誰よりもきれいな色になれ

みずかなで

夢は揺れる-4

 僕は美術というものに関して、好きでも嫌いでもない。無関心といったほうがいいのだろうか。
 だから僕がゴッホと名乗る少女を気になったり、わざわざそのために調べたり。なんでそんな行動に至ったのだろう。
 おそらく多分、僕は知りたいんだ。狂った現状と自分が目をそらし続けた現実を。

 ざわざわと葉や芝が擦れ合う音がよく聞こえる公園に、彼女はいた。最初に邂逅したようにキャンバスを前に悩ましい表情をしている。僕が近づくと彼女は若干の笑顔と共にこちらを向く。
 あの狂気の沙汰とは思えない話を聞いて、信じるか信じないかと言われれば、信じざるを得ないのかもしれない。
 ゴッホを宿す少女。
 幻のような話だ。だけど、彼女の言葉、目すべてに説得力がにじみ出ていて雰囲気に飲まれたのだろうか、僕はある意味彼女に魅了された。
「こんにちは、また会えたね」
 前に会ったより声色がうわずいていた。
「うん、ちょっと暇だったからね」
 僕は彼女の横に座る。ベンチの表面は思った以上に冷たくて少し飛び跳ねてしまう。隣の彼女は少し照れるように頬を赤らめる。
「今日は、どんな絵を描いてるの?」
「ん。今日は自分の絵じゃない。『彼』の絵だね」
 覗いてみる。
 海、だろうか。海と空の青がそれぞれ違う濃さで描かれているが、その中に白の歪みがあった。海では波、空では雲。普段見ているそれらより禍々しい印象が出てしまう。海から飛び出しているのは大きな魚。サメなのか鯨なのか。とんでもなく大きい生物が海を支配していた。ファンタジーで例えると、そこから魔界の門が開いて混沌を及ぼす前兆……。こう例えるのはもしかしたら失礼なのかもしれない。
「ってことは、これはゴッホの作品なんだ」
「そ。この間のやつが評判良かったから描いてくれって。私にもわからない誰かに頼まれた」
「見ても大丈夫だった?」
「いいよ別に。これも描き終わったらマスコミに出回るだろうし。しかも聞く前に見てたじゃん。今更注意できないよ」
 受け答えしながら筆を動かす。絵の具がキャンバスを華やかな青に染まっていく。
「……私の能力は正確に言うならば、偉人が生前に描いた作品を複製するんじゃなくて、その人の新しい作品を生み出す能力なんだ。だから、この海はゴッホの新しい作品なんだよ」
「目の前の情景は全く違うのに、よく描けるもんだね」
「彼は、私と違う景色を見てるんだろうね。天国では海を間近にしているのかな」
「そういえば、そのイメージってどんなふうに湧いてくるの?」
「うーん、そうだな……。私が考えているわけじゃないんだ。手が勝手に動くっていうか、自分の意思で動かせてはいるんだけど、その意思が私じゃない誰かに操作されているというか……。抽象的な言い方になっちゃったね。自分にもよくわかっていないんだ」
 今話している彼女と描いている彼女の意思は切り離されている、と考えるのが妥当なのかもしれない。
「この能力は、〇〇の祝福だなんて呼ばれてる。大げさに言えばゴッドハンドなんて。神の手ってなんだか笑っちゃうよ。私の手は、普通の人間の手だったはずなのに」
 描く手を止め、自分の手を見つめる。その手は彼女の意思と背くように震えていた。
「祝福を宿した、奇跡なんだよね、私は。だからもしかしたら、この世界の条理に従うしかないのかなって。奇跡は普段めったに起きないから奇跡っていうんだから」
 目を伏せて、完全に手を止める。
 彼女に宿された祝福は本当に祝福と呼べるものなのだろうか。だいたい天才とか神童と呼ばれたものは喜んでその使命を全うする。しかし、彼女はどうだろう。何も嬉しくなさそうに空回りしながら絵を描き続けている。自分の意思が、表現が、知らぬ間にうようよと亡霊のようにさまよっている。
 自我が誰かに支配されているなんて嫌だ。僕でも、誰でもそう思う。それを否定する権利さえ彼女は奪われている。奇跡という言葉に踊らされている操り人形。そう表現せざるを得ない。
 どんよりとした空気が僕の肌をゾワっと舐める。楽しく話していたはずなのに、いつのまにかこのように不穏が空間を支配する。耳に入っていたはずの葉の擦れる音が急に遠くなって身体が別の空間に置いてけぼりにされた感覚。
 正直この空気は自分の意思が否定されているようで嫌いなのだ。
「そうだ」
 僕は思い立って、手を叩いて立ち上がる。
 「今から別の場所に行こうよ」
 急な提案に彼女はきょとんと顔を呆けさせる。
「ずいぶん急だね」
「そうだね、急だよ。だけど、そうじゃないと来てくれない気がするから」
 むりやり引っ張り出すしかないと思った。このまま何もしないなら進展はない。闇から闇へ、少しでも明るい方へ引っ張るんだ。
「でも、私。ここ以外ダメだって」
 震えている手をとる。手に取った瞬間、振動が呼応するように僕の心を揺さぶる。それを抑えるようにギュッと力を込めた。温かくて、でも冷たくて。彼女の微妙な感情が、そのどっちとも取れない温度を通して伝わってくる。
 そして観念したように、その震えは止まる。
「私、お父さんに、ここ以外出かけちゃダメだって言われてたのに。なんだか守れなさそう。ずいぶん強引なんだ」
 その手はじんわりと温かくなる。汗でなのか、それとも恥ずかしさなのか。
 彼女自身の感情の高まりを感じる。
 そして彼女は僕の手に重心をかけながら立ち上がる。小さな身体は、若干大きく見えた。
「どこに誘拐してくれるのかな」
 その目は、今までで1番綺麗な色をしている。
「楽しいところだよ、多分、おそらく、きっとそう」
 スカートを翻し、僕の手をそっと離し正面を向いた。
「じゃあ行こうか。君にとっては新しい場所がたくさんかもしれないね」
 差し出した手のひらに、温かい手が優しく乗る。そして彼女の方から、握ってくれた。
 ギュッと握られた手は、温かくて。でもなんだか痛くて。

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