由がある、と自分の中では思っている。
「……僕の母は、芸術家だったんだ」
「それが、理由?」
「うん、でも核心はまだかな。……それで、僕は英才教育を受けたんだよ、音楽のね。僕は母と違って才能が無くて挫けた。どんなに練習しても旋律は奏でられない、母に何度も怒られる。嫌だったから諦めて逃げて、僕はここにいてしまっている」
 彼女には僕と違って才能があるのだろう。でもそれは潰されている。僕よりも醜い理由で、何も選択肢を与えられることなく消えかけている。
「僕は多分トラウマなんだ、そうやって人が崩れていくのが。僕に才能はない、だけど代わりに授かった誰かがそれを発揮できないまま壊れていく様子を見たくない。見たくないから避けてきたはずなのに、見えてしまった」
「じゃあ、私に再び会いにきたのは自己満足なんだ」
「そうだね。これは僕の自己満足」
 怖いぐらい自身の才能を虐げられた僕は、臆病になっている。だから僕は普通の世界を歩まざるを得なかった。スポーツで良い成績を残すわけでもなく、勉強も特殊なことを学ぶわけではなく、得意なことを探すことをしてこなかった。
 もしそれらの才能が無くてまた誰かに言われたら、と考えると何もできなかった。
「僕は才能のない自分に再び向き合いたい。君がどんな色を描いていたのかを知りたい。多分、これが理由。はっきりはしないけど、きっとそう」
 闇が完全に支配する。ポツンと空に浮かぶ光でも拭えない。これが夜の怖さであり、美しさなんだろう。
「じゃあ私は利用されてるんだ」
 小さく笑っておどけてる。
「そうだよ。だけど僕が君を利用しているように君も僕を利用すればいい」
 あくまで僕らは何かで傷ついた他人同士で、だけど利害が一致すれば新しく一歩進めるものになる、かもしれない。
「うん、そうだね」
 不満かな、と聞くと首を振る。ギュッとぬいぐるみを抱きしめて、
「私は色を見つけたい。自分の色を、自分の表現を……取り戻したいの。絵を描きたい」
 力強い彼女の声は空間の闇を切り裂いて僕の鼓膜まで届いて震わせる。初めて聞いた彼女の決意が僕の心臓の鼓動を止まらせない。
「私ね、1つ嘘をついてたの」
 彼女は僕に優しく微笑む。穏やかに笑い、今までの独白自体が嘘のようで、もしかして。と期待をした。
「私には本当の名前があるんだ。ゴッホではない、私が私自身だと証明できる真名」
 息を震わせながら僕を見据える。その瞳の奥は淀みのない色が広がっていた。
「私は朱莉、改めてよろしくね」
 色は静かに、彼女自身だと主張していた。

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