誰よりもきれいな色になれ

みずかなで

1-3

 それから僕は時間を潰そうといろんな場所に足を運んだ。様々な絵画によって彩られた空間に行っても先ほどのような気持ち悪さ、違和感は感じえなかった。
 僕がたどり着いたのは資料室。今回の展覧会にまつわる情報が書かれた本やファイルが置いてあった。事前の知識がなくてもここで知識を蓄え深めることでよりこの展覧会を楽しませようという美術館側の配慮であろうか。
 僕の興味はあの名前。
 ーーフィンセント・ファン・ゴッホ。
 西洋の画家で、僕でも名前を知っている有名な偉人だ。どのような絵を描いていたかも知っている。
 適当な本を手に取り、ページを目的の箇所までめくる。そして僕は目撃する。
 今回の展覧会で展示されていた【ひまわり】についての説明が書かれてあった。
【ひまわり】。確か彼自身も何枚か描いていたはず。説明を見ると、その枚数は7枚。そしてそれぞれについて彼がどんな状況・感情で描いたのか、根拠のない説明がつらつらと並べてあった。
 僕の脳裏にずっと現れているあの【ひまわり】を探す。何とも言えない感情が蠢いているあの絵を探す。それぞれの【ひまわり】はそれぞれ画風が違っていたはずだから、探すのは容易いと思っていた。
 けれども、その絵画はその資料の中から現れることなんかなかった。
 載っている【ひまわり】はもちろん絵柄や色使い全て違っていた。だけど、僕が目撃したあの絵を見つけることはできなかった。なんで? と単純な疑問が渦巻く。
 本を閉じて呟く。「あれは一体何なんだよ」
 本に書いてあることが全て正しいとは限らない。それは何だって同じだ。だけど、あの有名な絵についての説明が漏れているとも思えなかった。7枚の【ひまわり】の中に僕が間近で見た【ひまわり】はなかった。
 確かに覚えている。でもそれが一致しない。本に書かれていることも嘘だとは思えなかった。
 僕は違う資料に手を伸ばす。そして同じようにページをめくる。
 見つけた。でもなかった。
 疑問が、疑念が僕の脳内を刺激する。もしかしてあれは盗作だったんじゃないか、と考えを飛躍させる。そんなわけない、とは言い切れないのも事実で、しかしもしそうだったとしたらあの贋作を目の前にして平然と鑑賞できるものなのか? 僕よりも何十倍も絵画に詳しい人々がひしめき合っている中で、誰かがあの絵は本物じゃないと指摘できる人がいるんじゃないのか。
 おかしいのは僕だけなのか、それとも僕以外の何かがおかしいのか。
「また会ったね」
 聞いたことのある声が耳に飛び込んだ。僕は本を手に持ったまま、その声がした方へと目を向ける。そこには以前、「ゴッホ」と名乗った少女が立っていた。前と違うのは、赤いベレー帽を被っていて、背伸びして張り切ってファッションをしているような小さい彼女は人形のように見えた。
「また会ったね……、こんにちは」
 そして僕はあまり驚くことはなかった。また会うような予感はあの時からしていたから。
「うん、こんにちは」
 そして彼女は会釈として頭を軽く下げた。
「絵に興味ないとか言っちゃって。こんなところで会うなんて思わなかったな」
 あの時よりも明るい空間にいるからか、彼女の表情ははっきりと見える。目は笑っているが、なんだか表情が固くて険しくも見えた。
「大学生はそれ自身に興味なくても、ここに来なきゃいけない理由が勝手に作られちまうんだよ」
 それより、彼女がここにいる理由はなんだろう。ずいぶんとオシャレしておめかしして。
「私は、自分の絵を見に連れて来られたんだ。そしてそれに付き合ってたら疲れちゃって。抜け出して誰の目にも触れられないところを探してたらここにたどり着いて。そしてあなたがいて」
 自分の絵?
 彼女の言葉の一節を抜き出して何度も反芻させる。単純に意味がわからないのだ。今回、この美術館で行われている展覧会のテーマは「近代西洋絵画展」。非常にシンプルでわかりやすいテーマだ。
 だけどその中に彼女の絵がある? 言葉を何度も噛み締めても理解なんかできない。つまり、単純に考えると僕の目の前いる少女は近代から実在していた人だ、ということになってしまう。そうは見えない、当たり前だ。不思議なことを言う子だな、と最初に邂逅した時から感じていたのだが、こうも理解できないともしかしたら僕自身がおかしいのか何か齟齬があるのか分からなくなってしまう。
「どういうことなの」
 僕はただ疑問をぶつける。
「私が描いたのがあるんだけど、この前の絵とは全く違う私の絵じゃない絵」
 彼女の声を聞いてもなお理解できなかった。
「つまり本物だと思っていたあの中に君の描いた贋作がある?」
 分からないなら分からないなりに無理やり自分の考えをひねり出してみる。そう考えるしかない、単純な答えではあろうが、これが一番筋が通る。
「違うよ」
 そして返ってきたのはある意味想定内の答えだ。
「今日飾られているのは全部本物。正真正銘、美術的価値があるもの」
 ゆっくりと口を開き僕に語りかけ、言葉を理解させようとしているようにも見える。でも、未だに理解できずにいる。
「私はね、飼われているんだ」
 そういうと僕から目を背けて、背中を向ける。その背中は衣装によって華やかに飾られているが、それを台無しにするように小さく震えて枯れていた。
「そして今日が私の初めてのお仕事のお披露目なんだよ。順従な犬としてちゃんと才能を発揮できたか、私の飼い主たちにね見てもらってたんだ。あなたも、私の絵分かってくれた?」
 分からないよ。この言葉がどうしても出てこなかった。
「分からないよね、だってあなたが見た私の絵は私の絵なんだもん」
「もしかして」
 僕は言葉に詰まる。
 今から言おうとした言葉はおそらく正しい。そして彼女が抱えている闇の核心に触れることでもあろう。でもやはり、その闇に触れるのが怖い。すでに片足を突っ込んでいるようなものかもしれないが、これ以上この沼に浸かるわけにはいかない。
 運命を握る責任なんかとれやしない。ましてやしがない大学生が、だ。
「ごめん、なんでもないや」
 言葉を撤回する。
 怖いんだ。他人のことに干渉してしまうことが、彼女なりのSOSだと分かりながらもそれを避ける選択をした。
「そっか」
 そして返ってきたそっけない言葉。それが僕の心臓を貫くように刃を突き立てる。彼女は振り返り寂しそうな表情を浮かべる。少しだけ笑い、そして落ち込み。それもまた息苦しく感じてしまって。
 体内で何かが軋む音がした。僕は何も悪くない、絡んできたのは相手だから。そういう風に正当化できるはずだ。
「じゃあ私は行くね。また会えて、少しでも話せてよかった」
 再び僕に背中を向けた彼女はこの資料室の入口へと歩みを進める。小さな背中がさらにしぼんでいるようにも見えた。
 そしてこの瞬間、もう二度と会えないんじゃないか、という可能性が僕の頭の中に浮かんでしまう。それでいいはずだ。それでいいはずなのに、一番いいはずなのに。
 なぜか嫌だと考える僕がいる。なぜなのか、その理由さえ説明できないのに。
 そしてそんな気持ちとは裏腹に消えゆく背中をずっと眺めいることしかできなかった。
 僕にはできることはない、彼女のために何もできやしない。しかしそれはただの思い違いなのかもしれない。それでもそう思うしかない。
 僕はいつの間にか彼女に惹かれているのかもしれない。何かしたいと思っているのかもしれない。だけど、それ相応の覚悟ができていないだけで。そのことが今の僕の重大な罪で。
 だからこんなにも悔しい気持ちが込み上げて、何にもできやしない僕を苛めている。
 何にもできないのは嫌だ、と言い聞かせている自分もいる。僕は彼女のためになにかしたい、でもそれが見つけられない限り行動しようなんてもってのほか。
 葛藤が膨れ上がって気持ち悪いぐらい僕の心臓を刺激する。
 そして僕は僕の行く先々を邪魔していた壁を破るように彼女が去ってひとしきり静寂が響く資料室の中で、葛藤していた僕自身を否定し西洋美術に関する本へと目を向け、目を凝らした。
 見つけられないものがあるなら探せばいい、時間かけてもいい。それができることなら。

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