パブロフ

紗和子

久々に降り立った駅は雰囲気を変えていた。地元を離れるまでは古いレンガ作りの建物だったはずなのに近代的な駅に様変わりしている。ロータリーも広くなり駅前にあった駄菓子屋はコンビニに変わっていた。谷川紗和子は地元の進学校に行き福岡の大学へ進学した。卒業後は名古屋の広告代理店に就職をしたが会社に馴染めず2年ほどで地元へ帰ってきた。「たった2年でこんなに様変わりするもんかね。」迎えの車の中で母へ思わずこぼした。地元へ帰ってくるのは就職して以来だった。「紗和子ちゃんがいない間に街は様変わりしてきたよ。あんなに廃れていた街でも工場が増えるとだんだん街が活性してくるんだねぇ。」紗和子の生まれた街はもともと港町で漁業が盛んな街だったが、近年貿易港として栄え、今まであった姿が様変わりしている。「最近は工場関係の移住者が多くなってねぇ、ビジネスホテルやアパートが沢山建ってるよ。」しみじみと母が話す。母と会うのも大学を卒業して以来だった。就職してからもたまには連絡を取っていたが、娘に会う喜びで母は些かおしゃべりになっている。「そういえば、あなた宛に高校の同窓会の案内が来てたわよ。せっかく帰ってきたんだから行ってきたら。」高校を卒業してから、仲間とは誰ともあっていない。みんな元気にしているのだろうか。福岡の大学に進学したのは私一人だった為、誰とも連絡を取る事がなくなっていた。「同窓会か。高校卒業して以来だから六年ぶりか。」懐かしい思いがこみ上げてくる。ずっとバタバタと過ごしていた二年間は仕事以外の事が考えられなかった。田園風景が車窓から流れるのをぼんやり見ていた。
 同窓会の会場に十分前に到着した。懐かしい顔ぶれが数人既に席に座っている。「あっ、紗和子。懐かしい。元気にしてた。」そんな言葉のやりとりを始める頃には同窓会も始まり、みんな思い出話しに花を咲かせていた。お酒もある程度進み皆ほろ酔いになり始めた頃、紗和子の横に男が座った。「紗和子ちゃん元気にしてた。高校卒業してから会ってないから六年ぶりか。」懐かしそうに話しかけてきたのは白濱健太だった。「あら、健太君も久しぶり。健太君は地元にいるの。」健太は高校卒業して東京の大学へ進学し地元の企業へ就職した。「紗和子ちゃんは名古屋の方に就職したって聞いたけど仕事頑張ってるの。」紗和子は酔った勢いで話し出す。「今月いっぱいで会社辞めて帰ってきちゃった。私に広告代理店の仕事は向いて無かったみたい。」二人の間に一瞬静寂が流れた。「そっかぁ。でも、色々仕事をやってみるのもいいかも知れないよ。どうせやるんだったらやった事の無い仕事にチャレンジしてみた方がいいよ。」気を使っていない健太の素直な言葉をお酒と一緒に飲み干した。
 実家での生活も落ち着いてきたので仕事を探してみようと職業安定所に出向いた。皆、老若男女それぞれが求人案内のボードに貼り出された紙をしきりに眺めている。初めて職業安定所に来たのだが皆、明日の保証を求めるために必死だ。私自身まだ実家の援助があり、すぐに仕事を探さなくても大丈夫だと言う安堵感が周りの人達への罪悪感へと変わっていった。皆と同じようにボードを眺めていると、目に止まった求人があった。「縫製工場かぁ。ちょっと面白そうだな。」翌日面接へ行きその場で採用が決まった。工場長が面接を行い、勤務してもらう前に工場内を見てほしいと言われ工場長のあとをついて行った。工場の中は自分の思い描くようなものとはかなりかけ離れている。皆、何かに取り憑かれたように殺伐とした状態でミシンに向かっている。ミシンの音がけたたましい音で鳴り響く。
仕事初日。教育係りの男に案内され会議室で社員教育があった。慣れた口調で機械のように喋り出し慣れた口調で要点を話しだす。説明が終わり現場へ。現場では一から仕事を習った。糸の種類、ミシンへの糸の通し方、今まで知っているようなミシンの扱いとは全く別モノだった。作業はベルトコンベアで製品が流れてくるのでそれを縫ってゆく。単純そうだが製品の色が変われば糸も変えなければならない。だからと言ってベルトコンベアは止まらない。常に時間との戦いだった。仕事帰りにコンビニに寄ると雑誌売り場に見覚えのある顔があった。見覚えのある横顔は同窓会の時とは少し雰囲気が違い髪が綺麗にセットされており引き締まった表情に見えた。「仕事帰り?」そっと横から声をかけた。健太は誰かに呼ばれたことに気づきこちらを振り向いた。「お疲れ。仕事帰りだよ。そっちも?」お互い世間話を少しして連絡先を交換した。「仕事決まったんだね。おめでとう。今度就職祝いも兼ねて食事でもどうかな。」思わぬことに少し驚いたが「ありがとう。じゃあまた都合のいい日を連絡するね。」健太より一足先にコンビニを出た。仕事は毎日忙しかった。ミシンを踏む足が痛くてたまらない。慣れなきゃいけないと必死でやっていたある日、同じラインの川辺が会社を辞めると言う噂を聞いた。川辺は普段寡黙で人とあまりしゃべらないが珍しく川辺から話しかけてきた。「谷川さん糸が無くなりそうだったら私に言ってくださいね。用意しますから。」川辺はこんな声で喋るんだなと思った。やはり性格なのかどこかぶっきらぼうな感じの喋り方。「ありがとうございます。糸足りなくなったら声かけますね。」その言葉を言ってるうちに川辺は作業に戻ってしまった。その日の夜、健太から連絡があった。「今度の土曜日時間空いてる?良ければこの前話してた就職祝いをやろうと思うんだけど。」仕事の忙しさにその事をすっかり忘れていた。予定を確認しても特にこちらに帰ってきてからは予定は無かったので一八時駅に待ち合わせの返事をした。
 駅は夏祭りの準備で忙しく沢山の人の往来がある。小さい頃に両親と来た夏祭りをふと思い出す。あの頃のような活気がこの街にも少し戻って来ているのだろうか。そんな事を呟いてると、目の前に一台の車が止まり健太が降りて来た。「お待たせ。さあ、乗って。」車に乗るとエアコンの冷たい空気に混ざって少し甘い香りが漂っている。しばらく走ると海沿いのバーに車を入れた。中に入ると雰囲気も落ち着いていてとても居心地の良さを感じた。窓際のテーブルに案内され丸いテーブルに向かい合わせに座った。「この街にもこんな綺麗なところがあるんだね。知らなかった。」沈みかけた夕日が空と海を真っ赤に照らし昼間との別れを告げている。「ビールでいい?」健太に進められるままビールを頼んだ。出て来たビールは少し色が濃いビールで口当たりが優しく苦味の後に甘みがやってくる。日本のビールにはあまりない味だったがとても飲みやすかった。どこのビールかと尋ねるとイギリスの王室御用達のビールだと得意げに健太が答える。しばらくするとマスターらしき初老の男性がメニューを伺いにきた。「あれ、健太くん今日は彼女を連れて来たの。」からかうマスターに健太が食事に至る経緯を話し出す。健太の行きつけの店のようだった。マスターも嬉しそうに聞きながら「そういう事なら私にもお祝いさせて下さい。」と言い奥からワインを一本持って来た。魚の形をしたボトルはペッシェヴィーノと書いてある。口に入れるととてもフルーティな味わいで繊細な酸味が口の中に広がる。マスターがこれとの相性がいいので合わせてお召し上がりくださいと出してくれた鮮魚のカルパッチョは口の中に酸味を残しワインが進んだ。お互いの近況のことを報告したり、仕事の愚痴を話していると健太への居心地の良さを感じていた。食事も済ませ外を眺めると夕暮れはなくなり工場の光が海を優しく照らして幻想的な景色を作っていた。
 川辺が辞めると言う噂を聞いて二ヶ月が過ぎようとしていた。川辺の後任者が入社している。辞めると言う話は本当だったみたいだ。後輩の男は川辺が今月で辞めると言う事を初日に聞かされて困り果てている。やはり人間関係がうまくいかなかったのだろうか。川辺の孤独な姿は昔の自分を見ているようだった。その日の夜に健太にメールを送った。[今日は忙しい?時間できたら連絡ください。]三〇分程経って返信が帰って来た。[九時過ぎなら仕事終わるから連絡大丈夫です。]時計を見ると八時四十五分を過ぎたところだった。自分から送っておきながら妙な緊張感を感じている。健太と話せる事への喜びからくるものなのか定かではなかったが、一五分間の長さは今まで一番長かったように思えた。九時過ぎに携帯が鳴った。慌てて携帯を握る。「もしもし。お疲れ様。どうしたの?急に連絡くれなんて。」少し心配そうに話す健太の声に喜びと緊張が入り混じる。「お疲れ様。ごめんね。急に連絡くれなて言っちゃって。今日仕事で嫌な事があって、ちょっと気分転換に健太と話しがしたかったの。わがまま言ってごめんね。」川辺のこと。自分の名古屋での事。たわいもない話に付き合わせたが健太も何も言わず話を聞いている。私は彼の優しさに心ひかれていくのがわかった。
 二ヶ月程お互いに連絡を取ることなく過ぎていた。いつものようにミシンに向かい、いつものように縫製をする。何も変わらない日常だった。昼休みが終わり作業をしているといつもと違う感覚に気づく。生地と生地を合わせ針の前に出しペダルを踏むと手の感覚が生地を縫っていくはずなのにイメージした所よりわずかにずれる。数回そういうことが起こった。疲れせいだと自分に言い聞かせ作業を続けた。仕事終わりにミシンのメンテナンスを行い糸を針に通そうとしていると針穴をわずかにずれる。明らかに過去になかった感覚だ。自分の体の中で意思とは違う何かが起きてる。翌日、昼休みに弁当を食べようと箸でおかずを挟もうとすると何度も落とした。どうしようもない嫌な予感が体を駆け巡る。そんな思いの中でも疲れのせいと自分に言い聞かせながら弁当を食べた。翌朝、ベッドから起きようとすると腕に妙な違和感がある。自分では手をついて起きたつもりだったが、明らかに手がベットの下にダランと垂れている。自分の腕ではないようだった。自分の意思と無関係に何かが体を蝕もうとしている。その日会社を休み病院へ行った。医師に病状の説明をするとカルテに書き込んでいたペンが一瞬止まったのがわかった。カルテを書き込んだ後、内容を確認する医師の表情があまりすぐれない。どれくらいの時間が過ぎただろいうか。多分実際は一、二分くらいだったはずだがその時間がとてつもなく長い時間に感じた。その空気に押し潰されそうになった時に医師が口を開いた。「申し訳ないのですが、うちでは病状を明確にお伝えできる医療機器がありませんので、うちの提携のある大学病院に紹介状を書きますからそちらを受診されてください。」頭の中に嫌な予感だけが駆け巡る。どうしようもない恐怖心が体を支配していた…。そこは、巨大迷路にそびえ立つお城のようだった。大学病院の周辺は昔の街並みの残る場所で道路も狭く入口を探すのに三〇分ほどかかった。入口の周りに沢山の木々が植えてあり病院の歴史を感じさせる。病院の中はホテルのロビーのような広さと白を基調としたデザインのロビーで大きな窓から見える景色はもはやリゾートホテルだった。受付に行き紹介状を渡すと暫く待つように言われ、近くの椅子に座って待った。ロビー待ってる人たちは皆マスクで顔を覆い何だか不気味な光景だった。アナウンスで名前を呼ばれ診察室へ入る。紹介状を読んでいる目の前の医者の顔も雲行きが怪しい。「最近は手足以外の痺れはありますか。」医者の質問に今の所は目眩が時々あると答えた。血液検査とCTスキャンをやった。数日後、再度検査結果を聞きに病院へ行った。診察では医者が資料の確認をおこなっている。「先日の結果が出ました。」医者は私をパソコンの前へ呼び私の輪切りになった脳の断面図を見せ話し出した。「あなたの病気は脳が萎縮していく病気です。生存率は三年で十パーセント以下で、ただこれも個人差がありまして…」いろんな説明が流れている。自分に向けられた説明はテレビの向こう側のような感覚になっていく。人間は心が壊れそうになるとそれを守ろうと現実から逃げようとするとテレビで言ってたのを思い出した。病院からの帰り道、車の中で涙が止まらなかった。どうして私は死ななきゃいけないのだろうか。その問いを何度も何度も繰り返す。気づいたら携帯を握りメールを送っていた。丁度家に着いた頃に返信が来た。受信音が鳴り止む前に携帯を握りメールを見る。待ち合わせ場所に八時に着いた。駅は学生やサラリーマンの帰宅者で賑わっている。家族を迎えに来ている車がロータリーの脇に列を作り待っている。一〇分もするとあたりは閑散となり静けさを取り戻した。遅れてロータリーに一台の車が入って来た。「遅くなってごめん。仕事が終わらなくて。」謝る健太に「いいよ。私もさっき来たから。」と笑って返した。車の中の匂いは前と変わってなかった。「急にどうしたの。何かあった。」いつもと変わらぬ健太が聞いてくる。「ううん。特に何もないんだけど営業マンの健太ならこの辺りで一番夜景が綺麗な所知ってるかなって思って連絡したの。」一瞬何かを感じ取ったようだったがいつもの表情に戻って案内すると答えた。着いた場所は工場の照明と接岸している船の明かりがとても綺麗な港だった。水面に揺れる光がとても幻想的な風景を作っている。「ここは一般の人は知らない所なんだ。工場関係者の一部の人しか知らない場所。嫌な事があると俺、よくここに来るんだよ。」車から降りて海のそばまで行く。潮風が頬を優しく撫でる。「本当いい所ね。きれい。」いつの間にか涙が頬を伝っていた。どうしようもない現実を受け入れなければならない思いに押しつぶされそうだった。「どうしたの。俺でよければ話聞くよ。」その言葉にずっと我慢していた思いが溢れ出して来て健太の胸で泣いた。一瞬驚いた健太もそっと抱きしめた。車に戻り健太が買っておいたコーヒーを飲んだ。お互いの沈黙が続いた。「そろそろ帰ろっか。」健太の言葉に頷く。道すがら健太が口を開いた。「少し気持ちは落ち着いた。」小さく頷く。「そっかそれならよかったけど。ちょっと心配だったよ。紗和子ちゃんすごい神妙な顔になったかと思ったら急に泣き出すんだもん、びっくりしたよ。」健太の言葉に今だけは現実を少し忘れる事が出来た。「ねぇ、健太くんお願いがあるんだけど…」前を見つめながら何と答える。「セックスしよ…」健太の目が大きく見開いた。「何を言い出すかと思えば、本当にどうしたの。悪い冗談はダメだよ。」「ごめんなさい、変な事言ってるのはわかってるの。でも今日だけは私のわがままを聞いて欲しいの。」生きた証が欲しかった。この体の自由がなくなる前に…このワガママを心の中で何度も健太に謝った。しばらくの沈黙の後に「わかった…」車は町外れのラブホテルへ向かった。少し古いそのホテルはコテージのように各部屋に車庫が付いているタイプだった。何年ぶりだろうかこういう所へくるのは。大学の時に付き合っていた男と行ったのが最後だった気がする。中に入ると、ベッドの向こう側から広いガラス張りの浴室がある。自分が誘った筈なのに自分の方が緊張している。「お風呂どうする?」健太が聞いてくる。「え、どうするって。」意味がわからなかった。「別で入るか一緒に入るかって事。」健太の表情も少し硬い。健太も緊張しているようだ。その表情を見てなんだか気持ちが少し落ち着いた。「せっかくだから一緒に入ろっか。」湯船に二人で入って健太に体を預けた。後ろからそっとだ抱きしめられる。このまま溶けて無くなったどれほど楽だろうと考えながら立ち上る湯気を眺めた。ベットに移りそっと唇を重ねた。体を指でなぞられる度に体が熱くなってくるのがわかった。指が下腹部を触る。体が反応してしまう。頭の中が真っ白になっていき重なった健太が揺れる度に吐息が漏れる。体の中にせり上がってくる感覚が何度もやってくる。数回せり上がって来た頃、健太も果てた。二人ベットの上で天井に映し出された星を見ていた。「そういえばこの前行ったお店なんて名前だったの。」「あのお店はサンセールってお店だよ。気に入ってくれた。」私は小さく頷いた。「また連れてってよ。」健太もまた行こうと言った。
 今日はやけに体の調子が悪かった。いつもならとっくに終わっている作業がまだ終われてなかった。指が思い通りに動かなかない。糸の準備を忘れていたので昼休みではあったが、石井に頼んで糸を取ってきてもらった。石井に話しかけられていたのだがもう、話す余裕もなくなっていた。指が動かない…その日の仕事帰りに近くのスーパーで買い物をして帰ろうと立ち寄った。夕方だった為か車の出入りも多かった。車を止め駐車場を歩いていると小さな子供が飛び出していた。車が駐車場から出て行こうとしている。とっさに体が前へ出る。子供を抱きしめた後、背中に鈍い痛みが走った。子供は母親を呼びながら泣いている。無事だったようだ。意識が少しづつ遠のいていく。母親がすいませんと何度も泣きながら謝っている。車の運転手は救急車を呼んでいるようだ。たくさんの人だかりができていた。その中に聞き覚えのある声が聞こえた。「紗和子ちゃん。もうすぐ救急車が着くよ。しっかりして。」健太の声が頭の中に響いていた。遠のく意識の中で私まだ生きてるみたいと健太に微笑んだ。

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